貞観の治  その五
 

 十三年、二月庚辰。光禄大夫尉遅敬徳を鹿(「鹿/里」)州都督とした。
 上がかつて尉遅敬徳へ言った。
「誰かが、『卿が造反した』と言いふらしたら、どうするかな?」
 対して言った。
「臣の造反は事実です!臣は陛下に従って四方を征伐し、百戦を経ました。今生き残っているのは、皆、生え抜きの勇者です。天下が既に定まったのに、更に臣の造反を疑うのですか!」
 そして衣を地面に投げ捨てて、傷跡を顕わにした。上は涙を零して言った。
「卿よ、服を着なさい。朕は卿を疑っていないから、こんなことも言えたのではないか。卿は何を恨むのか!」
 上は又、かつて敬徳へ言った。
「朕の娘を卿へ娶らせたいのだが、どうだ?」
 敬徳は土下座して謝った。
「臣の妻は鄙びた田舎者ですが、長い間貧賤を共にしてきたのです。臣に学はありませんが、『古人は、金持ちになっても妻を替えなかった』と聞きます。どうかご勘弁ください。」
 上は、思い止まった。 

 五月、旱が起こった。甲寅、五品以上に封事を上納するよう詔が降りた。
 魏徴が、上疏した。その大意は、
「陛下が政治を執られました貞観の当初と比べまして、怠惰になってしまったことが十条ございます。」
 その中に次のような一条があった。
「この頃、軽々しく民を労役に使い、言います。『百姓は無事が続くと驕慢になる。労役に使っていた方が治めやすいのだ。』しかし古来から、百姓を安逸にして破れた者や、こき使って安泰だった者はおりません。これは、国を興す至言ではないことを恐れます。」
 上は深く賞嘆して言った。
「すでに諸々の屏風に張り付けて、朝夕仰ぎ見て居るし、史官にも記録させた。」
 そして、魏徴へ黄金十斤と厩馬二匹を賜下した。 

 十四年五月。上が洛陽へ御幸しようと思い、将作大匠閻立徳へ避暑地を造るよう命じた。秋、八月、庚午。汝州の西山に襄城宮を造る。
 立徳は、立本の兄である。 

 十一月、司門員外郎(天下の諸関所を掌握し、関所の出入往来を司る。)韋元方が給使(禁中の必要品を調達する役職か?宦官が任命されていた。)へ通過する諸関所の通行手形を迅速に発行しなかった。給使がこれを告発すると、上は怒り、元方を華陰令へ左遷した。
 魏徴が諫めた。
「帝王の怒りは、妄りに発してはなりません。以前、給使の為に夜中に敕書を出しましたが、夜中に勅書を出すなど、まるで軍事上の大事件が起きたかのような処置です。誰が驚かずにいられましょうか!ましてや宦官とゆう連中は、古来から養いがたいもの。口は軽いしすぐに患害を生みます。一人で遠方まで使者として派遣するのは宜しくありません。増長しないように深く慎んで使うべきであります。」
 上は、その言葉を納れた。 

 十二月、上が侍臣へ言った。
「朕は天下を平定したけれども、これを守るのは甚だ難しい。」
 魏徴が言った。
「臣は、『戦って勝つは易く、守って勝つは難し』と聞きます。陛下の口からそのような言葉が出るのは、社稷の幸いでございます。」 

 上が自ら練兵に列席した。その時、整然としていない部隊があったので、中郎将等を杖打つよう、大将軍張士貴へ命じた。だが、その打ち方が生ぬるかったので怒り、士貴を裁判に掛けようと、吏へ引き渡した。すると、魏徴が諫めて言った。
「将軍は、国の爪牙です。そのような者へ杖打たせる事自体、既に後々の手本になりません。ましてや、打ち方が手緩いと吏へ引き渡すなど、とんでも無いことでございます。」
 上は、速やかに士貴を釈放した。 

