貞観の治  その四
 
 十一年正月。上が飛山宮を作った。 

 庚子、特進魏徴が上疏した。その大意は、
「煬帝はその富強を恃み後患を思わず、豪奢を窮め欲望を極め、百姓を困窮させ、その身は他人に殺され社稷は廃墟となりました。陛下は乱をはじいて正へ返した時、隋が滅んだ原因と我等が天下を得ることのできた所以をよく考え、豪華な宮殿を撤廃して卑宮に安んじられたのではありませんか。もしも基礎があるからといって増築し、旧来をまねて装飾を加えるのなら、これは乱を以て乱に取って代わる事に他なりません。殃咎は、必ずやってきます。得るのは難しくとも、失うのは簡単なのですぞ。それをお忘れくださいますな!」 

 上は、漢代は山陵を作っていたので後世まで民が労役に苦しまされたのだと考え、また、自分の子孫が益々豪奢傲慢になってゆくことも恐れた。
 二月丁巳。これより山をそのまま陵として、棺桶に入れるだけにすることを国の制度とした。 

 甲子、上は洛陽宮へ御幸した。
 上が顕仁宮へ至った時、官吏の接待が悪かったとして譴責した。魏徴が諫めた。
「陛下は接待が悪かったとして官吏を譴責されましたが、その風潮が煽られたらかつてのように民が生きることを悦ばなくなってしまうのではないかと、臣は恐れますし、それは陛下の本意でもありますまい。昔、隋の煬帝は郡県を巡った時に持てなしがご馳走だったか質素だったかで賞罰を与えました。そうして海内が造反したのです。これは陛下も御自身の目で見た事ですが、どうしてその様な行いに倣おうとなさるのですか!」
 上は驚いて言った。
「公でなければ、その様なことは言ってくれまい。」
 よって、上は長孫無忌等へ言った。
「朕は昔は飯を買って食べ、宿舎を賃借りして住んでいた。それが今ではこのように持てなされている。なんで不満を言えようか!」 

 三月、丙戌朔、日食が起こった。 

 庚子、上が洛陽宮の西苑で宴会を開き、積翠池へ舟を浮かべ、侍臣を顧みて言った。
「煬帝はこの宮を造り、民の怨みを買った。それが今は、すっかり我のものだ。これは、宇文述や虞世基、裴蘊等が内にて阿諛追従に励み、外には煬帝の聡明を覆い隠してくれたおかげだ。戒めとせずにはいられない!」 

 夏、四月、己卯。魏徴が上疏して言った。
「始まりを善くする人主は多いのに、最後まで全うする者は少のうございます。これは、採ることが易しくて守るのが難しいからではありませんか?そう、憂うべき事が多いときには下の者へ誠意を尽くして対していますが、安逸な毎日は心を驕恣にさせて物事を軽く見るようになります。誠意を尽くせば胡と越でも一心になれますし、物事を軽く見れば六親でも離間します。刑罰で脅しつけれたところで、彼等は顔だけは服従しますが心中に不服が溜まります。人主となれば、欲しいものを見たときは満足の心を思いましょう。宮の建築や修繕をしたくなれば止めることを思いましょう。高危な地位にあるのですから謙降を思いましょう。満ち溢れたものへ臨んでは減らすことを思いましょう。逸楽に遭ったら節約節制を思いましょう。宴楽の時には後患を思いましょう。事実を覆い隠されることを防ぐために、延納を思いましょう。讒邪を疾むのなら己を正しくしましょう。封爵や褒賞を行う時は喜びによって与え過ぎることを戒めましょう。刑罰を施す時には怒りによって乱用することを戒めましょう。この十思を兼ねて賢者を選び能力に従って仕事を任せれば、何もしなくても治まります。なんで苦労して百司の任務を一で行う必要がありましょうか!」
 五月、壬申。魏徴が上疏した。その内容は以下の通り。
「陛下の善を求める志が、かつてほどではなくなりました。過ちを聞けば必ず改めるとゆう態度は、昔よりも少なくなりましたし、譴責することは多くなり、些細なことでも激怒なさいます。『貴ければ努力しないでも驕慢になり、富めば自然に奢侈になる』とゆうのは虚言ではないと思い知らされた次第です。ですが、隋代の府庫や倉廩の蓄え、戸口の数や武装の盛強は、今日と比べてまだ上回っておりましたぞ!しかし、隋は富強だから工事や戦争を次々と起こして国を危うくし、我等は寡弱だから節約を旨として国を安泰にしました。安危の理は一目瞭然です。昔、隋でまだ乱が起こる前、兵乱や民乱を起こす者など出るわけがないと言っておりましたし、亡びる前は我等が亡ぶわけがないと言っていました。ですから賦役は次々と課され、征伐は止まず、我が身が殺される直前まで尚も悟りませんでした。身繕いをする為には止水を鏡として自分の姿を見るように、国を存続させる為には亡国を鏡とするのが一番です。伏してお願いいたします。隋を反面教師として、奢を去り倹約に従い、忠臣に親しみ奸佞を遠ざけてください。当今の無事な御時勢に昔日のように恭倹を行ったら、善を尽くし美を尽くしたと褒められずにはいられないでしょう。それ国を奪うことは実に難しく、守ることは甚だ容易です。陛下はその艱難をやり遂げられました。どうして容易なことが出来ぬ筈がありましょうか!」 

