海の蒼、空の青
アンジェリーク。それは愛しい少女の名前。
優しい微笑みに心奪われ、瞳はいつも君を探した。
愛しくて愛しくて堪らなくて、想いを伝えずにいられなかった。
遥かな高みへ飛んでいかないでくれと、思いのたけを込めて祈りを捧げた。
俺の傍にずっといてほしいと、天使の羽根に縋って願った。
そして…今も君は俺の隣で微笑んでいてくれる。
アンジェリークの瞳は深い、海の色。
幼い頃にはしゃぎまわった海辺を思い出す。
今はもう…何処にもいない家族と一緒に、波打ち際で時間を忘れ、
柵も悩みも、何もかもを忘れて遊んだ頃の、
懐かしい思い出の海。
もう二度と戻らない想い出の渚。
「…君と、あの海に行きたい」
『聖地を抜け出して、海を見に行きたい』。
そんなランディの突然の我が侭に、アンジェリークは嫌な顔ひとつせず、
むしろ喜んで付き合ってくれた。
聖地から少し離れた、名もないある地方の静かな海辺。
ランディとアンジェリークは二人寄り添って海を眺めていた。
春先の海はまだ冷たく、人の訪れもない。
波打ち際の砂浜は、白く柔らかく、踏めば優しく受け止めてくれるよう。
打ち寄せる波は真珠のように白い泡を産み、そして再び溶けていく。
「綺麗…、海って、こんなに澄んでましたっけ…?」
潮風に嬲られる髪を押さえながら、アンジェリークは
陽射しに煌き、何処までも続く海に視線を釘付けにされていた。
「俺の、想い出の場所の一つなんだ。
もう…この世界の何処にもいない家族との…。
大好きな家族に…君を会わせてやりたかったけど…、
それは…もう叶わないから、せめてこの海を君に見て欲しくて…」
「ランディ様…」
アンジェリークは視線を海からランディの方へと移した。
切なさと、嬉しさと、愛しさと…そんな交錯する想いが綯い交ぜになった、
アンジェリークのその瞳をまっすぐ覗き込んで、ランディは微笑んだ。
「…ああ…、やっぱり君の瞳は深い海の色をしてる…」
「…わ、私の瞳…?」
「うん…。綺麗だ。蒼くて…深くて」
「…私、ランディ様の瞳の方が綺麗だって思います。
澄み切った青空を溶かしたみたいな…綺麗な青ですもの…」
微笑みながらそう言ってくれるアンジェリークが堪らなく愛しくて、
ランディはアンジェリークをそっと抱き寄せた。
アンジェリークは大人しく身を預けながら、そっと瞳を閉じて囁いた。
「私の瞳が蒼いのはきっと…ランディ様の瞳の色を映してるからです。
海の蒼は…空の青を映してるから蒼いんですよ…」
「空を…映してるから?」
「焦がれて焦がれて…でも手が届くことはないから…。
せめてその身に空の青を映して…
海は空に近づこうとするんですって…」
顔を上げて、アンジェリークがランディを見つめる。
深い海の如きその瞳に見つめられていると、
吸い込まれそうな、溶けてしまいそうな、不思議な感覚にとらわれる。
ランディは不意にアンジェリークを抱きしめている腕を解くと、
誤魔化すようにアンジェリークに笑いかけて言った。
「聖地に…帰ろうか。あまり遅くなると暗くなっちゃうから」
抜け出した時と同じように、夕闇に紛れて、こっそりと聖地に入る。
「気づかれてないみたいだ。早く、俺の邸へ戻ろう」
「…あ、はい…」
まるでかくれんぼをしてる子供のように、見つからないように聖地を歩く。
私邸に着いた途端、緊張が解けたのか、
アンジェリークは笑いながら、溜め息を吐いた。
「はぁ…。ふふ、なんかちょっとドキドキしました。
本当は、許可なく聖地の外に出てはいけないんでしょう?」
「はは、いつもはゼフェルの無断外出とかを諌める立場なんだけどね。
…でも、どうしても君とあの海を見ておきたかったんだ」
ランディは邸の灯りを付けぬまま、アンジェリークの手を取って、階段を上る。
