貞観の治  その三
 
貞観六年(632)、正月。上が九成宮へ御幸しようとしたら、通直散騎常侍姚思廉が諫めた。上は言った。
「気分が優れず、熱さが堪らなくこたえるのだ。これを避けに行くだけだ。」
 そして、思廉へ絹五十匹を賜下した。
 観察御史馬周が上疏した。その大意は、
「東宮は宮城の中にありますが、大安宮は宮城の西にあります。皇宮の制度と比べますと、まだ卑小で、四方からの観聴には手狭です。もっと高く広く増築改修して、中外の望みに応えましょう。また、太上皇は御高齢です。陛下は朝夕にご様子を見られますよう。今、九成宮は、京師から三百里も離れております。太上皇が陛下に会いたくなった時、陛下はそのたび駆けつけますか?また、今回の御幸は避暑に過ぎないとのことですが、太上皇をこの暑い中へ置き去りにして陛下一人涼しい場所で暮らすなど、温清の礼から見て心が安まらないと思われます。既に御幸の計画ができていて中止できないと言うのでしたら、どうか速やかに帰ってきて、衆惑を解いてください。また、王長通や白明達は楽工で、韋槃堤や斛斯正は馬の調教しかできません。たとえその技量が衆人より秀でていたとしても、金帛を賜下すれば済むことです。制度以上の官爵を授けられ、玉を鳴らし裾を引きずり、士君子と肩を並べて立ち同席して食するなど、臣はこれを恥ずかしく思っておりますぞ!」
 上は、深くこれを納れた。
 三月、戊辰、上は九成宮へ御幸した。 

 三月、長楽公主の下嫁も間近になった。公主は皇后の生んだ娘だったので、上は特に彼女を愛しており、嫁入り道具は永嘉長公主の倍張り込むと、敕を出した。魏徴が諫めた。
「昔、漢の明帝が皇子を封じようとした時、言われました。『我が子が、どうして先帝の子と肩を並べられようか!』そして、楚王や淮陽王の半分の領土に封じたのです。今、公主の嫁入り道具が長主の倍になっていますが、明帝とはなんと心がけの違うことでしょうか!」
 上はその言葉に納得し、入って皇后へ告げた。すると后は感嘆して言った。
「陛下が魏徴を重んじていることは、つねづね妾も聞き知っていましたが、その理由までは知りませんでした。今、礼儀を挽いて人主のわがままを抑えたことを見て、ほんとうに社稷の臣だと知りましたわ!妾と陛下は夫婦で、誰よりも愛されていますけれども、それでも話す前に陛下の顔色を窺い、軽々しく機嫌を損ねることのないように気を遣ってしまいます。ましてや臣下ならばもっと疎遠ですのに、よくこのように正論をはけるものです。陛下も従わずにはいられませんわね。」
 そして、魏徴の元へ使者を遣って銭四百緡、絹四百匹を賜下するよう請い、かつ、彼へ言った。
「公が剛直だと聞いておりましたが、今、これを目の当たりに見ましたので、賞しました。公はその心を大切にして、けしてなくさないでください。」
 ある時、上は朝廷から中座して怒って言った。
「この田舎爺を殺してくれよう。」
 后が理由を聞くと、上は言った。
「魏徴が、朝廷のたびに我を辱めるのだ。」
 すると、后は退出し、朝廷での正装で庭に立った。上が驚いて理由を問うと、后は言った。
「『主君が聡明ならば臣下は剛直になる』と、妾は聞いています。今、魏徴が剛直だと聞きましたが、これは陛下が聡明な証拠です。妾がどうして祝賀せずにいられましょうか!」
 上は悦んだ。 

 夏、四月、辛卯。襄州都督鄒襄公張公謹が卒した。翌日、上は出次して哀悼した。すると役人が、辰の日は哭を忌むと上奏したが、上は言った。
「臣下と主君は、親子のようなものだ。真情から衷が出るのに、なんで辰の日を避けられようか!」
 ついに、彼の為に哭した。 

 辛未、三品以上の者と丹霄殿にて宴会を開いた。上はくつろいで、言った。
「中外が平和なのも、皆、公卿の力だ。だが、隋の夷、夏に威勢を表した煬帝も、北荒に誇った頡利も、西域に雄據した統葉護も、今や全て亡んでしまった。これは、朕も公等も目の当たりに見たことだ。強勢に驕って慢心してはならないぞ!」 

