雪の降る日に  

俳句会の日であった。歳時記やカメラの入ったリュックを背に外へ出ると、一面雪景色で、風が冷たかった。この頃の咳をこじらせまいと、毛糸の帽子、襟巻き、マスク、厚い手袋をして、寒さに十分に注意した。みだれた轍で固い路面の雪は、滑りやすかった。寒風にさらされた宝満川の橋の上では、何度も足を取られそうであった。街も川も山も、冷気漂う一面の雪は、何故とも身の引き締まる思いがした。今日はみんな来るのか知らん、昭和ぐみはともかくも、大正のかずさん、ともえさんはどうだろう。82才、83才、これ位の雪はなんのその、どっこいしょであって欲しいものだ。最近思うのだが、何か覚えたことを中途で止めるのはこわいことだ。記憶の大半が、たちまち忘却の彼方へと飛んでゆく。たとえばここHPで鳴らすメロデイを、ナツメロ気分とばかり、以前のものを繰り返していたら、その作りようを忘れてしまった。鼻歌のごとき小物のミュウジックにしても、苦労して覚えたからには身につけておきたい。俳句とて同じこと、要は持続することだろう。句会では、大正の方1人がお休みであった。先生をはじめ7人で、近くの史跡苑へ吟行に出かけた。ここも雪、雪、見渡す果てまでも雪、その日の私の出来具合は次のようであった。その中で「初雪は初恋に似て淡淡し」には参ったと、先生のお言葉であった。この前の「看護士のマスクなき顔見たかりき」では、男の色気にして、自らも経験がおありとのことであった。省みて、花鳥風月の境地には、依然として遠いものがある。
白菜を漬けたる石のまろやかさ 釣り人の糸吹く風や冬の川
湯豆腐の鍋に泳ぐを掬ひたり 朝まだき厠に入りし寒さかな
わが咳を訝り蒲団重ね敷く シルバーの人ら生き生きしめ作り
山の雪陽はそこにのみ耀ひぬ 初雪は初恋に似て淡淡し
靴に鳴る雪音楽し踏みにけり

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