魏、柔然を討つ(その三)
 
柔然大乱 

 話はさかのぼるが、佗汗可汗は、候呂陵氏を娶って伏跋可汗や阿那壊等六人の子息を儲けた。
 ある時、伏跋可汗の子息の祖恵が行方不明になった。伏跋可汗はあちこちへ手配したが見つからない。すると、巫女の地萬が言った。
「祖恵は今、天上にいます。呼び戻せるのは妾だけです。」
 そこで、彼女の言葉に従って、大きな沢の中に帳幄を張って天を祀ったところ、祖恵が幄の中に忽然と現れた。彼は言った。
「私は今まで天上にいました。」
 伏跋可汗は大いに喜び、地萬のことを「聖女」と号し、彼女を可賀敦(可汗の正室)とした。地萬は妖術が巧く見目麗しかったので、可汗は彼女を敬愛し、その言葉は何でも信じ込んだ。こうして、彼女は柔然の国政に介入し、掻き乱すようになった。
 普通元年(520年)、既に成長した祖恵は、母親へ言った。
「実は私は、ずっと地萬の家にいたのです。上天に居たとゆうのは、彼女から教えられてそのまま口にしただけです。」
 母親はそれを伏跋可汗へ伝えたが、可汗は言った。
「地萬の予言は全て的中している。彼女の神通力は本物だ。詰まらない讒言をするでない!」
 これを知った地萬は恐れ、祖恵のことを可汗へ讒言して、殺させた。すると、候呂陵氏は大臣の具列を派遣して、地萬を絞殺した。伏跋可汗は怒り、具列を殺そうと思った。
 丁度その頃、阿至羅(虜の別種。北河に居住し、代々魏へ服属していた。)が侵略してきたので、伏跋可汗は迎撃したが、敗北して帰ってきた。すると、候呂陵氏は大臣と共に伏跋可汗を殺し、阿那壊を立てた。
 阿那壊が可汗となって十日目、彼の一族の示發が数万の兵を率いて襲撃してきた。阿那壊は敗北し、弟の乙居伐と共に魏へ逃げた。示發は、候呂陵氏と阿那壊の二人の弟を殺した。 

  

