文帝の治世
 
梁士彦の乱 

 隋の上柱国梁士彦は、尉遅迥討伐の時に連戦連勝で、乱後は尉遅迥の代わりに相州刺史となった。
 文帝は、彼を忌み、長安へ呼び戻した。
 上柱国の宇文忻は文帝とは幼い頃から親交が厚く、用兵上手と評判だった。文帝は、彼も忌み、理由を付けて罷免した。
 柱国の劉方は、一人だけ無事だったが、皆が失脚したので不安になり、使者を往来させて造反を陰謀するようになった。
 至徳四年(586年)、宇文忻は、梁士彦に蒲州で起兵させ、自分は朝廷で内応しようと考えた。だが、この陰謀に引き込まれた梁士彦の甥の裴通は、これを文帝へ密告した。
 文帝は、彼等の実態を探ろうと、陰謀を察知したことを隠して梁士彦を晋州刺史に任命した。
 梁士彦は、大喜びで劉方等へ言った。
「天命だ!」
 そして、儀同三司の薛摩児を長史とするよう請願し、文帝はこれを許可した。
 後、朝廷にて公卿を集めた時、文帝は梁士彦、宇文忻、劉方を捕らえて詰った。彼等は冤罪だと言い逃れをした。そこで薛摩児を捕らえてこれを庭面に引きだしたところ、彼は陰謀をすっかり暴露した。梁士彦は顔面蒼白になり、薛摩児へ言った。
「お前が俺を殺すのだ!」
 丙子、梁士彦、宇文忻、劉方は処刑された。彼等の叔父甥や兄弟は、死一等を減じられ、官職剥奪に留まった。
 九月、文帝は射殿にて、百官へ、彼等三人の私財を射させて戒めとした。 

 禎明元年(587年)八月、後梁を滅ぼした。その詳細は「後梁」に記載する。 

 開皇九年(589年)、陳を滅ぼした。その詳細は、「陳併合」に記載する。 

                                         

粛清 

 隋の大司徒王誼は、文帝の古馴染みで、彼の子息は文帝の娘の蘭陵公主と結婚していた。だが、文帝の親任は次第に冷めていったので、王誼は心中文帝を怨んだ。ある時、王誼は自ら言った。
「我が名は、図讖の台詞と符合するのだ。いずれは王となるに違いない。」
 これを聞いた公卿が、密告した。
 至徳三年(585年)、三月。文帝は王誼を自殺させた。 

 楽安公元諧は、豪快な人間だった。若い頃から文帝と共に学んでいたので、隋が建国してから要職を歴任した。ところが、彼は誹謗が嫌いな人間で、近習達へ媚びることができなかった。         
 楽安公は、上柱国王誼と仲が良かったので、王誼が誅殺されてから、文帝は楽安公を疎むようになった。
 開皇九年(589年)。ある者が、文帝へ告げた。
「楽安公と、彼の従兄弟の上開府儀同三司滂、臨澤侯田鸞、上儀同三司祈緒等が、謀反を企んでいます。」
 文帝がこれを調べさせたところ、役人は上奏した。
「楽安公と祈緒は、党項(タングース)と手を結んで、彼等へ巴・蜀地方へ出兵させようと考えていました。又、かつて楽安公は、元滂へ言いました。
『もともと、俺が皇帝になれたのだ。殿上の男は、盗賊に過ぎない。』
 すると、元滂は答えました。
『あの雲は、狗が鹿を追っているように見える。我らを祝福しているようではありませんか。』」
 文帝は怒り、楽安公、元滂、田鸞、祈緒を誅殺した。 

 左衛大将軍廣平王雄は、文帝から特に恩寵を蒙り、高潁、虞慶則、蘇威と共に”四貴”と呼ばれていた。
 廣平王は下士へ寛容で、朝野共に人気絶大だった。文帝は、彼の人気が高すぎるので、密かにこれを忌み、彼へ兵馬を任せたがらなくなった。八月、廣平王を司空として、その兵権を奪った。
 廣平王は、司空となったが、何の仕事もない。そこで彼は、門を閉じて賓客の出入りを拒んだ。(廣平王は、このような手段をとったから、猜疑心の強い主君の時代に一生を全うできたのである。) 

