貞観の治  その一
 
 武徳九年(626)七月、秦府護軍秦叔寶を左衞大将軍、程知節を右武衞大将軍、尉遅敬徳を右武候大将軍とした。 
 壬辰、高士廉を侍中、房玄齢を中書令、蕭禹を左僕射、長孫無忌を吏部尚書、杜如晦を兵部尚書とした。 
 癸巳、宇文士及を中書令、封徳彝を右僕射、以前の天策府兵曹参軍杜淹を御史大夫、中書舎人顔師古、劉林甫を中書侍郎、左衞副率侯君集を左衞将軍、左虞候段志玄を驍衞将軍、副護軍薛萬徹を右領軍将軍、右内副率張公謹を右武候将軍、右監門率長孫安業を右監門将軍、右内副率李客卿を領左右軍将軍とした。 
 安業は無忌の兄、客卿は靖の弟である。  

   

 貞観元年(627年)春、正月、乙酉。改元する。 
 丁亥、上は群臣と宴会を開き、秦王破陳楽を演奏させた。(これは、太宗がまだ秦王だった頃、劉武周を滅ぼしたときに軍中で造った楽曲である。) 
 上は言った。 
「朕は昔、委任を受けて討伐ばかりやっており、民間にてこの曲を作った。文徳を歌ったものではないが、大きな功業を建てたので造ったのだ。大本を忘れない為に、今回演奏させた。」 
 すると、封徳彝が言った。 
「陛下は神武で海内を平定されました。なんで文徳がこれに及びましょうか。」 
 上は言った。 
「戦乱を平定するのには武を用い、守成には文を用いる。文武は、それぞれの時勢に従って使い分けるのだ。卿は、文が武に及ばないと言ったが、これは言い過ぎだ!」 
 徳彝は頓首して謝った。  

 上は封徳彝へ賢人の推挙を命じたが、徳彝は長い間誰も推挙しなかった。上がこれを詰ると、徳彝は言った。 
「心を尽くしてなかったわけではありません。ただ、今まで奇才が居なかったのです。」 
 上は言った。 
「君子が人を用いるのは、器のようなものだ。各々の長所を取る。昔の立派な政治家は、有能な人材を別の時代から引っ張ってきたのか?自分が人を知ることができないのを患うべきだ。なんでこの時代の人間全てを不当に落としめして良いものか!」 
 徳彝は恥じ入って退出した。 
 御史大夫杜淹が上奏した。 
「諸司の文案に詰まらない過失が有るかも知れません。しかるべき役人に照合確認させるよう、御史へ命じてください。」 
 上が徳彝へ訊ねると、徳彝は言った。 
「官職を設けて各々の役所に職務分担させているのです。その中で罪違があれば、御史が糾弾いたします。もしも諸司を巡って過失を探させたら、とても煩雑になってしまいます。」 
 淹は黙り込んだので、上は淹へ言った。 
「どうして言い返さないのだ?」 
 淹は答えた。 
「天下の務めは至公でなければなりません。ですから、善ならば、それに従います。徳彝の言葉は大礼を得ていましたので、臣は誠に心服いたしました。それで敢えて異を唱えなかったのでございます。」 
 上は悦んで言った。 
「公等がそのようであれば、朕に何の憂いがあろうか!」  

 三月、癸巳、皇后が内外の命婦を率いて、自ら蚕を飼った。  

 閏月、癸丑朔、日食が起こった。  

 壬申、上が太子少師蕭禹へ言った。 
「朕は幼い頃弓矢を好み、良弓を十数得た。これ以上のものはないと自慢していたが、最近弓工へ見せたところ、『みな、良材ではありません』と言われた。朕が理由を聞くと、工は言った。『木心が直でないので、脈理が邪になっています。弓は強いのですが、矢を射ても真っ直ぐに飛びません。』朕は始めて今まで明盲だったことを知った。朕は弓矢を使って四方を平定したが、それでも弓矢のことを知り尽くしてはいなかった。ましてや天下の務めだ。偏った知識でどうして良かろうか!」 
 そして京官の五品以上を交代で中書内省へ宿直させ、屡々謁見して民間の疾苦や政事の得失を問うた。  