阿那壊と婆羅門 

 阿那壊が魏へ到着すると、孝明帝は司空の京兆王継と侍中の崔光に出迎えさせ、非常に厚遇した。顕陽殿にて謁見すると、そのまま宴会を開き、阿那壊を親王の次の座に座らせた。宴会が済んだ後、阿那壊がお礼を述べて引き下がると、そのまま御前へ来るよう詔が降りた。阿那壊は再拝して言った。
「臣は家難によってここまで逃げて参りました。臣の国民は、既に逃散しております。しかし、陛下の御厚恩で援軍を頂きましたなら、必ずや逆徒を殲滅し、亡散した民をかき集めましょう。そして臣は彼等を率い、陛下の臣下としてご奉仕いたしましょう。」
 そこで、孝明帝は中書舎人の常景へこれを伝えた。常景は常爽の孫である。
 十一月、魏は、阿那壊を朔方公、蠕蠕王とした。威服や車を賜下したが、それらは親王と同様だった。
 この頃、魏は隆盛を極めていた。洛陽には四つの館があり、それぞれに江南、北夷、東夷、西夷からの降伏者を住ませていた。阿那壊は、とりあえず北夷の降伏者が住む燕然館へ住むこととなった。
 阿那壊は、屡々帰国を要請したが、朝議はなかなかまとまらなかった。そこで、彼は元?へ金百斤の賄賂を贈った。すると、たちまち阿那壊の帰国が決まった。
 十二月、懐朔都督へ精鋭二千騎を与えて、阿那壊を国境まで護送させ、柔然の出方を窺わせた。
 二年、正月。魏は近郡の兵一万五千を繰り出し、懐朔鎮将楊鈞に率いさせた。
 尚書左丞の張普恵が上疏した。
「蠕蠕は、長い間辺境の患いでした。今、天が奴等へ禍を降し、その心を荼毒しました。彼等へ道義の喜びを教えてやれば、これからは稽首して本朝へ奉仕するでしょう。どうか陛下、彼等の民を安んじて、心から悦服させてください。
 阿那壊は切羽詰まって飛び込んできた者。これを慰撫するのは良いことです。ですが、我等が率先して苦労するのは、どうゆう事でしょうか?畿内の兵を興し、荒れ果てた土地へ投入して、累世の強敵を救い、天が滅ぼした醜虜へ肩入れする。愚臣には、そこまでする理由が判りません。『兵は凶器、王者はやむを得ずにこれを行う。』と申しますが、功名心に逸った辺将が、この言葉を顧みずに、出征を突き上げたのでしょう。
 ましてや、今年は烈しい旱です。天子は食膳を減らして遺憾の意を表明するべきなのに、却って一万五千の兵を動員して楊鈞に指揮させる。時を誤って、功績が建てられましょうか!大敗を喫した時に、楊鈞の肉を食ったところで、兵卒の腹は満ちません。
 宰輔は小名ばかり追いかける人間で、安危の大計を知りません。ですから、微臣は寒気を覚えるのです。それに、阿那壊を国へ帰してやらなくても、信義に背くわけではありません。
 臣は賤しい身分で、朝議に列席することができませんでした。ですが、せめて文書ででも、このような過ちを指摘しないではいられません。」
 阿那壊は、軍器や衣服・兵糧などを与えられ、外郭へ送り届けられた。
 片や、柔然。阿那壊が南へ奔げると、従兄弟の婆羅門が数万の兵を率いて示發を襲撃し、撃破した。示發は地豆干へ逃げたが、地豆干はこれを殺した。
 柔然の人々は、婆羅門を推戴した。これが彌偶可社句可汗である。
 楊鈞は上表した。
「柔然は、既に年長の君を立てました。兄を殺した人間が、弟を迎え入れるとは思えません。
 軽々しく出陣して戦功を建てずに帰るならば、徒に国威を損なうこととなりましょう。更なる増員がなければ、とても出陣はできません。」
 二月、魏は婆羅門を説得して阿那壊を受け入れさせようと、柔然へ使者を派遣した。
 四月、魏の使者牒云具仁が柔然へ到着した。婆羅門は傲慢な人間で、謙遜の欠片もなく、牒云具仁へ臣下の礼を要求した。牒云具仁は屈しない。婆羅門は、大臣の丘升頭へ二千の兵を与え、牒云具仁と共に阿那壊を迎えに行かせた。懐朔鎮へ帰った牒云具仁が状況を具に伝えると、阿那壊は帰国を恐れてしまった。遂に、洛陽へ戻ることを上請した。 

  

