皇太子造反
 

 神龍二年(706)七月戊申、栄禹重俊を太子へ立てる。太子の性格は聡明果断。しかし、貴人の無頼の子弟を官属として、不法な行為が多かった。左庶子姚延がしばしば諫めたが、聞かない。延は、壽(「王/壽」)の弟である。
 皇后は、太子重俊が自分の生んだ子息ではないので、これを憎んでいた。特進徳静王武三思は、もっとも太子を忌んでいた。上官ショウジョは三思が太子を忌んでいるので、制敕が下される度に、武氏を尊んだ。安楽公主とフバ左衞将軍武祟訓はいつも太子を凌侮して、時には奴と呼んだ。祟訓は、又、公主へ太子を廃して自分を皇太女とするように上へ請うよう、教えた。これらのことが積もり重なって、太子は心が平静ではなくなった。
 景龍元年(707)七月辛丑、太子と左羽林大将軍李多祚、将軍李思沖、李承況、独孤韋(「示/韋」)之、沙託忠義等が制を矯めて羽林千騎と兵三百余人を徴発し、第にて三思、祟訓始め親党十余人を殺した。又、左金吾大将軍成王千里及びその子天水王禧へ兵を分けて宮城の諸門を守らせた。
 太子と多祚は兵を率いて粛章門から関を斬って入る。そして閣を叩いて、上官ショウジョを探した。ショウジョは大声で言った。
 「奴等はまず婉児を探していますが、次は皇后を捜し、その次は大家(皇帝)へ及びますよ。」
 上と韋后、安楽公主、上官ショウジョは玄武門の楼へ登って、兵を避けた。右羽林大将軍劉景仁が飛騎百余人を率いて楼下へ屯営し、自衛した。
 楊再思、蘇壊、李喬と兵部尚書宗楚客、左衞将軍紀處訥は兵二千人を擁して太極殿の前に屯営し、門を閉じて自ら守った。
 多祚が最初に玄武楼の下へ到着した。楼を登ろうとしたが、宿衞がこれを拒む。多祚と太子は狐疑して、兵を控えたままで戦わず、上が問いかけるのを冀った。
 宮韋(「門/韋」)令の石城の楊思助(「日/助」)が上の傍らにおり、これを攻撃するよう請うた。多祚の婿の羽林中郎将野呼利が前鋒総管だったが、思助は刀を抜いてこれを斬った。多祚の軍兵達は戦意を奪われる。
 上は、檻俯へ據って多祚が率いる千騎へ言った。
「お前達は皆、朕の宿衞の士だ。なんで多祚へ従って造反するのか!造反者を斬った者は、富貴は思いのままだぞ。」
 すると千騎は多祚、承況、韋之、忠義を斬った。その余衆は、皆、潰滅した。
 成王千里、天水王禧は右延明門を攻撃してまさに宗楚客、紀處訥を殺そうとしていたが、勝てずに死んだ。
 太子は百騎で終南山へ逃げた。ガクの西へ至った時、付いてきた者はわずか数人。早島下で休んでいる時に、左右から殺された。上は、その首を以て太廟及び三思、祟訓の柩に献じ、その後朝堂へ梟首した。
 成王千里の姓を蝮とし、一味の者は皆誅に伏した。
 東宮の僚属達は、誰も、あえて太子の屍へ近づこうとしなかったが、ただ永和県丞のィ嘉助(「日/助」)は衣を脱いで太子の首へ掛け、号泣した。おかげで興平丞へ降格された。
 太子の命令で諸門を守った兵は、全て有罪となって流された。韋氏の仲間達は彼等を悉く誅殺するよう請うたが、大理卿の宋城の鄭惟忠が言った。
「大獄の判決が降ったばかりで、人々はまだ不安がっています。ここで判決が翻されると、大勢の人間が動揺します。」
 上は、誅殺しなかった。
 楊思助を銀青光禄大夫、行内常侍とした。
 癸卯、天下へ恩赦を下す。
 武三思へ太尉、梁宣王、武祟訓へ開府儀同三司、魯忠王を追贈する。安楽公主は永泰公主の故事に倣って、祟訓の墓を陵とするよう請うたが、給事中盧粲が反駁した。
「永泰の事例は、特別の御恩によるもので、常の礼ではありません。今、魯王は公主の婿です。これと並べてはいけません。」
 上は自ら敕した。
「安楽と永泰は異ならない。同穴の儀は、古今変わらないのだ。」
 だが、粲はまた言った。
「陛下は膝下への愛を、その夫へ施されますのか。上下の区別を付けなくて、どうして君臣の序列が保てましょうか!」
 上は、これに従った。
 公主は怒り、粲を陳州刺史へ飛ばした。
 襄邑尉の襄陽の席豫は、安楽公主が皇太女となることを請うたと聞き、嘆いて言った。
「梅福が王氏を切に譏った(漢の成帝、永始三年の故事。巻三十一に記載)。だが、そんな人間が、どうして彼一人だけだろうか!」
 そして、上書して立太子を請うた。その言葉は、とても深切だった。
 太平公主は、この表を書いたものを諫官にしようとしたが、豫はこれを恥じて逃げ去った。 

