貞観の治  その二
 
 貞観三年(629)、正月。戊午、上が太廟を祀った。 

 癸亥、東郊にて耕籍した。 

 二月、戊寅。房玄齢を左僕射、杜如晦を右僕射、尚書右丞魏徴を守秘書監として、朝政へ参与させた。 

 三月、丁巳、上が房玄齢、杜如晦へ言った。
「公は僕射となったのだから、広く賢人を求め、才覚に従って仕事を授けよ。これが宰相の職務だ。だが、最近は訴え事を決裁するのに忙殺されていると聞く。これではどうして朕を助けて賢人を求めることができようか!」
 そこで、敕を降ろした。
「尚書の細かい事務は左右の丞へ任せよ。ただ、上奏する必要のあるような重大事件のみ、僕射へ聞かせよ。」
 玄齢は政事に明達しており、文学の心得もあり、一つでも失うのを恐れるかのように深夜まで心を尽くした。法律の適用は寛大で誰かの長所を聞けば自分のことのように喜んだ。他人へは完全を求めず、自分の長所と比べて他人を貶したりしなかった。杜如晦と共に登庸する士を探す時は、いつも手落ちがないか兢々としていた。台閣の規則や模範は、皆、この二人が定めた。
 上が玄齢と事を謀ると、玄齢は必ず言った。
「これは如晦でなければ決断できません。」
 そして、如晦がやって来ると、玄齢の策を採用した。玄齢は知恵が回り、如晦には決断力があったのだ。二人は互いに補いあい、心を一つにして国へ尽くした。だから唐代の賢宰相を褒めるときは、房と杜が第一に推される。
 玄齢は恩寵を蒙っていたが、譴責を受けると何日でも朝堂を詣でて罪の赦しを請い、容赦されないのを懼れているようだった。
 玄齢が国史を監修すると、上がこれに語った。
「漢書に載っている子虚や上林賦のように、華麗なだけの文章など無用だ。上書された論文の中で詞理が正しい物は、朕が従う従わないに関わらず、皆、これを載せよ。」 

 四月。上皇が弘義宮へ引っ越し、宮の名前を大安宮と改称した。上は、始めて太極殿へ御し、群臣へ言った。
「中書と門下は機密を扱う役だ。詔敕に不備な点があれば、これを論じ直さなければならない。しかし、最近は従順なばかりで違異を聞かない。ただ文章をなぞるだけならば、誰でもできることだ。何で才覚のある人間を選ぶ必要が有ろうか!」
 房玄齢等は、皆、頓首して謝った。 

 八月。己巳朔、日食があった。 

 上の派遣した使者が涼州へ到着した。都督の李大亮が素晴らしい鷹を持っていたので、使者は、これを献上するよう風諭した。すると、大亮は上表した。
「陛下はしばらく狩猟を行われておりませんが、使者が鷹を求めました。もしもこれが陛下の御意向ならば、昔日の想いに違っております。使者の独断でしたら、使者として不適任です。」
 癸卯、上は侍臣へ言った。
「李大亮は忠直と言うべきだな。」
 手ずから詔を書いて褒め、胡の瓶と荀悦の漢紀を賜下した。 

 癸未、右僕射杜如晦が病気で辞職を願い出た。上は、これを許した。 

 乙酉、上が、給事中の孔穎達へ訊ねた。
「論語に『才能があるのに、ない者へ訊ね、知識が多いのに乏しい者へ訊ね、有るのにないように、充満しているのに空っぽのようにする』(泰伯第八の5)とは、どう有意味かな?」
 孔穎達は、解釈をつぶさに説明し、言った。
「匹夫だけがこのようにしておけばよいのではなく、帝王もやはりこのようでなければなりません。帝王は、心の内に神のような明哲を包み隠し、外側は何も知らないように見せます。ですから、易経にも、『蒙を以て正を養い、明夷(太陽が地面の下へ隠された象。明哲を覆い隠すことを意味する。)を以て衆へ臨む』とあります。もっとも尊い位にありながら聡明をひけらかして才覚で人を凌ぐ。非を飾って諫言を拒み、下情が耳に届かない。これは滅亡の道です。」
 上は、その言葉を深く味わった。 