二可汗擁立 

 話はさかのぼるが、高車王彌俄突が柔然の伏跋可汗に殺された時(516年)、高車の民は悉くエンダツへ帰順した。数年後、エンダツは彌俄突の弟の伊匐へ高車の遺民を与え、故国へ帰らせた。
 七月、伊匐が婆羅門可汗を攻撃し、大勝利を収めた。婆羅門可汗は十部落を率いて涼州へ落ち延び、魏へ降伏した。他の柔然の民数万人は、阿那壊の帰国を求めた。そこで、阿那壊は上表した。
「我が故国が大乱に陥りました。皆は散り散りになって略奪に怯え、臣の帰りを待ちわびております。どうか臣へ一万の兵を与えて北へ行かせて下さい。北方の民を撫定してみせましょう。」
 これを中書門下へ評議させた。すると、涼州刺史の袁翻が言った。
「我が国が洛陽へ遷都して以来、蠕蠕と高車は呑噬しあっております。蠕蠕の佗汗可汗が首を斬られたかと思うと、高車の彌俄突が捕らえられました。そして今、高車は衰微の中から奮起して、かつての恥を雪ぎました。このようなことを続けて居れば、やがて両国共倒れとなってしまうでしょう。実際、二虜が交々闘うようになってから、我が国の辺境では平和が続いております。これは中国の利です。
 今、蠕蠕の二人の主人が相継いで帰順して参りました。戎狄は禽獣と同じで報恩の節義など持ちませんが、滅亡した者を立て直しやるのは、帝王の務めです。もしも彼等を棄てて放置したら、我が大徳が穢れます。しかし、我が国内で養うのでは、食糧が馬鹿になりません。彼等を内地へ移住させて仕事を与えても、それは彼等の望みではありますまいし、やがて劉淵や石勒のような後患となりかねません。それに、蠕蠕が存続したら、高車にとっては後顧の憂いであり、我が国を窺うどころではなくなりましょう。逆に蠕蠕が全滅すれば、高車は跋扈して手が付けられなくなりますぞ!
 今、蠕蠕は乱れているとはいえ、部落はまだまだ多く、あちらこちらにテントを張って旧主の到着を待ちわびております。高車が強盛とはいえ、全てを屈服させることはできません。
 愚臣の意見ではありますが、蠕蠕の二主を共に立ててやっては如何でしょうか?婆羅門は西に、阿那壊は東に、民を二分してそれぞれ建国させるのです。阿那壊の住む場所は、地形を知りませんので敢えて申しませんが、婆羅門は西海の故城へ住まわせましょう。西海は酒泉の北にあり、高車の住む金山から千余里離れております。ここは、北虜の往来の要衝。土地は肥沃で農耕にも適しております。一良将を選んでここに屯田させ、婆羅門を監護すると共に兵糧輸送の労も省きます。その北側は大磧に臨み、野獣も集まっているので、蠕蠕が狩猟をするのにもうってつけ。かれこれ相助け合えば、益々強固になりましょう。外は微弱な蠕蠕を助け、内は高車の勃興を妨げる。これこそ辺境を安寧にする長計でございます。
 もしも婆羅門が離散した民をかき集めて蠕蠕を復興し、北の方まで勢力を伸ばせば、我が国にとって外藩になります。高車が剽悍でも西北の憂いはなくなるのです。彼等が奸悪にも反復したとしても、たかが逃げ延びた残党。何ほどのことができましょうか。」
 朝議はこれを裁可した。
 九月、柔然可汗の俟匿伐が阿那壊を迎えに、懐朔鎮までやって来た。俟匿伐は、阿那壊の兄である。
 十月、録尚書事の高陽王ヨウ等が上奏した。
「懐朔鎮の北に、吐若渓泉とゆう、平坦で肥沃な原野があります。どうか、阿那壊を吐若渓泉に、婆羅門を西海へ住まわせ、そこを拠点にして離散した民を集めさせて下さい。阿那壊の居住地の方が国境から離れておりますので、こちらの方を優遇しますように。婆羅門が降伏する前に帰順した蠕蠕は、懐朔鎮へ回して、阿那壊のもとへ入れてやりましょう。」
 詔が降りて、これに従った。 

 三年、二月。高車王伊匐が使者を派遣して、魏へ入貢した。四月、魏は伊匐を鎮西将軍、西海郡公、高車王とする。 
 しばらくして、伊匐は柔然と戦って敗れた。すると、弟の越居が伊匐を殺して自立した。 

  

恩を仇で 

 十二月、阿那壊可汗が、種付け用の粟を求めたので、魏は一万石の粟を与えた。
 婆羅門は部落を率いて魏に背き、エンダツのもとへ逃げ込んだ。魏は、平西府長史の費穆に兵を与えて討伐させた。すると、柔然は姿をくらました。
 費穆は諸将へ言った。
「戎狄は、敵を見れば逃げ、手薄になれば再び出てくる。もしも、ここで奴等の肝を潰さなければ、疲れ果てるまで奔命させられるぞ。」
 そして、精鋭の騎兵を山谷へ伏兵とし、その近くに、老人兵や負傷兵で陣営を築かせた。すると、柔然達は果たして攻撃してきたので、奮戦して大勝利を収めた。
 婆羅門は、涼州軍に捕らえられて、洛陽へ送られた。 