 上が自ら表や奏へ目を通して、途中での遮蔽を防ぐよう請う者が多かった。上が魏徴へ問うと、徴は答えた。
「彼等は大礼を知らないのです。陛下が一々目を通さ無ければならないのは、朝堂の事だけではありません。州県のことも、同様に陛下自ら行わなければならないのです。」 

 十五年正月、上が洛陽へ御幸した。皇太子を監国とし、右僕射高士廉を補佐として、留めた。
 辛巳、温泉へ到着した。衞士の崔卿と?文懿が、随従させられることを懼れ、上を驚かして中止させようと、夜、行宮へ矢を射た。寝庭まで飛んだ矢が五本もあった。皆は、これを大逆と論じた。
 三月、戊辰、襄城宮へ御幸した。その土地は灼熱で、毒蛇が多かった。庚午、襄城宮を廃止して百姓へ分賜し、閻立徳を罷免した。 

 五月丙子、上が殿屋を指して侍臣へ言った。
「天下を治めるのは、この屋を建てるようなものだ。既に完成してしまったら、屡々移設することはできない。一本のたるき、一枚の瓦でも、手を加えたなら必ず傷つく所が出てくる。もしも派手な功績を遺そうと法度を変えたら、従来と同じ成果を出すだけでも多くの労力を必要とするのだ。」 

 八月乙巳、上が侍臣へ言った。
「朕には二つの喜びと一つの懼れがある。今年は豊作で、長安では一斗の粟が三、四銭で買える。これが喜びの一。北虜が長い間服従しており、辺鄙に惧れがない。これが喜びの二。世の中が安らかに治まれば奢侈が生まれやすく、奢侈になればたちまち危亡がやってくる。これが一つの懼れだ。」 

 并州大都督長史李世勣が州に滞在して十六年経ち、彼の威令に民は喜んで服従していた。
 上は言った。
「隋の煬帝は百姓をこき使い、長城を造って突厥へ備えたが、遂に、何の役にも立たなかった。陳はただ李世勣を晋陽へ置いているだけで、辺域から戦争が無くなってしまった。彼自身が長城となるとは、何とも勇壮なことではないか!」
 十一月、庚申、世勣を兵部尚書とした。 

 十二月、上が魏徴へ問うた。
「この頃の朝臣は、なんで反論をしないのかな?」
 対して言った。
「陛下が虚心に受け入れるなら、必ず反論が出てきます。臣下には、国に殉じようとする者は少なく、我が身を愛する者が多いのです。彼等は罪を畏れて、何も言わないのです。」
 上は言った。
「その通りだ。人臣が説を述べれば主君の機嫌に逆らい、動けば刑誅へ行き着くとゆうのなら、湯火を踏み白刃を冒すのと、何ら異ならないぞ!だから禹は昌言を拝した。それはこの意味か。」
 房玄齢と高士廉が、路上で少府少監の竇徳素と遭い、問うた。
「北門は、何故作り直したのかな?」
 徳素がこれを上奏すると、上は怒り、玄齢等へ言った。「君はただ南牙の政事だけ考えていればよい。北門を少し作り直したのが、君に何の関係があるのか!」
 玄齢等が拝謝すると、魏徴が進み出た。
「臣は、なぜ陛下が玄齢等を責められるのか判りません。それに、玄齢等もなぜ拝謝するのですか!玄齢等は陛下の股肱耳目です。中外の事で、何を知らずにいて良いものでしょうか!作り直すのが正しければ、陛下を助けて完成させるべきですし、正しくなければ止めるよう陛下に請うべきです。係りの役人へ尋ねたのは理として適宜な行動です。何の罪で責めているのか、また、何の罪で謝ったのか、私には判りません!」
 上は、甚だこれを愧じた。 

