諭吉先生情報を収集し全世界に向けて発信しています。 この資料集の収集・配布は 福沢諭吉先生関連の資料作りのための素材集として企画し 大分県中津市出身の一個人が (財)福沢諭吉保存会と慶応大学福澤研究センターの協力のもとにPDDとして発信しているものです。

世紀をつらぬく福澤先生

没後100年記念展

19世紀から20世紀へと
世紀をつらぬいて生きた福澤諭吉先生の
21世紀にも通じる福澤精神に関する
没後100年記念展覧会が
日時:2001年1月29日(月)〜 2月10日(土)  
場所:銀座 和光6階ホール で開催されました

2004 慶応義塾プロローグより

2008年に創立150年を迎える慶応義塾 「気品の泉源、智徳の模範たらんこと」。 日本の近代教育の先導者として歴史を重ねてきた慶應義塾は 創始者・福澤諭吉のこの思想にはじまります。 創立後も決して平坦な道程ばかりではありませんでしたが、 義塾社中のたゆまぬ研鑽と協力によって 困難さえも貴重な足跡となっています。 近現代の歴史の重大な場面には、常に慶應義塾卒業生の姿がありました。 新たな時代を迎えた今、 慶應義塾は変わらぬ「敢為の精神」をもって 未来に臨んでいます。
2005年のウェーランド経済学記念講演会
日時:平成17年5月16日(月)14:45〜
 会場:三田演説館
講演:「小幡篤次郎没後100年
       −福澤諭吉を支えた第一人者−」
 講師:福澤諭吉協会理事長 服部 禮次郎氏
福澤研究センター助教授 西澤 直子氏
諭吉先生にちなんだ中津でのできごと(近年)
大分県中津市は福澤諭吉先生にとって
幼少期から十九歳で長崎に遊学するまでの人格形成期をすごされた
(一度も離れることなく)重要な土地です。
土地柄が人を作ることを示したよい例となるでしょう。
先生は藩命により江戸に上り激動の幕末から明治期の
日本を作り上げた偉大な人物としてまごうことのない方ですが
最近の中津での先生に関連の事項をここに紹介しておきます。

(このページの作者による中津などの紹介ページが

こちら
にありますのでよろしかったらご覧ください。)
−2000年5月20日 本ページは 
www.museum.com に登録されました。 
(This Page is listed on www.museum.com on 20th,May,2000 )

−平成12年3月12日 研究員の西澤直子さんが中津にお見えになりました。
−平成12年5月28日 西川俊作先生が中津にお見えになりました。
 中津市長との対談だったそうです。 
−平成12年10月xx日 にも再度西澤直子さんが中津にお見えになりました。 
−平成12年11月18日中津で九州・沖縄連合三田会が開催されました。
−平成13年1月12日慶應大学・福沢研究センターを表敬訪問しました。
−平成13年2月21日駐日インド大使・総領事一行が中津に立ち寄られました。
−平成13年2月24日福沢家のお雛様が到着されました。
 翌日の一般公開初日には1000人を超える有料入場者を数えました。
 この雛人形は諭吉先生のお嬢様のどなたかに対して奥平家から頂いたもので
 このものについては12代目昌信公御台所宝連院が一橋家から興し入れされた際に
 嫁入り道具としてもってこられたものが贈られたという説と
 14代昌邁公からのものとする説などがあるようです。
 平成十四年以降も毎年公開されています

慶應義塾からの中津への修学旅行について 
−平成13年 3月10日中等部の諸君が記念館に卒業旅行に訪れました 
−平成14年3月4日には幼稚舎(小学校)一行が来館されました。 
  幼稚舎が中津へ修学旅行へきたのはこれが初めてのことでした
 旧居や記念館など見学しました。
 慶応義塾幼稚舎(小学校)の六年生百三十二人が、
 三月三日から六日間、修学旅行で九州方面へやってきました。
 三日朝、寝台特急「富士」で中津に着いた一行は慶応大OBや
 まちづくリグループの案内で、福沢旧居や記念館、
 村上医科資料館などを見学。福沢思想の理解を深めました 
 一行は午後−別府へ移動−翌日は、中津同様、ゆかりの地である
 長崎を見学しています。

 中等部は修学旅行で毎年3月10日の先生の命日に
 中津を訪ねるのが慣例となっていますが、
 幼稚舎が訪れるのは初めてのことでした。  
 タウンマガジンなかつ vol.114,2001.5. 
平成14年
市内小楠小学校が記念館を訪問しました。
市内の学校がここを訪れることは少ないんですって
何かへんなのお