 上書して、佞臣を去るように請願した者が居た。そこで、上は問うた。 
「佞臣とは、誰かな?」 
 対して、答えた。 
「臣は草沢に済んでいる為、誰と知ることはできません。どうか陛下、群臣を集めて、怒ったふりをして試されてください。理を執って屈しない者は直臣です。威を畏れて媚びる者は佞臣です。」 
 上は言った。 
「君は源で、臣は流れだ。その源が濁っているのに流れが澄むことを求めても、できる筈がない。主君が自ら詐を為したら、何を以て臣下の不直を責めるのか!朕は至誠で天下を治めようとしているのだ。前世の帝王が、小細工を弄して臣下へ接するのを好んだ事績を見ると、いつも、心中恥ずかしく思ってしまう。卿の策は善ではあるが、朕は取らない。」  

 六月、辛巳、右僕射密明公封徳彝が率した。 
 同月、太子少師蕭禹を再び左僕射とした。(十二月、壬午。蕭禹は事件に連座して罷免された。)  

 戊申、上と侍臣が、周が長く修まったのに秦はすぐに滅んだことについて論じた。 
 蕭禹が言った。 
「紂が無道をなしたので、武王がこれを征伐しました。しかし、周及び六国には何の罪もなかったのに、始皇帝はこれを滅ぼしたのです。どちらも同様に戦争によって天下を得たのですが、人心は全然異なっておりました。」 
 上は言った。 
「公はその一を知って二を知らない。周は天下を得てから、仁義を益々修めた。秦は天下を得てから益々詐に勉めた。これこそ、修短が大きく違った理由だ。けだし、逆を以て捕ることはできるかも知れないが、順を以てしなければ守ることができないのだ。」 
 禹は、及ばないことを謝った。  

 秋、七月。壬子、吏部尚書長孫無忌を右僕射とした。 
 無忌は、上とは布衣の交わりをしていた上、外戚でもあり佐命の功績も建てたので、上は腹心として接しており、その礼遇は群臣に及ぶ者が居なかった。宰相に任命しようと欲したことも再三だったが、文徳皇后が固く請うた。 
「妾が椒房の位を忝なくしており、お家の貴寵は極まっておりますので、兄弟まで国政を執ることは、心底、望んでおりません。呂、霍、上官を切骨の戒めとするべきでございます。どうか陛下、お察しください。」 
 上は聞かず、遂にこれを用いた。  

 黄門侍郎王珪が密奏しようと、侍中の高士廉へ預けたが、士廉はこれを取り次がなかった。上はこれを聞き、八月、戊戌、士廉を安州大都督として、地方へ下向させた。  

 九月、庚戌の朔、日食が起こった。  

 辛酉、中書令宇文化及が退任して殿中監となり、御史大夫杜淹を朝政に参与させた。他官が政事に参与するのは、これから始まった。 
 淹が、刑部員外郎邸懐道を推薦したので上がその行状や能力を問うと、淹は言った。 
「煬帝が江都へ御幸しようとした時、百官を集めてその是非を問いました。その時、当時吏部主事だった懐道ただ一人だけが、不可と言いました。これは、臣がこの目で見たことでございます。」 
 上は言った。 
「卿は懐道のやった事を正しいと言っているが、それならばどうして卿は諫めなかったのだ?」 
「臣はその時重職でもなく、諫めても従われず、ただ犬死をするだけと判っておりましたので。」 
「煬帝が諫められないと知っていたのなら、卿はどうして彼の朝廷に立っていたのだ?既にその朝廷に仕官したのなら、どうして諫めなかった?いや、卿が隋に仕えていた時には、官位が低かったとも言えるが、後に王世充に仕えた時には、非常に尊ばれていた。それなのに、諫めなかったではないか?」 
「世充の時には、臣は諫めなかったのではありません。諫めたけれども従われなかったのでございます。」 
「世充がもしも賢人なら、諫めを納れてるだろう。それなら国が滅びるはずがない。もしも暴虐で諫言を拒んだのなら、どうして卿は罰されなかったのだ?」 
 淹は返答に窮した。 
 上は言った。 
「今日、卿は尊任されていると言える。諫めないでよいのか?」 
 淹は言った。 
「どうか、命懸けでつくさせてくださいませ。」 
 上は笑った。 
(訳者、曰く)王世充は、暴虐だが上辺は君子を取り繕う人間だったから、諫めても従われなかったし、諫めたからといって誅されることもなかった。淹が羞じることではないのだが。  