 閏月、乙卯。上が近臣と丹霄殿にて宴会を開いた。長孫無忌か言った。
「王珪や魏徴は、昔は仇敵でした。それでも今日のような宴会で共に楽しまれるのですね。」
 上は言った。
「徴と珪は心を尽くして仕えてくれるから、我は彼等を用いているのだ。だが魏徴は、我が諫められても従わない時には、絶対我の言葉に応じない。何故かな?」
 魏徴は答えた。
「臣は、いけないと思うから諫めるのです。陛下がそれに従わないのに臣がこれに応じては、ズルズルと遂行されてしまうではありませんか。ですから敢えて動かないのです。」
 上は言った。
「応じながら再び諫めても良いではないか!」
「昔、舜が群臣を戒めました。『お前達、面従しながら退出した後に陰口をたたいたりしてはならない。』と。臣が心ではその非を知りながら口では陛下に応じたのでは、面従であります。これは稷や契が舜に仕えたやり方ではありませんか!」
 上は大笑いして言った。
「人々は、魏徴は挙止をないがしろにしていると言っていたが、我は艶やかな美しさを感じていた。挙止の底に流れる想いを感じ取っていたせいだ!」
 徴は立って、拝謝して言った。
「陛下が臣の言葉を採ってくださいますので、臣も愚かな想いを尽くせるのです。陛下が拒んで受けなければ、臣は敢えて顔色を犯すようなことを、どうしていたしましょうか!」 

 戊辰、秘書少監虞世南が「聖徳論」を献上した。上は自ら詔を書いて賜下する。
「卿の論は高すぎる。朕がどうして上古の聖人達になぞらえたりしようか。近世の主君より頭一つ抜け出しているだけだ。しかも、今日はその始まりを見ただけで、どのように終わるか知らない。もし、朕が最後までこのまま慎んでいたら、この論も後世へ伝える価値があるが、そうでなければ、卿は後世の人々から笑われてしまうぞ!」 

 九月、己酉、慶善宮へ御幸した。ここは、上の生家である。そこで、貴人と共に宴会を開き、詩を賦した。起居郎の清平の呂才がメロディーを付けた。功成慶善楽と命名される。童子八人に九功の舞を舞ませ、大宴会が開かれ、庭にては破陣舞が演じられた。
 同州刺史尉遅敬徳が、この宴会に参加していたが、上座へ据えられた者がいたので、怒って言った。
「お前はどんな功績があって、我の上座へ座るのか!」
 任城王道宗がその下座に座っていたので、これをなだめたところ、敬徳は道宗を殴りつけ、おかげで道宗の目が腫れ上がってしまった。
 上は気分を害して宴会を中止し、敬徳へ言った。
「朕は、漢の高祖が功臣達を誅殺したのを聞き、いつもこれを咎めていた。だから、卿等と共に、子々孫々まで富貴を保ちたかったのだ。だが、卿が官に居って屡々法を犯すのを見て、韓信や彭越が死刑になったのも高祖の罪ではないと判った。国の綱紀は、ただ賞と罰によってのみ保たれる。恩愛によって何度も目をつぶることはできないのだ。勤めて自らの行いを修め、後悔するような羽目に陥るな!」
 敬徳は、これによって始めて懼れ、自ら行いを抑えるようになった。
 十月、乙卯。車駕が京師へ帰った。帝は大安宮にて上皇に侍って宴会をした。帝と皇后は更に飲食や衣服を献上して、夜遅くまで宴会は続いた。帝は、自ら上皇の輿を担いで殿門までゆきたがったが、上皇は許さず、その役は太子に命じた。 

 十一月庚寅、左光禄大夫陳叔達を礼部尚書とする。帝は叔達へ言った。
「卿は武徳年間に直言をしたので、この官職で報いるのだ。」
 対して言った。
「臣は隋室で親子が殺し合い国を滅ぼしてしまったのを見ています。あの日の言葉は、陛下の為だけではなく、社稷の計でもあるのです!」 

 十二月、癸丑。帝は侍臣と安危の大本について論じた。すると、中書令温彦博が言った。
「陛下が常に貞観の初期の頃であるように、伏してお願い申し上げます。そうすれば、大丈夫です。」
 帝は言った。
「朕はこのごろ政に怠け始めたかな?」
 魏徴が言った。
「貞観の初めは、陛下は節倹を心がけ、諫言を求めて止みませんでした。ところがこの頃では、宮殿の改修が多く、諫言を受けると怒りの色が顔に現れております。ここの所が変わってまいりました。」
 帝は手を打って大笑いした。
「全くその通りだ。」 