  

李徳林 

 開皇九年、蘇威が五百家ごとに郷正を置き、民を統治させるよう請願した。こうすることにより、裁判を簡素化することが狙いだった。
 李徳林は言った。
「もともと郷官判事が廃止されたのは、彼等が里の中の縁故に挽かれて不正をしていたからです。今、郷正が五百家の政治を専制するのなら、その弊害はもつと酷くなります。それに、小さな県には五百家もありません。二つの県に一人の郷正を置くのですか?」
 しかし、文帝は聞かなかった。
 やがて、五百家毎の郷正と、百家毎の里長が制度化された。
 成安文子李徳林は、自己の才望を鼻に掛ける人間で、議論の時には相手を論破しなければ気が済まなかったので、大勢の同僚が彼を嫌っていた。だから、彼は佐命の元功なのに十年間も出世できなかったのだ。

 李徳林は、屡々蘇威と意見が食い違ったが、そのような時は、高潁は常に蘇威を助け、李徳林が暴戻であると上奏し、文帝は大抵蘇威の建議に従った。
 文帝が李徳林へ荘店を賜下する時、李徳林が欲しい荘店を自分で選ばせた。すると彼は、逆人の高阿那肱の持っていた衞国県の市店を請い、文体はこれを許諾した。だが、晋陽へ御幸した時、店の人が文帝へ訴え出た。
「高氏は、私の田を強奪して、その敷地内に店を造り、賃貸ししていたのです。」
 そこで、蘇威は李徳林が、全て知って上で、自分の利益の為に民を蹂躙し続けたと上奏した。司農卿の李圓通等が、これに迎合して言った。
「この店の収益は、千戸の賦税に相当します。日数を累計して罰金を課するべきです。」
 文帝は、この事件でますます李徳林を憎んだ。
 十年、虞慶則等が、関東を巡回して戻って来たが、彼等は皆言った。
「郷正が裁判を専断しておりますが、愛憎によって判決を曲げますし、賄賂も横行するようになりました。民は、この制度に苦しんでおります。」
 そこで、文帝は郷正制を廃止した。
 すると、李徳林は言った。
「臣は、最初からこの制度に反対でした。しかし、一旦試行してしまったのです。それを即座に廃止すれば、民からの信用をなくします。朝令暮改は帝王の政治ではありません。これ以後は、法律の提案は軍法のように厳しく対するべきです。そうでなければ、紛糾して収まりがつかなくなるでしょう。」
 とうとう文帝は激怒した。
「お前は、我を王莽に喩えるのか!」
 これ以前、李徳林は父親が太尉諮議となっていたと吹聴していたので、給事黄門侍郎の陳茂が密奏した。
「李徳林の父親は校書でしたのに、彼は、諮議だったと称しています。」
 文帝はこれも根に持っていた。
 ここに至って、文帝は李徳林への不満を数え上げ、言った。
「公は内史となって朕の機密を知ることができたが、議論できる立場ではないぞ。何でその程度のことが判らないのか!それに民の店を強奪し父親の官職のさばを読みおって。朕は腹が立ったものの、抑えていたのだ。もう我慢できん。お前など、一州の長官程度がお似合いだ。」
 そして、湖州刺史として下向するよう命じた。
 李徳林は拝謝して言った。
「臣は、内史令などとは敢えて望みません。職務はなくても宜しゅうございますから、どうか朝政に参与させてください。」
 文帝は許さなかった。
 やがて、懐州刺史となり、卒した。 