 房玄齢と王珪が、内外の人事を握っていた。治書侍御史の萬年の権萬紀が、その不平を上奏した。そこで上が、俟君集へ調べさせようとしたところ、魏徴が諫めた。
「玄齢と珪は共に朝廷の旧臣で、その為人が忠直だった為、陛下は大権を委任なさったのです。彼等は大勢の人事を担当してきましたので、その中には不当だった人事も二・三はあって当然です。彼等の心情を考えますに、私利私欲で曲げたわけでは決してありません。しかし、もしもここで調べさせたら、皆は彼等を信じられなくなります。そうしたら、どうして今までのような重任に耐えられましょうか!それに、萬紀は今まで彼等を査察する職務にありながら、かつて一度も論駁したことがありませんでした。今回、我が身の利害に及び、始めてこのように論じました。これは、自分の得の為に陛下の怒りを掻き立てようとしたいるのです。誠を尽くし国へ殉じる士ではありません。この人事を糾明して更正できたとしても、朝廷にとってさしたる利益ではありませんが、失うものを考えると、陛下が大臣へ職務を委任することができなくなってしまいます。臣は、政治の大系を愛するのです。決して、両大臣への私情で申すのではありません。」
 上は、遂にこの件を不問に処した。 

 四年、二月。御史大夫温彦博を中書令とし、守侍中の王珪を侍中とした。守戸部尚書戴冑を戸部尚書として、朝政に参与させる。太常少卿蕭禹(「王/禹」)を御史大夫とし、宰臣と共に朝政へ参議させる。
 三月、李靖が突厥を征服して、上は天可汗と名乗った。詳細は「突厥」に記載する。 

 同月、蔡成公杜如晦の病気が篤くなった。上は太子を見舞いに遣らせたり、自ら出向いたりした。
 甲申、薨じる。
 上は、佳い物を得るたびに如晦を思い出し、使者を派遣してその家へ贈った。この後も、話をしていて如晦の言葉が出てくると、必ず涙を流し、房玄齢へ言うのだった。
「公と如晦は二人で朕の補佐をしていてくれた。今、ただ公独りを見るだけで如晦がいない!」 

 林邑が火珠を献上した。するとある役人が、彼等の言葉が不遜だから討伐しようと請願した。上は言った。
「戦争を好む者は亡ぶ。隋の煬帝や頡利可汗は、皆もその目で見、その耳で聞いているではないか。小国に勝っても武ではない。ましてや、彼等が造反すると決まったわけではないぞ!言葉尻など、なんで気にするほどのことだろうか!」 

 六月乙卯、巡幸(この場合は、遷都を意味するのか?)に備えて、兵卒を徴発して洛陽宮を修復した。すると、給事中張玄素が、これを諫めた。その大意に曰く、
「洛陽は、まだ巡幸の時期ではないのに、予め宮室を修復されていますが、これは今日の急務ではありません。昔、漢の高祖は婁敬の説を納れて洛陽から長安へ遷都しました。これは、洛陽の地形が長安の険阻さに及ばないからではありませんか!景帝は晁錯の意見を用いて七国と戦いましたが、陛下は今、突厥問題に対処されています。突厥は、七国よりも親しいのですか?先の憂いを無視して宮室を造営し乗輿を軽々しく動かすなど、どうして許されましょうか!臣は、隋氏が始めて宮室を造営した時、これを見ておりました。この時は、近くの山に大木がなかったので遠方から持ってきましたが、それは余りに大きくて一柱を曳くのに二千人を要し、車に載せればその重さの余り木製の車輪ならば地面に強くこすれて出火してしまうので、輪の周りを鉄で覆ったほどです。ですが、一、二里も進むと鉄のおおいは破れるので、別に数百人で鉄を交換させました。これでは一日かけても二、三十里としか進まず、一柱の費用は数十万も掛かりました。その他も推して知れます。陛下は洛陽を平定した時、隋氏の宮室があまりに豪奢だったので、これを皆、壊させました。それから十年と経っていないのに、再び造営させます。昔はこれを憎みながら、なんで、今はこれに倣うのですか!それに、今日の財力が、隋の時代ほど豊かでしょうか?陛下は傷ついた人々をこき使って、亡隋の弊を踏襲しております。これでは煬帝よりも甚だしいではありませんか!」
 上は玄素へ言った。
「卿は、我を煬帝以下だと言ったが、ケツや紂と同列か?」
「この工事を止めなければ、同じように動乱が起こりますぞ!」
 上は嘆じて言った。
「我は軽く考えていたが、そんなに酷かったか!」
 顧みて、房玄齢へ言った。
「洛陽はこの国の中央にあるので、ここを都にすれば、朝貢がどこからも遠くない。朕は民のために便利だと思って、宮室を造営させたのだ。だが、今、玄素の言ったことも誠に理に叶っている。今すぐ労役を中止せよ。後日、あるいは洛陽へ御幸する事があったとしても、露営したところで構わないのだ。」
 そして、玄素へ綏二百匹を賜下した。 

