魏、柔然を討つ(その一)
 
拓跋圭の柔然討伐 

 もともと、柔然は、代々、代に服属していた。
 柔然の大人郁久閭地粟袁が死ぬと、部落は二つに別れた。長男の匹候跋が父の後を継いで東へ移住し、次男の温乞提が西へ移住したのだ。
 苻堅が代を滅ぼすと、柔然は劉衛辰へ服属した。
 やがて、拓跋圭が即位して魏王になった。晋の孝武帝の太元十六年、(391年)、拓跋圭は高車を攻撃した。諸部落は北魏へ服従したが、柔然だけが抵抗した。
 九月、拓跋圭は兵を率いて柔然を攻撃した。柔然は部落を挙げて逃げる。拓跋圭は六百里に亘って追撃した。すると、張コンが諸将を代表して拓跋圭へ言った。
「賊は遠くへ逃げ、兵糧も尽きてきました。早く帰った方が宜しゅうございます。」
 すると、拓跋圭は諸将へ尋ねた。
「もしも添え馬を殺して食べれば、三日は持つな?」
 諸将は言った。
「充分です。」
 そこで更に道を急いで追撃し、ついに柔然と戦い大勝利を収めた。敵の半ばを捕虜にする。
 匹候跋は別部の首長の屋撃と共に敗残兵を取りまとめて遁走した。拓跋圭は、長孫嵩と長孫肥へ追撃を命じた。
 拓跋圭は将佐へ言った。
「我が三日と問うた真意が、諸卿には判るか?」
 諸将は言った。
「判りません。」
「柔然は家畜を率いて数日逃げたので、水のある場所で必ず留まる。我等は軽騎で追撃したのだ。その速度を測るに、三日とかからずに追いつくと計算したのだ。」
 聞いて、諸将は感嘆した。
「ああ、とても我等の及ぶところではありません。」
 長孫嵩は、平望川にて屋撃を斬った。
 長孫肥は匹候跋の軍に追いつき、匹候跋は降伏した。温乞提の子の葛多汗や甥の社崙、斛律を始めとして宗党数百人を捕らえる。
 温乞提は劉衛辰のもとへ逃げ込もうとしたが、結局追いつかれて降伏した。
 拓跋圭は柔然の全部族を雲中へ移住させた。 

  

社崙、自立す 

 十九年、葛多汗と社崙が、部下を率いて西へ逃げた。長孫肥が追撃し、葛多汗を斬る。 社崙は、敗残兵数百を率いて疋候跋のもとへ逃げ込んだ。疋候跋は、社崙を自分の領地の南端へ住まわせた。
 やがて社崙は、疋候跋を襲撃して殺した。疋候跋の子息達は魏へ逃げた。社崙は五原以西の諸部族を掠め、漠北へ逃げた。 

  

豆代可汗 

 安帝の元興元年(402年)。拓跋圭が、後秦へ馬千匹を贈り、婚姻を求めた。だが、拓跋圭は既に慕容后を立てていたので、後秦王姚興は、使者の賀狄干を抑留して、この話を断った。
 すると拓跋圭は、材官将軍和突へ黜弗、素古延の諸部を攻撃させた。この二ヶ国は、後秦の属国である。和突は、これらを撃破した。以来、北魏と後秦はいがみ合うことになる。
 それまで、ヘイ州の穀物は平陽に備蓄されていたが、拓跋圭はその穀物を乾壁へ移動させて、後秦へ備えた。
 この頃、柔然の社崙は後秦と親睦していたので、黜弗、素古延へ救援軍を送った。だが、和突はこれを迎撃して、撃破。 社崙は部落を率いて漠北を遠く逃げ、高車の土地を奪って、ここに住み着いた。
 高車の西北には、匈奴の遺種の日抜也鶏が居たが、社崙はこれも撃破し、その諸部を併呑した。これによって士馬が増え、柔然は北方の雄となった。その領土は西は焉耆から、東は朝鮮へ接し、南は大漠へ臨んだので、近隣の小部族が次々と服属した。社崙は、自ら豆代可汗と号した。
 豆代可汗は、軍を再編成した。千人を軍とし、軍ごとに将を置く。百人を幢とし、幢ごとに師を置く。戦争の時、先陣を付けた者へは捕虜を賜り、畏懦する者は石でその首を撃って殺した。
 この年、拓跋圭は後秦へ親征した。これを聞いた豆代可汗は、彼の留守を狙って北魏を攻撃したが、魏の常山王遵が一万騎で迎撃してきたので、逃げ出した。 

