■九州松下電器入社
「おい! 牟田君、君は長男だったなぁ!」
「九州で就職したほうがいいよなぁ。福岡にこんな会社があるけど受けてみるか!」
就職担当の岡教授からこんな言葉があり、九州松下電器の存在を初めて知り、就職試験を受けることになった。
どうにか最終の青沼専務面接までこぎつけたが、最終面接で、青沼専務から「君は、英語の成績が悪いのが致命的だな!」と言われて、半ばあきらめていたが、どうにか合格させてもらい、1968年(昭和43年)4月8日、無事入社した。
当時の山田隆人事部長が、同じ小郡市の出身であり、その奥さんの実家が母の実家の隣りだったことで、採用されたのかもしれない。
私は、大学を一年留年したが、一浪して大学へ行った、同じ明善高校の同級生の中園さん、仲さんも、同期入社し、偶然の再会と入社を喜び合った。
当時、従業員数2400名足らずのところへ、この年、我々大学卒23名を含め約1600名もの入社があり一挙に4000名の会社へとなった。会社の歴史を通じて、最大の入社人員であった。平均年齢も若かったので、大学卒の新入社員に対し、人事担当者から「君たちが入社することで、平均年齢があがるんだよ」と、言われた。

■新入社員導入教育
新入社員教育は、会社の方針などの座学だけでなく、禅寺での座禅修行、自衛隊への体験入隊、さらには販売店実習など半年近く行われた。
なかでも、自衛隊への体験入隊は、自衛隊春日駐屯地で、泊まりがけで、隊列歩行訓練や行軍訓練などがあり、興味深いものであった。
販売店実習は、若久の大橋電業であった。大橋電業は、井戸ポンプの販売も多かったので、もしや配属は、第一事業部では・・・? 

■第一事業部への配属
9月末に配属が決まり、予想通り第一事業部となり、冷暖房用の循環ポンプの設計に従事することになった。上司は、栗川主任、元森技術部長だった。
冷暖房用の循環ポンプは、配管を伝わって室内へ流れる騒音の低減が課題だったので、松下電器の音響研究所の協力を得て、無響室や高価な計測器を借用しながら、低騒音化を検討し、一定の成果を得たので、National Technical Reportに掲載してもらった。
1970年(昭和45年)には、自宅の半分を大改造し、その実用試験を兼ねて、セントラルヒーティングシステムを設置した。それまでは、台所や食堂が土間にある田舎家だったが、「これからはこうすべきだ!」と反対を押し切って、居間に台所と食卓を設けた、今で言うLDKだった。当時の田舎としては、画期的な改築だった。

■日本万国博覧会(大阪万博)
この年の夏には、大阪で、世界万国博覧会が開催され、夏休みを利用し、5日間連続でほとんどのパビリオンを見て回った。一番人気は、アメリカ館の「月の石」だった。
松下館は、湖にたたずむ和風建築で、売り物は「タイムカプセル」だった。いま大阪城の地中に埋まっている。

■松下電器無線研究所への派遣
 元森さんから、「おい、君は写真が趣味だったな!」と声をかけられ、1972年1月、開発研究所に籍を移し、中野さん(当時、ラジオ事業部内九州松下電器出張所所長)、柏木さんなど数名でプロジェクトを組み、大阪府門真市にある松下電器無線研究所へ派遣されることになった。
帯電、露光、現像という電子写真プロセスを利用した、静電転写式複写機および35mm自動スライド作成機の開発の仕事だった。いわば、九州松下電器初のOAプロジェクトだった。私は、スライド作成機の回路設計と現像液供給部の設計を担当した。
出向を命じられた日は、結婚が決まり先方の家で両親ともども初めて会食をするその日だった。本人も先方の両親もさぞ驚いたことだと思う。結婚式まであと2ヶ月という時だった。

■結婚
1972年3月24日、二日市の松筑荘で結婚式を挙げた。仲人は、久留米の呉服店の高倉社長夫妻、司会は、栗川主任にしてもらった。総費用は、   円だった。

■大阪での生活
結婚までの2ヶ月は、守口市大和田にあった九州松下電器所有の松九寮に仮住まいしていたが、結婚後は、京阪電車枚方市駅の次の御殿山駅近くに住宅を借り、新婚生活を送った。3畳ほどの台所、4畳半の居間、6畳の寝室のいわゆる文化住宅での新婚生活だった。こんなに狭いのに、何が文化住宅なのかなぁ?と思ったことだった。しかしながら、駅から3分、淀川河畔まで5分、樟葉のゴルフ場まで10分、京都まで30分というすこぶる快適で、便利な場所ではあった。
したがって、ゴルフを始めるきっかけにもなり、京都へは、毎週のように出かけて、神社仏閣や名所旧跡を散策した。

