身辺日録

J.Kou

俳句だった頃



去年の今ごろはこんな俳句を詠んでいたのか。カレンダーでは、あと数日で春なのである。
   校庭の雪解け花壇現るる
   春寒し訃報の電話鳴りにけり
   戯れて流るる如し春の雲
   雑草に混じり水仙ひそと咲く
   釣りをする川面に光る春の風
俳句から遠ざかって5ヶ月ばかりか。もはや風景に触れても、句作に指を折ることも、頭を捻ることもなくなったが、季節の移ろいを身近に感じるようになった。名前を知らずとも、道端の草花に目を留めるようにもなった。俳句をやって、それで良しとすべきであろう。
俳句会を楽しみながら、何故私は、そこを去ったのであるか。男性の先生の下に、高齢のご婦人5,6人は、何かを学ぶの手ごろな大きさのグループであった。そのような人たちが、俳句という文学に志を抱き、精進する姿を見るのは心地よかった。彼女たちから、私も元気を貰えるようであった。その中でYさんは、技量において1,2歩、他に抜きんでていた。そして歯に衣着せぬ物言いをする人でもあった。そんなYさんを、ある人たちは裏で陰口を叩きながらも、Yさんの前ではその言葉に従い、笑顔でその意見に同調するのであった。Yさんが、昼食のちょっとした添え物や、漬物でも持ってくると、美味しい、とっても、作り方教えてちょうだい、と、中にはメモの用意までする人もいるのであった。Yさんへの陰口と笑顔と、私は彼女たちの、そんなところが好きでなかった。主婦業としての腕は、得手不得手の分野があろうと、おおむね同等の筈であった。Yさんばかりの調理が重宝がられ、何故メモ帖まで持ち出して教えて欲しいのか、私には彼女たちの、Yさんへの追従としか思えなかった。彼女の尊大さが、私にもいささか煙たくはあった。ある時私が、先生の横の席から、何気なくようこさんの方へ移動した時、どうしてそんなに逃げるの、取って食われるわけでなし、と、Yさんが大きな声を出したものだ。とって、くわれる、わけでなし? なあにいってるの。私がYさんの勧めで、俳句会へ入会して、2年にもなるだろうか。この辺が私の引き際かと思った。先生からその後、弟さんが亡くなられたというハガキを頂いた。
彼女たちは、今も俳句の勉強に忙しい事だろう。Yさんへの陰口中傷などおくびにも出さず、明るく仲良く句作に励んでいることだろう。感情の表と裏と、こんなことは、どんな集団にもありがちなことだ。それにしてもYさんは、厚かましくも、存在感のある大した女性だと思うのであった。
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