 三年、豆代可汗の従兄弟の悦が、可汗を殺して国を奪おうとしたが、失敗。悦は魏へ亡命した。
 義煕二年(406年)、柔然は北魏へ侵入し、略奪した。五年、再び侵入する。
 六年、長孫嵩が柔然を攻撃した。漠北まで行って引き返したが、柔然はこれを追撃して、牛川にて包囲した。そこで、北魏王嗣が親征した。それを聞いた豆代可汗は逃げ出したが、その途中で卒した。
 この時、豆代可汗の子息の社抜はまだ幼かったので、部落の首長達は、弟の斛律を推戴した。これが謁苦蓋可汗である。 謁苦蓋可汗は、兵を率いて合陂まで退却した。 

  

乞升蓋可汗、立つ 

 十年、謁苦蓋可汗は、娘を燕王へ嫁がせようとした。すると、可汗の兄の子の歩鹿が言った。
「幼い娘を遠くへ嫁がせるのは心配な事です。どうか、大臣の樹黎等の娘を花嫁の付き人として派遣されて下さい。」
 しかし、可汗は許さなかった。
 歩鹿眞は退出すると、樹黎等へ言った。
「可汗はお前達の娘を花嫁の付き人として、燕まで派遣するつもりだぞ。」
 樹黎等は恐れ、歩鹿眞と共に計略を練った。
 ある夜、彼等は勇士達を可汗の廬の背後へ伏せ、出てくるところを捕まえた。そして、彼の娘共々燕へ送ってしまった。歩鹿眞を可汗とし、樹黎は相となる。 

 さて、柔然には叱洛侯とゆう大人が居た。彼は高車の人間で、柔然が高車を攻撃する時に、柔然に寝返って道案内を勤めた男だ。この時の功績で、彼は大人となった。
 歩鹿眞が、社抜(豆代可汗の息子)と共に叱洛侯を訪問した時、歩鹿眞は叱洛侯の妾とまぐわった。すると、妾が彼へ告げた。
「叱洛侯は、大檀を推戴しようと考えています。」
 大檀は、豆代可汗の従兄弟である。別部を率いて西境を鎮守していたが、衆望を集めていた。
 歩鹿眞は、帰るとすぐに兵を集めて叱洛侯を包囲した。叱洛侯は自殺する。
 歩鹿眞はそのまま大檀を攻撃に出かけたが、大檀は迎撃し、これを撃破。歩鹿眞と杜抜を捕らえ、殺した。
 大檀は、自ら立って可汗となった。乞升蓋可汗である。 

 一方、燕へ送られた謁苦蓋可汗は、燕王慕容跋から、上谷侯の爵位を貰った。慕容跋は遼東に彼の屋敷を造り、客分として扱い、彼の娘を後宮へ納れて昭儀とした。
 謁苦蓋可汗が故郷へ帰りたいと請願すると、慕容跋は言った。
「今、卿は国を棄てて万里の外にいるのだし、国内に内応してくれる者も居ない。もしも大軍を添えて送ったとしても、兵糧の補給が困難だ。かといって、兵力が少なければ蹴散らされる。どうやって帰るつもりかな?」
 しかし、謁苦蓋可汗は固く請うて止まない。そこで、慕容跋は単于前輔の萬陵へ三百騎を与えて送った。しかし、萬陵は遠くまで行くことを厭がり、黒山まで来ると、謁苦蓋可汗を殺して帰国した。
 大檀は、三千匹の馬と一万口の羊を燕へ献上した。 

  

攻防 

 十二月、可汗は北魏へ侵入した。魏王嗣はこれを攻撃し、可汗は逃げる。魏王嗣は、渓斤等へ追撃を命じた。だが、この追撃軍は大雪に遭い、凍死したり指を落としたりした兵卒が二・三割にものぼった。 