■長女の誕生
結婚の翌年、1973年2月7日、長女が誕生した。

■盛大だった体育祭
毎年10月になると、全社あげて、家族ぐるみの体育祭が、平和台陸上競技場を借り切って行われていた。とりわけ人気は、仮装行列で、入社した年は、新入社員全員で、「人間の一生」をテーマにし、私は、お坊さん役だった。当時で約3000万円というかなりの費用がかかっていて、オイルショック後に中止された。後にスポーツ大会に衣替えして、再開された。

■パナコピースライド作成機の開発
無線研究所の林さんらが開発した有機光半導体は、導電層にヨウ化銅を用いることにより透明化し、スライドとして使える画期的なもので、各方面から注目を浴び、テレビなどでも紹介された。
当初は、静電複写機を先に事業化の予定であったが、性能の確保が難しく、投資額も莫大になるということで、事業化を断念し、モノクロのスライド作成機を先に事業化することになった。
1974年(昭和49年)に開発を完了し、団体社長賞を受賞。翌1975年(昭和50年)、第5事業部で事業化した。
私は、引き続き、カラースライド作成機の開発に従事し、その成果を、1979年(昭和54年)1月、ラスベガスで開催されたウィンターCEショーの会場で、松下電器初の海外技術展として一般公開。私も説明員として、初めて海外出張した。会社の英会話クラブなどで、すこしずつ勉強していた英会話が役に立った。
同年、事業化に成功し、2度目の団体社長賞を受賞した。

■パソコンとの出逢い
これからの時代は、レーザーとマイクロプロセッサが重要な技術になるということで、しばらく前から仲間と勉強会をしていたが、前記、団体社長賞の賞金で、L-kit16というPCトレーニングキットを購入し、BASICのROMも入手し、パソコンの勉強を本格化した。1980年の秋に、NECよりPC-8001というパーソナルコンピュータが発売されたので、翌年3月に、仲間とともに購入。
メモリーは、ROM16KB、RAM16KBで、¥168000であった。
パソコンを購入した「システムソフト」という会社(といっても社員3名)に毎週土曜日に出かけて行っては、勉強会をしながらそのノウハウをつかんでいった。

■パソコンの解析本の出版
その年の8月頃、勉強したことをノートにまとめていたものを、「システムソフト」の樺島社長が見て、これを本にしたらおもしろいかも・・という言葉に、「そうですね、勉強にもなるしやってみましょうか!」ということで執筆にとりかかった。
よく考えると会社に在籍したまま、本を出版するとなると就業規則に反するのでは?という恐れから、ペンネームで出版したほうがいいのではということで、ペンネームを「大牟田慎一」とした。
執筆を始めて3ヶ月くらいのころ、「システムソフト」から、知り合いの新聞記者がパソコンのことを勉強したいと言ってるから一度会って話を聞いてくれないかということだったので、引き受けた。会っていろいろ話をした数日後の日曜日、なんと日本経済新聞の三面の「人」という欄に記事が掲載された。月曜日に秘書室より電話が入り青沼社長が呼んでいるとのこと。「ドキッ」とした。社員研修所で宿泊研修中だったので、終わった水曜日に、おそるおそる社長のもとへ行くと、「君、本を書いているそうだな。出来あがったら一冊くれよ!」との言葉。「ホッ」とした。結局、本名で出版することにし、著者略歴に、九州松下電器勤務もいれることにした。
年が明けた3月下旬に出版にこぎつけ、PC−Techknow8000という書名でシステムソフトから発売した。日本電気から4000冊の大量注文がはいるなど、瞬く間に一ヶ月余りで、2万部が売れた。業界紙に理工学書部門でトップになった週もなんどかあった。よく考えると、日本初のパソコンの解析本だったことになる。アスキーから共同出版の申し入れがあり、2万部以降はアスキー出版の名前で販売され、最終的には、約5万冊が売れた。そのあと、PC−Techknow8000MkUやスーパー漢字プリントというソフトも出版した。ほんとうにいい経験をしたし勉強にもなった。

■デージーホイールプリンタの開発
1984年1月、パナコピーの事業終結に伴い、第6事業部(後のOA事業部)に異動し、デイジーホイールプリンターKX−P3151の開発に従事した。

■電子タイプライタの新市場開発
1985年3月、技術開発の仕事から、開発営業の仕事に移った。当時米国のみに販売していた電子タイプライタを、米国市場以外へも出して、販路を広げようというものでした。異動して一週間後、私は、オーストラリアのシドニーにいた。まず手始めに英語圏のオーストラリア市場開拓というわけである。市場の状況(他社の販売価格やキーボードの配列など)を調査し、スペックと販売価格を決めるというのが最初の仕事。その後試作品を持って行ったり、サービス講習会を行ったりで、一年の間に4回も出張した。ほかに、東南アジア、欧州、北欧などへも出張し、世界展開を図った。
これらの海外出張で、とくに感じたことは、皆がいかに個性豊かで人生を楽しんでいるかということだった。このことは、後のライフワークのテーマにもなった。