 四年、柔然が大飢饉になった。阿那壊可汗は民を率いて魏の国境内へ入り込み、食糧を求めた。魏は、尚書左丞の元孚に彼等を諭すよう命じた。すると、孚は上表した。
「蠕蠕は長い間強大で、彼等が代京に住んでいた頃は、我等は常に厳重な警戒をしていたものです。それが、天は魏へ御加護あり、柔然は内乱で疲れた挙げ句、自ら稽首して服従を申し入れてきました。我々は散逸した彼の民をかき集め、礼を以て国を復興してやったのです。この好機に当たって、我々は将来を見通した策を立てるべきでございます。
 昔、漢の宣帝の頃、呼韓単于が切羽詰まって助けを求めて参りました。そこで漢は菫忠と韓昌へ兵を与えて朔方へ送り出し、そこへ留めて拠点としました。後漢の光武帝の時も、中郎将段彬へ兵を与えて単于に随行させて彼等の動静を観察させたのです。
 今、これらの故事によって考えますに、奴等の領土内へ前衛基地を造るべきでございます。適当な場所に屯田させ、官吏を揃え、奴らを監視させる。そうすれば、連中は下手な動きはできません。これこそ最上の策でございます。」
 だが、この意見は却下された。
 同じ頃、柔然の俟匿伐可汗も魏へ入朝した。 

 四月、元孚は柔玄鎮と懐荒鎮の間で、阿那壊可汗をねぎらった。
 阿那壊可汗の部下は、号して三十万。彼は密かに異心を持ち、元孚を軟禁した。そして、兵を率いて南下し、通過する土地土地で略奪して回った。平城まで来たところで、ようやく孚を解放した。
 魏は、尚書令の李祟と左僕射の元簒へ十万の兵を与えて、柔然攻撃を命じた。これを聞いた阿那壊可汗は、良民二千人と、公私の馬牛羊数十万頭を駆り立てて北へ逃げる。李祟等はこれを追撃したが追いつけず、引き返した。この時、李祟は、鎮での見聞をもとに、その改革について上表した。(詳細は、「六鎮の乱」に記載。) 

  

于謹 

 元簒は、鎧曹参軍の于謹へ二千の騎兵を与えて、柔然を追撃させた。于謹は前後十七回戦い、屡々勝利を収めた。
 于謹は、于忠の一族である。彼は深沈な人間で、識量があり、歴史をよく学んでいた。若い頃は田園に住んで出仕しなかった。ある者が出仕を勧めると、于謹は言った。
「州郡で名を知られたくらいでは、まだまだ未熟です。宰相の位になるには、もう少し学ばなければ。」
 元簒は、彼の噂を聞きつけて招いたのだ。
 ある時、彼は軽騎を率いて高車の偵察に出かけたところ、数千の部隊に遭遇した。これではとても敵わないし、逃げきることもできないと判断し、部下を散会させて草むらに隠れさせた。そして、一人の男を山へ登らせて、旗を振らせた。これを見た高車は、伏兵がいるかと疑ったが、自分達も大軍だったので、それを恃んで于謹軍へ迫った。
 ところで、于謹がいつも乗っている駿馬は紫色の飾りが目立っており、高車の連中もそれを知っていた。そこで于謹は、同じ扮装の馬二頭へ部下を乗せて、敵陣へ突っ込ませた。高車の人間は、于謹と信じ込み、先を争って逐う。そこへ于謹が全軍を挙げて突っ込んだので、高車は壊走し、于謹は脱出することができた。 

  

