慟哭
もう、いない。
それだけがわかる。
何故いない。
いつからいない。
――誰がいない?
それは…分からないのに。
目が覚めると、いつもの部屋のいつもの天井。
いつもの制服に着替えて、いつものとおりに朝が来る。
いつものとおり、のはずだ。全部。
何一つ、『いつものとおり』じゃないものなんて、ないはずなのに。
――この違和感はなんだ。
寮の廊下を歩くと、最近決まった部屋で足を止める。
何故か、頻繁にここを訪れていたような気がしてならない。
――そんなはずはないのに。
俺の記憶に間違いがなければ、ここは空き部屋だったはずだ。
なのに、何故いつもこの部屋の前で足を止めるのか。
騎士院の廊下を、
訓練場を、
広場を、
大通りを、
神殿を。
いつも誰かを捜してきょろきょろしている自分に気付く。
…そう。俺は『誰か』を捜しているんだ。
「リュートさ〜ん!」
騎士院の一隅で、明るい少女の声が響く。
その声に、笑顔で振り向いた親友の姿を、俺は自室の窓から眺めていた。
長い小麦色の髪を風になびかせて、頬を薄紅に染め、
バスケットを抱えながらリュートの元へと駆け寄る少女。
明るくて、家庭的で、優しくて、お人好しで、笑顔が柔らかくて。
なんというか、とても「少女」らしい少女だ。
アロランディアが神の島であることをやめたゆえに星の娘になることなく、
だが能力を買われて元神殿で文官を務めているマリンは
同じ孤児であるという親近感もあってか、リュートと最近仲が良いらしい。
リュートも嬉しそうに、彼女を迎えている。
いいことだ、と俺は純粋に、本気で、掛け値なしにそう思う。
そして、ひとかどの安堵も覚える。
リュートと同じ女を好きになるのは避けたかったから。
俺が好きになったのはマリンじゃなかったから、安心した。
俺が惚れたのは――――…
名前を心で呟こうとして、俺の思考は停止した。
――…俺が惚れたのは……………誰だ?
………そう、俺は確かに、誰かに惚れていたのだ。それは間違いない。
そいつに惚れたと自覚したから…並み居る女どもを全員切ったのだ。
それは、マリンではなくて…もうひとりの星の娘候補だったアクアでもない。
…誰だ?誰なんだ?
思い出せない。思い出せない。
誰かを強く想っていたことは覚えているのに、誰を想っていたのかが思い出せない。
何故惚れた?
いつから惚れた?
――誰に惚れた?
おぼろげに、輪郭をとろうとするその記憶は、形をとる前に霧のようにかき消える。
「…なんなんだよ…なんだってんだよ!
どうして思い出せねぇんだ!」
ガッと鈍い音を立て、自室の窓の桟に拳を打ち付ける。
なにかとても、とても大切なことを思い出せない事実が、ひどく俺をいらつかせていた。
――もう、いない。
先日から、ふっと脳裏によぎるそんな言葉を唐突に思い出す。
何故いない?
いつからいない?
――誰がいない?
――思い出せない『誰か』。
――もういない『誰か』。
ぞくり、と。
俺の背筋が、恐怖に怯えた。
もしかしたら、それがイコールで繋がるのかも知れないと、
考えたくもない可能性に思い当たったのは、この時だった。
「…あら。めずらしい人物いっぴき、はっけん」
魔法院の玄関で、入るか入らないか迷っていた俺を見つけて、
相も変わらずの言い回しで話しかけてきたのは、アクアだった。
「…アクア…」
いつもならコミュニケーションよろしくくってかかるその言葉にも、
ただ俺は我ながら覇気がないのがわかる声で、そいつの名前を呟き返しただけだった。
「…アークがほえない。あしたは、雪?」
「どーとでも言ってろ。聞きたいことがあるんだ。…ちょっと、いいか?」
「…おむらいすに、さらだせっと。もちろん、でざーとは必須」
「ストロベリーシャンテリーつきでどうだ」
「おーけー。商談せいりつ。れっつごー」
思い出せない記憶に対しての先達はこいつをおいて、いない。
ひとしきりアクアの腹を満足させた後、俺は話を切り出した。
「…思い出したことがあるかって?」
アクアはデザートをぱくつきながら問い返した。
「…ああ、何でもいい。どんな些細なことでもいい。内容を俺に教える必要もない。
けど、なにか思い出したなら…『どうやって思い出したのか』…教えてくれ」
「どうして?」
「………………」
「…あなたにも、思い出したい、『わすれてしまったこと』があるのね?」
ストレートに切り替えされて、一瞬言葉に詰まるが、俺は素直に認めた。
「…ああ、思い出したい。どうしても」
「……思い出した結果が、けしてきもちのいいことではなくても?
