貞観の治  その六
 
 十八年四月、辛亥、上が九宮へ御幸した。壬子、太平宮へ至り、侍臣へ言った。
「人臣は、主君の旨に従う者が多く、不機嫌を覚悟で正論を吐く者は少ない。今、朕は自ら過失を聞こうと思う。諸侯は隠すことなく直言せよ。」
 長孫無忌等は皆、言った。
「陛下に過失はございません。」
 劉自が言った。
「近頃では気に入らない上書を見ると、陛下は面と向かって徹底的に詰問します。それで上書した者は慚愧して退出する事になるのです。これでは広く意見を求めることが出来ないと愚考します。」
 馬周は言った。
「陛下の最近の賞罰は、喜怒によって差がついております。それ以外、過失はありません。」
 上は皆、納めた。
 上は文学を好み、弁が立った。群臣が具申すると、上は古今を引き合いに出して反駁する。大抵の臣下は反論できなかった。劉自は上書して諫めた。
「帝王と凡庶、聖哲と庸愚、上下がかけ離れて途絶しているようです。至愚が至聖へ対し、極卑が至尊へ対すれば、いたずらに自分の強さを誇るだけで、何も得る物がありません。陛下が恩旨を降ろし、慈顔を作り、何も言わずにその言葉を聞き、襟を広げてその説を納めても、なお、群下が全てを言い尽くさないことを恐れるのです。ましてや神機で動き天弁を弄し、言葉を飾って相手の理を折り、古を引き合いに出して議を排する。凡庶へ対して、どのような応答を求められておるのですか!それに多く記せば心を損ない、多く語れば気を損ないます。心気が内に損ない、形神を外に労すれば、初めは感じなくても、後には必ず澱が溜まります。社稷の為にも御自愛なさるべきなのに、どうして好きこのんで自ら傷つけられるのですか!秦の始皇帝は強弁で、自ら誇ったために人心を失いました。魏の曹操は広大な才覚で、虚説の為に衆望を汚しました。これは材弁の弊害です。これを見て知るべきでございます。」
 上は飛白書で、これへ答えた。
「思慮を無くして下へ臨む事なく、無言で臣下の思慮を延べさせることもない。談論してついに煩多に至り、物を軽んじ人へ驕ることが、全てこの道から起こることを恐れる。形神心気は、この為に労するのではない。今、この言葉を聞いたからは、虚心で受け入れ、改めよう。」
 己未、顕仁宮へ至った。 

 八月、壬子、上が司徒無忌等へ言った。
「人は、自分の過失を知らぬから苦しむ。卿は、朕へ明言せよ。」
 対して曰く、
「陛下には武功文徳があり、臣等はそれに従うだけで汲々としております。また、言うべき何の過失がありましょうか!」
 上は言った。
「朕が公へ自分の過失を問うたから、公等は想いを曲げて追従を言う。そこで、朕が公等の得失を挙げて、共に戒めとし、改めようではないか。どうだ?」
 皆、拝謝した。そこで、上は言った。
「長孫無忌は、善く嫌疑を避け、事に応じては敏速、理に従って決断する。これは古人も及ばない。だが、兵を指揮して戦うことは、得手ではない。高士廉は古今をよくわきまえ、心術明達、艱難にあっても節を改めず、官にあっては朋党を作らない。ただ、硬骨な規諫には乏しい。唐倹は言葉が巧く、人と仲良くやっている。だが、朕に三十年つかえて、遂に献策したことがない。楊師道は純和な性格で、罪違がない。だが、怯懦で緩急を付ける能力がない。岑文本は敦厚な性格で、文章は華麗。だが、持論に根拠がなく、行き当たりバッタリだ。劉自は最も堅貞で利益がある。だが、朋友への私情に流される。馬周は事に於いては敏速。性格はとても貞正。人物を論じては直言をする。朕が使者を命じると、多くは見事にやってのけてくれる。猪遂良は、学問に長じており、性格は堅く正しい。忠誠の先は朕一人。たとえば、飛鳥が主人に依っているような物。主人としては愛しくてならない。」(強引に訳した箇所も多いし、全体としてかなり怪しいです。) 

