celestial nymph


いつもと変わらぬ聖地の午後。
少し日が傾きだしてはいるものの、まだ充分な明るさを保つ陽射しを受けながら、
セイランは何処へ向かうでもなく、ただ風の吹くまま歩いていた。

「騒がしいな。夕日に染まる頃くればよかったかな」
そんなことをぼんやりと考えながら、喧騒の残る聖地を巡っている。

普段とはほんの少し違った顔を見せる聖地の景色を眺めていると、
傍らに少女の姿を求めたくなる。
この聖地で巡り会った、琥珀色の髪をした天使の姿を。
「この景色を君と見られたらいいのに」

庭園を巡り、王立研究院に顔を出し、女王候補寮の前まで歩いてきた。
だがレイチェルもアンジェリークもまだ部屋に戻ってはいないようであったので
踵を返して立ち去ろうとしたセイランの視界の端に映ったのは、
小走りに森の湖の方角に向かうアンジェリークの姿。

森の湖の滝の伝説はセイランも知っている。
『アンジェリークに滝に祈るような相手がいるのか』
そう思った途端、心が騒ぐ。穏やかではいられない。
セイランはアンジェリークの後を追いかけるように森の湖へと足を向けた。


そこだけ現実世界から切り離したように、滝の音だけが響く森の湖。
アンジェリークの姿を探すが、予想に反して
滝の前にはおろか、湖のほとりにも見当たらない。
セイランは拍子抜けしたように立ち尽くした。
湖までの道は一本道だから、入れ違いになったとは考えにくい。
なにより、湖に向かうアンジェリークの姿を自分の目で確かめているのだから。

「何処に行ってしまったんだ。まさか霞のように消え去ったわけじゃあるまいし」

立ち去るに立ち去れず、湖のほとりに座り込むと、滝の音に耳を傾ける。
その音の中にセイランは微かな雑音を感じ取る。
自然の創り出す音ではなく、不規則な、人の創り出す音。
振り向くが誰も居ない。もう一度感覚を研ぎ澄まして周りの音を探る。
微かな音が聞こえるのは滝のある場所よりも更に奥。昼なお闇深き森。
この先には樹々が乱立する険しい森があるだけだ。
そこには少女が心惹かれるような美しい景色も、
ロマンチシズムを刺激するような伝説のある場所も無かったはずだ。

そう思いながらもセイランは、少女の姿を求めて森の奥へ踏み入ることにした。

少し歩いたが、まだ滝の音も聞こえるし湖の水面の煌きも視認できる。
だが下手に歩くと迷うな、と思いつつも更に森を分け入っていく。
先程聞こえた音は、どうやら地面を蹴る音と衣擦れの音らしい。
微かにしか聞こえなかった音が次第にはっきりと聞き取れるようになってきた。

そして視界に入った情景にセイランは息を呑んだ。


樹々の間に切り取られたように少し広がる草原。
樹木に邪魔されずに射し込んでくる、少し紅く色づき始めた陽の光。
羽衣のように空を泳ぐ薄布。
そして、陽の光を浴びながら美しく舞う琥珀色の髪の少女。
さながらそれは……


「……天女」


「え…ええっ!?セ、セイラン様ぁ!?」
思わず呟いたセイランの声に振り向き驚きの声を上げる少女。
空を舞っていた薄布を取り落とすが、気づかない。

「なんでセイラン様が、いえそれよりも、どーしてここに…」
混乱しすぎてうまく言葉がまとまらないといった様子でおろおろする。
「それはこっちの台詞だよ、アンジェリーク。
森の奥から音がするから何事かと思ってきてみれば、
こんな幻想的な舞姫がいたなんてね。
スカーフ?いや、ショールか。一瞬羽衣みたいに見えたよ」
いつのまにか薄布はセイランに拾われている。
「あ…、か、返して下さい」
取り返そうと手を伸ばしたアンジェリークの腕を軽くセイランに掴まれる。
「…返したら君はまた僕の前から消え去ってしまいそうだ」
突然切ない表情を見せたセイランの眼差しを
正面から受け止めてしまったアンジェリークは、
抗うことも、立ち去ることもできず、ただ顔をそむける。
その顔が紅いのは、射し込んでくる陽の色のせいだけではないだろう。