 ある者が、右丞魏徴は親戚をひいきしていると告発した。上は、御史大夫温彦博へ調査させたところ、事実無根だった。彦博は上へ言った。 
「徴は形跡さえなく、嫌疑を避けることは度が越しています。心は無私でしょうが、これは責めるべきであります。」 
 そこで上は彦博へ徴を叱責させて、かつ、言った。 
「今からは、形跡くらいは造れ。」 
 他日、徴は入見して、上へ言った。 
「君臣は同体であると、臣は聞いています。共に誠を尽くすべきであります。もしも上下共に形跡があるのなら、国の興廃さえ、どうなるか判りません。臣は敢えて詔を奉りません。」 
 上はびっくりして言った。 
「我はもう後悔しておる。」 
 徴は再拝して言った。 
「臣は幸いにして陛下へ仕えることができました。この上は、どうか臣を良臣にして、忠臣にはさせないでください。」 
 上は、言った。 
「良臣と忠臣とでは、どう違うのかな?」 
「稷、契、皋陶は君臣心を合わせ、共に尊敬と繁栄を享受できました。これが良臣です。龍逢、比干は朝廷にて諫争して自身は誅殺され国は滅びました。これが忠臣です。」 
 上は悦び、絹五百匹を賜下した。 
 上は神のような風采で英邁剛毅な人間だったので、群臣達は謁見するとしどろもどろになった。上はこれを知っていたので、上奏する者へ謁見するたびに顔色を和らげ、規諫を聞こうと切望した。ある時、公卿へ言った。 
「人が自分の身繕いを見たい時、必ず明鏡の助けを借りる。同様に、主君が自らの過失を知りたい時には、必ず忠臣を待つのだ。主君が自分を賢人だと思って諫めを拒み、臣下が諂って唯々諾々としておれば、君は国を失うし、臣下もどうして全うできようか!虞世基等の如きは煬帝に諂って富貴を得たが、煬帝が弑逆されると世基等もまた誅殺された。公等はこれを戒めとせよ。事に得失が有れば、言葉を惜しんではならない!」  

 ある者が、秦府の旧兵を全て武職として宿衞へ編入するよう、上言した。 
 上は言った。 
「朕は天下を我が家族だと思っている。賢人でありさえすれば、共に政務を行う。なんで旧兵以外一人も信じられないとゆうことがあろうか!汝の意見は、朕の徳を天下へ広めるものではないぞ。」  

 上が公卿へ言った。 
「昔、禹は山を穿ち黄河の治水をするとゆう大工事を行ったが、民は誹謗一つしなかった。これは、民と利益を共有したからだ。秦の始皇帝が盛大な宮殿を建造すると、人々は怨み、造反した。これは自分の利益のために人々を苦しめたからだ。だいたい、誰でも贅沢品や珍奇な品が欲しいものだが、その欲望を放縦にして止めどがなければ、危亡に立つ事になる。朕は、一殿を造営したいし材料も揃っているのだが、秦を鏡として、これを取りやめた。王公以下、朕のこの想いを心に留めておけ。」 
 このため、二十年間に渡って、風俗は素朴であり、衣には錦繍がなく、公私共に物資が豊かに溢れた。  

