移り行く日々

J.Kou


酒場で


大平山


港町K市の酒場へ入った。海が見えるところであったか、もう随分前のことだ。広い酒場のカウンターに4人の先客がいた。中のでっぷり太った黒服の男が、その道の親分であることが一目で知られた。彼の左手に女、右手に若い子分と中年の子分が順に並んでいた。私は3つ4つ椅子を離れて座った。そしてなるべく無関心を装いながらも、時折りちらりと目線を向けるのであった若い子分が注ぐ酒を、親分は黙々と飲んだ。彼の身辺には、自ずから殺気のようなものが漂っていた。多くの修羅場をくぐった果ての、体臭であるかのように思える。あとで入ってきた客が、みんな私の右側に座るものだから、彼らのところは、依然として空席のままであった。そのうち親分の女が、突然に中年の子分を口汚く罵り始めた。どんな事情だか、私たち客の面前で、彼女は執拗に彼を罵倒した。沈黙していた彼は、ついに一言、「おなごんくせに」と吐き出すように云った。それを聞きとがめた若い子分が、親分に忠誠を見せるにはこの時とばかり、居丈高な怒声をあげた。貴様、なんちゅう、云いかたば、すっとかい、姐さんのいわっしゃるこつば、よう聞かんかい、ちったあ姐さんに可愛がるるごつ、ならんかい。そんな高い調子の威嚇であった。女は親分のそれとして、若い子分は親分の側近らしげに、2人して彼を罵倒したのであった。しかし中年の子分、おそらく30代の男は、何らの抵抗も見せず、返す言葉もなく全くの非力であった。彼はつまりは、この道、渡世人には到底向いていないのであった。女は虎の威を存分に発揮した。それにしても平然と人を罵倒するところに、彼女の精神の荒廃が、見て取れるようであった。彼女がこの先、親分とくっつくにしろ、離れるにしろ、もはや幸せな女になれるとは思えなかった。港町K市の行きずりの酒場での光景も、久しく私の記憶の底に没していた。しかし何の弾みにか、あの時の場面が甦った時、満身に屈辱を受けたあの中年の子分に、自ずから思いを致すのであった。彼はその身の浅薄を改め、正当な仕事に転じたであろうか。一家の父、パパとしての地位に収まったであろうか。そしてかの親分は、猿山のボス猿でさえ、老いて力萎えればその座を追わるる如く、どこぞ姿を隠したのかも知れない。若い子分は、猪突に走り、今は収監の窓辺に涙を流すのかも知れない。烏合離散が人の常ならば、彼らもまた、地上のどこかに孤独に生きていることだろう。
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