 上が侍臣へ言った。
「朕が決裁したことが、或いは律令に触れているかも知れない。公輩は、それと判っても、些細なことならば復奏しないで流してしまう。しかし、事は些細なことから大きくなって行く。これこそ危亡の端緒である。昔、関龍逢が忠義から諫言して死んだ。朕はいつもこれを痛ましく思う。煬帝が驕慢暴虐で国を滅ぼしたことは、公輩もその目で見たことだ。公輩が常に朕の為に煬帝の滅亡を思い、朕は常に公輩の為に関龍逢の死を念じれば、君臣に溝ができることどうして起ころうか!」 

 上が魏徴へ言った。
「官の人選は、間に合わせではいけない。一人の君子を用いれば君子が大勢やって来るし、一人の小人を用いれば、小人達が競って集まってくる。」
 対して言った。
「その通りです。天下が定まらない時には、専ら才覚で人を選び品行を考えませんでしたが、騒乱は既に平定しました。才品兼備の者でなければ用いてはなりません。」 

 七年、春、正月。「破陣舞」を、「七徳舞」と改名する。
 癸巳、三品以上及び州牧、蛮夷の酋長と玄武門で宴をし、七徳、九功の舞を奏でる。
 太常卿蕭禹が上言した。
「七徳舞での聖功の形容には、不備なところがあります。どうか、劉武周、薛仁果、竇建徳、王世充等を捕らえたときの有様を取り入れてください。」
 上は言った。
「彼等は皆、一時の英雄だ。今の朝廷の臣下にも、彼等へ北面して仕えた者は大勢居る。もしもかつての主君の屈辱の有様を見せつけられたら、心を痛めずにはいられないではないか!」
 禹は謝って、言った。
「これは臣の愚慮の及ぶところではありません。」
 魏徴は、上へ武を抑えて文を修めて欲しかったので、宴会にて七徳舞が舞われたら首をうなだれたまま見もしないで、九功舞が舞われたらこれをじっくりと観覧した。 

 三月、戊子、侍中王珪が、禁中の会話を漏洩したとして、同州刺史へ左遷された。
 庚寅、秘書監魏徴が侍中となった。 

 十一月、壬辰、開府儀同三司長孫無忌を司空にした。無忌は固辞して言った。
「臣は忝なくも外戚となっております。天下の人々が陛下のことを情実で登庸したと譏るのではないかと心配なのです。」
 しかし、上は許さず、言った。
「我は、官職に人を選ぶ時、ただ才覚だけを問うのだ。いやしくも不才ならば、親戚でも用いない。襄邑王神符がそれだ。才覚が有れば、仇敵でも厭わない。魏徴がこれだ。今回推挙したのは、情実ではない。」 

 十二月、甲寅、上が芙蓉園へ御幸した。
 丙辰、少陵原にて狩猟をした。
 戊午、宮殿へ帰った。もとの漢の未央宮にて、上皇に従って酒を飲んだ。上皇は、突厥の頡利可汗へ舞を舞うよう命じ、また、南蛮の酋長の馮智戴へ詩を詠ませた。その後、笑って言った。
「胡と越が一家となった。こんな事は古来はじめてだ!」
 上は杯を奉って上寿し、言った。
「今、四夷が入臣したのは、皆、陛下の遺徳であり、臣の智力の及ぶところではございません。昔、漢の高祖も太上皇に従って、この宮で酒を飲みましたが、彼はその時、妄りに功績を誇りました。臣は敢えてその様なことは致しません。」
 上皇は大いに悦んだ。伝襄の者は、皆、万歳と唱えた。 

 帝が左庶子于志寧と右庶子杜正倫へ言った。
「朕は十八まで民間にいたので、民の苦しみや患い、感情や偽りまで知らぬものはなかったが、大位についてから世務を執っていると、それでもなお、いろいろな過失を起こしてしまう。ましてや太子は深宮で生まれ育ち、百姓の艱難など耳目にも触れないでいて、どうして驕逸にならずにすむだろうか!卿等、極諫せねばならぬぞ!」
 太子は遊び好きで礼法に無頓着だった。志寧と右庶子孔穎達は屡々直諫した。上はこれを聞いて嘉し、各々へ金一斤、絹五百匹を賜下した。 

