Magichour





「………もう、こんなに暗くなってたのね」


いつの時代も、夢中になると時を忘れる、というのは変わらないものだ。

熱心に竹簡を読み進めていた千尋が、さすがに目の疲れを覚えて顔を上げると、ずいぶんと薄暗くなっていた。
窓近くにいたために、薄闇に浸食され始めた部屋の中でもまだ文字を判別できる程度には光が残ってはいる。
だが外を眺めれば、今まさに地の果てに太陽が沈みゆこうとしており、夕やけがあたりを赤く染めていた。
今夜はたしか月も出が遅かったはず。
日が完全に沈んでしまえば、部屋の中はいっそう暗くなり、歩くこともおぼつかなくなるだろう。


普段ならこんなに暗くなるまで灯りが灯らないことなどないが、今日は読むことに集中したいからと人払いを頼んでいたから、灯りをつけに誰かが来る可能性は五分五分だろう。
切り上げるにもちょうどよい頃合いだ。
千尋は手にしていた竹簡をくるくると畳むと、丁寧に紐をかけて机に置いた。


人払いを頼んだとは言え、ここが宮である以上、政の中枢に変わりはない。
扉をあけて部屋の外を少し歩けば、控えていた警護の兵や行き交う文官たちの姿が見える。
部屋に灯りを入れてくれるよう頼んで、千尋は来た道を引き返した。



ぎぃ、と重い音を立てて部屋の扉を開くと、未だ灯りがともらぬその部屋は、灯りに浸食されていない分、かえって窓の外が切り取られたようによく見えた。
灯りを頼みに外に出たそのほん僅かの時間でさらに日は沈みゆき、暖かい色が空と地を覆っていた。
窓の外の景色が夕焼けの色に、世界とそしてこの部屋を染め上げる。


―――赤い、夕空。

それは、千尋にとってほんの少し懐かしさを思い起こさせる。
今は遠い異郷の地で故国のことも己のこともすべてを忘れて、ただの少女としていられたころの。
朱に染まる夕陽に、理由もわからぬ焦燥を覚えていた、あのころの。

燃えるような赤の空に覚える焦燥の理由を知った今では、夕空に心騒ぐこともなくなった。
今ではこの空の色にむしろ安堵を覚える。
なぜだろうと己に問うまでもなく、その理由は自分の中に確固たるものとして存在していた。

―――きっと、もうすぐ。



服の上に羽織った肩掛けを胸元で掻き合わせながら、太陽が完全に地平の果てに沈んでしまうのを見送った。

太陽が沈みきっても、空が夜闇に染まるにはまだ残照が残り―――それが、世界を黄昏色に染め上げた。
世界が赤とも金ともつかぬ色に染まるこの時間が、千尋はたまらなく好きだった。






「また、見ているのか」

「―――アシュヴィン」

掛けられた声に振り向けば、片手に燭台を手に扉を開けて入ってくる夫と視線が合った。
調度として豪奢に飾り立てられた燭台ではなく、実用性だけを重視した素朴で背の高いそれは灯り入れのためのもののようであった。
驚いた顔の妃の視線の意味に気がついたのか、後ろ手に扉を閉めると、手にした燭台をそのまま寝台脇の小さな机に置いた。

「ああ、これか。ちょうどお前のところに火を入れに行くと言う武官と出くわしたんでな」

俺が引き受けてやったんだ、と笑うその姿からは、この国の至高の地位に就いているとはとても思えぬ気軽さがあった。
そういった点も含めてアシュヴィンの人となりを好ましく思ってしまっている今では、咎める言葉など出てこない。
なにより、千尋自身人を使うより己でやるほうが性に合っていた。

「皇陛下手ずから火を頂くなど、恐れ多いことです」

笑いながらわざと芝居がかった口調でそう言ってやると、心得たように楽しそうに応えがあった。

「光の比売神に光を捧げる栄誉をこの身に賜れるのであれば、それこそが光栄の至り」

互いに普段にそぐわぬ堅苦しい言葉を口にして、しばし互いの視線を合わせ、そして同時にくすくすと笑いだす。

ひとしきり笑ったあと、窓辺に身を寄せる千尋のそばにアシュヴィンが歩み寄り、するりと自然な仕草で後ろから抱きしめられた。
千尋の頭上越しに、外を見やる。
朱色に染まる国土は、確かにそれなりに見事だが。


「日没がそんなに面白いか?」

さすがに見慣れているだろう、と言外に理由を問われていることを感じ取り、千尋はどう答えるべきか一瞬思案した。


理由は、ある。
けれど言葉にするにはひどく照れくさいことに思えて、口にすることを躊躇わせた。
綺麗だからよ、と見た目だけで答えしまうことは容易い。
おそらくそれでもそこそこには理解も得られるだろう。