 九月、諫議大夫猪遂良を黄門侍郎として朝政に参与させた。 

 十九年、正月。上は高麗親征へ出発した。
 さて、上が京師を出発する時、房玄齢へ、”従軍に便宜な事なら奏請しなくても構わない”と許可を与えていた。上が出発した後、ある者が留台へやって来て、密謀があると告げた。玄齢が誰にどのような密謀があるのか尋ねると、男は答えた。
「公がそれだ。」
 指摘を受けた玄齢は、駅伝を行在所へ送った。上は、留守が造反を告発してきたと聞き、怒って、長刀を持った者を前に立たせ後ろにこれを見て、告発された者は誰か問うた。すると、使者は返事をした。
「房玄齢です。」
 上は言った。
「やっぱりか。」
 叱って使者を腰斬した。玄齢が自信がないことを璽書で責め、言った。
「今後、このようなことがあれば、自分で決断せよ。」 

 この親征の間、上は侍中の劉自(「水/自」)を定州に留めて皇太子を輔けさせ、左庶子、検校民部尚書を兼務させて吏、礼、戸部の三尚書の仕事を統括させていた。
 上は出発する時、自へ言った。
「我は今遠征し、爾へ太子を補佐させる。安危はお前にかかっているのだ。我が意を深く知れ。」
 対して言った。
「どうか陛下、憂えなさいますな。大臣に罪があれば、臣は謹んで誅します。」
 上は、妄りにそんなことを言ったと思い、これを非常に怪み、戒めた。
「卿の性格は、疎くて剛強。必ずそれで失敗するぞ。深くこれを慎め!」
 上が重病になるに及んで、自は従内へ出た時、とても悲しみ恐れた顔つきで、同列へ言った。
「病状はこのようだ。聖躬が心配だ!」
 ある者が、上へ讒言した。
「自が言っておりました。『国家のことは憂えるに足りない、ただ幼主を補佐して伊尹や霍光の故事に倣い、異心のある大臣は誅殺すれば、定まるのだ。』と。」
 上は、さもありなんと得心した。
 庚申、下詔して言った。
「自は、万一を窺って朝廷の権力を握り、伊、霍に倣って猜忌した大臣を皆殺しにしようと、密かに人と議した。自決するが良い。ただ、妻子は赦す。」
 二十年二月、乙未。上は并州を出発した。三月、己巳、車駕が京師へ帰った。帰京しても、体調が完全ではなかったので、太子を監国として政務を休んだ。
 八月、甲子。皇孫忠を陳王に立てた。 

 特進同中書門下三品宋公蕭禹は一本気で潔癖だったので、同僚の多くと反りが合わなかった。かつて、彼は上へ言った。
「房玄齢と中書門下の衆臣は朋党を組む不忠者。がっちりと手を握って陛下へ詳細を知らせません。ただ、造反まで至ってないだけです。」
 上は言った。
「卿は口が過ぎるぞ!人君が賢才を選んで股肱心膂としたら、誠意を尽くしてこれに仕えるのだ。人に完全は求められない。必ずその短所には目をつぶり長所を伸ばす。朕は聡明ではないにしても、頓迷暗愚ではない。何でそこまで至るか!」
 禹は内心不満で、屡々聖旨に逆らった。上も又、内心これを含んだ。ただ、彼が忠直なことが多いので、罷免するに忍びなかった。
 上は、かつて張亮へ言った。
「卿は既に仏に仕えているのに、どうして出家しないのか?」
 禹は、これを聞いて自ら出家を請うた。上は言った。
「公が桑門を雅好しているのは知っていた。今、公の望みを無碍には出来ぬ。」
 しかし、しばらくして禹は再び言った。
「臣は熟慮しましたが、やはり出家は出来ません。」
 上は、禹が群臣の前で言ったことを撤回したので、むかついた。
 やがて禹は足疾で朝廷へ出なかったり、あるいは朝堂まで来ても入見しなくなったりした。上は禹が内心怏々としていることを知った。
 冬、十月。手ずから詔を降ろして禹の罪状を数え上げ、言った。
「朕は仏教へ対して、その教義に従っているのではない。その道を求める者はまだ将来に福を受けておらず、その教えを修めた者は過去に禍を蒙っている。梁の武帝に至っては釈氏へ心を尽くし、簡文は法門へ意欲を燃やし、官庫を傾けて僧侶へ施し人力を尽くして塔や廟を造った。しかし、三淮はメチャクチャになり五嶺は燃え尽きた。そして武帝は、熊の掌さえも食べられなかった楚の成王や魂を引き裂かれた趙の武霊王のような末路を辿り、子孫はアッとゆう間に滅亡し、社稷は廃墟となり果てた。仏徒の唱える『お布施の報い』など、嘘っぱちである!禹は、覆車の余軌を踏み、亡国の遺風を踏襲する。公を棄てて私に就き、隠顕の際を明らかにしない。俗世で暮らすくせに口には道を唱え、邪心と正心を弁じられない。累葉の殃源を修め一心の福のみを祈り、上は君主の意向に逆らい下は浮華を扇習する。自ら出家を請うたのに、すぐに翻心するなど、一迴一惑は瞬息の間。可と否をイバクの内で変えてしまう。これは棟梁の礼に背く。なんで百年を語れようか!朕は今まで我慢してきたが、禹には改悛の跡が全くない。よって商州刺史として、その封は没収する。」 

