遠い山々(文)


夏の暑い日に、登った山を思い出す。指を折るまでもないが、花立山、大平山、天拝山、古処山、宝満山の5山であった。花立、大平、天拝はくみし易かったが、古処と宝満は苦しい息づかいばかりが思い浮かぶ。山登りの醍醐味を知るには、およそ程遠いと云わねばならない。山の喜びを知るには、更に多くの山の苦しみを知らねばならないのだろ。山を語る人の表情は、およそ歓喜に輝いている。私にもいつかそのような日が来るのだろうか。有り体に言って半信半疑である。いまは花立の石段を上り下りする位である。
その昔、山の彼方に幸せがあるという言葉を信じていた。山の向こうにどんな人たちが居て、どんな生活があるのだろう。少年の胸が、淋しくて孤独であればあるだけ、やさしく微笑んでくれる人がいるように思われるのであった。そして山は、少年の生活に甘い願望を描かせてくれるものであった。空腹を満たしてくれる美味しいご飯も、父の笑顔も、妹も、いっさいの幸せがそこにあるように思えるのであった。
後年、スペンサーの映画「山」は、峻烈を極めた作品であった。そしてかの山頭火は、山を多く詠まなかっただろうか。だが私は、山の持つさまざまな顔の、どれ1つとして知らない。






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