 七月、魏徴が上疏した。
「文子が言いました。『同じ事を言っても、信じられる事も信じられない事もある。信は、言葉を出す前にあるのだ。同じように、同じ法令を施行しても、遵守される場合とされない場合がある。誠は、法令の外にあるのだ。』陛下が王道を教化して十余年になりますが、徳化が余り進まないのは、臣下の真情を汲み取ろうとゆう想いが、誠信を尽くしていないせいです。
 今、行政府を立て政治を行うのですから、君子へ委任しなければならなりませんが、事の得失程度のことは、あるいは小人へ尋ねます。ところで、君子へ対する時は相手を敬い一歩退いて接しますが、小人へ対しては軽々しく狎れたつきあいをします。狎れた相手ならば言葉を尽くして話せますが、一歩退いたつき合いはなかなか本音が吐けません。
 相手が中智の人間だからといって、小賢しい智恵がないと言い切れましょうか!ですが、小恵は所詮小恵です。才覚が経国からほど遠く、思慮が遠くへ及ばなければ、力を尽くし誠意を尽くしても、なお失敗を免れません。ましてや彼等が心の内に奸佞を含んでいれば、その禍は不覚ならずには済みません!
 逆に君子と言っても、小過は当然犯します。しかし、正道を害さない程度なら、うち捨てても構わないのです。既に君子と言いながら、その不信を疑うなど、直木を立てているのに影が曲がっているのかと疑うようなものですぞ!
 陛下、どうか慎んで君子を選び、礼と信を以てこれを用いてください。そうすれば、どうして治まらないことを憂えましょうか!それができなければ、危亡の道です。社稷を保つことが出来ません。」
 上は手ずら詔を書き、これを褒め称えて言った。
「昔、晋の武帝が呉を平定した後、志意が驕慢怠惰となった。この時、何曾は台司の頂点に立ちながら直諫できず、子孫へ私的に語って自分の明智を誇った。これは不忠の大なるものだ。公の諫を得て、朕は過を知った。弦、韋の故事に負けぬよう、これを常に几案へ置くことにしよう。」 

 六月丁巳、上は明徳宮へ御幸した。
 秋、七月、庚未。大雨が降る。穀水と洛水の水が溢れ、洛陽宮へ流れ込んだ。この洪水は官寺や民の住居を壊し、六千余人が溺死した。
 乙未、車駕が洛陽へ還った。詔が降りる。
「洛陽宮の洪水で壊れた箇所は、何とか住める程度の修復で構わない。余った資材は、城中の壊れた廬舎の復興の為に配給せよ。また、百官は各々朕の過失を極言した封事を上納せよ。」
 壬寅、明徳宮及び飛山宮の玄圃院を壊し、水害の被災者へ復興資材として配給した。
 八月、甲子。上が侍臣へ言った。
「上納された封事は、皆、朕が狩猟をやりすぎていると言っていた。しかし、今は天下無事だが、武備を忘れてはいけない。狩猟はその為の鍛錬だ。それは、朕とて時には左右と共に後苑にて狩猟をすることはあるが、民を煩わせたことは一度もないぞ。一体何の害があるのか!」
 魏徴が言った。
「先王は、ただ自分の過失が耳に入らないことを恐れていました。陛下は封事を上納するよう命じながら、陳述を禁じられるのですか。封事に採用するべき事が書いてあれば勿論国の利益ですが、採るべき物が無くても損はありません。」
 上は言った。
「公の言葉は正しい。」
 そして、皆を労って散開させた。 

