自転車

通りすがりの、空家らしい庭先に、茫々たる雑草が錆び付いた自転車を覆っていた。傍らには単車も放置され、同じように草に覆われていた。軒先の雨戸はかたく閉じられ、もはや廃屋と云っていい。私はこの荒れ果てた光景に、何の言葉もなかった。かってはここにも一家族の生活があって、この自転車のペダルを踏む人もいたであろう。庭には季節の花が咲き、夜には雨戸を漏れる電灯に、団欒の笑い声も聞こえたであろう。しかし今は、その跡形もなく、容赦なく生い茂った雑草が、それらを悉く埋め尽くしたかにさえ思える。永い年月は、家族の生活やその生存すら時に過酷にどのようにも変貌させるかのようである。自転車といえば、私には子供の時分の思い出がある。その頃住んだ家の前の学校の運動場に、夕方ともなれば、近辺遠方の子供たちが、自転車乗りを楽しみに集まってきた。貧しい時代のこととて、子供用の自転車を持つ者はいなかったが、大人用のそれの車軸の間に足を入れ、巧みにペダルを漕いだ。青年たちは、互いにスピードを競い合ったりした。彼たちの中で、しかし私だけが自転車を持たなかった。時に懇願し、少しだけ貸してもらい、あとはまた彼たちが興じるのを、佇んで眺めるのであった。私は子供心にも、深い疎外感を抱かずにおれなかった。その頃離れて暮らした母に、自転車を欲しい旨の長い手紙をいくどか書いたが、顧みられたことは遂になかった。古い物ならどうにかできた筈だと、その事が後々までも心に残った。廃屋に等しい庭先の、茫々たる雑草に覆われた自転車を見ながら、私は遠く少年の日に思いを馳せるのであった。するとそれらの光景が、軽い痛みでもあるかのように甦るのであった。いま私が、車の置き場としている山道にも、いつからか1台の自転がもんどりうって倒れている。しかしそれに注意を払う者は誰もいない。                                 
       

戻る