 秋、七月。甲子朔、日食があった。 

 乙丑、上が房玄齢と蕭禹へ訊ねた。
「隋の文帝は、どんな主君だ?」
 対して答えた。
「文帝は、政治に励まれた方でした。朝廷へ臨むと、あるいは日暮れまで政務が終わらず、五品以上と引き続き事を論じ、晩餐をしつらえて共に食することもございました。仁慈厚い人柄ではありませんでしたが、精励の主君だといえます。」
 上は言った。
「公は一を知って二を知らない。文帝は不明にして明察を喜んだ。不明ならば照らしても通じないことがあり、明察を喜べば猜疑心が強くなり、全てのことを自分で決断して群臣へ任せなくなる。天下は広く、一日に万の事件が起こる。心を砕き体に鞭打っても、なんで一々理に中てることができようか!群臣は主君の意向を知っていたので、ただ決定を実践するだけになり、失策に気がついても諫争しなかった。これが、二世で滅亡した原因だ。だが、朕は違うぞ。天下の賢才を選び百官に抜擢し、天下のことを思わせ、宰相を忠臣にじっくりと考慮させた後に上奏させている。功績があれば賞し、罪があれば罰する。だから誰もが心を尽くして職業を修めることに努めるのだ。何で天下が治まらないことを憂えようか!」
 そして、百司へ敕した。
「今後、下された詔敕に不備な点があれば、皆、上奏するように、阿諛追従して意を尽くさずに済ませてはならぬ。」 

 癸酉、前の太子少保李綱を太子少師とし、兼御史大夫蕭禹を太子少傅とした。
 李綱には足の病があったので、上は歩輿(歩いて挽く輿)を賜り、これに乗って閣下までやって来させた。また、屡々禁中へ引き入れて政事を問うた。彼が東宮へ至るたびに、太子は自ら拝礼した。太子が事を視る時には、上は綱と房玄齢を傍らに坐らせた。
 少し前の話だが、蕭禹は宰相と共に朝政に参議していた。禹は剛直で弁が立ったので、房玄齢等は抗弁できなかったが、上は彼の提案を余り用いなかった。かつて、玄齢、魏徴、温彦博にちょっとした過失があった時、禹は弾劾したが、上は不問に処した。禹は、これ以来怏々としてやる気をなくし、遂に御史大夫を辞任して太子少傅となり、朝政へ参与しなくなった。
 八月、甲寅、兵部尚書李靖を右僕射にした。靖は沈厚な人柄で、宰相達と会議をしている時は、恂々として、まるで喋れないかのようだった。 

 十一月、壬辰、右衞大将軍侯君集を兵部尚書とし、朝政へ参議させた。 

 諸宰相と宴会を開いた時、上は王珪へ言った。
「卿は、鏡に精通しているし、談論が巧い。玄齢以下の臣下達へ、卿は悉く品評を加え、自ら彼等と優劣を比べてみよ。」
 王珪は、答えた。
「御国の為に倦まずに励み、知りて行わないものはない。これは、臣は玄齢にかないません。文武の才を兼ね備え、出ては将軍入れば宰相。これは、臣は李靖にかないません。上奏が詳細で明確、出納が満ちていることでは臣は温彦博に勝てません。煩雑なものも劇的に治め、多くの事務をすっかり片付ける。これは、臣は戴冑にかないません。君が堯、舜に及ばないことを恥じ、諫争を自分の任とする事では、臣は魏徴にかないません。ですが、濁をかきたて清を揚げ、悪を憎んで善を好むことでは、臣は彼等に勝っています。」
 上は、深く承服し、皆もその論評の的確さに感服した。 