訳者、曰く。文帝が簒奪を行った時、李徳林は北周の皇族を粛清することを諫めた。それ以来、全く出世しなかった。(この詳細は、「隋、建国」に記載。)しかし、その後、文帝が李徳林の功績に報いようとした時に、高潁を始め数人の進言で思い止まったとある。(詳細は「陳併合」に記載。)結局、文帝が立腹したのと、皆から嫌われていたのと、二つの理由で出世できなかったのだろう。結局、彼は子爵のままで卒した。成安は県名。文は諡。) 

 李圓通とゆうのは、もともと文帝が微線だった頃から、彼の家奴だったが、器幹があった。やがて李圓通と陳茂が参佐となり、信任された。
 後梁国が廃された時、文帝は後梁の太府卿柳荘を給事黄門侍郎とした。柳荘には識度があり、博学で辞令が巧く、典故に通じていた。それで、文帝はこれを重んじていた。しかし、彼は陳茂と同僚になってから、彼へ謙らなかったので、陳茂は、彼を文帝へ讒言した。それによって文帝は柳荘を疎み始め、やがて州刺史として下向させた。 

  

猜疑心 

 文帝は、もともと猜疑心が強かった。学問が嫌いだったが、智恵を巡らせて簒奪を行ってからは自分の才覚に自信を持った。そうゆう訳で、部下へ対しては明察な態度で臨んだ。近習達には、常に内外を窺わせ、過失を犯した臣下へは重罪を加えた。又、令史の汚職を患い、囮を使って令史達へ賄賂を贈らせて、これを受け取った者は即座に斬罪とした。
 殿庭にて官吏を杖で打つことも、一日に数回あった。高潁等がこれを諫めたので、文帝は領左右都督の田元へ尋ねた。
「我の杖は重いか?」
「重うございます。陛下の杖は指ほどの太さがあります。これで三十回も打てば、並の杖の数百にも相当します。ですから、杖で打たれてしんでしまう者も大勢いるのです。」
 そこで、杖を殿内から取り払い、刑罰は各々係の者へ任せるようになった。
 ところがある時、楚州行参軍の李君才が上言した。
「陛下の高潁への寵遇は度を超えています。」
 文帝は激怒して、これを杖打つよう命じたが、殿内に杖がなかった。そこで文帝は、馬の鞭で撲殺してしまった。
 これ以来、殿内へ杖が再び置かれるようになった。
 この事件からいくばくも経たないうちに、文帝は怒りに任せて殿廷にて人を殺した。兵部侍郎の馮基が固く諫めたが、聞かず、遂に馮基まで殺してしまった。やがて、文帝は後悔し、馮基の名誉を回復し、その時諫めなかった群臣達を怒った。 

  

蘇威失脚 

 国議の席で、国子博士の何妥が尚書右僕射の蘇威と争議し、互いに譲らない事がよくあった。
 ところで、蘇威の子息の蘇キは太子通事舎人で、幼い頃から聡明で弁が立つと評判だったので、大勢の士・大夫が彼の子分になっていた。
 十二年、議論が音楽へ及ぶと、蘇キと何妥が、各々自説を固持して対立した。そこで、文帝は百僚の意見を聞いた。すると彼等の大半が、蘇威へ諂って蘇キへ賛同した。何妥は、怒りを含んで言った。
「我は、四十余年も国議に参与している。それが、こんな鼻垂れ小僧に屈しなければならぬのか!」
 そして、上奏した。
「蘇威は、礼部尚書盧豈(「心/豈」)、吏部侍郎薛道衡、尚書右丞王弘、考功侍郎李同和等とつるんで朋党を作っております。省中では、王弘を『世子』と呼び、李同和を『叔父』と呼んでいる程です。つまり、二人とも蘇威の子息や弟を以て任じているのです。」
 また、蘇威が従兄弟の蘇徹や蘇粛を不正に官職へ就けたことを始め、官職へ関わる不正も数事列挙した。
 文帝が、この件について蜀王楊秀、上国柱虞慶則等にこれを調べさせると、全て事実だと判ったので、文帝は激怒した。
 七月、蘇威は官爵を剥奪された。盧豈が除名されたのを始め、百余人の著名人が有罪となった。
 十二月、内史令楊素を尚書右僕射として、高潁と共に朝政の責任者とした。
 楊素は傲慢な人間で、朝臣達を見下していた。わずかに、高潁、牛弘、薛道衡を敬っているだけたで、蘇威でさえまるで無視されていた。ましてや他の朝臣は、ほとんどが踏みにじられていた。楊素は、才能や押し出しでは高潁に勝っていたが、国への誠実さや公平さ、そして宰相としての知識や度量では高潁に遠く及ばなかった。
 なお、蘇威はやがて赦免され、十四年には納言に任命された。
 この時、一年後には泰山の祠で不敬なことをやったとして罷免されたが、すぐに復帰した。文帝は、群臣へ言った。
「世間の人々は、『蘇威は清廉なふりをしているが、その家には財宝が山と積まれている。』などと噂しているが、これは事実無根だ。ただ、彼の人間性は暴戻で、名声に固執している。人が自分に平伏したら喜び、逆らったら怒る。これは、彼の大きな欠点だ。」 