福澤諭吉記念全国高等学校弁論大会は
毎年中津で開催されています
2008年で47回目となります

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あなたのしらない福沢諭吉

[本質をさぐる]
「天はひとの上に人を作らず、人の下に人を作らず」といえり。
諭吉先生のこの言葉は実は
アメリカの「独立宣言」の訳から、
つまりトーマス・ジェファーソンの言葉からの
引用であったようです
(諸説あり)
この部分は「西洋事情」に訳されているようです。
そのことを示すこの文章を最近みつけました。
(ことばの旅人2003.04.05より)朝日新聞・コラムニスト 早野 透

それではここではまずは福翁自伝を読むことからはじめましょう!

諭吉の中津人脈

ノーベル賞受賞の野依良治・名古屋大学教授も
福澤人脈ゆかりの方でした!
(朝吹英二氏の弟・野依範治の長男辰治氏
その養子金城氏の次男が良治氏となる)

(中津近代人物情報室・雑記録へのリンク) 


年表関係 書簡関係 慶應大学出版物の電子目次 NACSIS版
三田評論

福沢手帳


【電子化されている著作】


【電子的に追跡可能な関連書籍】


先生の足跡を訪ねて

福沢諭吉協会では毎年一回諭吉にゆかりの地を巡礼する小旅行を行っています。
今年(2001年)はこれまでに訪れた地についてハイパーリンク化していきたいと思います。
これについては会報の「福沢手帖」に道中記がありますので、そこから掘り起こして
いきたいと思います。

史蹟めぐり 九鬼奔流


寺崎修研究会(法学部政治学科)へのリンク(本が買えます)
こちらの資料から抽出して編集しはじめたもの(2004.3.20 開始)
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[諭吉と塾出身国会議員](写真:福澤センター画像ライブラリへのリンクより)
明治24年(1891)ごろ芝紅葉館における義塾出身貴衆両院議員の集会。
たぶん第二回の当選議員の会合と思われる。
前列左から中沢彦吉、九鬼隆一、渡辺洪基、福沢諭吉、小幡篤次郎、加藤政之助、加藤六蔵、
中列同犬養毅、柏田盛文、井上角五郎(未 詳)、牛場卓蔵、鹿島秀麿、塩路彦右衛門
後列右端 橋本久太郎ほか3名未詳。
 なおこの資料の他に明治27年に第三回衆議院議員後の六月五日に福澤の自宅で義塾出身の貴衆両院議員の

招待会の
案内名簿が諭吉の自筆、他筆で残されている。(貴族院13名、衆議院50名)
この2つの名簿を照らし合わせてみると不明の数名の名前がわかるかもしれない
出典は諭吉全集21巻p412-3,1964

【諭吉先生といわくのある土地とひとびとのエピソード集

北海道・上磯町 男爵資料館 川田竜吉 明治七年入塾 男爵いも
北海道・帯広  依田勉三 明治七年 北海道開拓

鹿児島・明治三十四年までの入塾者は全国第四位(九州では第一位)
西南戦争の数年後に西郷の銅像建設の動きが出たとき、設立趣意書を書いたのは福沢であった (実際に実現化したのは明治三十一年)
西郷から大山弥助(のちの巌)に宛てた書簡のなかで、 福沢の書を読み、目をさまされたと書かれている。

書名が書かれていないのではっきりしないが、 野村政明(明治十一年入塾)によれば『文明論之概略』であったという。
彼は西南戦争が始まると西郷軍に従軍、各地を転戦し、西郷が城山に 落ち延びる以前に逃亡、上京して福沢家にかくまわれている。

西南戦争終了後、全国的に自由民権運動が広がるなかで、彼は新聞発行 を志し、上京、福沢を訪れ相談し、編集者としての人物を依頼。 推薦されたのが、宇和島出身の元吉秀三郎(明治十四年入門) と矢野可宗(明治十二年入門)であった。 明治十四年に鹿児島新聞(現、南日本新聞)は設立されたが、十五年には 野村社長・元吉編集長・矢野編集員の福沢の弟子のトリオで刊行された。 熊本県 まず福沢門下のの名前が現れない!
明治期以前には出身入門者数はトップクラスであったのが、
明治になると宮崎に次いで最少であった。
明治初期における熊本においては神風連の乱などに現れたような 新政府反対の風土が、文明開化の福沢門弟たちを受け入れなかったのであろうか。 ところが、お隣の薩長土肥の肥前・佐賀に行くと(続く)