 上が、黄門侍郎王珪へ言った。 
「国家には、もともと中書と門下を設置し、共に検察させていた。中書の詔敕に過失があれば門下はこれを校正するのだ。人の見るところは、それぞれに違う。いろいろな論議が飛び交い、その中で一番良い物を選ぼうとしたなら、自分を棄てて人に従うことが何で辛かろうか!ところが、この頃では自分の短所を擁護して遂には異を唱えた人間を怨むようになったり、私的に怨まれることを避ける為に正しくないと判っていても一人の顔色を窺って口を閉ざし兆民の深い患いを看過させたりしているようだ。これは、亡国の政治だ。 
 煬帝の御代には、内外の庶官は従順に行うことに努めていた。そして当時の人々は、皆、自分達はこんなに知恵があるから禍が降りかかることはあるまいと言っていた。しかし、天下大乱になると、国も家も共に亡んでしまった。万に一つの僥倖で生き延びることができても、人々から貶されて、その疵は時尽きるまで消すことができない。 
 卿等は各々公に殉じて私を忘れ、雷同しないようにせよ!」  

 上が侍臣へ言った。 
「『西域にいる胡の商人は、見事な宝珠を得ると、失うことを懼れて、自分の体を切ってその中へ縫い込んでしまう』と聞くが、そんなことがあるのか?」 
 侍臣は言った。 
「あります。」 
 上は言った。 
「人は皆、彼が珠を愛して我が身を愛さないことを知っている。賄賂を受け取って法に触れる官吏や、奢欲に負けて国を滅ぼす帝王は、その胡の笑うべき愚かしさとどこが違うだろうか!」 
 すると、魏徴が言った。 
「昔、魯の哀公が孔子へ言いました。『忘れっぽい人がおっての、引っ越す時、妻を置き忘れたそうだ。』すると、孔子は言いました。『それよりももっとひどい者が居ます。ケツや紂は我が身さえも忘れました。』これもまた、同じ事でございますね。」 
「そうだ。朕と公等が力を合わせて助け合えば、何とか人から笑われずに済むだろう!」  

 上が騎射を好んだので、孫伏伽が諫めて言った。 
「天子が九門の奥に住み警備を厳重に行っていますのは、自分を立派に見せかけるためではありません。社稷生民の為の計でございます。陛下は馬を走らせて的を射て近臣と楽しむのを好んで居られますが、これは若い頃諸王だった時の行いであり、天子になった今日の事業ではありません。聖躬の休養にもならず、儀刑として後世の手本となるものでもありません。臣は、陛下の為にこれを取らないのです。」 
 上は悦んだ。 
 それから幾ばくも経たずに、伏伽は諫議大夫となった。  

 もとの隋の秘書監の晋陵の劉子翼は、学問があり剛直な性格で、朋友に過失があったら常に面と向かって叱責した。だが、李百薬はいつも彼を褒めていた。 
「劉四は人を罵っているが、相手から怨まれることがない。」 
 この年、詔がおりて彼を徴召したが、子翼は母親の老齢を理由に断った。  

 上がかつて「関中の人間」「山東の人間」と、差別的な意味を含めて口にした。すると殿中侍御史の義豊の張行成が、跪いて上奏した。 
「天子は、四海を家族とします。出身の東西で差別するのは宜しくありません。人々へ偏狭さを示すことになります。」 
 上はその言葉を善しとして厚く賜を下し、それ以来、大政があるたびに常に彼を議論に参加させた。  