六鎮の乱時代 

 五年、三月。沃野鎮で破六韓抜陵が造反し、魏の北辺は叛徒達が暴れまくった。(詳細は、「六鎮の乱」に記載)
 六年、三月。柔然王阿那壊は、魏の為に破六韓抜陵を討伐した。孝明帝は、牒云具仁を使者として、彼へ賜下品を賜り、その労をねぎらった。
 阿那壊の擁する兵力は十万。武川から沃野へ向かい、屡々破六韓抜陵軍を破った。
 四月、孝明帝は再び使者を派遣して、阿那壊へ賜った。阿那壊の部落は次第に強くなり、敕連頭兵豆伐可汗と自称した。 

 大通元年(527年)、柔然の敕連頭兵豆伐可汗が魏へ使者を派遣して入貢し、群賊の討伐を申し出た。だが、魏の朝臣達は、彼が反復常無いことを知っていたので、「今は暑い盛りなので、いずれ敕を出す。」と言って、体よく断った。
 二年、四月。可汗は再び魏へ入貢した。魏は頭兵可汗へ対して「賛拝不名」や「上書不称臣」などの特権を与えた。 

  

魏の分裂を奇貨として 

 大同元年(535年)、十二月。頭兵可汗は東魏へ対して通婚を求めた。丞相の高歓は、常山王の妹の蘭陵公主を彼へ娶せた。
 柔然が、魏の領内へ屡々侵入していたので、魏は使者を派遣して和親を結んだ。以来、柔然は来寇しなくなった。 

 三年、九月。柔然が東魏の三堆へ侵入した。高歓がこれを撃退した。 

  

 頭兵可汗は、帰国した当初こそ礼を尽くして魏へ仕えていたが、北方へ雄據するようになってからは次第に礼が薄れ傲慢になっていった。使者の行き来は途絶えなかったが、「臣」とは称さなくなった。
 しかしながら、彼は洛陽で暮らした経験があるので、心中では中国を慕っていた。侍中や黄門といった官職を設置したのは、その現れである。後、魏の汝陽王典籖の淳于単を手に入れると、彼を寵用して秘書監に抜擢し、全ての文書に預からせた。
 魏が南北に分裂すると、頭兵可汗はますます不遜となり、屡々辺境を荒らし回った。だが、西魏はまだ建国したばかりだったし、東魏と戦わねばならなかったので、西魏の丞相宇文泰は、通婚による懐柔を謀った。
 宇文泰は、舎人元翌の娘を化政公主として、頭兵可汗の弟へ娶らせた。又、乙弗皇后を廃して頭兵可汗の娘を皇后とするよう、西魏帝へ請願した。
 四年、二月。乙弗皇后が出家して尼となった。そして、扶風王孚が使者として柔然へ赴いた。頭兵可汗の娘を皇后として迎え入れる為である。この時、頭兵可汗は、使者の元整を抑留した。
 三月、頭兵可汗は娘を魏へよこした。その一行は、車七百乗、馬一万匹、駱駝二千頭とゆう立派なもの。塩池にて、魏が派遣した歯薄儀衛が出迎えた。すると、柔然は営幕したが、その席は東向きだった。そこで扶風王孚が言った。
「皇后となられるお方です。南向きに営幕なさい。」
 対して、可汗の娘は言った。
「妾はまだ魏帝へ拝謁しておりません。今はまだ柔然の娘に過ぎないのです。魏杖こそ南を向かれてください。妾達は東を向きましょう。」
 丙子、頭兵可汗の娘を皇后に立てた。これが悼后である。姓は郁久閭氏。大赦が降る。
 尼となった文后(乙弗)は別宮へ追い出されたが、悼后はそれでも彼女を忌んでいた。そこで、文后の子息の武都王戊を泰州刺史として下向させ、文后もこれに随行させた。 