2階の自室の扉を開け、奥の窓を開け放つと、部屋を風が吹きぬけ、
まだ温かさの残る宵闇の風が優しく肌を撫でていく。
ランディは窓の外に視線を向けたまま、言葉を続けた。
「あの美しい海も、次に訪れた時には変わってるのかもしれない。
いや、もう二度と訪れることすら出来ないかもしれない…。
だから、大切な君と、懐かしい海を見ていたかった…」
アンジェリークは、背を向けて話していたランディの背中に、
そっと両手を添えて、その身体を寄せた。
「ランディ様…なんだか淋しそうな瞳してる…。
独りの夜に怯える子供みたい…」
図星を衝かれて、ランディは苦笑を零した。
「…うん…怖いんだ。俺の知らない間に、何もかもが変わってしまう…。
頭では理解してても…やっぱり怖くなる時だってあるんだ。
…今は、君が傍にいてくれるのに…、
…いや、だから余計に、失った大切なものの多さに、怖くなるんだ…。
君を、もし君までを失ってしまったらって…!」
荒げてしまった声に、はっと我に返る。
アンジェリークは背中に添えていた手を、そっとランディの身体に回した。
ランディは自嘲の笑みを浮かべて、その白い手に、自分の手を重ねる。
「ごめん…こんなこと言って。俺だけじゃないのに…。
君も…家族を、故郷を捨てて…此処に、俺の傍にいてくれているのに…」
白き翼を捨てて、聖なる神域に残ってくれた天使。
天に昇ることも、地に還ることも、すべて、その翼と共に…。
アンジェリークは微笑みを浮かべたまま、静かに首を横に振る。
「私が…望んだことです。ランディ様のお傍にいたいと…。
…私には移りゆく時間を留めることは出来ないけれど…
でも…いつでも、何があってもランディ様のお傍にいますから…、
だから…怖くなったら、いつでも私にぶつけてください」
重ねた手を握ったまま、ランディはアンジェリークへと身体の向きを変える。
そして、アンジェリークの瞳を見つめて、言葉を紡ぐ。
「アンジェリーク…ありがとう。
…君がいてくれるから…俺は俺でいられるんだ。
君が傍にいてくれる…、それだけで…この悠久の時を生きる勇気の源になる。
だから…俺が怯えた時には…甘えさせてくれるかな」
アンジェリークは何も言わず、そっと微笑みながら頷いた。
そして、静かに瞳を閉じた。
アンジェリークの頬に手をあて、少しだけ上を向かせ、
ランディはアンジェリークの口唇に自分のそれをゆっくりと重ねる。
静かな、触れ合うだけの優しい口付け。
そっと口唇を離し、緩やかに瞳を開くと、
合わせ鏡のように、その瞳に互いの姿が映る。
再び静かに瞳を閉じると、今度はしっかりと口唇を重ね合う。
夕闇が私邸の中まで静寂で覆い、聞こえるのはただお互いの息遣いのみ。
微かな残照のみが辛うじて二人の表情を照り映えらせていた。
幾度も口付けを交わすうち、いつしかお互いの背に回った手に、
少しずつ、だが確かに力を込めていく。
交わす口付けも深いものに変わっていく。
「…アンジェ…アンジェリーク…!」
貪るように交わすその口付けの、
口唇の離れるほんの少しの隙間に滑らせるように、
熱に浮かされた囈のように、ランディはただ少女の名前を呼ぶ。
長いような短いような口付けの後、
ランディはアンジェリークの首筋に顔を埋めて、耳元で囁いた。
「アンジェ…ごめん、今日は君を部屋まで送ってあげられない…」
「え…?」
「俺…今日は君を帰したくない…」
アンジェリークの背に回した腕に、さらに力をこめる。
いつにない強い抱擁に、アンジェリークの細い身体が撓る。
「離したくなんか…ない!」
アンジェリークはその絞り出すように吐き出された言葉の意味を悟り、
その白磁の頬を紅く染めて、少し伏し目がちに顔を背けた。