【写真資料でみる歴史的資料編(慶應ライブラリーなどから】

各地の義塾について


A・C・ショー@ A B C D E

中央区観光案内より
諭吉を彼をとりまく人脈からみてみるとまたじつにおもしろい
(シーボルト一族・適塾関係など) (この項おもしろくなってきたので「諭吉はかけめぐった」として別ページにしました> 実業界での実績(消えてます)

【その他のエピソード集】 そのとき歴史が動いた

安政7年12月26日咸臨丸は太平洋を越えてサンフランシスコに
到着しました。番組ではこの日を「歴史の動いた日」としています。
しかしゲストの石川 好氏は諭吉がワシントンの子孫がいまどうしているかと
いうことを聞いたが答えの返ってこなかったその日をもって「歴史の動いた日」
としています。これは新しい視点だなと思います。 

【諭吉と大分弁】 
「けしからん」とは、対象の非を咎める日常用語で、
福沢書簡にも登場する。
「新聞紙の逓送怠慢なるよし、不快事共に候」(書簡集768 全集)
は、『時事新報』の海外郵送が指示通りに履行されていないと知った時の
感想である。
しかし 「不快御世話相成」(書簡集147 全集)、
    『不快勉強乃事』  (書簡集560 全集)、
    『不快凌能く』    (書簡集)となると、理解が難しい。
くずし字の読み違いかと、随分考えたが解らない。
すると編集員の一人が、大分方言で「甚だしい」という意味に
用いることを調べ当ててくれ、「福沢は大分の方言を使っていたのだ」
と一同大喜び。
これをある大先輩に話したところ、
「昔は東京でもその使い方をしましたよ」と教えられ、
また広辞苑(第五版)にも
「並外れている」という説明があることを発見し、不勉強の早とちりと悟り、
がっかりしたのであった。


以下整理待ち
(福沢諭吉書簡集 月報4 2001.08 p12) 【思想史の立場から】
諭吉の文明観−『文明論之概略』から考える−」
平成10年度武蔵大学「福沢日本思想史講義W学年末課題(2年次)担当:平山 洋
日本政治思想史II慶応大学97年度秋学期 担当:寺崎修教授
【読書と学習】 [福沢諭吉との四〇年ぶりの出会い]
[日本学士院]
学士院が諭吉先生の開設によることを知る人は少ない

[帳合の法] 簿記の手本(小樽商科大学ページへのリンク)

[諭吉の広告論]電通資料より
東京市会議員
特許制度と諭吉
考古学と諭吉
関西大学本山コレクションの成立には諭吉が絡んでいる

雑誌について
横浜正金銀行の設立
丸屋商社の改組
貿易商会の設立(同七月)
保険制度
20世紀歓迎会 by 諭吉
時事新報 明治34年1月2日号より現代語訳

21世紀歓迎会

[電信を伝えた留学士たち] [諭吉の見たアメリカ] アメリカにおける諭吉
欧州における諭吉
フランスにおける諭吉
ロンドンにおける諭吉

[論評] 96年度慶應大学学生レポートより
[諭吉異論] 95年度慶應大学学生レポートより
[諭吉は何をした?] 名古屋大学HPより
[諭吉の至言] 大分県知事・平松語録より
諭吉の発想ひらまつもりひこ・分権文化論
[サンデー時評2001年3月4日号 福沢諭吉よみがえる] [諭吉と北里研究所]北里大学HPより
[規制緩和と我が国産業の展望]
いまなお福澤諭吉福沢 武氏インタビュー
福澤諭吉とジェンダー・フリー児研三田会会長 中川 慎哉
(2)
[福沢諭吉と宗教]小泉  仰・国際基督教大学図書館公開講演集 第8集 1994
[諭吉とグーテンベルク聖書]
ペテルブルグ帝国図書館訪問者名簿に残る福沢諭吉の署名
[福沢家と祠のなぞ]
 

酒徒 故に命拾いをした話
諭吉の命をねらった郷士たち
[なんでも鑑定団]にみる諭吉
[みやたさんによるおえかき]
[諭吉像、兜をかぶる] 1997年5月3日・上坂秀樹さんのHPより
諭吉はパリで水族館を見たか
倫敦にて未発見の写真見つかる