  

  

仁寿宮 

 開皇十三年、文帝は岐州へ御幸した。岐州の北に仁寿宮を造営させ、その工事は楊素に監督させた。楊素は、前の莱州刺史宇文豈(「心/豈」)を検校将作大匠に、記室の封徳彜を土木監とするよう申請した。
 こうして、山を崩し谷を埋めるほどの大規模な造営が始まった。楊素は役夫を容赦なくこき使ったので、大勢の死者が出た。疲れ切って死んでしまった丁夫は、低い場所に放り込まれて、上から土や石をかぶせるだけ。こうして、谷が埋め立てられていった。
 死者は、一万人を越えた。
 この仁寿宮が落成したのは、開皇十五年である。同年三月、文帝は仁寿宮へ御幸した。
 さて、この工事は、特に酷暑時、道端で死んで行く役夫達が続出していた。楊素は、その死骸を全て焼き捨てさせた。文帝は、その話を聞いて気分を害していた。
 実際に仁寿宮を見てみると、余りにも壮麗だったので、文帝は激怒して言った。
「楊素は民力を絞り尽くして離宮を建てた。我を天下の怨みの的にするつもりか!」
 楊素はこれを聞いて怯えきってしまい、どうして良いかも判らずに封徳彜へ相談した。すると、封徳彜は言った。
「怯えることはありません。皇后が来れば必ず恩詔があります。」
 翌日、はたして楊素は召し出され、独孤后がねぎらった。
「我等夫婦も、もう年です。卿は、我等に何の楽しみもないことを思い、せめて住居だけでもと、このように盛大に作ってくれたのですね。これも又、忠孝の心です!」
 そうして、楊素へ銭百万、錦絹三千段を賜下した。
 楊素は高貴な生まれで才能にも溺れており、大抵の部下は凌辱していたが、封徳彜だけは贔屓にしていた。彼と共に宰相の職務について論じていれば一日でも飽きず、そのような時には、楊素は自分の椅子を撫でながら言った。
「封徳彜は、必ずこの席へ座る。」
 そして、封徳彜を屡々文帝へ推薦した。そうゆう訳で、文帝は彼を内史舎人に抜擢した。 

  

  

社会制度 

 開皇十六年、六月。商人や職人は官吏になれないとゆう制度を定めた。
 八月、詔が降りた。
「死刑を決定するためには、間違いのないように、裁判を三回は繰り返さなければならない。」 

 文帝は、官吏が上役を敬じない憚らないようになったら、何事も為し得ないと考えていた。
 十七年、三月。詔を降ろす。
「諸司は、その属官が罪を犯した時、その状況を判断して、律令の定めた刑罰に斟酌を加えることができる。」
 これ以来、上役の優位が決定的になり、部下を奴隷のように見る風潮が流行った。残虐暴虐な者は有能と呼ばれ、法を守る者は惰弱とバカにされた。 