 宋の営陽王の景平元年(423年)、柔然が、北魏の辺境を侵した。
 二月、北魏は長城を築いた。赤城から五原へ及ぶ延々二千余里。戍卒を設置して、柔然へ備えた。
 八月、柔然は河西を侵した。河西王蒙遜は、太子の政徳へ攻撃を命じた。政徳は軽騎で進撃し、柔然に殺されてしまった。蒙遜は、次男の興を太子に立てた。 

 文帝の元嘉元年(424年)、北魏の太宗が崩御した。これを聞いた乞升蓋可汗は、六万騎を率いて雲中を攻撃した。吏民を殺掠し、盛楽宮を攻略した。
 魏の太武帝は、自ら騎兵を率い、三日間で雲中へ到着した。可汗は、騎兵を率いて魏帝を五十余重に包囲し、次々と波状攻撃を掛けてきた。将士は大いに懼れたが、太武帝は顔色自若。それを見て、衆情はようやく落ち着いた。
 柔然は、可汗の甥の於陟斤を大将としていたが、魏郡は彼を射殺した。乞升蓋可汗は恐れ、逃げ出した。
 尚書令の劉潔が太武帝へ言った。
「柔然の大檀は、兵力を恃んでおります。将来必ず国を滅ぼすでしょう。秋の刈り入れを待ってから大軍を発し、東西二道から討伐いたしましょう。」
 太武帝も同意した。
 十二月、太武帝は安集将軍長孫翰と安北将軍尉眷へ柔然を攻撃させた。柔然は北へ逃げたが、諸軍は追撃して大勝利を収めて凱旋した。長孫翰は、長孫肥の子息である。 

 二年、十月。魏の太武帝が大軍を動かして柔然討伐を挙行した。
 長孫翰、長孫道生、太武帝、東平公娥清、渓斤が五道に別れて進軍し、漠南で合流した。ここで、輜重を棄てて身軽になり、十五日分の兵糧を携帯して砂漠を越えて敵を攻撃する。 柔然の部落は大いに驚き、北へ向かって逃げた。
 四年、五月。太武帝は、龍驤将軍陸俟へ諸軍を都督して大磧を鎮守させ、柔然へ備えた。
 七月、柔然は雲中へ来寇したが、魏が統萬に勝ったと聞いて、逃げ去った。
 五年、八月。太武帝が巡回した隙に、乞升蓋可汗は子息へ万余の兵を与えて魏へ侵入させた。急を聞いた太武帝が駆けつけてきたが、柔然は逃げ、追いつけなかった。 

  

