「君はただ南牙の政事だけ考えていればよい。北門を少し作り直したのが、君に何の関係があるのか!」
玄齢等が拝謝すると、魏徴が進み出た。
「臣は、なぜ陛下が玄齢等を責められるのか判りません。それに、玄齢等もなぜ拝謝するのですか!玄齢等は陛下の股肱耳目です。中外の事で、何を知らずにいて良いものでしょうか!作り直すのが正しければ、陛下を助けて完成させるべきですし、正しくなければ止めるよう陛下に請うべきです。係りの役人へ尋ねたのは理として適宜な行動です。何の罪で責めているのか、また、何の罪で謝ったのか、私には判りません!」
上は、甚だこれを愧じた。
上がかつて、朝廷へ臨んで侍臣へ言った。
「朕は人主となったのだから、いつも将相のことを考えている。」
給事中張行成が退出の後に上書して言った。
「禹は討伐をしませんでしたが、これと争う者は天下におりませんでした。陛下は乱世を弾いて正しい世の中へ返してくださいました。群臣は誠にご尊顔を拝するだけでも勿体のうございます。ですが、これをわざわざ朝廷で言うことはありません。万乗の尊い身の上で、群臣と功績や能力を競うなど、臣は、陛下の為にならないと愚考いたします。」
上はこれを甚だ善とした。
十六年正月。兼中書侍郎岑文本を中書侍郎として、機密を専知させた。
夏、四月、壬子。上が諫議大夫猪遂良へ言った。
「卿は起居注を作成しているが、書いたものを見せてはくれないか?」
対して言った。
「史官は人君の言動を書き、善悪を記載して遺します。人君が悪いことを書かれたくないと思いますから、その悪業の歯止めとして役に立つのです。書かれるご本人がこれを見るとゆう話は、聞いたことがありません!」
上は言った。
「朕の言動に不善があれば、卿はそれを記載するのか?」
「臣の職務でございます。描かないわけにはゆきません。」
黄門侍郎劉自(「水/自」)が言った。
「遂良に書かせなくても、天下の人々が、皆、これを記します。」
上は言った。
「誠にそうだ。」
六月、庚寅、息隠王を皇太子へ追復し、海陵刺王元吉を巣王へ追封すると詔した。諡は共に旧来通りとする。
七月、戊子。長孫無忌を司徒として、房玄齢を司空とした。
特進魏徴が病気になった。上は自ら詔を書いて病状を問い、かつ、言った。
「数日見ないと、朕の過失が多くなる。今、出向いて行きたいが、卿へ労苦を掛けるのも本意ではない。もしも側聞することがあれば、封書で進言せよ。」
徴は上言した。
「最近は、弟子が師匠を凌駕し、奴婢が主人を蔑ろにし、下のくせに上を軽く見る者が多く、それをだれも咎めません。この風潮を増長させてはいけません。」
また、言う。
「陛下が朝廷へ臨まれる時は、常に公の立場で発言をされますが、退出して実践する時には、私情をなくせません。あるいは、過失を人に知られることを畏れ無体に威怒しても、隠そうとするだけ益々顕れるのです。何の役に立ちましょうか!」
徴の家には堂がなかった。そこで上は小殿の材料でこれを造るよう命じたら、五日間で完成した。上は更に素屏風、素褥、几、杖等を賜り、その尚ぶものを示した。徴が上表して感謝すると、上は自ら詔を書いて、言った。
「卿をここに住まわせるのは、国民と国家のためだ。卿一人の為ではない。感謝が過ぎるぞ!」
十一月壬申、上は言った。
「朕が兆民の主となったのは、皆が富貴にして欲しかったからだ。もしも彼等へ礼儀を教え、若者は年長を敬い、婦は夫を敬うようにすれば、みなが貴くなれる。雑徭を軽く賦税を薄くして、生業へ精を出させれば、皆が富裕になれる。もし民が満足して人が満ち溢れれば、朕は管弦を聞かなくても、その中に楽しみがあるのだ。」
上が、侍臣へ問うた。
「昔から、主君が乱れて臣下が治まった時や、主君が治まって臣下が乱れた時があったが、どちらの方がマシだったかな?」