 九月、薛延陀を滅ぼした。詳細は、「薛延陀」へ記載する。
 十二月戊寅、解乞の俟利發吐迷度、僕骨の俟利發歌(「水/監」)抜延、多監葛の俟利末、抜野古の俟利發屈利失、同羅の俟利發時健啜、思結の酋長烏砕及び渾、斛薛、奚結、阿跌、契必、白習(「雨/習」)の酋長が、皆、来朝した。
 上は芳蘭殿にて宴会を催し、有司□□□□へ、五日毎に一回宴会を開くよう命じた。 

 癸未、上が長孫無忌等へ言った。
「今日は、我が誕生日だ。世俗では皆宴会などで楽しむが、朕は却って胸が痛む。今、天下に君臨し、富は四海にあり、膝下に永く得られないような歓びを承ける。これは子路の言う、『負米之恨がある』とゆうものだ。詩に言う、『哀しいかな父母、我を生んで疲れ果てた。』なんで疲れ果てた日にドンチャン騒ぎをするのか!」
 そして涙を零した。左右の臣下達も、皆、貰い泣きした。
(負米之恨、注)子路は、両親が生きていた頃は貧しくて、粗食を食べ、親の為に米を背負って百里先まで運んだ。親が死んだ後、高貴な身分になり飽食もしたが、「粗食を食べて親のために米を背負いたくてもできない」と言って悲しんだ。 

 ある時、房玄齢が些細なことで譴責を受け、第へ追い返された。すると、猪遂良が上疏した。その大意は、
「玄齢は義旗の当初から陛下の羽翼となり、武徳の末には死を冒して策を定めました。貞観の初めに賢人を立てて政策を定めましたが、この時の人臣の勤務では房玄齢が一番でした。赦されないような罪がなければ、最上の官吏は棄ててはなりません。陛下がもし、彼が年をとったと思われたなら、辞職するよう風諭し、礼節を以て退職させるべきです。些細な過失で数十年の勲旧を棄ててはなりません。」
 上は、すぐに房玄齢を呼びだした。
 この頃、房玄齢は簡易を避けて家へ帰っていた。やがて、上は芙蓉園へ御幸したが、玄齢は子弟に門庭を掃き清めさせて言った。
「乗腰がやって来るぞ!」
 しばらくして、上は果たしてその第へ御幸し、玄齢を載せて宮殿へ還った。 

  二十一年、正月。開府儀同三司申文献公高士廉が重態となった。辛卯、上はその第へ御幸し、涙を零して訣別した。
 壬辰、卒する。上が出向いて哭しようとすると、房玄齢は上も病上がりだからと、固く諫めた。すると、上は言った。
「高君とはただの君臣ではない。故旧の姻戚だ(高士廉は、長孫后の母舅)。その喪を聞いて、どうして哭に行かずにおられようか!公はもう、何も言うな!」
 左右を率いて興安門から出た。長孫無忌は士廉の喪に臨んでいたが、上がやって来ていると聞き、哭をやめて、馬首まで出迎え、諫めて言った。
「陛下は療養中です。喪に臨むのは宜しくありません。どうして宗廟蒼生の為に御自重なさらないのですか!それに、臣の舅は臨終の遺言で、北首や夷衾を望みませんでした(死者は北向きに寝かせ、屍へ衾を掛ける。「屍の安置を望まなかった」とゆう意味か?)。それでどうして陛下の膝を曲げさせることを望みましょうか。」
 上は聞かない。だが、無忌が道に身を投げ出して涙を零して固く諫めたので。上は遂に還って東苑へ入り、南を向いて慟哭し、雨のように涙を流した。柩が横橋を出るに及んで、上は長安の故城の西北楼へ登って、これを望んで慟哭した。 