 二年、春、正月、辛亥。長孫無忌が右僕射を罷めた。その経緯は、以下の通り。 
 無忌の権力や寵遇が度を超しているとの密表があった。上は、これを無忌へ見せて、言った。 
「朕は、卿のことを露ほども疑ってはいない。ただ、各々耳に入ったことを腹の中にしまっておくなど、君臣として他人行儀ではないか。」 
 また、百官を召し出して、言った。 
「朕の諸子は、まだ幼い。無忌は、その誰もを我が子のように可愛がっている。他人がその仲を引き裂けるようなものではない。」 
 無忌は、満ちれば溢れるの戒を懼れ、位を下げることを求めた。皇后もまた力請したので、上はこれを許し、開府儀同三司とした。  

 丁巳、漢王恪を蜀王、衞王泰を越王、楚王祐を燕王とする。  

 上が魏徴へ訊ねた。 
「どんな人主を聡明と言い、どんな人主を暗愚というのかな?」 
 対して答えた。 
「多くの意見を聞き入れるのを聡明と言い、一つだけの意見しか聞かないのを暗愚と言います。昔、堯は民へ対して虚心に訊ねましたので、有苗の悪行を耳にすることができました。舜は四つの目と四つの耳を持つと称されるほどの人でしたから、共、鯀、驩兜達も、悪業を隠し通すことができませんでした。逆に秦の二世皇帝は趙高だけを信じ込みましたので、望夷の禍が起こりましたし、梁の武帝は朱巳(「巳/廾」)のみを信じ込みましたので、台城の屈辱を受けました。隋の煬帝は虞世基を偏信して彭城閣の変が起こったのです。これ故に、人君は大勢の意見を広く聞き入れなければなりません。そうすれば貴臣でも好き勝手はできませんし、下情も上達するのです。」 
 上は言った。 
「善し!」 
 上が黄門侍郎王珪へ言った。 
「開皇十四年の大旱の時、隋の文帝は民への賑給を許さず、百姓を山東へ移住させて、そこの食料を食べさせた。それ程貧しかったのに、開皇の末年になると、天下には五十年分の穀物が山積された。煬帝はその富を恃んで奢侈を極め、ついに国を滅ぼしてしまった。倉庫へ穀物を山積にさせたとて、ただ凶作の年に備えるだけのことだ。それ以上は何の役に立つか!」  

 二月、上が侍臣へ言った。 
「人々は、『天子は一番偉いから、畏憚するものなど何もない。』と言っているが、朕は違うぞ。上は皇天の監臨を畏れ、下は群臣の見上げる視線を憚っている。いつも兢々業々と、天意に合わない所がないか、人望に沿わないところがないかと恐れているのだ。」 
 魏徴は言った。 
「これこそ誠に致政の要です。どうか陛下、最後までそのお気持ちでお慎みください。そうすれば、全て巧く行きます。」  

 上が房玄齢等へ言った。 
「政治を為す時は、至公が一番大切だ。昔、諸葛亮は廖立や李を南夷へ流したが、亮が率すると、立も嚴も悲しんで泣き濡れ、死んでしまった者も居た。至公でなければ、どうしてこのようにできるだろうか!また、高潁(ほんとうは、水ではなく火)が隋の宰相となった時、公平で政治のことを良く知っていた。そして、潁の存没は隋の興亡へ繋がったのだ。朕は既に前世の明君を慕っている。卿等は前世の賢相を手本とせよ!」  

