晋の襄公、王へ朝す。
 
(春秋左氏伝) 

 晋の文公の晩年、諸侯は晋へ入朝した。この時、衛の成公は、入朝しなかったばかりか、孔達へ命じて鄭を襲撃させた。
 晋で襄公が襲爵すると、衛を攻撃しようと決意し、魯の文公の元年(BC626)、諸侯へ出兵を命じた。各諸侯はこれに応じ、彼等は南陽に集結した。
 すると、先且居が襄公を諫めた。
「他人を咎めながら、同じ罪を犯してはいけません。どうか我が君も周王へ入朝なさってください。そうすれば、臣がこの兵を率いて衛を攻撃することができます。」
 襄公はこれに従い、周王のもとへ参内した。そこで、先且居と胥臣が兵を率いて衛を攻撃した。
 六月、連合軍は戚を陥し、孫昭子を捕らえた。
 衛は、陳へ助けを求めた。すると、陳の共公は言った。
「もう一度、虚勢を張って晋へ攻め込みなさい。そうすれば、その時を見計らって、私が仲裁に入りましょう。」
 そこで、孔達が軍を率いて晋を攻撃した。 

  

(東莱博議) 

 他人が原因で過失を犯しても、君子はそれを過失とは言わない。他人が原因で善業を行っても、君子はそれを善とは言わない。
 たとえば、周公の過失は、管叔が原因である。その過失は管叔にある。周公がどうしてこれに預かろうか。孔子の過失は昭公のせいである。その過失は昭公にある。孔子がどうしてこれに預かろうか。彼等の過失は他の人間に端を発した。それは、周公や孔子の人格を貶しめすものではない。
 漢の高祖は、項羽を非難する為に、義帝の為に喪に服した。これは真実の悲しみではない。ただ、高祖は、項羽の評判をおとす為だけに喪に服したのである。劉裕は桓玄を滅ぼすために、晋朝の復興を謀った。これは真実の忠義ではない。晋を復興すしたのは、あくまで桓玄を滅ぼすことが目的だったのだ。
 だから、もしも項羽が居なければ、高祖は義帝の喪に服さなかっただろう。桓玄が居なければ、劉裕は晋の復興など提唱しなかっただろう。彼等の善業が、果たして己自身から出たと言えるだろうか。
 他人が原因で過失を犯した者は、喩えるならば醜婦が前に立った時に鑑が醜くなるようなものである。その鑑がもともと醜いわけではない。他人が原因で善業を行うものは、木が高山の上に生えたから高くなったようなものである。その木がもともと高いわけではない。
 だから、他人が原因で過失を犯した人間は、百過があっても咎めるに足りない。他人が原因で善業を行った者は、百善があっても喜ぶに足りない。善業を為すのは自分自身だ。他人を貶しめす為に行うのではない。 

 晋の襄公が即位した時、周王のもとへ挨拶に行った。人々は皆、襄公が王室を尊んだことを喜んだ。だが、彼が入朝した原因は何だったのか?彼は、衛が入朝しないことを口実にして、これを攻撃しようと考えていたのだ。だから、その前にまず、自分で入朝したに過ぎない。
 彼は思ったことだろう。
「周は王者である。晋は覇者である。そして、衛は小侯である。覇者の吾が王へ入朝したのだから、衛はこの晋へ挨拶に来るのが当然である。」と。
 だから、王のもとへ入朝したのは、上辺こそ王を尊んでいたが、その本音は衛を攻撃することにあったのだ。
 襄公は、衛を討つ為に、入朝した。入朝したから衛を討ったのではない。それならば、尊王の善業が、どうして襄公の本心だっただろうか。ただ、衛を攻撃する口実を作るためだけに入朝したのである。
 もしも、衛侯の車が、彼に先立って晋の都へやって来ていたならば、襄公の旗は絶対に周王のもとへは出向かなかったと、私は確信している。これこそ、他人が原因で善業を行うとゆうものだ。これは善業と言うに足りない。 