 上が即位した頃、群臣と語っているうちに、話題が教化の事へ及んだ。この時、上は言った。
「今、大乱の直後だ。この民を教化するのは大変だろう。」
 すると、魏徴が言った。
「そうではありません。泰平の後の民は、驕慢で怠け者になります。驕怠ならば、教化は困難です。それに対して戦乱の後の民は愁しみ苦しんでおります。愁苦の民は教化しやすいのです。例えるならば、飢えた者は何でも食べ渇いた者は何でも飲む、とゆう事です。」
 上は深く頷いた。
 すると、封徳懿が反論した。
「三代以来、人々は次第に狡猾になってきました。ですから秦は法律を厳しくし、漢は覇道を交えたのです。彼等は、民を教化させたかったのにそれができなかったから、このような詐術で治めたのではありませんか。彼等とて、できるのならば民を教化したかったに違いありません!魏徴は書生で実務を知らないのです。彼の虚論を信じたら、必ずや国を滅ぼしてしまいますぞ!」
 魏徴は言った。
「五帝や三王は民を入れ替えて教化したのではありません。昔、黄帝はシユウを征し、センギョクは九黎を誅し、湯王はケツを追放し、武王は紂を伐し、そして彼等は皆太平をもたらしましたが、それは大乱の後を承けていたのではありませんか!もしも、古人は純朴だったが、次第に狡猾になって今日へ至り、今では全員が鬼畜となり果ててまったと言うのなら、人主はどうやって世界を治めればよいのですか!」
 上は遂に魏徴の意見に従った。
 元年、関中が飢饉で、米一斗の値段が絹一匹になった。二年には天下に蝗害が起こった。三年は大水が出た。しかし、上は勤めて民を慰撫したので、民は食糧を得る為に東西へ移動させられたが、怨まなかった。
 この年、天下は大豊作だった。放浪していた民は殆ど郷里へ戻った。米は一斗で三、四銭に過ぎず、刑死した者は一年で二十九人しか出なかった。東は海へ至り、南は五嶺の上まで、民は皆、外出する時に戸締まりもせず、旅行の時には食糧を持たず、道路に落ちてるものさえ拾わなくなった。
 上は長孫無忌へ言った。
「貞観の初頭には、上書した者は皆、言った。『威権は人主が独占するもの。臣下へ委ねてはなりません。』また言う、『威武を輝かせて四夷を征討しましょう。』と。しかし、魏徴だけは言った。『武を止め、文を修めてください。中国が安泰になれば、四夷は自ら服属してきます。』朕は、この言葉を用いた。今、頡利を擒にし、その酋長や帯刀・宿衞や部落の民は皆我が国の臣下となっている。これは徴の功績だ。ただ、封徳彝にこれを見せられなかったことだけが残念だ!」
 魏徴は再拝して言った。
「突厥を破り滅し、海内を安寧にしたのは、皆、陛下の威徳です。臣に何の功績がありましょうか!」
 上は言った。
「朕は公を抜擢することができて、公はその職務を尽くすことができたから、このような業績が得られたのだ。そうしてみるし、この功績が、どうして朕一人の手柄だろうか!」 

 房玄齢が上奏した。
「開府庫の武器や兵卒は、隋時代より余程増強されました。」
 上は言った。
「武器や兵卒の武備は、実に不可欠だ。だが、煬帝の甲兵が少なかったと言うのか!しかし、結局天下を滅ぼした。もしも公等が力を尽くして百姓を安楽にさせれば、それこそ我が甲兵だ。」 

 上が秘書監の蕭景(「王/景」)へ言った。
「卿は隋の御代に、何度か皇后を見たことがあるか?」
 煬帝の皇后の蕭后は、蕭景の一族だった。だから、このように訊ねたのだ。すると、蕭景は答えた。
「彼の息子や娘でさえ、蕭后を見ることができなかったのです。臣如きが、どうして見ることができましょうか!」
 すると、魏徴が言った。
「煬帝は、斉王でさえ信じていなかったと聞きます。いつも監視させて、斉王が宴会を開いたと聞けば、『奴が喜ぶようなことがあるのか!』と言い、憂えて憔悴していると聞けば『おかしな事を考えるからそうなるのだ』と言ったそうです。親子の間でさえそうなのですから、ましてや他人なら尚更ですぞ!」
 上は笑って言った。
「朕は、今、楊政道に会っている。煬帝が斉王へ対するよりも、格段に勝っているな。」 景は、禹(「王/禹」)の兄である。 