 工部尚書段綸が、楊思斉とゆう細工の名人を徴用するよう上奏した。そこで上が、その腕を試させると、綸はからくり人形を造らせた。上は言った。
「巧工を得たならば国事に役立てるべきなのに、卿はまっさきにオモチャを造らせた。これでは百工は小細工を弄することばかり持てはやすようになるではないか!」
 そして綸の階を削った。 

 上が魏徴へ問うた。
「群臣の上書に採るべき内容のものがあっても、いざ召し出して話させてみると、大したことがない場合が多い。どうしてかな?」
 魏徴は答えた。
「臣の見るところ、百司は上奏する時、常に数日その事ばかりに思いを巡らせながらも、上の前に出ると三分の一も口にできません。ましてや諫める者はいつ逆鱗に触れるかとビクビクものです。陛下が顔色に気を付けなければ、なんで真情を尽くすことができましょうか!」
 これ以来上は、群臣と接する時に、いよいよ温和な顔つきとなった。
 上は常に言う、
「煬帝は猜疑が多く朝廷へ臨んでも群臣へ対して多くを語らなかった。朕はそうではないぞ。群臣とは一体のように親しんでおる。」 

 右僕射李靖が病気を理由に退職を願い出、許された。
 十一月、辛未、靖を特進とした。封爵はもとのままで、俸禄や吏卒も旧給通り。病状が癒えるのを待って、三両日ごとに門下へ出仕し中書平章として政治を見るよう命じた。 

 十二月、帝は隋の通事舎人鄭仁基の娘を充華とした。詔が降りて使者を派遣しようとゆう段になって、彼女には陸爽とゆう許嫁者が居たとゆうことを魏徴が聞きつけ、上表して諫めた。帝はこれを聞いて大いに驚き、自ら詔を書いて深く自分を責め、勅使の派遣を中止した。
 房玄齢等が上奏した。
「許嫁の陸氏は口約束で、大礼は既に行われています。中止してはなりません。」
 爽もまた、婚約などしていなかったと上表した。
 帝は徴へ言った。
「群臣は我が既望を容れているし、爽もまたこのように言ってきた。どうするかな?」
 すると魏徴は言った。
「爽としては、陛下が上辺は受け入れてくれても、密かに罪へ陥れるかもしれないと考えたら、このように言うしかなかったのです。」
 帝は笑って言った。
「余人の思いも又、そうかも知れないな。朕の言葉は、これ程に、まだ他人からは信じられていなかったのか。」 

 中牟丞の皇甫徳参が上言した。
「洛陽宮の改修で人は労役に苦しんでいます。地租は重すぎます。人々が高髻を好んでいるのは宮中の悪影響です。」
 上は怒り、房玄齢等へ言った。
「徳参は、一人の労役も出さず、無税にして、宮人を坊主にしなければ気が済まぬのか!」
 そして、政治誹謗罪にあてようとした。すると魏徴が諫めた。
「賈誼の、漢の文帝への上書文に、『一人が痛哭した時には、二人が流涕している。』とあります。昔から、上書は激切でなければ人主の心を動かすことはできないものです。いわゆる狂人の言葉なら、聖人は採りません。ただ陛下、お察しください!」
 上は言った。
「朕がこの人を罰したら、誰も上書しなくなるな!」
 そして、絹二十匹を賜下した。
 他日、魏徴が上奏した。
「陛下は最近直言を好まなくなられました。勤めて寛容に振る舞ってはおられますが、往時のようではなくなってしまいました。」
 上は皇甫徳参へ更に賜下品を増し、監察御史に任命した。 

 九年四月、上が魏徴へ言った。
「北斉の後主と北周の天元は、共に百姓へ重税を課して自分一人贅沢をしたが、その為に国力が疲弊して国を亡してしまった。これを喩えるならば、人が自分の肉を食べるようなものだ。肉が尽きれば死んでしまう。何と愚かなことではないか!だが強いて比べれば、どちらの方が、より愚かだろうか?」
 魏徴は答えた。
「斉の後主は惰弱で、側近達から良いように操られていました。周の天元は暴君で威福は全て自分で握っていました。同じように国を滅ぼしましたとはいえ、斉主は最も劣っています。」 