すると、魏徴が答えた。
「主君が治まるとは、善悪と賞罰が合致しているとゆうことです。臣下がどうしてこれを乱すことが出来ましょうか!いやしくも治まらないと言うのなら、暴虐で諫言も聞かないとゆうこと。良臣がいても何ができましょうか!」
上は言った。
「北斉の文宣が楊遵彦を得たのは、主君が乱れて臣下が治まっていたと言えないかな?」
「彼は、どうにか滅亡を救ったとゆうくらいです。なんで治まったと言えましょうか!」
鄭文貞公魏徴が病気になったので、上は見舞いの使者を派遣して薬などを賜下したが、この使者が道に満ち溢れるほどだった。また、中郎将李安儼を派遣して魏徴の第に泊まり込ませ、道西を上聞させた。更に、上は太子と共に魏徴の第へ出向き、衡山公主を指さして、子息の叔玉へ娶らせたく思った。
十七年、正月戊辰、徴が崩じた。上は、百官九品以上は全員喪へ赴き、羽かざりが生い茂り音楽が奏でられる中、昭陵へ陪葬するよう命じた。
だが、魏徴の妻の裴氏が言った。
「徴は平生質素でしたのに、今、一品羽儀で葬られました。亡者の本意ではありますまい。」
そして、全て辞退し、布車に柩を載せて埋葬した。
上は苑の西楼へ登って陵を望んで慟哭し、哀しみを尽くした。また、自ら碑文を作り、石に書いた。
上は徴を忘れられず、侍臣へ言った。
「人が銅を鏡とすれば、衣冠を正せる。古を鏡とすれば、興亡の理が見える。人を鏡とすれば、過失を知ることが出来る。魏徴が没して、朕は鏡を一つ失った!」
二月、壬午。上が諫議大夫猪遂良へ問うた。
「舜が漆器を作った時、十余人が諫めたというが、これは諫める程の事かな?」
対して答えた。
「奢侈は、危亡の大本です。漆器を造れば、それでは終わらずに金玉の器まで行き着くでしょう。忠臣が主君を愛する時には、必ず萌芽を防ぎます。もしも禍乱が起こってしまえば、諫めることもできません。」
「そうだな。朕に過失があれば卿はそれが小さいうちに諫める。朕は、前世の帝王達が諫言を拒む様を見たが、その多くは言った。『その事業は既に始めたのだ。』あるいは言う。『もう許可したのだ。』そして、ついに改めない。このようであれば、危亡を嫌がっても、どうして避けられようか!」
この時、都督や刺史となった皇子の大半が幼かった。遂良は上疏した。その大意は、
「漢の宣帝は言いました。『我と共に天下を治める者は、ただ良二千石か!』今、皇子は幼くてまだ政治も判らなければ、京師に留めて経術を教え、長じるのを待って派遣した方が宜しゅうございます。」
上は、同意した。
二月、鹿(「鹿/里」)州都督尉遅敬徳が隠居を願い出た。乙巳、敬徳を開府儀同三司とし、五日に一度の参内とする。
丁未、上は言った。
「人主は、ただ一心しかないが、攻める者は非常に多い。あるいは勇力で、あるいは弁口で、あるいは諂諛で、あるいは姦詐で、あるいは嗜欲で、繰り返し繰り返し攻めてきて、各々自分を売り込んで寵禄を取ろうとしている。人主が心を緩めてその一つを受ければ、危亡は随従してやって来る。これが艱難の所以だ。」
戊申、上は、功臣の趙公長孫無忌、趙郡元王孝恭、莱成公杜如晦、鄭文貞公魏徴、梁公房玄齢、申公高士廉、ガク公尉遅敬徳、衞公李靖、宋公蕭禹(「王/禹」)、褒忠壮公段志玄、?公劉弘基、蒋忠公屈突通、員(「員/里」)節公殷開山、焦(「言/焦」)襄公柴紹、丕(「丕/里」)襄公長孫無忌、員(「員/里」)公張亮、陳公候君集、炎(「炎/里」)公張公謹、盧公程知節、永興文懿公虞世南、渝襄公劉政會、呂(「草/呂」)公唐倹、英公李世勣、胡壮公秦叔寶等の絵を凌煙閣に描かせた。
六月丁酉、右僕射高士廉が退職を請願したので、これを許した。開府儀同三司と勲封は、従来通りで、同門下中書三品、知政事が加わる。