 五年、正月癸酉。上が昆明池にて盛大に狩猟を行った。四夷の酋長がつき従った。
 甲戌、高昌王文泰及び群臣と宴会をする。
 丙子、宮へ戻る。自ら大安宮へ禽を献上した。 

  二月、甲辰、詔が降りた。
「諸州の京観(?)は、全て削り壊し土を加えて墳として、枯朽で覆って、決して暴露させるな。」
(「京観」が何なのか判らないと、かなり意味が通りにくいです。) 

 己酉、皇弟の元裕を會(「會/里」)王、元名を焦(「言/焦」)王、霊?を魏王、元祥を許王、元暁を密王へ封じた。
 庚戊、皇子の音(「心/音」)を梁王に封じ、ツを炎(「炎/里」)王、貞を漢王、治を晋王、慎を中王、 を江王、簡を代王へ封じた。 

 河内の人李好徳が精神錯乱となり妄りに妖言を吹聴したので、詔が降りてこれを詮議させた。
 大理丞張蘊古が上奏した。
「好徳が病気だった証拠があります。法によれば無罪です。」
 すると、治書侍御史権萬紀が弾劾した。
蘊古の一族は相州に住んでおりますが、好徳の兄の厚徳はその刺史です。彼に諂って、事実を曲げて無罪にしたのです。」
 上は怒り、蘊古を市にて斬るよう命じた。だが、執行の後これを悔やんで、詔した。
「今後は、死罪の時は、即決の命令が下っても三度覆奏してから執行せよ。」
 権萬紀と侍御史の李仁發は、共に告発で上から寵用されるようになった。以来、諸大臣は屡々譴責を蒙ることとなる。魏徴が諫めた。
「萬紀等は小人で大礼を知りません。暴き立てることを直、讒言を忠と考えています。陛下は、彼等が限度を超えていることをご存知の上で、その忌憚ないところだけを尊重して、群臣達への警告としているだけなのでしょう。ですが、萬紀等はその恩寵をバックに自己の権勢を張り、その姦謀を逞しくしています。彼等が弾劾する者は、ほとんどが無実です。陛下は善を挙げて世俗の民を励ましもしないで、姦人と馴染んで自らを損なわれますのか!」
 上は黙り込み、絹五百匹を賜った。
 しばらくの後、萬紀等の姦状が暴露され、皆、有罪となった。 

 九月、上が仁壽宮を修復し、九成宮と改名した。また、洛陽宮も修復しようとしたが、民部尚書戴冑が上表して諫めた。大意は、以下の通り
「戦乱の直後で、百姓は疲弊しており官庫は空っぽ。もしも造営ばかりしていては、公私共に窮乏して耐えられなくなりますぞ!」
 上は嘉んで言った。
「戴冑は我が一族ではないのに、忠直で国を敬い、知ったら言わぬ事がない。故に、官爵を与えねば報いられない。」
 だが、暫くの後、ついに将作大匠竇進(「王/進」)へ洛陽宮の修復を命じた。進は池を穿ち築山を作り、彫り物などの飾りで実に豪華に築いた。上は、速やかにこれを壊させ、進を罷免した。 

 十月。丙午、上は後苑にて兔を逐った。すると左領軍将軍執失思力が諫めた。
「陛下は華と夷の父母となるべき天命を受けられたのです。なんで自らを軽んじられますのか!」
 上はまた、鹿を逐おうとしたが、思力が巾を脱ぎ跪いて固く諫めたので、上は中止した。 

 上が執政へ言った。
「朕は、喜怒によって妄りに賞罰を行うことを、常に恐れている。だから、公等へ極諫を求めるのだ。公等もまた、人からの諫めは良く受け入れ、自分の欲を指摘する者を憎んではならない。諫めを受けることができない者が、どうして他人を諫められるだろうか。」 

 上が侍臣へ言った。
「国を治めるのは、病を治めるようなものだ。病気が癒えても、しばらくは養生しなければならない。即座に放埒になったら病気はぶり返し、救いようがなくなってしまう。今、中国は幸いにも安定しており、四夷は共に服属している。まことに古来からの理想通りだが、朕は日毎に身を慎み、ただ終わりを良くしないことを懼れている。だから、卿輩からの諫争をいつも聞きたいのだ。」
 魏徴が言った。
「内外が治まって平安なことなど、臣は喜びとしません。ただ、陛下がいつも危機感を持っておられることを喜ぶのです。」 

  

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