崔浩の大論陣 

 六年、四月。太武帝は柔然を討伐する為に、南郊で閲兵を行った。まず、天を祀り、次いで陣を布かせる。内外の群臣は皆、遠征を厭がり、保太后も固く止めたが、崔浩一人、これを勧めた。
 尚書の劉潔等の意向を受け、太史令の張淵と徐弁が太武帝へ言った。
「今年は己巳で、三陰の歳です。歳星が月へ入り、金星が西にあります。挙兵してはなりません。北伐は必ず敗れますし、もしも勝っても、利益はありません。」
 群臣も、これに雷同した。
「張淵は、かつて苻堅を諫めました。ですが苻堅は聞かず、あの大敗北を喫したのです。彼の予言は、必ず的中します。」
 太武帝は心中不満だったので、崔浩と張淵を御前で論争させた。
 崔浩は、張淵と徐弁を詰った。
「陽は徳を意味し、陰は刑を意味する。だから、日食が起これば徳を修め、月食の時には刑を修める。そもそも、王者の刑とゆうものは、小は刑場にての死刑であり、大は堂々の討伐である。今、我等が出兵して柔然の罪を討つのは、刑を修めるとゆう事だ。臣が天文を観るに、近来、月がスバルを覆い隠しており、今もなおそうだ。これをもとに占えば、この三年のうちに、天子が胡を大いに破る(スバルは胡の星と言われていた)。
 蠕蠕や高車は胡族です。どうか陛下、お疑い下さいますな。」
 すると、張淵と徐弁は言い返した。
「蠕蠕は、荒れ果てた無用の土地に住んでおります。その領土を得ても耕作はできず、民を得ても使役することができません。何で汲々として士馬を疲れさせてまで討伐する必要がありましょうか。」
 崔浩は言った。
「張淵と徐弁が天文を言うのは、その職務です。ですが、人事の形勢については、門外漢ですぞ。その証拠に、彼等の理屈は、漢代の常論です。今のご時世には合いません。
 何故でしょうか?
 蠕蠕はもともと、本朝の北辺の臣下でしたが、中途で造反して去って行ったのです。今、元凶を誅して良民を収め、旧来の労役に就かせれば、無用ではありません。
 世間の人々は、張淵と徐弁が数術に精通して成敗を明確に判断すると評価していますが、臣が試みに質問してみましょう。統萬が滅亡する前に、敗北の兆しがあったのか?もしもそれを知らなかったのならば、無術である。知っていて言わなかったのならば、不忠だ。」
 この時、赫連昌が傍らにいたので、張淵と徐弁は恥じ入ってしまって答えられなかった。
 太武帝は大いに悦んだ。
 御前討論が終わった後、ある公卿が崔浩へ言った。「今、南寇がわが国境を伺っているのに、これを無視して北伐をしろという。もしも蠕蠕が北へ逃げ、追っている間に南寇が攻めてきたらどうするつもりだ?」
「そうではない。今、先に蠕蠕を撃破しなければ、南寇へ対抗できないのだ。我等が統萬を滅ぼして以来、南朝の人間は、心中我等を恐れている。だから、奴等は大軍を動員したことを宣伝し、淮北を守っている。我等が蠕蠕を攻撃しても、その往還の間に奴等は動かない。それに、奴等は歩兵で我等は騎兵。もしも奴等が攻めてきたら、我等も攻め返す。奴等は疲れ果てるが、我等は平気だ。いわんや、南北は風俗が異なるし、戦闘法も水戦と陸戦の違いがある。奴等へ河南を与えても、守り通すことはできない。
 何故そう言えるか?
 過去の歴史から明白なのだ。
 雄傑の劉裕が関中を併呑した時、愛子を留め良将を補佐として数万の精鋭兵を遺していった。しかし、それでも関中を守りきれず、全軍覆没したではないか。その時の号泣の声は、未だに続いているのだぞ。いわんや、今日の宋の君臣は劉裕の時の比ではない。それに対して、我等の主上は英武で士馬は精強。奴等が攻撃してきたところで、馬や子牛で虎や狼と戦うようなものだ。何の懼れることがある!
 蠕蠕は、土地が離れていることを恃みにして、我等が攻めて来るわけがないと油断しきっている。だから夏になったら民はバラバラに散って放牧をし、秋になって馬が肥えたら結集し、寒い故郷から暖かい我が領土を目指して南下してきて略奪をするのだ。今、奴等の不備を衝いて襲撃すれば、奴等は統制も取れずにただ逃げまどうだけ。そうなれば水も草も得られず、数日としないうちに困憊しきってしまい、一挙に撃滅できるではないか。この一時の苦労で、長い安逸が手に入る。好機は失ってはならない。今、陛下の心も決まった。何で止めるのか!」
 冠謙之が崔浩へ言った。
「蠕蠕を本当に滅ぼせますか?」
「必ず勝てます。ただ、勝ちに乗じて深入りするべき時に、諸将が後背を気にして追撃できずに禍根を残すことだけが心配なのです。」
 これより先、宋の文帝は、帰国する魏からの使者へ託して、太武帝へ告げた。
「汝が河南の土地を返さなければ、我等は力づくで奪還するぞ。」
 太武帝は、柔然攻撃を協議している時にこれを聞き、大笑いして公卿へ言った。
「亀やスッポンの国の小豎は、自立するだけで汲々としているくせに、何でそんな事ができるか!それにしても、奴等が攻めてきた時までに蠕蠕を滅ぼしていなければ、腹背から敵を受けることになる。これは良策ではない。決行するぞ!」 

