図書館にて

1日のうちで、図書館へ出かける時間を設けたらよかろうと思う。日々雑多の間に、あの静かな雰囲気、知的空間に遊ぶが如しである。
ある夏の暑い日に、私はそのような気分と、半ばエアコンの涼しさを求めて出かけたのであった。図書館の奥座敷というか、分厚く広い机に4つのソファーがあり、それらが2つ並べられてあった。幸いにも机に空席が1つあって、私はそこへ腰をおろした。3つの席はそれぞれ私と、年恰好の似た老人達であった。分厚い何かの資料に目を落とす人、新聞を広げる人、もう1人は何やらしきりにノートを取っていた。それぞれが活字の、知の世界で遊んでいるように思えた。私も書棚から、太宰治、東海林さだお、中島らも、の本を取り出してきた。エアコンの涼しさの中で気分の赴くままに、あちこちとページをめくった。太宰の「家庭の幸福」というのであったか、最終行の、「家庭の幸福は諸悪の本。」と締めくくった1行が痛烈であった。中島らもは、作家にしてミュージシャンであるか、彼の壮絶なアルコール依存に驚いた。漫画家、東海林の軽い文章に気分が安らいだ。2,3時間が過ぎ、さて帰ろうとしたら、机の3老人は、なおも活字の世界に余念がない。ふと向こう側の机に目をやると、眠っている娘がいるのに気づいた。ソファーに身を沈め、野球帽に日焼けした顔と、片方の胸が机ごしにのぞいていた。机上には数冊の本がきちんと重ねてあった。私はしばし彼女を眺めた。いかにも心地よげに安眠をむさぼっている。老人たちと娘と、その取り合わせが奇妙なようであった。そして彼女のみが、今はただ夢の世界に遊んでいる。私たち老人よりは、彼女が1番の幸せのように思えた。私はなんだか笑い出したくなった。天の神さまも、彼女をにっこりと見守っているように思えるのであった。


戻る