甘い苦しみ



少なくとも、嫌われてはいないだろうと思っていた。

外界から切り取られたように幻想的な笹百合の谷。
あの場所でつかの間共有した優しい時間は、胸にぽんと灯る淡いともしびのような優しい思い出。
それを憎からず思ってくれているだろうと信じる程度には、たしかな心の交流があった。


―――そしてそれは愛ではなく、情の範疇だということも、痛いほど理解していた。







敵味方すら入れ替わるほどの目まぐるしく変わる戦の情勢に後押しされる形で結ばれた縁。
傷つき、すれ違い、それでも手探りで互いの心の在り処を模索して、
不器用ながらも、少しずつ信頼を確かめ合っていた。

かつては「情」としか表現しようのなかった相手からの気持ち。
そこに信頼が添ったことは嬉しく、また自分もそれに応えたいと思う糧となる。


そう、確たる信頼を向けてくれることは疑わない。


けれども愛されている自信など、どこにもなく。


―――婚姻の儀に臨んだ花嫁の固い表情が。
―――自らの婚姻すらも政の手段として語って見せた王族の顔が。


ともに、あと一歩を踏み出すことを躊躇わせていた。







禍日神との戦を終えてなお、慌しさは引く気配を見せない。
いや、戦のことばかりを考えていられた戦乱の時を終えたからこそ、
内政に追われる日々を迎えているといったほうが正確だろう。


荒廃した国土の復興に関わることだけでなく、
目に見える形で手を携えた国に対しても、さまざまな思惑が錯綜する。


戦に追われる代わりに今度は政務に追われることになった二人の生活リズムはなかなか噛み合わず、
顔をあわせるのも言葉を交わすのも政務がらみばかりの日々を送っている。


「―――じゃあ、この件は中つ国にも調整を図るわ。
向こうの了承が取れ次第動けるよう、常世側の準備も進めてもらう、ということでいい?」

「それでいい。ああ、それから先日の―――」


二つ三つ懸案事項の確認や意見の擦り合わせなどを行ってから、千尋は竹簡を抱えて執務室を後にしようとする。
裾を翻して背を向けようとする千尋に、アシュヴィンの表情が僅かに動く。

けれどそれは、形をとられることのないまま、今日も千尋の背を見送るだけだった。



皇の執務室を後にして、竹簡を抱えたまま根宮の廊下を歩く千尋は、
ふとその足をとめ、ふう、と重いため息を零した。

皇妃としてだけでなく中つ国の王としての執務も抱えた千尋は、アシュヴィンに負けず劣らず忙しい。
たまに顔をあわせたと思えば色気も何もない堅苦しい話。
けれどそれがどちらのためにもいいのだと信じている。

けれどこうして自分と逢ったときのアシュヴィンが、
時折何かを言いたげにし、そしていつも言い澱んだまま口を噤むことに、千尋は気がついていた。

気づいているけれど、問いただすことが、千尋にはできない。


―――限界、なのかしら。


所詮は、戦のために結ばれた婚姻だったのだ。
役目を終えれば消えうる絆だと、婚儀の前に狭井君にも言い含められていた。
それでも、彼にとって役に立つことができる妃であり続けられれば、
傍にいられるのではないのかと思っていたけれど。

―――身を引くときが、来たのかな。

抱えた竹簡をぎゅっと握り締めて、千尋はまたひとつ大きなため息を零した。







根宮が、静寂と安寧に染まる夜に包まれる。

月はとうに中天に昇り、大地も眠りについている。
普段ならば、政務で疲れ果てた身体を自室で休ませている刻限だ。

その常ならぬ時刻に千尋は根宮の廊下をひとり歩く。
いつしかすっかり慣れ親しんだその宮を、迷いのない足取りでただ一室を目指して。



内宮のもっとも奥、その目指す部屋の扉の前までたどり着くと、
その大きな扉を見上げて、胸元で手をぎゅっと握り締めた。

―――この扉は、これほどまでに威圧を感じるものだっただろうか。

自らの前に横たわるものの大きさによる錯覚と承知をしてはいるが、
静寂ばかりが支配する夜の中で、それはいっそ憎たらしいほど存在感を増していた。

千尋は深呼吸をひとつすると、意を決して、その扉を叩いた。



ギッ、と耳障りな音を奏でながら、その重い扉を開く。

「―――……千尋?」

部屋の主は、思いもよらぬ訪問者に驚きの顔を隠せずに千尋を凝視する。
だが次の瞬間には、その目を逸らした。

「―――何の用件だ、こんな時間に」

アシュヴィンのその反応に、千尋の胸はずきんと痛む。
覚悟を決めてやってきたとはいえ、夫の部屋を訪ねた妻に対するものとはかけ離れたそれに。



思えば、口付けひとつ交わしたことのない夫婦関係だ。
噛み合わぬ歯車を無理に組み合わせていても、瓦解がくるのは避けられない。


千尋は顔を俯かせて、胸元で握り締める。
ともすれば逃げ出したくなる両足を叱咤して、
告げたくない、けれど告げると決めたことを言うために、もう一度深く息を吸い込んで、腹に力を込めた。