■採用の仕事
1987年6月、採用部へ異動し、翌7月より東京へ単身赴任することとなった。ときに、バブル経済のまっただ中。九州松下電器の業容も拡大し、技術者不足に陥ってたため、技術者の中途採用の任に就くことになった訳である。九州出身の技術者を高校の卒業者名簿を調べ、夜、寮や自宅に電話をして、土曜や日曜に会って、優秀な技術者には九州松下電器への応募を勧めるという仕事だった。3年で約120名余りの技術者が入社した。
続けて、定期採用の仕事をした。主に東京を担当し、大学を回りながら、学生の推薦をお願いしてまわった。学生に会っては、「同じ給与をもらうんだったら九州がいいよ!自分の家も持てるし、通勤も短くてすむ。なにより両親がちかくにいると安心だよ!」などと説得して、応募を勧めた。定期採用をした3年間、最高で一年に260名余りの大卒者が入社した。

■創造性開発研究所の設立とクリエイトプラザの建設
「九州はいいよ!」と言って、関東の技術者や大学生を九州松下に転職または入社させるからには、自分自身が本当に九州はいい!と思わなければ説得力に欠けると思い、九州で自分に出来ることをいろいろ考えてみた。
その一つが、テニスコート付きのログハウスである。この場所で、汗を出し、知恵を出し、個性や創造性をたかめようということで「Create Plaza」と名づけた。単身赴任からもどるやいなや、企画書を作成し、皆の意見を聞いた。趣旨に賛同し資金の供与を申し出てくれるひとも現れた。そこで、1990年11月、その母体となる、「創造性開発研究所」なるものを設立。「Create Plaza」の完成目標を翌1991年7月21日と定め、建設へ向けての行動を開始した。測量、設計、見積もり、分筆、登記、発注、地鎮祭(起工式)、基礎工事などなど、ひとつひとつクリアしながら、計画通り7月21日、ほとんど徹夜状態で、竣工式(披露パーティ)にこぎつけた。

■スリランカの教育里親に
「Create Plaza」の構想を練っていた1990年5月、朝日新聞に、「月2000円、アジアの子が進学できる。教育里親募集」という記事が掲載された。構想の中に国際交流・支援もあったので、申し込んだ。送ってきた資料には、スリランカかインドネシア、男の子か女の子を選ぶようになっていて、より経済レベルが低いであろうスリランカの女の子を里子に選んだ。13歳のChandraちゃんと縁組がなされ、翌1991年1月より教育里親として支援することになった。このことが、スリランカとの出会いであった。

■再び開発研究所へ
約6年間の採用の仕事ののち、当時クローズアップされてきた、製造物責任(PLP:Product Reliability Protection)の業務に1年3ヶ月ほど就いた。そして、1994年7月、再び開発研究所へ久方ぶりに戻った。
マイクロシステム開発室(後のシステムLSI開発グループ)では、パソコン関連機器の調査研究を担当した。しばらくして、縦型、薄型、32万画素のユニークなデジタルカメラの原型の開発を行った。のちに佐賀事業部で商品化された。

■研究開発管理
1996年9月に技術本部研究開発管理室へ異動し、全社技術行政と技術支援の業務に就いた。研究開発管理室は、開発推進グループ、そして現在の技術管理チームへとその名称を変えたが、定年になるまでの8年4ヶ月をこの仕事に従事した。
技術本部の百道移転に伴い、2000年1月から2003年3月までの3年余りを百道センターですごした。百道センターは、おそらく松下グループの事業所のなかでは、もっとも環境がよく、見晴らし抜群の仕事場であった。

■友の死
同じチームで、一緒に仕事をしていた、同期の大山勅哉さんが、5月11日の朝突然亡くなった。前日の夕方、仕事の打ち合わせが済んで、「お先に〜」「お疲れさま〜」と言葉を交わして帰っていった彼が、翌朝はもう帰らぬ人となるなんで、にわかには信じ難い出来事だった。元気だったら、その半年後に定年を一足先に迎えるはずだった友の死は、本当にショックだった。なくなる一月前には、構内の桜と社屋をバックに、「これが在籍最後の桜だね〜」と記念撮影をし合い、4月17日には、同期入社で構成する「のびーる会」の7月退職者の卒業お祝い会を大山さんも参加して行った。そして10月には、大山さんの卒業お祝い会をする予定だったのに、本当に最後になろうとは・・・人生のはかなさを感じたできごとだった。

■定年退職
36年10ヶ月の会社生活を終え、2005年1月末に定年を迎えるが、一つの会社に勤め、なおかつ定年をそこで迎える人は、全体の5%にも満たないとのこと。20名に1名以下という貴重な存在と言える。そのことは、家族をはじめ、同僚のみなさん、そして国際交流などのボランティアをともにやってきた仲間など、私を取り巻くすべての人々の支えがあったからこそこの日を迎えられたのだと、心より感謝したい。