  二月卯、上は言った。
「朕は、古人の取れなかった戎・狄を取ることができたし、古人が臣下とできなかった者を臣下に出来た。それは全て、衆人の望むところに従ったからだ。昔、禹は九州の民を率いて山を穿ち木を断ち切り、百川を海へ注いだ。その労苦は甚大だったが、民は怨まなかった。それは人の思いを基にして、地形に逆らわず、其の利益を民と共有したからだ。」 

 同月、上は風邪をひいたので、京師の酷暑が苦になった。夏、四月、乙丑、終南山の太和の廃宮の修理を命じ、翠微宮と名付けた。 

 五月、戊子。上が翠微宮へ御幸した。冀州の進士張昌齢が翠微宮の頌を献上した。上はその文章が大いに気に入り、通事舎人の裏供奉とした。(胡三省、注;資格が浅くて正官にできなかったので、裏供奉としたのである。)
 もともと、昌齢と進士の王公治は、共に文章が巧く、その名は京師に鳴り響いていた。考功員外郎の王師旦が貢挙を行うと、彼等を斥けたが、朝臣達は、誰もその理由を知らなかった。これが第へ上奏されると、上は二人の名前が入っていないので怪しみ、師旦を詰った。すると、師旦は答えた。
「二人は華麗な文章を作れますが、その礼は軽薄で、役人の器ではありません。もしもこれを出世させれば、後の人々もこれに倣い、ついには陛下の御政道を傷つけることになるかと危惧しました。」
 上は、その言葉を善とした。 

 庚辰、上が翠微殿へ御幸し、侍臣へ問うた。
「昔から帝王は中夏を平定しても、戎・狄を服従させることは出来なかった。朕の才覚は古人に及ばないのに、それ以上に成功したのは、我ながら不思議だ。諸公、その理由について各々の意見を率直に述べよ。」
 群臣は皆言った。
「陛下の功徳が天地のようですから、万物がその下に入らざるを得なかったのです。」
 上は言った。
「そうではない。朕がここまで成功できたのは、次の五つの理由にあるのだ。第一に、昔の帝王達は、自分より能力のある者へ嫉妬していた。朕は、人の長所を見れば自分にそれがあるかのように思う。第二に、人の行動は完全ではない。朕は常にその短所を棄て長所を取った。第三に人主は、往々にして賢人を出世させれば、これから尊敬されたがり、不肖者を斥ける時は、これを谷間に突き落としたがる。朕は賢人を見ればこれを敬い、不肖を見ればこれを憐れむ。だから賢人も不肖も、各々その所を得るのだ。第四に人主の大半は正直を憎み、密かに誅したり堂々と殺戮したり、そんなことが決してなくならない。朕は即位以来、正直の士が朝廷に肩を並べているが、未だに一人として黜責されたものがいない。第五に、昔から皆中華を貴び夷・狄を賤しんでいた。朕一人、同じように愛している。だからそれらの種落も朕を父母のように頼るのだ。この五つこそ、朕が今日の功を為した理由だ。」
 顧みて、猪遂良へ言った。
「公はかつて史官だった。朕の言葉は実を得ているか?」
 対して言った。
「陛下の盛徳は沢山ございますが、ただこの五つを自ら挙げられましたのは、けだし謙謙の志がおありになるからでございます。」 

 六月、癸亥、司徒の長孫無忌を領揚州都督としたが、任地へは下向させなかった。 

 癸未、司農卿李緯を戸部尚書とした。
 この時、房玄齢は京師の留守を預かっていたが、京師から来た者が居たので、上が問うた。
「玄齢は何と言っていた?」
 対して答えた。
「玄齢は、李緯が尚書になったと聞き、ただ一言言いました。『李緯は髭が立派だ。』」
 帝はたちまち緯を洛州刺史へ左遷した。 

  翠微宮は険隘な場所にあり、百官を収容するには手狭だった。上は、宜春の鳳凰谷へ更に玉華宮を造営するよう詔した。 

 九月丁酉。皇子明を曹王に立てた。明の母は楊氏。巣刺王の妃だったが、上から寵愛された。文徳皇后が崩御した後、上は彼女を皇后に立てたがったが、魏徴が諫めた。
「陛下の徳は唐、虞にも比肩しますのに、なんで辰?の真似をして自分を汚されますのか!」
 そこで、皇后には立てなかった。ただ、明へ元吉の後を継がせた。 