 岷州都督、鹽澤道行軍総管生が軍期に遅れたので、李靖がこれを裁いた。生は靖を恨み、靖が謀反を企んでいると誣告した。そこで調べてみたが、事実無根だった。
 九年八月、庚辰、生は有罪となり、死一等を減じられて辺境へ流された。
 ある者が言う。
生は、秦府の頃からの功臣でした。どうか罪を寛恕してやってください。」
 しかし、上は言った。
生は、李靖の命令に違い、また、彼が造反したと誣告した。これを寛恕するなら、法はどこに適用されるのか!それに、晋陽で国家ができてから、功臣は多い。もしも生が免れたなら、人々が法を犯した時、どうやって禁じればよいのか!我は、旧勲を忘れたわけではないが、これは敢えて赦せないのだ。」
 李靖は、この事件以来、門を閉じて賓客を謝絶するようになり、親戚と雖も妄りには会えなくなった。
 十一月特進李靖が上書し、遺誥に依って、常服を着て正殿へ臨むよう請うたが、許されなかった。 

 十一月戊午、光禄大夫蕭禹を特進として、再び政治に参与させた。
 上は言った。
「武徳六年以後、高祖には廃立の想いがあったが、決断できなかった。我は兄弟から容れられず、それこそ『功績の高い者は賞されず』の懼れがあった。その時にあってこの人は、利益で誘えず死で脅かせなかった。まさしく、社稷の臣である!」
 そして、禹へ詩を賜った。
「疾風に強い草を知り、悪政に誠臣を識る。」
 又、禹へ言った。
「卿の忠直は、古人以上だ。だが、善悪を鮮明にし過ぎると、いずれ全てを失うぞ。」
 禹は再拝して感謝した。
 魏徴が言った。
「禹は衆人に迎合しないで孤立した。ただ、陛下だけがその忠勁を知ったのだ。たまたま聖明に遭わなければ、艱難へ陥っていたぞ!」 

 九年、五月。高祖が崩御した。
 十年春、正月、甲午、上が始めて自ら政治を聴いた。 

 六月侍中魏徴が、屡々目の病で退官を求めていた。上はやむを得ず、徴を特進としたが、侍中ではなくなったがなおも門下事は裁断させ、朝章国典は得失に参議させ、流罪以上の罪は詳しく聞かせ、その禄賜は、吏卒は職務にあった時と同様にした。 