 三月、戊寅の朔、日食が起こった。  

 夏、四月。己卯、詔が降りた。 
「隋末の乱離のせいで飢饉となり、野には屍が野ざらしとなって、見る者の胸を痛める。所在の官司は、これを収めて埋葬せよ。」  

 太常少卿祖孝孫は、梁や陳には呉、楚の音楽が多く、周や斉には胡、夷の音楽が多いことから、これをもとに古声を推測し、唐雅楽を造った。これは八十四調、三十一曲、十二和から成り立っている。協律郎張文収へ、孝孫と共にこれを修めるよう詔が降った。 
 六月、乙酉、孝孫等はこの新しい音楽を演奏した。上は言った。 
「礼楽は、それを楽しみたいとゆう感情が人々からなくせないから、聖人が規範を作ってやっただけだ。政治の興廃が、なんでこのようなものに由来しようか?」 
 すると、御史大夫杜淹が言った。 
「斉が滅亡する頃、伴侶曲が作られ、陳の滅亡する頃に玉樹後庭花が作られました。どちらの曲も、その音声は物悲しく、道行く人でもこの曲を耳にすれば皆泣き濡れたと言います。政治の興廃が音楽とは関係ないなどと、どうして言えましょうか!」 
 だが、上は言った。 
「いや、そうではない。音楽は、人の気持ちに感応するものである。だから、楽しんでいる人がこれを聞けば喜び、憂えている者がこれを聞けば悲しむ。悲喜は人の心にあり、音楽にはない。滅亡寸前の国では政治も腐敗し、民は必ず愁苦している。だから音楽を聞いて悲しくなっただけだ。今、その二曲はどちらも残っている。朕が公の為に演奏してやったら、公は悲しくなるかな?」 
 右丞の魏徴が言った。 
「古人が言いました。『礼と言い礼と言うが、礼とは玉帛の事ではないぞ!楽と言い楽と言うが、楽とは鍾や太鼓のことではないぞ!』楽は、まこと、人の和にあります。声楽にはありません。」 
 臣光曰く、 
「昔、垂とゆう名工がいた。彼は目で見ただけで真っ直ぐとか円を描いているとか判定できたが、その術を人へ教えることはできなかった。だから、定規やコンパスを造った。彼以外の人間はこれらを使って曲直を知り円を描く。」と、私は聞いている。 
 聖人は、努力しなくても中を得るし、思索しなくても判る。だがその術を人へ授けることはできない。人へ授けられるものは礼楽だけなのだ。 
 礼は、聖人が実践したもの。楽は、聖人が楽しんだものだ。聖人は、中正を履行し、和平を楽しむ。また、その想いを四海の民と共有し、百代まで伝えようと思い、ここにおいて礼と楽を制定したのである。 
 だから、工人は垂の定規やコンパスを執って器へ施す。これは垂の功績である。王者は五帝、三王の礼楽を執って世へ施す。これもまた、五定三王の治世である。 
 世間が五帝、三王へ背いてから既に久しいが、後の人はその礼を見て、斉王の履行した跡を知り、その楽を聞いて斉王の楽しんだものを知れる。斉王の事績や心が明々としてなお世の中に存するかのように感じられるのは、これ礼楽の功績ではないか! 
 それ、礼楽には大本があり、飾りがある。中和は、大本だ。容声は枝葉だ。しかし、この二つはどちらかに偏ったり、一方を捨て去ったりはできないものだ。先王が礼楽の大本を守りほんの僅かの時間も心から忘れず、礼楽の飾りを行って本の僅かの時間も身から遠ざけなかった。閨門に興り、朝廷にて著われ、近隣に波及し諸侯に達し四海に流れ、祭祀や軍旅から飲食起居に至るまで、いまだかつて礼楽から外れるものはなかった。このようにして数十百年経ち、それでようやく世界があまねく教化され、鳳凰が飛んできて舞を舞うのである。 
 いやしくもその大本もないのにいたずらに枝葉の飾りだけを追い求め、一日だけ実行して百日顧みないようならば、風俗を変えようと思っても実に難しいことではないか。例えば漢の武帝は協律都尉を置き、天瑞を歌わせた。これは美麗だったけれども、結局は「哀痛の詔」を出す羽目になった。王莽は和の官を建てて律呂を制定させた。これは精密だったけれども、それで「漸台の禍」を救うことはできなかった。晋の武帝は笛の長さを制定し金石の音を整えた。これは詳細だったけれども「平陽の災」を止められなかった。梁の武帝は四器を立て八音を整えた。これは明察だったけれども「台城の辱」を免れなかった。 
 こうして考えるなら、韶や夏やコや武の音楽がそのまま伝承されていたとしても、根本の徳臥床するに足りないものならば、一人の匹夫でさえ感化させることはできない。ましてや四海なら尚更だ! 
 これは例えるならば、垂の定規やコンパスがあっても、工人も材料も揃えずに、ただ座り込んで器ができるのを待つようなものだ。絶対に手に入らない。ましてや斉や陳のように淫乱昏迷の主君が亡国の音楽をを朝廷で演奏させてみたところで、どうして一世の哀楽を根本から変えられようか! 
 それなのに太宗は、政治の興廃は歌に依らないと、何とも容易に発言し、こんなに果断に聖人を否定したものだ! 
 それ、礼とは威儀のことではない。だが、威儀がなければ礼を得て実践することはできない。楽とは、音声のことではない。だが、音声がなければ楽は得て見ることはできない。 
 たとえば、山から一土一石を取ってきて、「これが山だ」と言ったら、それは間違いだ。しかし、土石を全て取り除いてしまったら、山は一体どこにあるのか! 
 だから言う、「大本がなければ立たず、飾りがなければ実践されない。」と。 
 今の時代に、斉や陳の音が効能なかったからと言って、楽が治乱に益無しとゆうのは、拳ほどの石を持って泰山を軽いというようなものではないか! 
 もしもこの言葉が正しいのならば、五帝三王が楽を造ったのは、皆、馬鹿げた話だとなってしまう。 
「君子は、知らないことについては黙っているものだ。」と言うではないか。 
 惜しいことだ!  