 侍御史の馬周が上疏した。
「三代から漢へ及ぶまでの王朝は、長い国で八百年、短くても四百年は命脈を保ちました。これは恩義で人心を掴んだので、人々がその徳を忘れられなかったからです。しかし、その後は長い国でも六十年、短い国はたかだか二十年余りしか続いていません。これは恩愛を施さず、その本根を固めなかった為です。陛下は、禹、湯、文、武のような功業を建てられました。これからは子孫万代の基盤を築かれるべきです。どうしてその場限りの生活をして宜しいでしょうか!今の戸口は隋代の十分の一にも及びませんのに、労役に徴発される民は兄が去れば弟が戻るといった案配で、道路に相継いでおります。陛下が詔で恩愛を加えてその負担を減らそうとしても、造営や修繕がやまなければ、民はどうして休むことが出来ましょうか!ですから司徒が文書を出しても、嘘で固まってしまうのです。
 昔、漢の文、景帝は恭倹で民を養いました。武帝はその豊富な資産を受け継ぎましたので、豪奢を窮め欲望を極めたのに乱世へ至らなかったのです。もしも高祖の次の世代に武帝を即位させていたら、漢王朝がどうして長く続くことが出来たでしょうか!
 また、京師及び四方で造った乗輿や器用及び諸王、妃、主の服飾は、議者達皆が倹約ではないと評しております。大体、苦労知らずのお坊ちゃんでは後世怠惰になるものです。陛下は幼い頃から民間で育ち、民の疾苦を知られているのになおこのようになさるのでは、深宮で育った皇太子は更に輪がかかり、陛下万歳の後には聖慮の憂えるところとなりましょう。
 臣が古来の歴史を見ますに、愁怨した百姓が寄り集まって盗賊となってしまえば、その国が上辺はまだ亡んでいなくても、既に内実は、人主が改革を欲してももう復興させることが出来ないところまで来ているのです。ですから、修復するべき時に修復しなければ、全てを失った後に悔いることになります。けだし、かつては幽王やレイ王はケツ、紂を笑っていましたし、煬帝も又北周や北斉を笑っていました。今の我々が煬帝を笑うように、後世の人間に今の我々を笑わせて良いのですか!
 貞観の初期に天下が飢饉となり、一斗の米が一匹の絹と交換されていましたが、百姓は怨みませんでした。陛下が憂えていつも心に留めていることを知っていたからです。今、豊作が続いて一匹の絹で粟十余斗が購えますが、百姓には怨みの心が生じています。陛下がこれらを心に留めず不急の造営ばかりしていることを知っているからです。
 古来より国の興亡は、蓄積の多少ではなく、百姓の苦楽にありました。最近の例を挙げるなら、隋は洛口倉へ穀物を貯めていましたが李密はこれを奪って力を蓄え、東都に布帛を積んでいたおかげで王世充が強大となり、西京の府庫は我が国の財産となり今に至るもまだ残っております。勿論、畜積はなければなりませんが、人の力に余力があったときにこれを収めるべきもので、力尽くで奪い取って、寇敵へ与えるものではありません。
 国用を倹約して人々を休めるのは、既に陛下は貞観の初期に履行していたことで、今日同様に行うのも、難しいことではありません。陛下が長久の策を求めておられるのなら、その手本を遠い上古に求めなくても、貞観の初期のようになされば、天下にとって甚だ幸いでございます。
 陛下の諸王への寵遇は、厚すぎるものがあります。万代の後のことを深く思わなければなりません。魏の武帝は陳思王を愛しましたので、文帝が即位するに及んで、諸王を囚人とし、おかげで一族は途絶えてしまいました。それならば、武帝の愛情は、かえって彼等を苦しめただけではありませんか。
 また、百姓の治安は、ただ刺史や県令にかかっております。彼等が立派な人物ならば、陛下は手を拱いているだけでよいのです。それなのに今の朝廷では、ただ内官のみに重点を置き、州県の人選を軽く見ています。刺史の多くは武人であったり、あるいは不手際な京官の左遷先であったりしておりますし、辺遠の州県はなおさらお座なりにされています。
 百姓が不穏なのは、これらが原因なのです。」
 疏が上奏されると、上は善しと称し、しばらくして侍臣へ言った。
「刺史は朕が自ら選ぶ。県令は京官以上へ詔して各々一人推挙させよ。」 

 冬、十月癸丑。死亡した勲戚は山陵へ陪葬するよう詔した。 

 上が洛陽苑で狩猟をしたところ、猪の群が林中からから飛び出してきた。上は弓を四発射て、四匹を射殺した。それでも一匹の猪が御前に飛び出して、馬鐙まで届いた。民部尚書唐倹が馬を投げてこれを撃つと、上は剣を抜いて猪を斬り、唐倹を顧みて笑って言った。
「天策長史(唐倹は、太宗が天策上将府を開府した時、その長史だった)は、上将が賊を撃ったのを見たことがないのか?何と大袈裟に懼れることか!」
 対して答えた。
「漢の高祖は馬上で天下を取りましたが、馬上で治めたわけではありません。陛下は神武で四方を平定したお方です。なんで雄心を一獣ごときに振るわれるのですか!」
 上は悦び、彼の為に狩猟を中止した。やがて、唐倹には光禄大夫が加えられた。 

