矢頭 良一(やずりょういち)1878(明治11)〜1908(明治41)


日本で最初に手動計算機を発明した矢頭良一は
明治十一年六月三十日 道一、タミの長男として
豊前・黒土村に生まれている。
赤穂浪士の最年少者の矢頭右衛門七(やとううえもんしち)
の末裔の家柄であったともいわれていますが、
(実際切腹して果てた彼に末裔があったか?)

同じく赤穂義士の一員であった磯貝十郎左衛門正久の御子孫も豊前宇野にいらっしゃる
ことから混同されている向きもあるのかも知れません。
赤穂浪士名簿

略年表

7歳のとき築上郡岩屋小学校に入学、在学中とくに
西村卯太郎先生の薫陶をうけています。

十三歳、県立豊津中学に入学
鳥類飛翔に興味を抱き種々実験を試みていたようです。

十六歳、同校を三年で退学、
鳥の研究をすすめるために大阪に出ています。
在阪中、数学・工学・語学の知識の必要性を痛感し、
英人の私塾にもかよって学習しています。

二十二歳、大阪より帰郷、徴兵検査を受ける。
このころより三年、鳥類飛翔に関する論文の作成に没頭、
傍ら自働算盤の模型の作成にあたっています。
このころから二十七歳のころまでは、
一日に三時間以上眠らなかったほど精神努力を重ねたようです。

二十四歳、「飛学原理」を脱稿、自働算盤の模型も完成し、
二月、携えて小倉の森鴎外宅を訪ね、その激励をうけ、
久良知寅次郎前代議士の後援を得て十月上京。
東大の寺尾亨博士の紹介により、やがて工科大学の研究室で
飛行機研究をすすめる便宜をえています。

二十五歳、三月、自働算盤の専売特許権を申請、同月早繰辞書の原理を
発明。この年恩人久良知寅次郎前代議士が逝去している。

二十六歳、一月、自働算盤の特許が下り、神田の矢頭商会より販売開始。

二十七歳、一月、東京 中央新聞に「少壮なる発明家矢頭良一氏」が
十二回連載された。十二月、漢字典の「早繰辞書」を販売。
このころ妹聟久富富蔵らも郷里より上京して仕事を支援している。

二十八歳、三月、飛行機研究に着手、十一月、肋膜炎にかかり療養一年に及ぶ。
この間、別府鉄輪温泉に療養中、ピストンエンジンでプロペラをまわす創案をすすめ、
帰郷後模型をつくり研究を進めた。
同年、父道一は長年にわたる岩屋村長をやめる。

二十九歳、父道一は家族ぐるみで東京に引っ越す。

三十歳、五月、自働算盤販売拡張のため福岡に行き、福岡日日新聞に
「空中飛行機研究家矢頭良一氏」が十五回、次いで、矢頭良一寄稿の
「空中飛行船研究の必要」四回が連載された。
この年、井上馨候、鮎川義介らの後援に力を得て、小石川の
飛行機製作工場で、ひたすら実験試作をかさねた。

三十一歳、肋膜炎再発し入院のところ二月退院、自宅病床で試作を
督励のところ、十月十六日ついに逝去する。法名「一乗院釈顕意徹到居士」
後援者の柏木勘八郎は東京および行橋で追悼仏事を営み、森鴎外ものち
遺族に「天馬行空」の書を送っている。

飛行機の遺品は、その後臨時軍用気球研究会(会長 長岡外史)に上納されたという。
                           (以上 小林 安司 「鴎外の小倉」より)

「民間航空の父」「日本スキーの祖」「世界一のひげのもちぬし」長岡外史について


彼の発明になる「自動そろばん」は明治三十七年には特許を受け
当時250円という高値で発売されにもかかわらず二百数十台が
販売されてその利益をもって彼は飛行機製作の元手としました。

この計算機の設計図と模型を持って、彼は当時小倉にあった
森鴎外をたずねています。
(鴎外の小倉日記に記載がある)


肖像写真(暫定版)

実物の写真(平成15年10月9日撮) 計算機の優秀性を証明する 陸軍省と日本鉄道が発行した証明書 矢頭は他に「早繰辞書」なるものを考案し、 これについても特許をとっています。 左は彼自筆の英単語辞書 矢頭の飛行機については、豊前市史に「福岡日々新聞」の記事が載せられていた。 その記事によれば、模型は「長2間、幅5尺」「全鋼鉄製」「付属品等も完備」したもので、 費用は9500円。 次いで、実物の完成予想は、 「長53フィート、幅14フィート」「面積306平方フィート」「重量13300ポンド」 「翼長20フィート」「羽ばたき1秒に200フィートの速度」「最大速力時速400マイル」 「最小速力時速3マイル(不動停止を許さず)」「通常速力時速200マイル」 「工事費3万円」などとなっている。 また、エンジンについては、「実験の結果、好都合なるときは未だ無比の発動機にして、 重量僅かに10貫目余、20馬力、1分時間に3万回転」と、良一没後に父が記している。 この模型作成と発動機製作のさなか、40年冬頃から、矢頭の病状が悪化、全てをやりのこしたまま、 41年10月、矢頭は死去しているのである。  矢頭の死去に際して、後援者であり、理解者であった森鴎外は「天馬行空」の4文字を贈って、  彼の死を悼んでいる。 また葬儀委員長までも務めていた。 森鴎外より送られた「天馬行空」掛け軸の実物 鴎外からの色紙 鴎外からの現金書留封筒(弟 飛虚雄宛)
 当時父道一はなく母タミと飛虚雄が豊前松江(福岡県豊前市)  で暮らしておりましたので、  故道一への香典ではなかったかと思われます。  

