紅い月
橿原の宮は、畝傍山の山裾に広がる。
宮から離れすぎず、其れでいて宮とは明らかに世界を異とするその場所は、少女にとって格好の隠れ場所だった。
鬱蒼と繁る木々のむろや、岩場の隙間などに身を滑り込ませて、一人声を殺して涙を流す。
その日も、采女や母王の心無い一言に傷つき揺れる心を一人宥めるために、山に登っていた。
静かに清水をたたえる泉の傍に群れる岩場を階段代わりに、一番大きな岩のてっぺんへと登りつめる。
その頂で座り込めば、ごつごつと大きな岩そのものが視界を遮り、少女を周りの世界から切り離す。
膝を抱えて身を丸めれば、小さな身体はさらに小さく縮こまる。
少女はぱたぱたと落ちる涙を流れるに任せて零れさせていた。
どれほどの時間をそこで過ごしていただろうか。
かさり、と草を踏みしめる足音が、少女の耳朶を打つ。
ふもとから誰かが探しに来たにしては、聴こえた方角に違和感を覚える。
足元―――もとい、自分のいる岩場の麓に人の気配を感じ、少女は岩場から身を乗り出した。
「―――誰かいるの?」
声をかけた先に居たのは、小さな人影。
思いもよらぬ方向から声をかけられた人影は、びくりと身を振るわせた。
無意識にか剣の柄に手をかけた瞬間少年の纏う空気は、触れれば斬れそうなほどに鋭く変化する。
上よ、と声をかけると少年はその顔をあげた。
年の頃は少女より5,6歳ほど上だろうか。
宮に詰める官人や兵たちとは明らかに異なる装束は、彼の出自がここにないことを証明している。
一房だけ伸ばされ束ねられた癖のある髪と澄んだ瞳は、血の色より深い緋色。
その色は、今まさに東の空から昇らんとしている月を思い起こさせる。
―――きれいな、瞳。
少年と視線を合わせた瞬間、少女の胸に零れ落ちてきたのはそんなある意味場違いな言葉だった。
「―――………」
声の主の姿を認めたことで驚愕は去ったはずの少年は、見上げた姿勢のまましばらく立ち尽くしていた。
その唇が独り言のように動いたが、それが音となって少女の耳に届くことはなかった。
しばしそうして見上げていた少年は、突然に手近な岩に手をかけるとひょい、と伝って岩場を登りはじめ、少年は少女のいる岩のてっぺんまであっという間に登り詰めてきた。
驚きに止める暇もなく目前に駆け上ってきた少年に、少女はその瞳を瞠る。
じいっと、無遠慮なほどに少年は少女を見つめた。
少女もまた、少年の視線から―――いや、自らが視線を囚われた緋色の瞳から目を離せず、見つめ返す。
「―――泣いていたのか」
漸くまともに少女に発された言葉は、誰何への返事でも、少女自身への誰何でもなく、少女を気遣う言葉。
けれど少女の目には、目の前の少年の瞳こそが揺らぎそうに見えた。
「あなたにも、つらいことがあったの?」
「……何故そう思う」
「泣きそうな、哀しい瞳をしてるもの」
少女の小さな手が伸ばされ、少年の褐色の頬に触れる。
「泣きたいのなら、泣けばいいわ。ねえさまもそうおっしゃるわ」
『ねえさま』の単語にぴくりと少年は身体を振るわせる。
いや違う、と口の中でだけ呟いて少女と視線を合わせた。
「―――お前の姉のことか?」
「ええ、ねえさまは、私が泣いても怒らないでいてくださるの。
泣きたいのは心がそう求めているからだって。
強くなるのも立ち上がるのも、泣きたいだけ泣いてからでいいんだって、ねえさまはそうおっしゃるの」
でもかあさまや采女は眉を顰めるから、泣きたいときはいつもこの山に来るのよ、と少女は涙の跡の残る貌に微笑みを浮かべた。
「そうか………お前は、優しい姉をもったんだな」
「ええ、だいすきよ」
そうか、と笑う少年の笑顔はやはりどこか寂しげだが、その瞳に初めて声をかけたときに纏っていた剣呑な空気は和らいでいた。
「哀しいなら泣いていいのよ。辛ければそう言っていいの。
―――ここには、私以外誰もいないもの」
そういって、はたと気がついた少女は少年の頬に当てていた手を引いた。
「もしかして、私もいないほうがいいのかしら。だったら―――」
裳裾を翻して岩場を降りようとした少女は、だがしかしその場を離れることができなかった。