ランディの背に回した手を、縋り付くようにきゅっと握り締め、
そして…ゆっくりと、静かに頷いた。
「…私の全ては…ランディ様のものです…」
ランディは、アンジェリークと手を絡ませ、
もう一度深く口唇を重ねると、アンジェリークを抱き上げた。
窓の外はすでに闇の領分となり、月光のみが部屋を照らす。
片手を絡ませあったまま、ベッドに横たえたアンジェリークの服の上から、
下から上へと、身体の線をなぞるように指を這わせる。
襟元へと登ったランディの指が、ブラウスの胸元のボタンへとかかると、
アンジェリークはきゅっと目を瞑る。
ひとつひとつ、ゆっくりとボタンを外していくと、その首筋に、
月明かりに掠れながらも、金属の照り返しがあることに気づく。
目を凝らし、その正体が何かを知ると、ランディは笑みを浮かべた。
「…前に俺が贈ったロケットだ」
「ランディ様のくださったものですもの…。私の宝物です」
アンジェリークは首から下がるロケットを、空いた片手で愛しそうに包み込んだ。
その愛しげな表情に、ランディは複雑な気分になる。
「嬉しいよ…。…でも、今は外して。
今、君の肌に触れるのは、俺だけでいたい」
チェーンに手をかけてそう駄々をこねると、
アンジェリークは困ったような笑顔を向ける。
「ランディ様ったら…」
ロケットを外し、服を脱がせると、その白磁の肌にキスを降らせる。
その口唇が、耳朶に触れ、首筋を這い、胸元に紅の華を咲かせる。
絡めていた手を解いて、ランディの手がアンジェリークの身体をなぞっていく。
少しずつ与えられていく初めての刺激にアンジェリークが身を捩る度、
ランディの手が動きを封じるようにアンジェリークの身体を上向かせる。
「アンジェの瞳が海なら、ここは白い砂浜みたいだ…。
…君の肌は、柔らかくて…暖かくて…気持ちいいね…。
…綺麗だよ…とても…」
胸の膨らみを愛撫しながら、そう囁くランディの言葉に、
アンジェリークは羞恥に頬を染める。
「…やだ…そんなこと…言わな…んっ…」
その言葉の最後は、ランディに塞がれた口唇の中に落ちる。
ランディはすまなそうに表情を曇らせる。
「…ごめん、君が嫌なら、もう言わないよ。
でも…ほんとに綺麗だって思って…」
アンジェリークは、律義にそう謝罪するランディが可愛らしく思えて、
静かに首を横に振りながらランディの首に手を回して、ぎゅっと縋り付く。
不意に風が窓の薄布を緩やかに吹き上げた。
先程までよりもはっきりと差し込んできた月の光に、
ベッドサイドに放られていたロケットが鈍く輝く。
視界に飛び込んだその光に、ランディははっとした表情になる。
ランディは表情を曇らせたまま、アンジェリークを見つめ、
そして、目を伏せ、アンジェリークの首筋に顔を埋めて呟いた。
「…俺…俺は……」
「…ランディ様…?」
「…本当に…君の傍にいていいのかな。
アンジェリークから、家族も故郷も、あるべき未来をも奪ってまで…」
天使の翼をもぐ権利が、自分にはあるのだろうか。
天使の翼に代わるだけの価値が、自分にあるのだろうか。
いざ翼に手を掛けたことで、再び不安に駆り立てられたのか、
ランディはアンジェリークの肢体をぎゅっと抱きしめる。
アンジェリークはランディをふわりと抱きしめた。
「私が泣くのも笑うのも、ランディ様がいるから…。
…ランディ様が愛しいから、私は此処にいるんです。
ランディ様のいない未来なんて…私はいらない」
ランディは顔を上げ、アンジェリークを見詰める。
「アンジェ…」
アンジェリークはランディの顔を包むように両手を添えると、
柔らかく微笑んで、言葉を紡いだ。
「どうか覚えていてください…。
海が凪ぐのも、荒れ狂うのも、風にしかできないこと…。
