移り行く日々

J.Kou

駅の酒場


ああ、頂上!


駅のプラットフォームへの階段の横に、小さな酒場がある。夕方ふらりと出かけると、長いすに7,8人ばかりでもう満員である。私もそこに座って、ビールと湯どうふをもらう。その味出しをたずねたら、そんなものはなかった。お湯に豆腐とキャベツを入れて出来上がりである。それをポン酢で食べる。鉢に取ってくれることもあるが、鍋ごと出されることもある。その時のママの気分しだいであるが、私はどちらでも構わない。かつお節でも入れれば、もっといい味だろうに、ほめ言葉に窮し、ママは何でもスピード感があるからね位のところを云う。客にも風変わりな人が居て面白い。まだ若い男性が、ビールを泣き泣き飲んでいたので何ごとかと思ったら、いつもの癖よと、ママは平然としていた。ある日の昼には、老人が1人で店番をしていた。ママさんから日当ぐらいもらっていいですね、と云ったら、私の娘だからそうもいかないということだった。お父さんですか、そうですか、で、ご一緒にお住まいでとか、そんな会話を交したものだ。ママに話したら、あの人は全くの他人、それを誰にもそう云うのだそうで、私はびっくりした。後日、彼が客席に素知らぬ気に座っているのを見て、やあ、お父さんと、一杯食わされた皮肉の声をかけたい気がした。隣席の職人が、ママに飲み代の借金を申し入れていた。彼女はぶつぶつ云いながらも、おでんを山盛りに出してくれたのだから、馴染みの客として好意もあるのだろう。ある夜のざわめきの中で、男2人のやりとりの声が大きかった。病院な、どげなふうの、精神病院な。もうだいぶんなごなった、ばってん、居りやすかばい、こん頃はよう飲むしの。会話に暗さや悲観のようすはなかった。浮世離れの所在かの如く、そう、居心地はいいかも知れない。実際ここは、泣き上戸、お父さんなりすまし客、借金、病院客、中に紳士然の客と、じつに雑多な男達の寄り所に思える。彼らは己がじしの生を引きずって、辛うじて社会の枠の中に、踏みとどまっている人達と云ったらいいだろうか。私のように、日々無為痛飲の者にも、好適の所かと思えるのであった。
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