  十二年春、正月、乙未。礼部尚書王珪が上奏した。
「三品以上の者も途上で親王に遭ったら、皆、乗り物から降りていますが、これは礼ではありません。」
 上は言った。
「卿等は自分が偉ぶりたくて、我が諸子を軽く扱うのか。」
 すると、特進魏徴が言った。
「諸王の地位は三公に次ぎます。今、三品は皆九卿や八座ですから、王の為に降りるのは正しくはありません。」
 上は言った。
「人の命は明日をも知れない。万一太子に不幸があれば、諸王が将来お前達の主人になるかもしれないのだぞ!何で軽々しく扱えようか!」
 対して言った。
「周以来、子孫が相継ぎ、兄弟が立つことはありません。嫡庶の区別をしっかりと確立することが、禍乱の根元を塞ぐのです。これは、国が深く戒めるべき事です。」
 上は、珪の上奏に従った。 

 二月、乙卯、車駕が西へ還った。
 癸亥、河北へ御幸し、砥柱を観る。
 乙丑、上が禹廟を祀った。
 丁卯、柳谷へ至り、塩池を観る。
 庚午、蒲州へ至った。すると刺史の趙元楷は、父老達へ黄紗の単衣を着て車駕を迎えさせた。宿舎や楼観は盛大に飾り付け、百余頭の羊と数百頭の魚で貴戚達を持てなした。上は、これを詰って言った。
「朕は河・洛の省を巡ってきたが、どこへいっても、物資は官庫へ蓄えてあった。亡隋の弊俗に染まっているのは卿のみだ。」
 甲戌、長春宮へ御幸する。
 戊寅、詔して言う。
「隋のもとの鷹撃郎将堯君素は、堯へ吠えついたケツの犬のように正義へ刃向かう志があったとは言え、疾風に負けぬ悍草のように節義強い心を表した。よって蒲州刺史を追贈し、子孫へ世襲させる。」
 閏月、庚辰朔、日食が起こった。
 丁未、車駕が京師へ至った。 

 丙子、皇孫が生まれたので、五品以上を東宮へ集めて宴会を開いた。
 上は言った。
「貞観以前に朕に従って天下を経営したのは、房玄齢の功績だ。貞観以後に過ちを正したのは魏徴の功績だ。」
 皆、佩刀を賜下した。
 上は魏徴へ言った。
「朕の政治は、往年と比べてどうかな?」
 対して言った。「我が国の威徳は、貞観の初期よりもはるかに遠くまで及んでおります。しかし初期の頃は、今以上に、人々が悦んで服していました。」
 上は言った。
「遠方の国々は、威を畏れ徳を慕ったから服従してきたのではないか。初期の頃に及ばないとゆうのなら、どうして彼等は朝貢してきたのだ?」
「陛下は、かつてはまだ治まっていないことを憂えていました。ですから徳義は日々新しくなっていったのです。今は既に治まり満足しておられます。ですから及ばないのです。」
「今の行動は、往年と比べてどこが変わったのかな?」
「貞観初期の陛下は人が諫めてくれないことを恐れ、いつも思いの丈を言えるように誘導し、正しい時には悦んで従いました。今はそうではありません。勉めてこれに従っていても、なお、不満が顔に現れています。そこが違います。」
「具体的に聞かせてくれるか?」
「陛下が、昔元律師や孫伏伽を殺そうとした時、法に照らして死罪にしませんでした。陛下が孫伏伽へ蘭陵公主の荘園を賜下しました時、その園が百万の価値があった為、ある者は『褒賞としては厚すぎます』と言いましたが、陛下は言われました。『朕が即位してから、まだ諫言した者が居ない。だから、これを賞するのだ。』と。これは、諫言を導かせました。司戸柳雄が、隋の授けた官資を妄りに訴えた時、陛下はこれを誅殺しようとしましたが、戴冑の諫めを納れて思い止まりました。これは、悦んで従ったのです。ところが最近では、皇甫徳参が上書して洛陽宮の修復を諫めた時、陛下は心中で怒られました。臣下の言葉を納れて止めはしましたが、これなどは無理して従った例です。」
 上は言った。
「公でなければここまで言うまい。人は、自分を知らぬから苦しむのだ!」 

 甲寅、上が侍臣へ問うた。
「創業と守成は、どちらが難しいか?」
 房玄齢が言った。
「草昧の初めは、群雄が並び立ち、力を競った後にこれを臣下としました。創業の方が困難です!」
 魏徴が言った。
「古より帝王は、艱難の中から天下を得、安逸な暮らしでこれを失いました。ですから、守成の方が困難でございます!」
 上は言った。
「玄齢は吾と共に天下を取り、百死を出て一生を得た。だから、創業の困難を知っているのだ。徴は吾と共に天下を安んじ、富貴から驕奢が生まれることや、ないがしろにしているところから禍乱が生まれることを常に恐れている。だから、守成の困難を知っているのだ。だが、創業の困難は、既に終わった。守成の艱難は、諸公と共にこれから身を慎んでゆこう。」
 玄齢等は拝礼して言った。
「陛下がこのように言われたことは、四海の幸いでございます。」 

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