―――少年が、その手を掴んでいたがために。
「―――泣かない」
静かに、だがはっきりと答えた少年の言葉に、少女は戸惑う。
「泣けば揺らぐ。揺らげば弱くなる。弱さも強さも影響を齎す立場にあればこそ、弱くはなれない。
―――だから、俺は泣かないと決めた」
「……けれど」
少女の小さな手が、再び少年の頬へ触れた。
「ここには、私以外、誰もいないわ」
先ほどの言葉を、もう一度少女は繰り返した。
同じ言葉のはずなのに、込められたものは僅かに変化して。
「あなたがどこの誰かもしらない、私がいるだけ。
あなたが強くても弱くても、私にとってはあなたはただ、あなたでしかないわ」
少女は少年の頬に触れた手を、撫でるように沿わせた。
流れていない涙を拭うようなその仕草に、少年の瞳が大きく揺れる。
「―――………っ」
少年は、少女の小さな身体を腕に抱きこんだ。
けして大きくはない少年の腕にすら、すっぽりと収まるほどに幼いその身体は小さい。
揺らぎそうになる声を腕に力を込めることで堪えようとしているのが、少女にも分かった。
「―――泣かない。泣かないと、決めたんだ」
「……いじっぱり」
「なんとでも言え。
………でも………しばらくの間だけ、こうしててもいいか」
「……………うん…………」
互いに互いを抱きしめるように、背に小さな手を添える。
そこには意図も作為もなく、見知らぬもの同士ただぬくもりを分け与えるように。
中天にあった太陽も西の山の向こうへと眠りにつき始め、空を茜色に染め抜き、
東の空に昇りだした月が紅の光を放ちだすころ、ようやく少年の腕から力が抜けた。
それを合図にしたように、そっと互いの身体を離した。
それが自らの居場所へと戻らねばならぬ刻限だと、互いに分かっていた。
少年は、少女の長い髪をさらりと撫でた。
指の間をするりと心地よく流れるその髪を一房掬い、口づけた。
その仕草に色めいたことを感じるほどには少女は大人びてはいなかったけれど、異形とも口さがなく言われ、自らも疎んでいたその金の髪を愛でてくれたことが嬉しくて、少女はふわりと微笑んだ。
「また逢うことはないだろうが……きっと俺はお前のことは忘れない」
さらりと黄金色の長い髪が風に流れる。
「―――逢えたら、いいわね」
逢いましょう、でも逢いに来て、でもなく。
いつか、運命が二人のえにしを引き合わすなら。
少女の言葉に、少年も微笑みを返した。
―――少女がみた、初めての、そして最後の少年の歳相応の笑顔に、心に灯火がともる。
畝傍山を慣れた足取りで下ると、さすがに姿の見えぬを察知した采女らが、宮の外まで探しに出ていた。
「まあ、二ノ姫様!このような遅くまでどちらに行かれていたのです!」
当然の采女の叱責も、今日ばかりは堪えない。
茜色に染まった夕空に、紅の月が浮かぶ。
―――あの少年の柔らかな髪と、深く澄んだ紅い瞳が、鮮烈に心に残る。
「………月に」
「―――はい?」
「お月様の御使いに、お会いしていたのよ」
それは、いまだ中つ国が栄華を誇っていたころの、淡い思い出のできごと。
そして生まれ出でた故郷へといざなわれることになるその少し前。
千尋は校舎の窓から夕焼けに染まる街を飽きもせずに眺めていた。
「ねえ、那岐は気になったこと、ない?」
「なにがさ」
―――赤い夕日を眺めていると、心がざわめくこの感覚を。
「ほう、めぐり合わせとは奇妙なものだ」
夜闇に熔けるような深く暗い緋色の髪と滴る血を凝らせたような紅玉の瞳の青年、そしてその頭上に皓々と輝く紅い月。
千尋の胸に何かを呼び起こす感覚を生み出すが、それが明確な形をとる時間は与えられることはなく。
―――邂逅は、紅い月の袂。互いに、そうと知らぬままに。
幼少期捏造過去邂逅ネタ。「黄金の日輪」と対話予定。
アシュヴィンとの出会いスチルって、紅い月を背景にしてまさに月の化身みたいな印象が強かったので。
ゲーム中で使われてさえいなければここに「月読」の名前を使いたかったですね。
それにしても
いくつだお前ら。言うことやること年齢に不相応。(書いたのお前だろというセルフ突っ込みもしておく)