 長孫皇后は仁孝倹素な性格で、読書を好み、いつも上と共にくつろいだ有様で古事を語り合い、意見を交換し、教え合うことが多かった。
 時には、上が宮人を濡れ衣で怒ることがあったが、その様なときには皇后は上辺は上にあわせて叱りつけ、裁断を自ら買って出た。そして、軟禁するよう命じておいて、上の怒りが収まるのを待ってから徐に理を述べた。だから、宮中では妄りに刑罰が横行することはなかった。
 豫章公主は早くに母を失っていたので后が養女としたが、実の子供以上に慈しんだ。妃嬪などが病気になると、后は自ら看病し、薬なども賜下したので、宮中では誰からも敬愛されていた。
 諸子へ訓諭する時には、謙譲倹約を第一にした。かつて太子乳母遂安夫人が、東宮に器物が少ないので増やして欲しいと奏したが、后は許さず、言った。
「太子となったのですから、徳が立たず名が揚がらないことを患いなさい。器物がないことなど何ですか!」
 上が病気になり長年直らないと、后は側に侍って昼夜離れなかった。いつも毒薬を衣帯に入れておき、言った。
「もしもの時は、妾も生きては行けません。」
 后は、もともと病弱だった。前年上に従って九成宮へ御幸した時、柴紹等が夕方に緊急事態を告げて来た。上が甲を被って閤へ出て状況を問うと、后は病をおしてついてきた。左右がこれを止めたが、后は言った。
「上が驚かれたのです。我が心がなんで安んじられましょうか!」
 これ以来、病状は重くなった。
 太子が后へ言った。
「医者も薬も揃っているのに、病気はちっとも良くなりません。罪人へ大赦を下し人々の出家を奨励するよう上奏して、冥福を獲得してください。」
 すると、后は言った。
「死ぬも生きるも天命です。智力でどうなるものではありません。善いことをしたら福があるといわれても、私は悪いことなどしていません。そうでないのなら、妄りに福を求めて何が得られましょうか!恩赦は国の大事です。容易に下すものではありません。道、仏は異端の教えで、国を蚕食し民を病ませます。皆、上が平素から信じないもの。なんで私如き一婦人が上へ勧められましょうか!そんなことをするくらいなら、サッサと死んだ方がましです!」
 それで太子は上奏しなかったが、私的に房玄齢へ語った。房玄齢が上へ語ると、上はこれを哀れんで、恩赦を降ろそうとしたが、后はこれを固く止めた。
 病が重くなると、上へ別れを述べた。この時房玄齢は譴責されて屋敷へ帰っていたので、后は帝へ言った。
「玄齢は陛下に久しく仕えています。慎重に細かく心を配り、奇謀秘計は決して洩らしません。大きな理由がない限り、決して棄てないでください。妾の本宗は、妾との縁で高い俸禄や官位を頂きました。徳で出世したのではありませんから、大変危険なのです。その子孫を保全したいので、重要な地位にはつけないでください。ただ外戚として厚遇していただければ、それでよろしいのです。妾は生きている間人の為になることはできませんでした。ですから死んだ時に人を害しないでください。わざわざ陵を丘のように盛り上げて天下の人々を患わせてくださいますな。自然の山を墳とし、副葬する器物は瓦や木を使ってください。それから陛下、どうか君子と親しみ小人を遠ざけ、忠諫を納れ讒言を斥け、労役を省き遊猟をやめてください。妾はあの世に行きますが、本当に、何の心残りもありません。葬式には児女を集めなくても構いません。悲哀の顔を見ても、いたずらに心を乱すだけですから。」
 そして、衣の中から毒薬を取り出して上へ示し、続けた。
「妾は、陛下が不予の日、あの世までお供しようと思っておりましたのよ。呂后の真似はできませんからね。」
 己卯、立政殿にて崩御した。
 后はかつて、古来からの婦人の得失の故事を集めて女則三十巻を作った。また、漢の明徳馬后へ反駁して、「外戚を抑えきれず朝廷を貴人で溢れさた。『その車は流水の如く馬は龍の如く』といたずらに戒めたのは、禍敗の源を開いて末流で防いだにすぎない。」と論じた。
 崩御するに及んで、宮司が女則を上奏した。上はこれを詠んで悲慟し、近臣へ示して言った。
「皇后のこの書は百世の規範となる。朕も天命を知らぬ訳ではないし、悲しんでも無益だとゆうことも判っている。ただ、入宮してももう規諫の言葉を聞けない。良き補佐役を失ってしまった。だから、いつまでも懐かしさをなくせないのだ!」
 そして房玄齢を召しだして、元の官位へ復帰させた。
 十一月、庚午。文徳皇后を昭陵へ葬る。将軍段志玄、宇文士及が士衆を分統して粛章門を出た。帝は、夜、宮官を二人の所へ派遣した。士及は営を開いてこれを内へ入れたが、志玄は門を閉じたままで入れず、言った。
「軍門は、夜間は開けない。」
 使者が言った。
「ここに手敕があります。」
「夜中で、真偽の判別がつかん。」
 遂に、夜が明けるまで使者を留めた。
 これを聞いて帝は感嘆した。
「真の将軍だ。」
 帝は、また、石へ文を刻んで、称賛した。
「皇后は節倹で、薄葬を遺言した。その大意に言う『盗賊は、ただ珍貨が欲しいだけ。珍貨がなければ、また何を求めましょう』朕の本志も、これと同じだ。王は、天下を家とする。自分のものだと主張するために、必ず陵の中へ入れなければならぬわけではない。今、九 山を陵とした。石をうがつ工人は僅か百余人、数十日で工事は終わった。金玉を埋葬せず、人馬器皿は皆、土木で形だけまねたもの。これでは姦盗へ盗掘する気も起させず、いつまでもあばかれまい。百世の子孫までの手本となろう。」
 上は后を忘れられず、苑中に展望台を建てて昭陵を望んだ。ある時、魏徴を連れて登り、これを見せた。徴はこれをつらつらと視て言った。
「臣の目はかすみ、よく見えません。」
 上が指し示すと、徴は言った。
「臣は、陛下が献陵を望まれているものと思っていました。昭陵でしたら、もとより見えておりました。」
 上は泣いて、台を壊した。 

 八月、丙子。上は群臣へ言った。
「朕が直言の道を開いたのは、国の利益の為である。それなのに最近では、上封の中に誹謗中傷が多くなった。今後このようなことをする者は、讒人の罪に処する。」 

  

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