 上がかつて、朝廷へ臨んで侍臣へ言った。
「朕は人主となったのだから、いつも将相のことを考えている。」
 給事中張行成が退出の後に上書して言った。
「禹は討伐をしませんでしたが、これと争う者は天下におりませんでした。陛下は乱世を弾いて正しい世の中へ返してくださいました。群臣は誠にご尊顔を拝するだけでも勿体のうございます。ですが、これをわざわざ朝廷で言うことはありません。万乗の尊い身の上で、群臣と功績や能力を競うなど、臣は、陛下の為にならないと愚考いたします。」
 上はこれを甚だ善とした。 

 十六年正月。兼中書侍郎岑文本を中書侍郎として、機密を専知させた。 

 夏、四月、壬子。上が諫議大夫猪遂良へ言った。
「卿は起居注を作成しているが、書いたものを見せてはくれないか?」
 対して言った。
「史官は人君の言動を書き、善悪を記載して遺します。人君が悪いことを書かれたくないと思いますから、その悪業の歯止めとして役に立つのです。書かれるご本人がこれを見るとゆう話は、聞いたことがありません!」
 上は言った。
「朕の言動に不善があれば、卿はそれを記載するのか?」
「臣の職務でございます。描かないわけにはゆきません。」
 黄門侍郎劉自(「水/自」)が言った。
「遂良に書かせなくても、天下の人々が、皆、これを記します。」
 上は言った。
「誠にそうだ。」 

 六月、庚寅、息隠王を皇太子へ追復し、海陵刺王元吉を巣王へ追封すると詔した。諡は共に旧来通りとする。 

 七月、戊子。長孫無忌を司徒として、房玄齢を司空とした。 

 特進魏徴が病気になった。上は自ら詔を書いて病状を問い、かつ、言った。
「数日見ないと、朕の過失が多くなる。今、出向いて行きたいが、卿へ労苦を掛けるのも本意ではない。もしも側聞することがあれば、封書で進言せよ。」
 徴は上言した。
「最近は、弟子が師匠を凌駕し、奴婢が主人を蔑ろにし、下のくせに上を軽く見る者が多く、それをだれも咎めません。この風潮を増長させてはいけません。」
 また、言う。
「陛下が朝廷へ臨まれる時は、常に公の立場で発言をされますが、退出して実践する時には、私情をなくせません。あるいは、過失を人に知られることを畏れ無体に威怒しても、隠そうとするだけ益々顕れるのです。何の役に立ちましょうか!」
 徴の家には堂がなかった。そこで上は小殿の材料でこれを造るよう命じたら、五日間で完成した。上は更に素屏風、素褥、几、杖等を賜り、その尚ぶものを示した。徴が上表して感謝すると、上は自ら詔を書いて、言った。
「卿をここに住まわせるのは、国民と国家のためだ。卿一人の為ではない。感謝が過ぎるぞ!」 

 十一月壬申、上は言った。
「朕が兆民の主となったのは、皆が富貴にして欲しかったからだ。もしも彼等へ礼儀を教え、若者は年長を敬い、婦は夫を敬うようにすれば、みなが貴くなれる。雑徭を軽く賦税を薄くして、生業へ精を出させれば、皆が富裕になれる。もし民が満足して人が満ち溢れれば、朕は管弦を聞かなくても、その中に楽しみがあるのだ。」 

 上が、侍臣へ問うた。
「昔から、主君が乱れて臣下が治まった時や、主君が治まって臣下が乱れた時があったが、どちらの方がマシだったかな?」
 すると、魏徴が答えた。
「主君が治まるとは、善悪と賞罰が合致しているとゆうことです。臣下がどうしてこれを乱すことが出来ましょうか!いやしくも治まらないと言うのなら、暴虐で諫言も聞かないとゆうこと。良臣がいても何ができましょうか!」
 上は言った。
「北斉の文宣が楊遵彦を得たのは、主君が乱れて臣下が治まっていたと言えないかな?」
「彼は、どうにか滅亡を救ったとゆうくらいです。なんで治まったと言えましょうか!」 