 壬子、上の病気は益々重くなったので、視朝が三日に一度となった。 

 二十二年、正月己丑。上は帝範十二篇を作り、太子へ賜下した。この十二篇は、君體、建親、求賢、審官、納諫、去讒、戒盈、祟倹、賞罰、務農、閲武、祟文である。
 上は、言った。
「修身治国の備えはこの中にある。死んでしまっても、言うことはない。」
 また、言う。
「汝は更に古の哲王を師匠とするべきだ。我など、手本にするに足りない。だいたい、上を手本にして、ようやく中になれるのだ。中を手本にしたら、下にしかなれない。我は即位以来、不善が多かった。錦繍珠玉が前に絶えず、宮室台シャ(台の上に建てる室)は屡々建造し、犬馬鷹隼は頻繁に行い、四方の行楽では供人を疲れ果てさせた。これは皆、我の深き過である。手本としてはいけない。顧みて、我の蒼生への政治は、益が多かった。中華の地位を高めた功績は甚大だった。利益が多く損失が少なかったから、故人は怨まなかった。功績が大きく過失が微小だったから、故業は墜ちない。だが、善を尽くし美を尽くした者と比べるならば、もとより心に恥じることが多い。汝は、我のような功業や勤労はないのに、我の富貴を継承する。力を尽くして善を為せば、国家は何とか安んじるだろうか、驕懦奢縦に流れるならば、一身さえ保てない。それに、成立には時間がかかるのに、アッとゆう間に滅亡してしまうのが、国だ。失いやすくて得難いのが、位だ。惜しまずにいられようか!謹まずにいられようか!」 

 中書令兼右庶子馬周が病気になった。上は自ら薬を調合し、太子に見舞いに行かせた。
 庚寅、卒する。 

 己亥、中書舎人崔仁師を中書侍郎、参知機務とした。
 同月、長孫無忌を検校中書令、知尚書・門下省事とした。
 二月、崔仁師は、自分を訴える者が居たのに握りつぶしたとして、除名となり、連州へ流された。 

 上が玉華宮を造営する時、全てを倹約させた。居殿のみは瓦で葺いたが、その他は皆茅や茨で葺いた。しかしながら、玉華宮には太子宮や百司の部屋があり、その広大さは山を包み野に絡む有様。建築費用は巨億を数えた。
 二十二年、二月乙亥。上は玉華宮へ御幸した。己卯、華原にて狩猟をする。 

 三月庚子、隋の蕭后が卒した。その位号を復し、愍と諡される。三品の葬儀をして、歯簿儀衞を備え、江都へ送って煬帝と合葬した。 

  上は高麗へ東征させ、クチャを西討させ、翠微・玉華の二宮を相継いで建造させた。充容の長城の徐恵が上疏して諫めた。その大意は、
「有限の農力を無窮の巨浪へ充てる。まだ得ていない他国の民の為に既に臣民となった我が軍を失う。昔、秦の始皇帝は六国を併呑し、却って国の滅亡を速め、晋の武帝は三方を併せて覆敗の業を為した。それは、功績に矜り強大を恃んで、徳を棄て邦を軽んじ、利を図って危機を忘れ、欲望の赴くままに行動したからではありませんか!ですから、領土を拡張させるのは常安の術ではなく、人々をこき使うのは戦乱の源だと判るのです。」
 また言う、
「茅や茨で倹約を見せつけても、土木工事の疲弊はなお興ります。人を雇ったとても、和煩擾の弊害は避けられません。」
 また言う、
「珍玩伎巧は国を滅ぼす斧斤です。珠玉錦繍は心を迷わさせる酖毒です。」
 また言う、
「作法を倹約にしても、なお豪奢になるのを恐れるのです。作法を豪奢にしたら、その後どうやって制御するのですか!」
 上はその言葉を善とし、これを重く礼した。 

 六月癸酉。特進蕭禹が卒した。
 諡について、太常は「徳」を推し、尚書は「粛」を推した。上は言った。
「諡は、其の行跡を見て、的を得なければならない。『貞褊』と諡するが良い(褊は、了見が狭い、の意。「貞淑だが偏屈」とゆうことか)。」
 子の鋭が後を継いだ。
 鋭は、上の娘の襄城公主を娶っていた。彼女が下嫁する際、上は彼等の為に第を造営しようとしたが、公主は固辞して言った。
「婦は朝夕そばにいて、舅や姑に仕えるのです。別に第を造ったら、仕えきれないことが多くございます。」
 そこで上は、禹の第を造らせた。 