 庚寅、太武帝は平城を出発した。留守役は長孫嵩と楼伏連。太武帝と長孫翰が二道に別れて進軍し、柔然の庭で合流した。
 魏軍は、漠南で輜重を棄て、軽騎で柔然を襲撃。栗水まで進んだ。
 乞升蓋可汗は備えをして居らず、柔然の民は散らばって放牧をしていたので、突然の襲撃に各々驚いて逃げ散り、収拾が取れなかった。乞升蓋可汗は廬を焼いて西へ向かって逃げ、行方を眩ませた。誰もその所在地を知らない。
 東部を統治していた弟の匹黎先は、魏軍の来寇を聞くと衆を率いて兄の元へ駆けつけた。だが、その途中で長孫翰軍と遭遇。長孫翰はこれを大いに破り、大人数百人を殺した。
 乞升蓋可汗が逃げ去ると、柔然の部落は四散した。彼等は山や谷へ逃げ隠れ、野には人影も見えない。太武帝は栗水に沿って西進し、兔園水へ到着した。ここで軍を分散して東西五十里、南北三千里を虱潰しに捜索させ、大勢の柔然人を捕斬した。高車の諸部落は、この機会に柔然へ侵入して略奪を行った。柔然の人間は前後して三十万落が魏へ降伏し、戎馬百万余匹をの他沢山の器財を獲得した。
 太武帝は、弱水に沿って更に西進した。諸将は、深入りして伏兵に遭うことを考慮し、引き返すよう勧めた。冠謙之も崔浩を通じて勧めたが、太武帝は従わない。
 七月、ようやくひきかえした。黒山にて論功行賞を行う。その後、降伏した人間から情報を得た。
「可汗は病気に罹っており、魏軍の来襲を聞いて、為す術を知りませんでした。遂に廬を焼き、数百人を率いて車に載り南山へ入ったのです。民も家畜も大勢遺されましたが、指揮する人間は遠い彼方。追撃兵も来なかったので西へ逃げて、ようやく逃げおおせたのです。」
 後、涼州へやって来た胡人の隊商から聞いた。
「もし、あと二日追撃したなら、柔然は全滅していたでしょう。」
 太武帝は非常に後悔した。
 乞升蓋可汗は、憤死した。子息の呉提が立ち、敕連可汗と号した。 

 八月、太武帝は漠南まで戻った。この時、高車の東部は巳尼陂に居り、人も家畜も多かったが、ここから千余里しか離れていなかった。それを聞いた太武帝は、左僕射の安原を派遣して、これを襲撃させた。高車の諸部は数十万落が降伏し、牛馬羊は数百万頭捕獲した。 

 十月、太武帝は平城へ戻った。柔然や高車から降伏してきた民は、濡源から五原陰山へ至る三千里へ移住させた。そして、ここで耕作や放牧をさせ、貢賦を徴収する。これ以降、魏の民間では牛馬羊や毛皮などが廉価で流通するようになった。
 太武帝は、崔浩を侍中・特進・撫軍大将軍として、彼の功績を賞した。 

  

和親 

 八年、六月。北魏の辺境の役人が、柔然の巡邏者二十数人を捕らえたが、太武帝は彼等へ衣服を賜下して釈放してやった。柔然は感服し、悦んだ。
 閏月、柔然の敕連可汗が北魏へ使者を派遣した。太武帝は、彼等を厚く礼遇した。
 十一月、太武帝が漠南へ御幸した。すると、北部敕勒の酋長庫若干が、配下の数万騎を率い、数百万頭の鹿を駆り立てて太武帝の行在所へ挨拶に来た。太武帝は、大いに狩猟を楽しみ、彼等へ官位を授けた。十二月、平城へ帰る。
 十一年、正月。太武帝は西海公主を、柔然の敕連可汗へ娶らせた。又、可汗の妹を夫人とし、穎川王提を迎えに行かせた。可汗は異母兄の禿鹿傀へ妹を送って行かせ、併せて二千匹の馬を献上した。太武帝は、彼女を昭儀とした。
 十三年、十一月。柔然は魏との和親を破って、魏の辺境を侵略した。 