 鄭文貞公魏徴が病気になったので、上は見舞いの使者を派遣して薬などを賜下したが、この使者が道に満ち溢れるほどだった。また、中郎将李安儼を派遣して魏徴の第に泊まり込ませ、道西を上聞させた。更に、上は太子と共に魏徴の第へ出向き、衡山公主を指さして、子息の叔玉へ娶らせたく思った。
 十七年、正月戊辰、徴が崩じた。上は、百官九品以上は全員喪へ赴き、羽かざりが生い茂り音楽が奏でられる中、昭陵へ陪葬するよう命じた。
 だが、魏徴の妻の裴氏が言った。
「徴は平生質素でしたのに、今、一品羽儀で葬られました。亡者の本意ではありますまい。」
 そして、全て辞退し、布車に柩を載せて埋葬した。
 上は苑の西楼へ登って陵を望んで慟哭し、哀しみを尽くした。また、自ら碑文を作り、石に書いた。 
 上は徴を忘れられず、侍臣へ言った。
「人が銅を鏡とすれば、衣冠を正せる。古を鏡とすれば、興亡の理が見える。人を鏡とすれば、過失を知ることが出来る。魏徴が没して、朕は鏡を一つ失った!」 

 二月、壬午。上が諫議大夫猪遂良へ問うた。
「舜が漆器を作った時、十余人が諫めたというが、これは諫める程の事かな?」
 対して答えた。
「奢侈は、危亡の大本です。漆器を造れば、それでは終わらずに金玉の器まで行き着くでしょう。忠臣が主君を愛する時には、必ず萌芽を防ぎます。もしも禍乱が起こってしまえば、諫めることもできません。」
「そうだな。朕に過失があれば卿はそれが小さいうちに諫める。朕は、前世の帝王達が諫言を拒む様を見たが、その多くは言った。『その事業は既に始めたのだ。』あるいは言う。『もう許可したのだ。』そして、ついに改めない。このようであれば、危亡を嫌がっても、どうして避けられようか!」
 この時、都督や刺史となった皇子の大半が幼かった。遂良は上疏した。その大意は、
「漢の宣帝は言いました。『我と共に天下を治める者は、ただ良二千石か!』今、皇子は幼くてまだ政治も判らなければ、京師に留めて経術を教え、長じるのを待って派遣した方が宜しゅうございます。」
 上は、同意した。 

 二月、鹿(「鹿/里」)州都督尉遅敬徳が隠居を願い出た。乙巳、敬徳を開府儀同三司とし、五日に一度の参内とする。 

 丁未、上は言った。
「人主は、ただ一心しかないが、攻める者は非常に多い。あるいは勇力で、あるいは弁口で、あるいは諂諛で、あるいは姦詐で、あるいは嗜欲で、繰り返し繰り返し攻めてきて、各々自分を売り込んで寵禄を取ろうとしている。人主が心を緩めてその一つを受ければ、危亡は随従してやって来る。これが艱難の所以だ。」 

  戊申、上は、功臣の趙公長孫無忌、趙郡元王孝恭、莱成公杜如晦、鄭文貞公魏徴、梁公房玄齢、申公高士廉、ガク公尉遅敬徳、衞公李靖、宋公蕭禹(「王/禹」)、褒忠壮公段志玄、?公劉弘基、蒋忠公屈突通、員(「員/里」)節公殷開山、焦(「言/焦」)襄公柴紹、丕(「丕/里」)襄公長孫無忌、員(「員/里」)公張亮、陳公候君集、炎(「炎/里」)公張公謹、盧公程知節、永興文懿公虞世南、渝襄公劉政會、呂(「草/呂」)公唐倹、英公李世勣、胡壮公秦叔寶等の絵を凌煙閣に描かせた。 