風が存在しなければ、海は表情を失うということを…」
「アンジェリーク…。…俺も…君のいない未来なんていらない…」
海の双眸と、空の双眸が、お互いの姿を映し合う。
そして、再びゆっくりと瞳を閉じ、口唇を重ねた。
自分には何も出来ない。この想いに代わるものは何もない。
だから…だから自分に出来るのは、
この身の何もかもをかけて、ただ愛しい人を愛すること。
それがすべて…。
触れられる指の動きと彼自身の熱さに、アンジェリークの肢体が弓なりに撓る。
「愛してる…アンジェ…愛してる…っ!」
「…んっ…あぁ…ランディ…さまぁ…っ」
海が空に焦がれても届かないというのなら、
代わりに二人がひとつになる。
二度と離れないくらいに。
重ねた肌の熱さが、求め合う心に火を付ける。
熱を帯びていく吐息が、汗ばんだ肌が、
月明かりに朧気に浮かび上がる二人を駆り立てていく。
そして風は海に溶け…海は風を優しく包む──
払暁の空が、微かに闇を霞ませる。
隣で眠る愛しい少女の髪を梳くように弄っていたランディは、
不意に、ベッドサイドに放られたままのロケットを手にとった。
しゃらり、と鎖が指に絡む。
自分が我が侭を言ってアンジェリークから外したロケット。
いつでもアンジェリークに触れている存在が妬ましくて。
ランディは苦笑を零した。
「…自分の贈ったものに妬くなんて、生まれて初めての経験だな」
「ロケットは私に触れられても…溶け合えるのはランディ様だけですよ」
いつのまに目を覚ましていたのか、
アンジェリークは横たわったままランディを見つめていた。
ランディは少し驚いた表情を見せたが、すぐに笑顔にかわる。
ロケットを開くと、そこにはランディの写真が入っていた。
パチン、と音を立ててロケットを閉じる。
「アンジェリーク、俺の写真、外していいよ」
「え…?どうして…?」
アンジェリークは思いも寄らぬその言葉に驚いて身を起こす。
ランディは、不安げになるアンジェリークの頬に口唇を落とすと、
その身体を優しく抱いた。
「ロケットの写真を見る必要もないくらい、俺が君の傍にいるからさ」
掠めるように口唇を触れ合わせる。
「…君が望んでくれるなら…俺はいつでも君の傍にいる」
ランディはアンジェリークを抱きしめる腕に力を込めた。
そっと、アンジェリークの耳元で囁く。
「ずっと…ずっと傍にいて…。俺の傍に…。
…いや…離れたいって言っても……一生離さない…」
「ランディ様…」
いつでも溶け合いたい。
この腕に、ずっと抱きしめていたい。
それが俺の願うすべて。俺の求めるすべて。
ランディはアンジェリークの瞳を覗き込んだ。
ほんの少し潤んだ瞳に、ランディの胸が再び高鳴り始める。
「…海が空に焦がれて蒼くなるなんて…違うと思うな。
だって…俺の方がこんなに囚われてるのに…。
きっと…空の方が海の蒼さをその身に映してるんだよ…」
その腕(かいな)を広げて、俺を受け止めて。
海がなければ、空は青く在る事すらできないんだから。
君がいなければ…風はそよぐ事すら忘れるんだ。
いつかまた、もう一度あの海へ行こう。
俺の家族との想い出の海へ。
家族になった君を連れて──
fin.
初の裏創作でした。…って…全然裏になってない〜…(汗)。
やはり藤之には裏創作は無理ですね〜、未熟者ですから…。
わかるとは思いますが、最後の「家族になった君」というのは、結婚して妻になった、という意味です。
よーするにプロポーズですね。「一生離さない」とセットで考えて下さい。
さて、今回はランディとアンジェリークの瞳の色から話を作りました。
「海は、恋焦がれた空の青を映して蒼くなる」というのは、すごく好きな言葉で、今回それを使ってみたくて、書いてみました。