【諭吉とお酒】
諭吉とビール
福澤諭吉とビール・別考 三田評論 p60 増井 健一
諭吉ラベルのビール
中津と諭吉と酒と焼酎「諭吉の里」

華英通語にみる酒類

岩倉使節団のロシア訪問


切手に見る[慶応義塾建学100周年]

[諭吉の血液型?] 宇佐・高橋さんHPより
[諭吉のお葬式?!]情報誌『デス・ウオッチング』93.6より(みすず書房から復刻版あり)
[今日は何の日?] PHPのHPより 1977年 (昭和52年)五月二十二日

品川の常光寺にある墓から、福澤諭吉の遺体がミイラ化された状態で発見される
『医者のみた福澤諭吉』 土屋雅春 著(中公新書)
今から20年数年前に、諭吉先生のミイラが発掘されました。
これは、福澤家の墓を一つにまとめるために、諭吉の墓を掘り起こしたところ、
地下水につかったお棺の中から、屍蝋化した諭吉の遺体が出て きて、
亡くなったときのままの姿が死後76年ぶりに現れたわけなんです。
身長約173cm、体重が約67.5kgといいますから、当時の人としては、
大きい方だったんですね。

「健康」とhealth 諭吉が最初の訳者?

【調べ学習活動の成果】
[北海道・穂別町立稲里小学校の生徒さんたちのまとめた福沢諭吉]リンク切れ

[東京・三鷹三小の生徒さんの調べ学習による福沢諭吉]

[自身の調べ学習]
平成12年も押し迫った12月のある日諭吉と[交詢社]についての資料を物色していた
ところ諭吉協会の土曜セミナーに関する次のような文章に偶然でくわした。
この日はほかに[明治会館]についての諭吉とのかかわりもみつけることができた
有意義な日でもあった。その文章とは、さるひとの2000年の日記からの記載で、

「その後は福澤諭吉協会の土曜セミナーへ。いつもの銀座交詢社が工事中のため、
日本橋の三井本館へ。久しぶりに**先生にお会いしました。
今日の講師は一橋大学名誉教授の有賀貞氏。お題は、「アメリカ独立宣言と福澤諭吉」
福澤先生が「西洋事情」から「学問のすゝめ」を執筆した当時は先生はアメリカ人の
独立のための戦いと、アメリカの共和政治の原理に強い敬意を持っていた時期であり、
「学問のすゝめ」の初めに書かれている「天は人の上に人をつくらず人の下に人をつくらずといへり」は
ジェファソン、フランクリン、そして独立宣言を日本語訳した高木八尺に影響を受けた結果ではないだろうか?
という持論を展開されておりました。」とあったことである。

映像にみる諭吉先生

現在電子化未確認の文献集(かつてインターネットで追えていた)

「教育の底流 福沢諭吉 (1)慶応義塾ができるまで」池田 諭

<!option value=http://www.big.or.jp/~wed/kuru/SARU/saru32.html>
[福翁自伝]感想文]
「『西洋事情』試論 ―近代啓蒙言説の権力と民権―」(『社会文学』7日本社会文学会1993・7)p.112-120
福沢諭吉『西洋事情』の啓蒙言説は、自己を管理する内面を主体に構築して対外戦争可能な国民国家にとって有用な人材を形成することに目的があり、読者が民権運動の主体たりえる表現上の契機として二つの一人称があることを論じた。


Q. 「福沢 心訓七則」の内容を知りたい。
画像は中津で一般に売られている賞状型心訓(\300)
A. これは福澤諭吉が書いたものではありません。その根拠について詳しくは以下の文献をご参照ください。
  • 富田正文. 福沢心訓 七則は偽作である. 福沢諭吉全集 第20巻 付録. 慶応義塾編纂.東京, 岩波書店. p.10(1963)
  • 富田正文. 重ねて福沢心訓について. 三色旗, No.198, p.2(1964)
  • 富田正文. 福沢心訓七則は偽作である. 塾友, No.9, p.5(1972)
  • 富田正文. 福沢心訓について. 福沢手帖 3,p.32(1974)

このページは(財)福澤旧邸保存会の非公式HPです。
入館者の推移

パソコン1台とネット環境だけでパソコン教室が開けます。

〒大分県中津市留守居町586
電話番号:0979-25-0063
FAX番号:0979-25-0063
電子メール:mail adress: kenchan@ktarn.or.jp



 

 

TITLE:福沢諭吉先生関連リンク集
DATE:2006/03/25 16:01 改定中
URL:http://www2.ktarn.or.jp/~kenchan/yukichi.html