かなしみを呼んでも?つらいきもちをかかえることになっても?」
「忘れたままのほうが気持ちわりぃ。
それに…たぶん、忘れちゃなんねーことだったはずなんだ。
それだけは間違いない。…そのはずなんだ、絶対に」
「……………………………」
俺とアクアとの間で沈黙が流れる。
しばしの沈黙の時間のあと、アクアがぽつりと言葉をこぼした。
「…よすが」
「え?」
「そのきおくにつながる、よすがを大切にすることね。
どんなにほそくてよわくて見えにくい糸でも、それがある間はつながっているのよ。
糸から目をそむけたり、手をはなしたりすれば、ようしゃなく、糸は切れるの」
「…記憶に繋がる、縁(よすが)…」
「思い出そうとすることを……やめないでいてあげて。
わたしが言えるのは、それだけね。
それじゃあ、また。おむらいす、おいしかったわ」
達観したような物言いは、今に限らずアクアの常だ。
だがそれでも、席を立ち、去ろうとする少女の背に、俺はつい問いかけていた。
「…もしかしてお前、俺の忘れた事、知ってるんじゃねぇか?」
少女は背を向けたまま、足を止める。
「…さぁね。
…でも、わたしは多くのことをわすれすぎた。
自分のことも、あの子のことも、あの人のことも。
思い出すことが、ふたつからみっつに、みっつからよっつにふえたところで、
たいした違いは、ないかもしれないわ」
それじゃ、と背を向けたまま軽く手を振って、今度こそアクアは立ち去った。
騎士院の寮に帰る俺の足取りは、重かった。
忘れてはいけないのに、忘れてしまった事実と。
思い出したいのに、思い出せない苛立ちと。
縋る記憶はおぼろげで、時を追うごと霞んでくる焦燥と。
それらがすべて俺を責めさいなむ。
自室に戻ると、乱暴にベッドに腰掛ける。
前髪をくしゃりとかき乱すように額に手をやると、
瞼の裏に、またおぼろげな輪郭が浮かんでは消える。
――誰だ。
――お前は、誰だ。
問いかけても答えが返らないのは分かり切っているのに、
問うのをやめた瞬間に、その曖昧な幻さえ霧消してしまいそうで、
俺はその幻にただただ問いかけ続けていた。
その日を境に、俺は外出することが激減していった。
外に出るのが嫌になったわけじゃない。
必要があれば外に出るし、騎士としての仕事は務めている。
ただ、『そいつ』を一番思い出せそうになるのが騎士院のような、
そんな根拠のない感覚に囚われていた。
コンコン、と俺の部屋にノックの音が響いた。
「…アーク?入るよ」
リュートの遠慮がちな声に続いて、扉が鈍い軋みをあげる。
そっと様子を窺うリュートの後ろに、心配そうにたたずむマリンの姿が見えた。
「マリンさんが、クッキーの差し入れを持ってきてくれたんだけど、
アークもどうかな、って思って。甘いの、嫌いじゃないでしょ?」
「…いらね。二人で喰えよ。俺、それどころじゃねーから」
幾分冷たい物言いになってしまったかという自覚はあったが、
実際それどころじゃなかったから、他にどうにも返答のしようがなかった。
そっか、と苦笑して扉を閉めようとしたリュートを慌てて制したのはマリンだった。
「あ、ちょ、ちょっとだけ待ってください。
今日はそれだけじゃなくって、アークさんに言づてを頼まれていたんです」
「言づて?」
「はい、その、魔法院のユニシスさんから。
え、えっと…『早く水晶を返せ』って。
そう言えばわかるって。…なんだか、怒ってましたけど」
「…あー、そういえば、以前ちょっと拝借したんだっけ。
すっかり忘れてたな」
「…拝借って。水晶は貴重品なんだよ、アーク」
「だからもっと質の良いのを返すって、口約束してたんだよ。
ちゃんと水晶も取り寄せてあるよ。
返しに行くのを忘れてただけだっつの」
「…それが一番問題だと思いますけど…」
「…ぐっ……うるせー。まーいいや。
…ちょっと待ってろ。たしかここにしまって…」
俺は部屋の隅の棚に置いているレトロな雰囲気の小箱を手に取った。
宝箱のような外見が気に入って、ちょっとした値の張るものや、思い出深いものなど、
いわゆる『大事なもの』を入れるのに愛用している。
ピン、と高い音を立てて、小箱の鍵を開けると、
水晶を入れた革袋の上に、白い紙がのっていた。
ああ、そういえば水晶を拝借したときに自分の『写真』を撮ったんだっけ、と、
革袋を手に取り、なんの気なしにその紙を裏返す。
その瞬間、すべての時間が止まった。
――写真の中で、笑う俺の隣で驚いた表情を残している、この女は誰だ。
――知っている。俺はこいつを知っている。
「…………あ………あ……」
「アーク?どうしたのさ、アーク!」
写真に視線を縫いつけられ、凍ったように動けない俺に、リュートが声をかける。
するり、かつん、と床に革袋が落ちたような気がしたが、
そんなことは知ったことではなかった。
「………あ………お……」
「…アークさん?」
「――っ!!」
「アーク!」
俺は、はじかれたように自室を飛び出した。
後を追って、リュートとマリンが追いかけているようだが、
俺は脇目もふらずにただ一室を目指して走り続けた。
騎士院の寮の一室。
いつも何故か足を止めてしまう一室。
空き部屋のはずの…その一室を。
俺はその部屋の扉の前で、走り続けた足をようやく止める。
力一杯走ってきたことで乱れた息を整えながら、その扉を凝視した。
マリン達も息を切らしながらも、俺に追いついてきた。
「…はぁ…はぁ…ど、どうしたんですか、アークさん」
マリンの問いには答えず、俺はおそるおそるドアノブに手をかけると、
かちゃり、と普通に扉が開いた。
――鍵は、掛かっていなかった。
「…え…?どうして開くの?