  六月丁酉、右僕射高士廉が退職を請願したので、これを許した。開府儀同三司と勲封は、従来通りで、同門下中書三品、知政事が加わる。 

 四月。皇太子承乾の造反が発覚した。皇子治が皇太子に立てられた。詳細は、「皇太子の乱」へ記載する。
 太子承乾が徳を失った頃、上は中書侍郎兼左庶子の杜正倫へ密かに言った。
「吾は、あれの足の病など些細なことだと思っている。だが、賢良を疎み遠ざけ、小人達と狎れ遊んでいる。卿よ、判るだろう。どうしても更生できなかったら、我へ報告に来てくれ。」
 正倫は屡々諫めたが、聞かれない。そこで、これを上へ語った。すると太子が反論を上表したので、上は正倫が機密を漏洩したと思い、責めた。すると正倫は言った。
「臣は、少しでも良い方へ向かってくれることを冀っただけでございます。」
 上は怒り、正倫を穀州刺史へ左遷した。
 やがて承乾は廃立された。秋、七月、辛卯、正倫は再び左遷されて交州都督となった。
 話は前後するが、魏徴はかつて正倫と侯君集は宰相の才覚があると推薦し、君集を僕射にするよう請い、かつ、言った。
「国家は安泰でも危機を忘れず。大将は居なくてはいけません。諸衞兵馬は君集へ全て統治させるのが宜しゅうございます。」
 だが、上は君集が派手好みなので、用いなかった。
 正倫が罪を得て降格され、君集が造反で誅されるに及んで、上は始めて、魏徴が党を作って結託していたのではないかと疑い始めた。
 又、ある者から、”魏徴は前後の諫言を全て記録していて、起居郎の猪遂良へ見せていた”と告げられて、上は益々不愉快になった。そこで、叔玉と公主との婚約を破棄し、碑文を破り捨てた。
(訳者、曰く。)唐の太宗皇帝とゆうのは、中国史上五本の指に入る明君であり、魏徴は中国史屈指の名臣である。それでいて、太宗が魏徴を疑った。その話を聞いて、どんな主君がどの臣下を疑わずに済むのだろうか、と恐ろしささえ感じたものだった。だが、侯君集へ衞兵馬を全て委ねるよう請願したのは、明らかに魏徴の眼鏡違いだ。人は未来を知ることは出来ないとは言うものの、もしも太宗がこの推薦に従い、そして太子の造反が計画通り決起されていたならば、侯君集の兵力はどのように使われただろうか?侯君集の人格から、その不逞を予期した人間は何人も居た。魏徴は、疑われないまでも、この一言で大きな譴責を受けなければならないだろう。 

 初め、上は監修国史房玄齢へ言った。
「前世の史官の記録は、皆、人主に見せなかった。何故かな?」
 対して言った。
「史官は虚美せず、悪を隠しません。もしも人主がこれを見れば必ず怒ります。ですから敢えて献上しないのです。」
「朕の心は、前世とは違うぞ。帝王が自ら国史を観たがるのは、前日の悪を知り、後来の戒めとしたいからだ。公は選んだ物を上聞させるが良い。」
 諫議大夫朱子奢が上言した。
「陛下がその身に聖徳を備え、挙動に過失がなければ、史官の記載は善を尽くす道理です。陛下一人だけが起居を観ても天下に害はありません。しかし、もしもこれが法となって子孫に伝われば、曾孫玄孫の後に、あるいは非を飾り短を護るような凡庸な者が顕れたなら、仕官は絶対刑誅を免れません。そうなれば、仕官は害を避ける為に天子の望み通りに脚色するようになります。千年の後には、何も信じられなくなりますぞ!前代から不観とされていたのは、そうゆう訳なのです。」
 上は従わなかった。
 玄齢と給事中許敬宗等は、高祖、今上実録を清書した。癸巳、完成し、献上される。上は、書の六月四日(玄武門の変当日)の記述を見て、覆い隠されている部分が多いとして、玄齢へ言った。
「周公は、管・蔡を誅して周を安泰にし、季友は叔牙を毒殺して魯を存した。朕がやったのは、この類だ。史官が、何で遠慮するのか!」
 そして、軽薄な修飾を削り取り、事実を赤裸々に描くよう命じた。 

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