「羽衣伝説そのままだね。羽衣伝説は知ってるだろ?」
ようやく腕を放したセイランは、苦笑しながら
顔をそむけたままのアンジェリークに問いかける。
「もちろん。天女の羽衣を手にしたみけらんという男の人が、その羽衣を隠して、
天女を自分のものにしようとした話です」

「今、私が踊ってたのは、その羽衣伝説になぞらえた舞の一場面ですもの」
アンジェリークが怒り出すかと思っていたセイランはその言葉に虚をつかれる。
「うろ覚えですけど、見様見真似で。天女が天に帰る場面なんです」
「ふぅん。君はその話が好きなのか」
「嫌いですよ」
「えっ…?」
「嫌いです」
予想外の言葉を返されて、間の抜けた表情をするセイランに構わず
アンジェリークは不機嫌な声で言葉を続ける。
「羽衣伝説は嫌いなんです。
羽衣を隠して無理矢理天女を自分のものにしたみけらんも。
妻にまでなったのに羽衣見つけたら天に帰った天女も」

意表をつかれて暫く何も言えずにアンジェリークを凝視していたセイランは、
アンジェリークの瞳に微かな翳りを感じ取った。

少女の「嫌い」の意味を漠然と理解したような気がした。
だがそれは口に出さずに先を促す。

「で、嫌いな話なのに何で踊っていたの?」
「それは……、…いえ、セイラン様には関わりのないことです…」
開きかけた唇から拒絶の言葉を発したアンジェリークだったが、
一瞬セイランを見据えた瞳の光と、夕日よりも紅く染まった頬が
少女の言葉が嘘だと教えていた。

「教えてくれるまで帰さないよ」
にじり寄って来るセイランから後ずさるアンジェリークだったが、
近くの樹に背中をぶつけた途端、アンジェリークの動きを阻むように
セイランは少女の顔の両サイドに手をついた。
セイランの右手にはショールが風に靡かれている。

いつの間にかすっかり日は傾いて、空と森を紅く染めている。
ものの十数分もすれば、毛氈の空は姿を消して、
目の前の青年の髪のような、瑠璃色の絹に包まれるだろう。
湖の滝までには灯りはまったくない。

「セ、セイラン様も帰れなくなっちゃいますよ?」
あくまでも黙秘を続ける少女が発した台詞に、
セイランはさらに追いつめる台詞を吐く。
「僕は本望。君さえよければここで夜明かししてもいいよ」
「こ、困りますっ!」
「じゃ、話してよ」
「………」
再びアンジェリークは口を噤んだ。
「だんまりかい?…ま、いいけどね。
それじゃ、僕の見解を少し話してあげようか。
僕もこの話はあまり好きではなかったんだ。
特に、羽衣隠してまで天女を傍におこうという気持ちが理解できなかった。
…ほんの数分前まではね」

セイランはそこで言葉を切り、
アンジェリークの顎を軽く掴んで自分の方を向かせる。

「僕の言いたいことがわかる?僕は先刻君を見たとき、
自分の腕の中に閉じこめたいって、そう思ったんだよ。
誰のものにもしたくない。自分だけのものにしたいってね。
もう少し付け加えるなら、今もそう思ってる。
…どう?僕の腕の中にずっといてくれる?僕の天女」

アンジェリークはセイランを凝視していたが、その台詞が、
意見の振りをしたどさくさまぎれの告白であることに気づくと、
突然その眼差しが睨み付けるものに変わった。
「狡いっ!」
青年を責める言葉が発せられたが、予想していたのかセイランは動じない。
「セイラン様、束縛はするのもされるのも、
嫌いだっておっしゃってたじゃないですか!
だから私は必死に…!」