…おかしいな。空き部屋の鍵は騎士院が管理しているはずなのに」
リュートが疑問の声を漏らす。
――だが、俺はこれがただしい答えだと知っている。…もう。
身一つあれば十分と、出がけに鍵をかける習慣が身に付かなかったのだ。
扉を開ききると、視界に映るのは、一風変わった部屋の様子。
アロランディアには不似合いな、異国風の調度品の数々。
異国と言うより旧世界に近いが、たいした違いではないと思っていた。…当時は。
重い足を引きずるように、俺は一歩一歩部屋の奥へと歩みを進める。
主の帰らぬその部屋は、それでもほんの微かに主の香りを留めていた。
――今にも消えそうなほど、かすかに。
「――マリン、リュート」
いつのまにやら、この場にはいなかったはずの少女の声が、部屋に響く。
「あ…アクアさん」
「ふたりとも、ここから出てあげて。
…アークを、ひとりにしてあげて」
俺は無言のまま、振り向かなかった。
振り向く必要もなかったし、今の顔を誰にも見られたくはなかった。
「じゃないと、アークが泣けないから」
「泣く…って…」
アクアが俯いているのか、前を見据えているのか、
振り向かないままの俺には、それはわからなかったけれど。
ただ、続いた声には間違いなく、悲しみと寂しさを孕んでいた。
「…泣かないていどの思いなら、思いだそうなんてしない」
ぱたん、とアクアの手で扉が閉じられ、部屋に静寂が降りる。
つぅっ、と俺の頬を透明な雫が伝う。
「……あ…お………い…」
震える俺の唇が、かすれた声で、それでもたしかにその名を音にする。
がくり、と身体の力が抜けて、俺はその場に崩れ落ちる。
「…なんでだよ…っ……葵…っ…葵ッ!」
好きだった。
あいつだけだった。
心底惚れていたのに。
「…うっ……うああああああぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ…っ…!!」
俺の言葉にならない慟哭が、主を失った葵の部屋に響いた。
声が枯れて音らしい音を紡がなくなっても、俺は嘆き続けた。
一生分の涙を流しても、まだ止まる事を知らない。
伝えられなかった想いは、出口をなくして、俺の中で生涯燻り続けるだろう。
葵以外を愛することなんて、できない。
葵を失ったこと以上の辛いことなんて、ありっこない。
だが、葵をもう一度忘れることのほうが、俺には苦痛だから。
泣かせろ、今は。
意識途絶えるまで。
fin.
私には珍しく救いがないですね。あう。
ブルーED後のアーク→葵。100のお題No.17「もういない」でした。49の「思い出せない」でも67の「かなしみ」でも通用するネタだったかもしれませんが。
一応救いというか、希望ルートみたいなネタがあったんですが…、いかんせん、話の雰囲気ががらっと変わっちゃうので、今回は見送りました。
設定としては、アークはカメラ作成イベントまで発生済み。
リュート→葵の想いは憧れまで。マリンとはほのぼのしく愛を育んでおります。
アクアは最初星の娘にしようとしてました。…ブルーED後でそれはないよな(笑)
アークが指摘したとおり、アクアは葵を思い出してます。
でも台詞中の「あの子」はブルーで、「あの人」はエーベです。
作中では書きませんでしたが、ブルーEDの場合、私の中ではもう一人葵を覚えている事になっています。
――紅い人です。(黒ではないのです)