 戊子、上が侍臣へ言った。 
「朕は隋の煬帝集を読んでみたが、文辞は奥深く、そのうえ博い。この著者は堯・舜の様な人間で、決してケツや紂のような人間ではないと思える。だが、彼の実績を見ると、正反対ではないか!」 
 魏徴が言った。 
「人君は聖哲であっても、なお、己を虚しくして人を受け入れなければならないのです。そのようであればこそ、智者は謀を献上し、勇者は力を尽くすのです。煬帝は、その俊才を恃んで自分の力に驕りました。ですから口では堯、舜の言葉を誦しながらケツや紂の行動をとっていたのです。そして、滅亡するまでそれに気がつきませんでした。」 
 上は言った。 
「隋の滅亡は遠い過去ではない。我らの反面教師だ!」  

上が言った。 
「朕は朝廷へ臨んで言葉を出そうと思うたびに、三思しなかったことがない。民を害することを懼れる余り、多弁になれないのだ。」 
 給事中知起居事の杜正倫が言った。 
「臣の職務は、天子の言葉を記録することでございます。陛下の湿原は、必ず臣が書き留めます。ですから陛下の湿原は今の害になるだけではありません。後世まで謗られるのです。」 
 上は悦んで帛二百段を贈った。  

 上は言った。 
「近頃、群臣は屡々瑞祥を上表して賀している。しかし、家が豊かで人間が足りていれば、瑞祥が無くても堯・舜のような世の中と称することができるし、百姓が愁え怨んでいれば、いくら瑞祥があってもケツ・紂と呼ばれるのだ。後魏の世では、官吏は連理の枝を薪にし白雉を煮て食べるほど瑞祥で溢れ返っていたが、それで世が治まっていたと言えるのか!」 
 丁未、詔した。 
「これからは、大瑞のみを表聞し、自余の緒瑞は所司へ申すだけにせよ。」 
 まさにこの頃、白鵲が寝殿の{木/鬼}の上に巣を作った。その形は腰鼓のようだった。左右は賀を称したが、上は言った。 
「我はいつも、煬帝が瑞祥を好んだことを笑っていた。祥瑞とは、賢人を得ることだ。これが祝うほどのことか!」 
 そして、巣を壊すよう命じて、鵲は野へ追い出した。  