 主君へ対する臣下とゆうものは、父親へ対する子息のようなものだ。ある子息が、他人から責められて仕方なく父親を敬ったとしたら、その父親は子息から敬われているとは言えない。同様に、臣下が、他人から責められて仕方なく主君のもとへ入朝したならば、その主君は本当に入朝されたとは言えない。
 周の諸侯が、皆、襄公のような想いで入朝していたとするならば、これは特別の理由がなければ父親が息子から敬われないようなものだ。何の理由もなければ、主君は臣下から入朝されなくなってしまうに違いない。
 ましてや、子息が父親を敬うとゆうのは、ただ、自分の父親を敬うだけである。他人に何の関わりがあろうか。臣下が主君へ入朝するとゆうのは、各々の臣下が自分の主君へ対して入朝するものである。他人に何の関わりがあろうか。
 自分が父親を敬っているからといって、他人を詰る人間がいたなら、きっと物笑いとなってしまうだろう。同様に、自分が主君へ入朝していると言って、他人を凌辱しても、却って嘲り笑われるだけではないか。
 仮に、晋の襄公が周へ仕える時、春に入朝して秋に謁見し、その事績が史書に満載されているとしても、それは臣下として常の態度であり、自ら崇高を自慢することではないのだ。いわんや、襄公はたった一回入朝しただけに過ぎないのだ。
 ただ一回周の庭へ出向いただけで、傲然として自足し、鐘を鳴らし軍鼓を撃ちて他人の無礼を峻責する。孔達の侮を受けてしまったのは当然のことだ。
 ある妄人が、いつも自分の父親に拝礼していたが、ある日、彼は道行く人を捕まえて叱責した。
「我はいつも我が父を拝礼しているのだ。お前はどうして我を拝礼しないのか!」
 こんな狂人を見たら、笑い転げない者はいない。晋の襄公が衛を詰問したのも、この類ではないか。 

 すると、ある者が反論した。
「言いたいことは判る。だが、まず己の非をただしてから、他人の非を指摘するのが大学の道であり、古の遺教である。晋の襄公が、まず周王へ入朝してから衛を詰ったのは、この旨に合致している。なんでそれを謗れようか。」
 いいや、そうではない。
 書を読む時には、文章ではなく、その想いを汲み取るものだ。大学が訴えたかった事は、己の非を正すことであり、他人の非を指摘することではない。
”学者が他人を非難したくなった時は、その度に自分の日常を顧みて、自分自身が同じ過失を犯さないように気を付けろ。”と戒めたのだ。
”学者が、自分はやらないことをネタにして、他人を非難する資けとする”ことを願ったのではない。
 だから、”まず、己に無くす。”と言い、次に”他人の諸々の非を指摘する”と言った。この言葉の主体が、自分の非を正すことにあり、他人の過失を非難することにはない事は明白である。
 悪虐な官吏や姦民が他人と訴訟する時、まず自分の行いを正してから、相手を非難する。だが、それを見た民は、彼等のことを立派な人間だと褒めたりはしない。彼等の身は修まっているが、性根が陰険だからだ。ましてや士君子たるものが、どうして他人を非難する心を持って良いものだろうか。
 私は、経を説く者が、その文章を盾にとって、経文の意を害し、先に挙げた悪虐な官吏や姦民のような真似をしてしまうことを恐れる。だから、ここに力説して、わが党朋へ告げるのだ。 

  

(訳者、曰) 

 宋代、程兄弟は儒学者として名高かった。兄の程明道は人の善を嘉し、弟の程伊川は、人の不善を憎んだとゆう。朱熹は、この二人から儒教を学び、朱子学は大成された。そして、その熹は、程伊川と同じく、人の不善を憎むことに主体を置いていたと言われる。
 朱子学には他人の過を徹底的に攻撃するようなイメージがある。又、朱子学者達は、実際にそれを実践してきたとしか思えない。始祖の程明道は、人の善を嘉したとゆうのに。
 呂東莱は、このような論文を書いた。しかし、彼自身はどうだったのだろうか。何せ、名にし負う熹の弟弟子だし、朱子学の創始者の一人なのだから。 

目次へ戻る