アンジェリークはそこまで喋って、はっとしたように口を手で押さえた。
だがセイランは意地悪く笑みを浮かべて先を促す。
「『だから』君は?『必死に』、何?」
「…何でもありませんっ!」
アンジェリークは意地でも言うものかといった様子でふいっと顔をそむける。
セイランはアンジェリークの横顔を見つめたまま、
少女の心を見透かしたように言葉を紡ぐ。

「みけらんが嫌いなのは、僕を束縛しそうだったから?
天女が嫌いなのは、恋に溺れそうになったから?」

アンジェリークの身体がびくっと震えた。

「羽衣伝説が嫌いなのは自己嫌悪の裏返し?
だから戒めの意味を込めて踊ってたのかい?」


縛られるのが嫌いな人を縛り付けそうで。
己の意志で女王試験に臨みながら、試験以外のことに心を奪われて。
そして、そのことを言い訳に、自分の意志を曲げようとしている。
そんな自分が、疎ましくて。


アンジェリークは答えない。
視線も合わせようとしない。
だが、その頬は真っ赤に染まり、
怒りと意地で堅くしていた身体からは、力が抜けている。

セイランはアンジェリークに語りかける。
今までになく、真剣に。

「確かに僕は束縛されるのは嫌いだ。今もそれは変わらないよ。
でも、君は違う。君がいないと僕は僕でなくなってしまいそうだ。
束縛なんてレベルの話じゃない。
君は僕のすべてで、僕の半身だ。
そして、僕は君のすべてでありたい。
…好きだよ。アンジェリーク」

再びアンジェリークはセイランの眼差しを真っ向から受け止める。
その真摯な眼差しには嘘がない。
最早アンジェリークは自分の心に抗えない。
そっと、アンジェリークは視線を逸らす。

「…ほんとに、セイラン様は狡い」

アンジェリークの声にはもう怒りの色はない。

「自分の気持ち、押し殺そうとしてたのに。
そんなこと言われたら…」
俯いていたアンジェリークは、ふいに顔を上げると、セイランの瞳を見つめ返す。

「…私も、セイラン様が……」

そこまで言って、アンジェリークは言葉を続けるのをやめた。
ただ、行動に移した。

セイランの右手にたなびくショールの端を掴まえると、
セイランの唇の上に覆い被せる。

そしてショール越しの、キス。

突然のアンジェリークの行動に、
流石のセイランも咄嗟に反応を返せない。
その一瞬の隙に、アンジェリークはセイランの腕の中から擦り抜ける。

「先刻の意地悪のお返しです!」

顔を紅く染めたまま、セイランに笑顔を向けたアンジェリークは、
微かに空に残る明るさを頼りに、湖の滝の方へと走り出す。
口唇を手で覆ったまま放心していたセイランは、
アンジェリークの姿が樹木の陰で見えなくなった頃
我にかえってアンジェリークを追いかける。
その姿を見る者があれば、こう思っただろう。
『あのセイランも、あんなに頬を紅く染めることがあるのか』と。

「前言撤回!君は天女というより小悪魔だ」

それでもいい、とセイランは思う。

伝説では、みけらんは天女を追いかけ天に昇り、
だが再び引き離され牽牛と織女となったという。
年に一度だけの逢瀬なんて、耐えられるわけがないのだから。

「うん、天女じゃなくていいんだ。
悪魔でも天使でも何でも。
僕の傍で、僕だけの君でいてくれればいい」
その呟きは、今は、アンジェリークには届かない。

『でもいつか、そう遠くない将来に、
形を変えて、君に届くだろう。
その時に、もう一度言ってあげる。
君は僕にとってかけがえのない存在だ、と。
僕の人生は、君と共にあるのだ、と』


『君を、心から愛している、と』


fin.


たった2シーンが書きたかったがために、書き上げました。何処かわかります?結構バレバレとは思いますが。
「天女」の舞いについては、松島羽衣伝説(舞を見せるから羽衣返せってやつね)しかしらないので、みけらんの話にほんとに舞があるのか藤之は知りません。(知らんで書くなっつーの)
どなたかご存知の方、無知な藤之に教えてやってください。