 西魏帝は、国家の為にやむを得ず廃后したのだが、彼女とのよしみを忘れられない。そこで、密かに彼女の髪を延ばさせ還俗させようとしていた。
 六年、柔然は黄河を渡って霊夏へ侵略した。すると、この出兵は悼后が疎んじられている腹いせだとゆう流言が乱れ飛んだ。
 西魏帝は言った。
「たかが一女子の為に百万の軍を起こす筈がない!しかしながら、皆からそのように思われているのでは、将帥へ会わせる顔がないぞ!」
 そこで、中常侍の曹ホウを派遣して、文后に自殺を命じた。文后は、涙を零して曹ホウへ言った。
「至尊の千万歳と国家の安寧を願うばかり。その為になら、死んでも恨みはありません。」
 遂に自殺した。
 夏、宇文泰が諸軍を率いて沙苑に陣を布き、柔然へ備えた。右僕射の周恵達が士馬を徴発して京城を守る。
 ヨウ州刺史王羆も召集されたが、彼はこれを拒否して、使者へ言った。
「もしも蠕蠕が渭来たまでやってきたら、我は郷里の民を率いて撃退してやる。国家の兵馬を患わせるほどのことではない。この程度のことで城中の天子を驚かし奉るとは!朝廷の腑抜け共、ここまで至ったか!」
 果たして柔然は、夏州まで進軍して引き返した。
 その後、幾ばくもせずして、悼后は病没した。 

  

 十一年、六月。頭兵可汗は東魏討伐を計画した。東魏丞相の高歓はこれを患い、行台郎中の杜弼を使者として派遣した。
「可汗の娘と、世子の高澄を娶せたい。」
 すると、頭兵可汗は言った。
「ご子息よりも、丞相ご自身が娶られては如何か?」
 高歓は愚図ついて決断できなかった。すると、ロウ妃が言った。
「国家の大計です。躊躇なさいますな。」
 高澄も尉景も、これを勧めた。そこで高歓はこれを許諾して迎え入れた。彼女は蠕蠕公主と呼ばれた。
 八月、高歓は自ら下館にて蠕蠕公主を迎えた。公主が来ると、ロウ妃は自ら正室を辞退したので、高歓は跪いて拝謝した。すると、ロウ妃は言った。
「公主が気づきます。これからは、妾を側室の一人と見てください。」
 この時、頭兵可汗の弟の禿突佳が蠕蠕公主を送って来ていた。彼は、公主へ言った。
「外孫を儲けるまで、帰国しようと考えなさいますな。」
 蠕蠕公主は気丈な性格で、死ぬまで中国語を話さなかった。
 ある時、高歓が病気になって蠕蠕公主のもとへ行かなかったことがあった。すると禿突佳が怒ったので、高歓は輿を使って、無理して公主のもとへ出かけた。 

  

突厥の台頭 

 承聖元年(552年)。突厥の土門が柔然を襲撃して大勝利を得た。頭兵可汗は自殺し、太子の菴羅辰と従兄弟の登注俟利、その息子の庫提が部下を率いて北斉へ逃げ込んだ。残りの人々は、登注の次男の鉄伐を立てて主とした。
 土門は、自ら伊利可汗と号し、妻は賀敦と称した。
 二年、二月。北斉帝は、鉄討可汗の父親の登注と兄の庫提を柔然へ送り返した。やがて、鉄伐が契丹に殺されたので、柔然の人々は登注を可汗に立てた。登注は、麾下の大人の阿富提に殺されたので、人々は庫提を立てた。
 同月、突厥の伊利可汗が卒し、子息の科羅が立った。これが乙息記可汗である。三月、乙息記可汗は、西魏へ馬五万頭を献上した。
 柔然の別部は阿那壊の叔父の登(「登/里」)叔子を可汗に立てた。乙息記は、沃野にて登叔子を撃破した。
 乙息記が卒すると、突厥は彼の子息を見捨てて、弟の俟斤を立てた。これが木杆可汗である。木杆可汗は魁偉な容貌をしており、剛勇で知略が多く戦上手だったので、隣国はこれを畏れた。
 十一月、突厥が再び柔然を攻撃した。柔然は、国を挙げて北斉へ逃げ込んだ。
 北斉帝は、晋陽から北進して突厥を攻撃し、柔然を迎え入れた。そして、柔然の庫提可汗を廃し、頭兵可汗の子息の菴羅辰を可汗に立て、彼等を馬邑川へ住ませて綿帛を賜下した。
 又、北斉帝の突厥親征は続く。朔州にて突厥が降伏を求めてきたので、彼等が故国へ帰ることを許した。以来、北斉への貢献が相継いだ。
 三年、三月。柔然の菴羅辰可汗が北斉へ造反した。北斉帝は親征して大勝利を得る。菴羅辰親子は北へ逃げた。
 四月、柔然が北斉の肆州へ入寇した。北斉帝が親征し、柔然は敗走した。
 北斉帝は、二千余騎で殿軍となり、黄瓜堆に宿営した。すると、柔然の別部が数万騎で襲撃してきた。しかし、北斉帝は泰然自若として軍を指揮し、敵を蹴散らして包囲を突破した。
 北斉軍は、敗走した柔然を二十余里にわたって追撃し、菴羅辰可汗の妻子を始め三万人を捕虜とした。
 北斉帝は、更に敵を追い詰めようと、都督の高阿那肱へ数千騎を与えて、敵の退路を断つよう命じた。しかし、柔然軍はまだ強力だったので、高阿那肱は兵力の増員を請うた。だが、それを聞いた北斉帝は、増員どころか半減させた。死地へ陥った高阿那肱は奮戦し、大勝利を収めた。
 菴羅辰可汗は、切り立った谷を飛び越えて、僅かに一騎で逃げ延びた。
 六月、柔然は遠くへ逃げ去った。 