けれど、この情景の中で、暖かく包み込むように抱き締められていることが、千尋の背を押した。





背中に感じるぬくもりに、ぽすっと凭れ、身を委ねた。

「………好きなの」



かつて幽宮で諍いを起こして以来、たびたびアシュヴィンは千尋のことを光の比売神、と譬える。
岩戸に閉じ篭ってしまったこともさることながら、金の髪を日差しに、蒼い目を青空に、と準える。

千尋は後ろから包むように抱き締めるアシュヴィンを、逆さまに見上げる形で視線を合わせる。
視線があったアシュヴィンが優しく和ませるその瞳こそ、夕空のように優しい色だ。
赤く、暖かく、柔らかい。

この言葉で、思いのひとかけらだけでも伝わればいい、と思いながら、それを口の端に乗せる。

「……アシュヴィンに包まれてるようで、好き」



夜闇というには光に包まれ、それでいて限りなく影がなくなり、昼と夜とが混じり合おうとするほんのわずかの時間。

日輪の膝元、太陽の恩恵を一身に受ける豊葦原の女王である千尋が光の比売神であるならば。
その名は常夜に通じる常世。その皇であり、夕焼けの瞳をもつアシュヴィンは夜の王。
そして赤とも金ともつかぬこの色が、より自分たちを現しているかのように思えて。

それらが混じり合い、世界に調和して、これほどに美しい情景を見せるこの時間が、たまらなく好きだ。






千尋の視界で、アシュヴィンが瞳を瞠る。
その頬が、かすかに紅く見えるのは、薄暮の赤さだけではない、と思う。

「………ずいぶんと可愛らしいことを言う。だが」

「え?」

突然、腕をつかまれ身体をぐるりと反転させられる。
ぼすっと顔をアシュヴィンの胸に押しつけられた。
突然のことに抗議しようと顔をあげれば、その頬に優しく彼の指が触れた。
優しく愛おしむように触れられれば、告げようとした言葉は急速に勢いを失いしぼんでいく。

千尋を撫でる指が、頬を伝い、顎に触れ、その唇を優しくなぞる。

「………好きという言葉を、俺以外に使うなよ。妬けるじゃないか」

千尋はぱちくりと瞬くと、目の前の夫をまじまじと見返してしまった。

「……景色よ?」

「わかっている。だが、面白くない。
照れてばかりの妃のこの唇が、珍しく「好き」という言葉を紡いでくれるならば、対象は俺でありたいと思うのは我儘か?」

「――――っ。………ばか」

視線を逸らし、白い頬を桃色に染めあげて、今では決まり文句になりつつある罵倒の言葉を投げかける。
本気で詰るつもりでないその言葉は当然のことながら迫力などでるわけもなく、案の定、アシュヴィンはくっくっと笑いながら宥めるように千尋の髪を撫でていた。
千尋は拗ねたように真っ赤に染まる顔を夫の胸に押しつけて顔を埋めてしまう。


「我が妃殿。そう顔をうずめてしまっては口付けもできないだろう?
不興を買ったのでないのなら、どうかその花のかんばせを上げてくれないか」

耳まで赤く染めあげた千尋はぴくりと身体を震わせたが、ゆるゆると緩慢ながらもその言葉に応えてアシュヴィンの胸から顔を上げる。

己の胸元で握りしめられた千尋の手をするっと攫うように引かれた。
優しく掌を合わせるように指を絡められると、心まで彼に絡め取られたような気持ちになる。
いや、この心は疾うに彼に奪われているのだから、今更か。

絡み取られた心の赴くまま、愛しい男を見上げれば、熱く燃え上がる焔のような熱を湛えた瞳とぶつかる。

「――――千尋」

優しく呼ばう声に誘われるように、千尋は瞳を閉じて、降りてくる唇を受け止めた。
それ以外の感覚を失ったかのように、今感じるのはお互いだけであった。


そして、今宵も夜の王と日の女神は混じりあう。





互いに溶け合うが如くに触れあう二人の傍らで、灯りに灯されぬままの燭台の焔が、開け放たれた窓から吹き込んだ夜風に音もなく消え、二人の姿を夜闇に包んだ。





100のお題No.90「あとすこし」。転じて、ちょっとの時間。
条件がそろったときほんの少しだけ見られる気象現象を題材にしてみた。
太陽がないのに残照で黄金に世界が染まる時間をマジックアワー、あるいはゴールデンアワーと言います。