【参考資料】 全般
福岡日日新聞に掲載された記事の切り抜き(冒頭) ご遺族の手により全編丁寧に保存されています。
故小林安司氏()(元森鴎外記念館館長)著作集 「鴎外の小倉」 第三部 鴎外周辺の人物-小倉の地と人と-鴎外の周辺 四、地元の人々 -p141 天馬行空 -森鴎外と矢頭良一 p157(『ふるさとの歴史と文化財』) 矢頭良一のこと −ある発明家の生涯 p162 (小倉郷土会「記録」第十二冊 昭和四十一年 「高橋光威」昭和四十一年よりの転載) (「記録」12・「鴎外」10) 豊前出身の発明王 矢頭 良一 〜ライト兄弟よりも先に飛行機の発明を志した男〜 豊前商工会議所青年部「どげちこげちPURE TOWN」Vol.30 p9 天狗の末裔たち 毎日新聞社, 1969 メルマガより 週間新潮(平成15年2月26日号)2004 黒鉄ヒロシ
西日本新聞土曜夕刊特集・天空をかけた男・矢頭良一(平成15年4月10日から連載)
4月17日 5月15日
本人使用の机の上にならべた参考文献の一部 左上より、「小倉日記「森鴎外と北九州」「鴎外の小倉」左下より 「天狗の末裔」「計算機歴史物語」
計算機関連

『明治の自動算盤』
九州工業大学 石川 聖二
    画像電子学会誌 
        p408-9 vol33.No.3, 2004
        
計算機の発明 −天才・矢頭良一の生涯−技術文化研究会 共済だより レター vol21/2001 
(私学共済)

『計算機歴史物語』(内山昭著) 岩波書房 1983

内山先生について

飛行機関連

『雲の上から見た明治』ニッポン飛行機秘録(横田順彌著) 


【ビデオ資料】
矢頭良一の発明を紹介するビデオを3種類入手しています。ご希望の方には
ダビングして提供できます。
ご連絡ください。
・(昭和52年)
・コロンブスのゆで卵(平成9年4月9日放送)
・月刊よかもんTV(平成11年6月5日)


【参考URL】
豊前市HP・豊前人物史より 豊前人物史(豊前市観光情報センター) えんじゅより(廃刊) 機械式計算機の会・会報より 計算機の歴史・タイガー計算機のHPより 情報処理学会・コンピュータ−博物館 情報処理学会での認識(2月21日の記載) 化学・今日は何の日 スペクタクルの20世紀 おもしろ電気通信史 コンピュータ技術の基本的発展構造 手動計算機東京理科大ライブラリより 「教育メディア機器の技術史、教育史」 仏教大学の講義録から 手動計算機の写真 おなじく
誤報あり 計算機の歴史T 日本の計算機の歴史(英語版)

飛行機関連

このなかの「」に記載あり 鴎外と飛行機2003.02.09 明窓・山陽中央新聞より 明治の文豪と飛行機(T)    森 鴎外 編                  航空史家  村岡 正明                    (財)日本航空協会機関紙「航空と文化」No.81 2003 ところで良一の妹テルさんの長男であった久冨基作さん(1945.5.11)は知覧から沖縄戦に出撃し散った 陸軍軍神のおひとりである。(第76振武隊指揮官として)5.11の戦闘内容 彼は常々両親から叔父のことを聞かされて育っており 「大きくなったら飛行機乗りになる」というのが口癖だったようである。 出撃のとき、家族にあてた遺書にも 「叔父の成さざりし飛行機に乗り、吾は沖縄の機動部隊を衝かむ」とある。                  (空のかなたにからの引用) 特攻HP 特攻掲示板 予科練資料館 太刀洗平和記念館                   とぶこと ことはじめ 航空の時代(西川 渉氏) 鳥の飛翔原理(ダ・ビンチ) 二宮忠八のこと 鳥人のこと 航空科学博物館 コンピュータ関連事項 国産コンピュータの開発秘話 プロジェクトX 関連フリーソフト PIPS ダウンロードページ