 京師の留守をしている司空梁文昭公房玄齢が重病になった。上は玉華宮へ徴召し、肩輿で入殿させて御座の傍らで降ろした。上は玄齢と相対して涙を零し、そのまま宮下へ留めた。その後、玄齢の症状が少し回復したと聞いては喜びで顔を輝かせ、悪くなったと聞いては憂鬱で憔悴した。
 玄齢は諸子へ言った。
「我は主上の御厚恩を受けた。今、天下は無事だが、ただ東征が止まない。群臣は誰も敢えて諫めようとしないし、我はその害を知っていながら口にしない。これでは死んでも余責があるぞ。」
 そして、上表して諫めた。その大意は、
「老子は言いました。『満足を知れば辱められず、止まるを知れば危うからず。』と。陛下の高名威徳は、もう充分です。国土拡大も限度があります。それに、陛下は一死刑囚の判決毎に必ず三覆五奏させ、死刑執行の日には質素な食事にして音楽も止めさせています。これは、人の命の尊さを思ってのことではありませんか。それなのに今、無罪の士卒を刃の下へ駆り立てて、肝脳を地へ塗りつけようとしています。彼等のみ、愍れむに足りませんのか!それは、高麗が臣節を失ったのなら、これを誅すべきです。百姓を侵擾したのなら、滅ぼすべきです。後々中国の患いとなるのなら、除くべきです。しかし、今、この三箇条がありませんのに、中国の民を出征に煩わさせる。これは、内には前回の恥を雪ぎ、外には新羅の報復をする為だけです。何と些細な原因で 、大きな損を受けるのでしょうか!どうか陛下、高麗が悔い改めることを許し、軍監を焼き募兵を罷めてください。そうすれば華も夷も自然と慶頼し、遠方からは慕われ、近くは安らぎましょう。臣は旦夕にも地下へ入ります。もしもこの哀鳴を採っていただけましたら、臣は死しても朽ちません!」
 玄齢の子息の遺愛は上の娘の高陽公主を娶っていた。上は、公主へ言った。
「彼はこのように重病なのに、なお、我が国のことを憂えてくれている。」
 上は自ら見舞いに行き、手を握って訣別したが、悲しみをこらえきれなかった。
 七月癸卯、卒した。 

 柳芳、曰く。
 玄齢は太宗の天下平定を補佐した。臨終になるまで宰相の地位にあり、その期間は凡そ三十二年。天下は賢相と号したが、その行跡を尋ねてみても、何も見あたらない。彼の徳はそこまで至ったか。
 太宗が禍乱を平定したのに、房・杜は功績を言い立てなかった。王、魏が善く諫めると、房・杜は彼等の賢へ譲った。英・衞が用兵に巧ければ、杜・房はその道を行った。太平を致しながら、善は全て人主へ帰順させたのだ。唐の宗臣となったのは、宜しいかな! 

 八月、己酉朔、日食が起こった。 

 九月己亥、黄門侍郎猪遂良を中書令とする。 

 二十三年、四月。上が太子へ言った。
「李世勣には才知が有り余っているが、汝は彼へ何の恩も与えていない。これでは服従されないかも知れない。だから我は今回、彼を地方へ飛ばす。もしも奴がすぐに出立したなら、我が死ぬのを待ってから、彼を僕射として親任せよ。だが、奴が出立をぐずついたなら、殺してしまうぞ。」
 五月、戊午、同中書門下三品李世勣を畳州都督とした。李世勣は詔を受けると、家にも帰らずに出発した。
 辛酉、開府儀同三司衞景武公李靖が卒した。 

 上の病状は益々ひどくなった。
 太子は昼夜側を離れない。数日食事を摂らない時もあり、頭には白髪も混じり始めた。上は、泣いて言った。
「汝がそんなに孝養を尽くしてくれるから、もう死んでも恨みはないぞ!」
 丁卯、病が篤く、長孫無忌を含風殿へ召し入れた。上は伏したまま無忌の顎へ手を差し出した。無忌は悲しさに耐えきれずに哭く。上は、遂に何も言えなかったので、無忌を退出させた。
 己巳、再び無忌と猪遂良を部屋へ召し入れ、言った。
「朕は今、後事を全て公輩へ託す。公輩も知っているように、太子は孝仁だ。これを善く輔導してくれ!」
 そして、太子へ言った。
「無忌と遂良がいれば、汝は天下に憂いがないぞ!」
 また、遂良へ言った。
「無忌は我へ忠節をつくした。我が天下を取れたのも、彼の助力が大きい。我が死んでも、讒言で疑ったりするな。」
 そして、遂良へ遺詔を書かせた。
 しばらくして、上は崩御した。(享年53歳) 

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