 紹泰元年(555年)、六月。北斉帝が柔然を親征した。北斉帝自ら矢石を犯して戦い、大勝利を収める。沃野まで追撃し、敵の酋長始め二万人を捕らえ、牛羊数十万を奪って帰った。
 十二月、突厥の木杆可汗が柔然の登叔子を攻撃して、これを滅ぼした。登叔子は余党をかき集めて西魏へ逃げた。
 木杆可汗は、西はエンダツを破り、東は契丹を追い払い、北は契骨を併呑して、塞外の諸外国を服従させた。その領土は、東は遼海から、西は西海へ至り、東西一万里。南は砂漠以北の南北五、六千里にも及んだ。
 木杆可汗は自身の強盛を恃み、登叔子等を皆殺しにするよう、西魏へ要請した。しかも、その使者は後から後からやってくる。そこで、宇文泰は登叔子以下三千人を使者へ与え、青門外にて皆殺しとした。 

  

(訳者、曰) 

 魏へ対する柔然は、漢へ対する匈奴と同じだ。中国が分裂すれば、遊牧民族は強くなり、遊牧民族が分裂して互いに争えば、中国が強くなる。
 柔然は高車と死闘を繰り返し、更に自身が二分裂した。この時に当たって、その勢力は滅亡寸前どころか、一旦は完全に滅亡し、魏のお情けによって再興させて貰ったのである。
 ところが、その直後に、今度は魏で内乱が起こった。「六鎮の乱」は「爾朱氏の乱」を誘発し、それが鎮圧したら、功労者の高歓が簒奪を目論む。そして、それを防ごうとした宇文泰とで、遂に東西二分されるのである。
 このような状態で、どうして柔然まで手が回ろうか。滅亡寸前まで行った柔然は、隣国の禍を奇貨として立ち直った。そして遂には、東西の両皇帝が競って柔然から皇后を迎えたのである。中国の歴史の中でも、これは希有の珍事ではあるまいか。
 ところで、漢と匈奴、魏と柔然と並べたら、唐へ対しては突厥である。
 柔然は、結局、突厥によって滅ぼされた。同じ遊牧民族だけに、その領土を奪い合うのだから、柔然にとって本当の敵は突厥だったといえるだろう。中国人の好む言葉で表現するならば、柔然にとって魏は皮膚病のようなもの。突厥こそが心腹の病だったわけである。 

 その突厥については、詳細が未だ出てきてはいない。いきなりその名前が出てきたと思ったら、あっけなく柔然を滅ぼしてしまった。多分、章を変えて、強大になる有様が描かれることだろう。