四月。皇太子承乾の造反が発覚した。皇子治が皇太子に立てられた。詳細は、「皇太子の乱」へ記載する。
太子承乾が徳を失った頃、上は中書侍郎兼左庶子の杜正倫へ密かに言った。
「吾は、あれの足の病など些細なことだと思っている。だが、賢良を疎み遠ざけ、小人達と狎れ遊んでいる。卿よ、判るだろう。どうしても更生できなかったら、我へ報告に来てくれ。」
正倫は屡々諫めたが、聞かれない。そこで、これを上へ語った。すると太子が反論を上表したので、上は正倫が機密を漏洩したと思い、責めた。すると正倫は言った。
「臣は、少しでも良い方へ向かってくれることを冀っただけでございます。」
上は怒り、正倫を穀州刺史へ左遷した。
やがて承乾は廃立された。秋、七月、辛卯、正倫は再び左遷されて交州都督となった。
話は前後するが、魏徴はかつて正倫と侯君集は宰相の才覚があると推薦し、君集を僕射にするよう請い、かつ、言った。
「国家は安泰でも危機を忘れず。大将は居なくてはいけません。諸衞兵馬は君集へ全て統治させるのが宜しゅうございます。」
だが、上は君集が派手好みなので、用いなかった。
正倫が罪を得て降格され、君集が造反で誅されるに及んで、上は始めて、魏徴が党を作って結託していたのではないかと疑い始めた。
又、ある者から、”魏徴は前後の諫言を全て記録していて、起居郎の猪遂良へ見せていた”と告げられて、上は益々不愉快になった。そこで、叔玉と公主との婚約を破棄し、碑文を破り捨てた。
(訳者、曰く。)唐の太宗皇帝とゆうのは、中国史上五本の指に入る明君であり、魏徴は中国史屈指の名臣である。それでいて、太宗が魏徴を疑った。その話を聞いて、どんな主君がどの臣下を疑わずに済むのだろうか、と恐ろしささえ感じたものだった。だが、侯君集へ衞兵馬を全て委ねるよう請願したのは、明らかに魏徴の眼鏡違いだ。人は未来を知ることは出来ないとは言うものの、もしも太宗がこの推薦に従い、そして太子の造反が計画通り決起されていたならば、侯君集の兵力はどのように使われただろうか?侯君集の人格から、その不逞を予期した人間は何人も居た。魏徴は、疑われないまでも、この一言で大きな譴責を受けなければならないだろう。
初め、上は監修国史房玄齢へ言った。
「前世の史官の記録は、皆、人主に見せなかった。何故かな?」
対して言った。
「史官は虚美せず、悪を隠しません。もしも人主がこれを見れば必ず怒ります。ですから敢えて献上しないのです。」
「朕の心は、前世とは違うぞ。帝王が自ら国史を観たがるのは、前日の悪を知り、後来の戒めとしたいからだ。公は選んだ物を上聞させるが良い。」
諫議大夫朱子奢が上言した。
「陛下がその身に聖徳を備え、挙動に過失がなければ、史官の記載は善を尽くす道理です。陛下一人だけが起居を観ても天下に害はありません。しかし、もしもこれが法となって子孫に伝われば、曾孫玄孫の後に、あるいは非を飾り短を護るような凡庸な者が顕れたなら、仕官は絶対刑誅を免れません。そうなれば、仕官は害を避ける為に天子の望み通りに脚色するようになります。千年の後には、何も信じられなくなりますぞ!前代から不観とされていたのは、そうゆう訳なのです。」
上は従わなかった。
玄齢と給事中許敬宗等は、高祖、今上実録を清書した。癸巳、完成し、献上される。上は、書の六月四日(玄武門の変当日)の記述を見て、覆い隠されている部分が多いとして、玄齢へ言った。
「周公は、管・蔡を誅して周を安泰にし、季友は叔牙を毒殺して魯を存した。朕がやったのは、この類だ。史官が、何で遠慮するのか!」
そして、軽薄な修飾を削り取り、事実を赤裸々に描くよう命じた。
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