 九月、雨が少なかったので、中書舎人の李百薬が上言した。 
「かつて宮人を解放しましたが、太上皇宮や掖庭の宮人は、まだまだ無用の者が多いと聞きます。これは衣食の浪費だけではなく、陰気が鬱積して旱害を呼びかねません。」 
 上は言った。 
「婦人を深宮へ幽閉するのは、まったく憐れむべき事だ。彼女達には掃除をする以外、どんな仕事があるのだ。これらは皆、民間へ放ち遣って、好きなことをさせるが良い。」 
 そして尚書左丞戴冑、給事中の亘(「水/亘」)水の杜正倫を派遣して、掖庭西門から、里へ帰らせた。前後して三千人の宮女が解放された。  

 壬申、前の司農卿竇静を夏州都督とした。静が司農だった頃、少卿の趙元楷は税金を容赦なく取り立てていた。静は、これを愚行として、官属へ対して大言した。 
「隋の煬帝のように奢侈に耽って重税をかき集める主君の元なら、公でなければ司農は務まらない。だが、今の天子は民を愛して節倹に勤しんでおられる。公など要らん!」 
 元楷は、大いに恥じ入った。  

 上が王珪へ訊ねた。 
「近世の国主達は、益々前古に劣っている。何故かな?」 
 対して言った。 
「漢代は儒術を尊び、宰相には経術の士を用いました。ですから風俗が淳厚だったのです。ですが近世では華麗な文章を重んじて儒を軽んじ、何かと言えば法律を持ち出します。これこそ、政化が衰退した理由であります。」 
 上は同意した。  

 冬、十月。御史大夫参預朝政の安吉襄公杜淹が薨じた。  

 十一月、辛、上が圜丘を祀った。  

 十二月、壬午、黄門侍郎王珪を守侍中とした。 
 ある時、上が閑居して王珪とお喋りをしていた。傍らに美人が侍っていたが、上は彼女を指さして王珪へ言った。 
「これは廬江王援(本当は王偏)の姫だ。援はこれの夫を殺して、後宮へ納めたのだ。」 
 すると、王珪は席を避けて言った。 
「陛下は、廬江が彼女を後宮へ納れたのを、是認しますか?それとも悪行と思われますか?」 
 上は言った。 
「人を殺してその妻を取る。卿はどうしてその是非を問うのだ!」 
「昔、郭公は善を善としながらも、用いることができなくて滅亡しました。斉の桓公はそれを聞いて滅亡するのも尤もだと納得しましたが、自分も実践できませんでした。ですから管仲は、桓公も郭公と変わらないと評したのです。今、この美人は陛下の側に侍っておりますので、聖心は廬公王を是認していると、臣は判じたのでございます。」 
 上は悦び、即座に彼女を後宮から出して親族の元へ返して遣った。 
 上は太常少卿の祖孝孫へ宮人の音楽を教えさせたが、宮人達がちっとも上達しないので、孝孫を責めた。すると、温彦博と王珪が諫めて言った。 
「孝孫はただの楽士ですのに、これを教師にして、実績が出ないからと行って叱責なさいました。臣は、これは誤っていると思います。」 
 上は怒って言った。 
「朕は卿等を腹心とした。だから、常に忠直をつくして我へ仕えるべきなのに、下とグルになって上をたばかり、孝孫の為に屁理屈をこねるか!」 
 すると、彦博は拝謝したが、珪は拝礼せずに言った。 
「陛下は忠直ではないと責められましたが、今の臣の言葉は、私情で曲げたのではありませんぞ!これは、陛下が臣を裏切ったのです。臣が陛下を裏切ったのではありません!」 
 上は黙り込んだ。 
 翌日、上は房玄齢へ言った。 
「昔から、帝王が諫言を納めるのは、実に難しい。朕は昨日温彦博と王珪を責めたが、今は後悔している。公等はこれに懲りずに言葉を尽くしてくれ。」  

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