  

報復 

 十五年、五月。太武帝は五原へ御幸した。
 七月、五原から北行して柔然を攻撃する。
 楽平王丕に十五将を指揮させて東道から出撃させる。
 永昌王建に十五将を指揮させて西道から出撃させる。
 太武帝自身は中道から進軍した。
 太武帝主従はさんざん進軍したが、結局、柔然軍を見つけきれずに引き返した。この時、漠北は大旱で水も草もなく、人や馬が大勢死んだ。
 十九年、柔然の使者が建康までやって来た。
 二十年、北魏は柔然を討伐した。漠南で輜重を棄て、軽騎で柔然を襲う。
 太武帝は、鹿渾谷で敕連可汗と遭遇した。
 太子の晃が太武帝へ言った。
「賊は、大軍が来ているとは思わず、警戒していません。速やかに攻撃しましょう。」
 すると、尚書令の劉潔が言った。
「賊営からは塵が多量に巻き上がっています。きっと大軍に違いありません。平地で戦えば包囲されるのが怖ろしゅうございます。全軍を結集させてから襲撃しましょう。」
 だが、太子晃は言った。
「塵が舞い上がっているのは、兵卒達が慌てふためいて右往左往しているからだ。でなければ、なんで本営にあんなに塵が舞い上がったりするものか!」
 だが、太武帝は猜疑して襲撃しなかったので、その隙に柔然は逃げ去った。太武帝はこれを石水まで追撃したが、とうとう取り逃がした。
 後、柔然の斥候を捕らえてみると、彼は言った。
「我等は魏軍が近づいているのに気がつかなかったので、大慌てで逃げ出したのです。六七日ほどして、追撃がなかったと知り、ようやく徐行しました。」
 太武帝は、深く悔やんだ。以後、軍国の大事は太子と共に謀ることとなった。
 この時、別働隊の司馬楚之は、柔然の攻撃を受けた。だが、それを事前に察知していた司馬楚之は、柳を伐って城を造り、水を濯ぎ掛けて凍らせた。来寇した柔然は、氷で滑って攻撃できず、退却した。 

 二十一年、九月。太武帝は漠南へ御幸し、柔然を攻撃しようとしたが、敕連可汗が逃げたので、遠征を中止した。
 敕連可汗は逃走の途中で卒し、子息の吐賀眞が立った。處羅可汗と号する。 

  

衰退 

 二十五年の秋から二十六年の春にかけて、太武帝は漠北へ親征して柔然討伐軍を出したが、共に柔然は逃げ去り、戦果は挙がらなかった。
 二十六年、九月。太武帝は高涼王那を東道から派遣し、略陽王を中道から派遣した。
 處羅可汗は国内の精鋭兵を総動員して高涼王を数十重に包囲する。高涼王は、濠を掘って堅守した。可汗は屡々挑戦したが、高涼王はその度に撃退する。
 少数の高涼王が堅守するのを見た可汗は、大軍が到着するまでの時間稼ぎだと疑い、夜半に包囲を解いて逃げ出した。高涼王は追撃を掛け、九日間休まない。可汗は益々恐れ、輜重を棄てて逃げた。高涼王は輜重を拾って引き返し、廣沢にて太武帝と合流した。
 略陽王の方は、柔然の民や家畜百余万を捕獲した。
 これ以来、柔然の勢力は衰退し、北魏の国境を侵すこともなくなった。
 十二月、太武帝は平城へ帰った。 

 以後、十年ほど、柔然は北魏へ侵入しなかった。 

  

(訳者、曰く) 

 北魏と柔然の関係は、漢と匈奴を思わせる。柔然はしばしば魏の国境を侵して略奪を働いたが、食の乏しい遊牧民族から見れば、生きて行く為の当然の行為だったのかも知れない。一時的に和親を結んでも、柔然の法から一方的に破ってしまったのは、破らざるを得ない緊急の原因があったのかも知れず、それも匈奴と漢の関係を思わせる。ひいては遊牧民族と中国の典型的な関係がこれだったのではないだろうか。
 結局、彼等を撃退することも、中国の皇帝の職務だったのだろう。