 右台大夫蘇向が太子重俊の一味を糾明すると、相王の名を出す者が居た。向は密かに上へ告げたが、上は不問とした。
 この頃、安楽公主が兵部尚書宗楚客と共に、相王を讒しようと日夜謀略を巡らせていた。とうとう彼等は、「相王と太平公主が重俊と通謀していました。どうか牢獄へ捕らえてください。」と、侍御史冉祖擁に誣奏させた。上が吏部侍郎兼御史中丞蕭至忠を召し出して詰問を命じた。すると至忠は泣いて言った。
「陛下は四海を全て領有しながら、一弟一妹さえも容れられず、他人へこれを害させようとなさいますのか!相王は昔皇嗣となりましたが、天下を陛下へ譲られるよう、則天へ固く請われ、何日も断食をなさいました。これは海内の全ての人間が知っています。それなのに、なんで祖擁の一言で疑われますのか!」
 上は元々友愛な人間だったので、ついに沙汰止みとなった。
 右補闕の浚儀の呉競は、祖擁の謀略を聞くと、上疏した。その大意は、
「文明以来、国の祚胤は糸のように絶えず、陛下が龍興するやその御恩は九族に及び、宗族を地の果てから探し出して闕庭へ昇らせました。いわんや相王は同気の至親、一心同体とも言うべき実の弟君です。それなのに、賊臣は日夜陰謀を繰り返し、彼を極法へ陥れようとしています。禍乱の根は、ここから始まります。権威を与えて任命すれば、疎遠な人間でも必ず重んじられますし、権勢を奪ってしまえば、親しい人間でも必ず軽んじられます。昔から異姓を信任して骨肉を猜忌し遂には国を滅ぼし家を亡したものが、幾人いたでしょうか。いわんや、国家の枝葉は多くはなく、陛下は登極されて日が浅く、しかも一子は兵を弄んで誅を受け、一子は素行悪くして遠流されたのです。ただ残りの一弟が朝夕左右にいて尺布斗粟の誹りを受けています。慎まなければなりません。青蠅の詩を畏れるべきでございます。」
 相王は寛厚謙謹、物静かで謙っていた。だから武、韋の世を経ても、ついに危難を免れたのだ。 

 右僕射、中書令魏元忠は、武三思が専横を振るっていたので、いつも憤鬱としていた。太子重俊が起兵するに及んで、元忠の子息の太僕少卿升と永安門で遭い、脅して自分に従わせた。太子が死ぬと、兵乱の中で升は殺された。
 元忠は広言した。
「元悪が死んだのだ。たとえ鼎で茹でられようとも、何で痛もうか!ただ惜しむのは、太子が没されたことだけだ!」
 上は、元忠に功績があり、また、高宗、武后から重んじられていたので、赦して不問に処していた。だが、兵部尚書宗楚客、太府卿紀處訥が共に証言した。
「元忠は太子と通謀していました。どうか三族を誅殺してください。」
 制して許さなかった。
 元忠は懼れ、官爵を解いて秩禄も第も返上すると上表して請うた。
 丙戌、上は自ら敕を書き、僕射を解任して、特進、斉公のまま辞職することを許した。また、朔と望のみには朝廷へ参内させた。
 だが宗楚客等は、右衞郎将姚延均(「竹/均」)を御史中丞へ引き上げ、魏元忠を弾劾させた。
「侯君集は社稷の元勲でした。彼が造反するに及び、太宗は群臣へ命乞いをしましたが、認められず、泪を流してこれを斬りました。その後、房遺愛、薛萬徹、斉王祐等が造反し、親しい間柄とはいえ、皆、国法に従いました。元忠の功績は、君集ほどではありませんし、その身も又、国戚ではありません。彼は李多祚等と共に造反を謀り、息子は逆徒となり赤族が宮殿を汚したのです。ただ、彼には朋党がおり、言葉を飾って彼の行動を救い、聖聴を惑わして陛下の仁恩をあてこんで、その過失を覆いました。それでも臣が逆鱗を犯し聖意に逆らってまでこのようなことを申し述べますのは、実にこの事件が宗廟社稷に関わっているからなのです。」
 上は深く同意した。元忠は罪によって大理に繋がれ、州司馬へ落とされた。
 宗楚客は、給事中冉祖擁へ上奏させた。
「元忠は大逆を犯したのです。州の補佐役に出すのでは、相応しくありません。」
 楊再思、李喬もまた、これに賛同した。すると、上は再思等へ言った。
「元忠は長い間仕えてくれた。だから朕は特に容赦したのだ。制は既に降りた。どうして何度も改められようか!軽重の権は朕にある。卿等が何度も上奏するのは、実に不愉快だ!」
 再思等は、恐惶して拝謝した。
 監察御史袁守一がふたたび元忠を上表して弾劾した。
「重俊は陛下のご子息ですのに、なお、厳正な裁きを下されました。元忠は勲臣でもなく国戚でもないのに、彼一人厳刑から洩れるのですか!」
 甲辰、元忠をふたたび降格して務川尉とする。
 この頃、楚客がふたたび袁守一へ上奏させた。
「昔、則天が三陽宮で危篤となった時、狄仁傑は上奏して陛下を監国とするよう請いましたが、元忠が不可と密奏したのです。これは元忠がかねてから逆心を持っていたとゆう事です。どうか厳誅を加えてください!」
 上は楊再思等へ言った。
「朕はこの事をよく考えてみたが、人臣が主君へ仕えるときには、二心を持ってはならない。主上が少し病気になったからといって、速やかに太子へ全権を任せるよう請うとゆうことが、どうしてあるだろうか!これは仁傑が私恩を掛けようとしただけで、元忠の過失とは言えない。守一は前事を借りて元忠を陥れようとしているのだ。それが赦されるのか!」
 これで、楚客等の讒言が止んだ。
 元忠はバイ陵まで行って、卒した。 

 習藝館内教蘇安恒は、プライド高く、奇を好んだ。太子重俊が武三思を誅すると、安恒は自ら言った。
「これは、吾の立てた謀略だ。」
 太子が敗北すると、ある者がこれを告発した。
 戊寅、誅に伏す。 

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