「―――アシュヴィン。
私は中つ国に帰ってもいいのよ」


アシュヴィンは千尋の発言に弾かれたように逸らした瞳を再び千尋に向ける。

「―――な……に?」


「……ここしばらくずっと考えてた。……ちゃんと、覚悟はしてきたわ。
私の存在があなたの邪魔だと思うのなら、私は中つ国に―――」


「―――ちょっと待て、邪魔とか覚悟とか、何の話だ」

妃の様子が尋常でないことに今更のように気づいたアシュヴィンは、慌てたように千尋の腕を掴んだ。



おい、と揺さぶれば、千尋の瞳からは透明な雫がひとすじ零れる。

「……いつか、そうしないといけないと思っていたの。
あなたと私との結婚は、あの情勢下で必要だったから結ばれたもの。
―――だから」


「……必要がなくなれば、解消される、と?」

低い声での問いに、こくんと頷く。

千尋の腕を握ったアシュヴィンの手に、力が込められる。
衣越しに伝わるその掌の熱さが、千尋の感情の鍵にひびを入れた。

「……分かってた。分かってたのに。
失わなくてはいけない気持ちなら、持ってはいけないと知っていたのに。
―――でも、だめだったのよ……!」

傲慢で、けれど時折優しくて、そして子供のように不器用で。
そんな彼の素顔に触れるにつれ、気持ちはどんどん大きくなるばかりで。

危うい均衡を保っていられる間なら、それにしがみ付いていてもよかった。
けれど、近頃見せる彼の様子に、限界を感じ始めた。
もしも千尋の気持ちを慮って別離を言い出せないのであれば、それは千尋の望まぬ事態だ。

信頼で結ばれた戦友のままでいられたなら、義によって身を引くことに痛みも伴わないはずだったのに。

―――これ以上傍にいたら、貴方のために身を引くこともできなくなる。



「どうして、恋をしてしまったのかしら。苦しくなるだけって、わかっていたのに」

ぽろぽろと、一度零れ始めた涙は留まらずにその蒼穹の瞳を濡らしていく。




「―――俺も苦しい」

はっと見上げる千尋の視界に、切なげに眉を顰めるアシュヴィンの相貌が映る。

千尋の腕を掴んでいたアシュヴィンの手の力が緩み、そのまま腕の上を撫でるように滑り落ちていく。
千尋の白い手がアシュヴィンの手に包まれ、千尋の手に重ねるように指が絡め取られた。

「こんなに甘い苦しみを与えておいて、俺から離れようだなどと、許すと思うのか」

その紅い瞳にに射抜かれて、千尋の身体がぴくりと震えた。




自らの掌の中に捉えた千尋の手のその白い指先に、アシュヴィンはそっと唇を寄せた。

「お前の気持ちを確かめたかった。……そして、確かめるのが怖かった。
俺の想いに否と―――故国に帰してくれと言われるのが、とても」


触れたい、と幾度思っただろう。
けれど手を伸ばして、もし拒絶されたならば、決別は決定的なものになる。
力で組み伏せて身体を奪うのは容易いが、代わりに失うものは、何より求める千尋の笑顔。

「だから、俺はお前に信頼されうる、友であろうと……、
触れぬことで、お前が傍にいてくれるならそれでいい…と」

そう思っていたんだ、と呟いた目の前の男を、千尋は驚きに目を瞠って見つめた。
常に傲慢と自信が服を着て歩いているようなこの人が、自分と同じことを考えていたのか。


アシュヴィンの手と唇の熱が指先から全身に広がったように、身体が熱い。
指先からそっと唇を離し、アシュヴィンは、千尋の瞳を見つめてその頬に触れた。

「……千尋、口付けをしても、いいか?」

少しだけ言いにくそうにするその仕草は、千尋が心に気兼ねを覚えたあの仕草とどこか重なる。
千尋を見つめる瞳の奥に、さらに熱を感じた。

まるで焔が踊るようにその紅の瞳に宿る熱。
それに今まで気づかずにいたことが不思議でならない。

この不器用なひとの心に触れれば、こんなにもまだ知らない素顔があった。

―――私を恋うる顔を隠していたなんて、知らなかった。

千尋は羞恥に頬を染めながらも、心に広がる喜びのまま頷いた。
次の瞬間、二つの影はその隔たりの距離をゼロにした。






「俺たちは馬鹿だな。もっと早くに、触れ合えたはずなのに」

頬に触れる手袋越しの掌の感触が、千尋の心すらをも優しく撫でていく。

「―――身を引くだの国に帰るだの考える前に、もっと我侭を言え、千尋。
求められることが嬉しいことのほうが、ずっと多いんだぞ」

「……あなたこそ。
たったひとことを言葉にしてくれてたら、私だって悩まなかったわ」

「そうだな。俺も言えばよかったんだと、今になれば思う。
お互い様というやつだな」

頬を撫でる手は休ませることなく、もう片方の腕でしっかりと千尋の腰を抱き寄せて、
腕の中の愛しいぬくもりを堪能しながら、アシュヴィンは笑う。




「―――…千尋」

額にかかる髪をなで上げて、熱い声と瞳で訴えれば、意を酌んだように千尋が瞳を閉じる。
アシュヴィンはその柔らかい唇にもう一度自分の唇を重ねながら、
さらに腕に力を込めて千尋のその細腰を自らに引き寄せた。

その柔らかい唇は、アシュヴィンを虜にする魅惑の果実。
おずおずと背に回される細い腕は、自らを絡めとる甘く優しい枷となる。




さてこうなればもはや愛する妻を自室に帰すつもりなど毛頭ないが、
はたしてこの腕の中の姫は気づいているのかいないのか。

いや、もはやどちらでも構わない。

―――抵抗する気が起きないほどに、俺に溺れさせてやるさ。





ED前くらいのすれ違い夫婦を書きたくて書いてみたお話。
千尋の気持ちしったら途端に強気なのが殿下テイスト(お前はアシュヴィンをどーゆー目で)