 この頃、あまりに盗賊が多かったので、刑法を改定し、一銭の金でも盗みを働いた者は公開で処刑するようにした。ある時は、三人で一個の瓜を盗んだのに、全員死刑になった。だから、人々は恐々としてしまった。旅人達は、面倒ごとに巻き込まれないように、朝早く起きて宿を出立するようになった。
 その様な時、数人の人間が執事を拉致して言った。
「俺達は、金が欲しくてこんな事をしたのではない。我等のために、至尊へ上奏して欲しいのだ。古来から今まで、わずか一銭の金で死刑にするような法律など、聞いたことがないぞ!」
 この事件が文帝の耳へ入り、この刑法は廃止された。 

 年をとってからの文帝は、以前にも増して厳しく罰を与えるようになった。
 元日、参賀した武官の衣剣が不揃いだった時、文帝は、御史がこれを弾劾しなかった事を責めて言った。
「お前は御史となったのに、こんなに勝手気儘にさせているのか!」
 そして、御史を処刑するよう命じた。諫議大夫毛思祖が諫めたら、これも殺した。
 署庭が荒れた時には、武庫令を殺した。左右が使者として地方へ出向し、牧宰へ馬鞭や鸚鵡を授けた時には関係者全員を殺した。
 文帝は、感情の起伏が激しくなり、律令を無視するようになった。楊素を親任したが、彼も又気分次第屋で不公平など気に掛けない。
 ある時楊素は、鴻臚卿陳延と仲違いした。その時、楊素は蕃客館(入貢してきた異国の使者のための宿舎だろうか?)の庭に馬の糞があったことを文帝へ密告した。おかげで陳延は文帝からおもいきり打たれ、ほとんど死にかけた。 

  

皇太子廃立 

 十九年、八月、高潁が庶民へ落とされた。詳細は「皇太子廃立」へ記載する。
 九月、太常卿牛弘が吏部尚書となった。
 牛弘は、人材登庸に当たって、人格を第一とし、才覚はその次に置いた。職務は慎んでいるか否かを元に評価したので、人々から褒められる人間が大勢出た。
 開皇二十年、皇太子の楊勇を廃立して、次男の楊廣を皇太子とした。詳細は、「皇太子廃立」へ記載する。 

  

蔡王智積 

 十九年、同州刺史蔡王智積を入朝させた。蔡王は、文帝の弟の子で、謹厳で徒党を組まず簡素を旨としていたので、文帝は彼を非常に憐れんでいた。
 蔡王には五人の男児が居たが、彼等へは論語しか教えず、賓客との交わりを禁じていた。ある者がその理由を尋ねると、蔡王は言った。
「卿は、我を知らない!」
 彼は、ことほど左様に、子息達が才覚によって禍に落ちることを恐れていたのだ。 

  

皇后崩御 

 仁寿二年(602年)、八月。独孤后が崩御した。
 著作郎王劭が上言した。
「仏教の説にあります。『人界に降臨した天上の人が寿命を全うした時、仏は大光明と香しい花や妓楽で迎える。』と。諸々の纖を閲しますに、皇后陛下が妙善菩薩の生まれ変わりであることは間違い有りません。その証拠に、八月二十二日には、仁寿宮内に金の雨が降り銀の花が咲きましたし、二十三日大宝殿の後方に神光がありました。二十四日には永安宮の北から自然に音楽が奏でられて虚空を満たしました。これら全てが経文と付合します。」
 文帝はこれを読んで、悲喜交々こみあげてきた。 

  

文帝崩御 

 四年、文帝が仁寿宮へ避暑に行こうとしたら、術士の章仇太翼が固く諫めた。文帝が聞かないと、章仇太翼は言った。
「御幸されれば、二度と帰って来れません。」
 文帝は激怒して、章仇太翼を牢獄へぶち込み、帰ってきたら殺すことにした。
 とうとう、文帝は仁寿宮へ御幸した。その間の政治向きのことは、全て皇太子へ任せた。
 四月。文帝は重病になった。
 六月、天下へ特赦が降りる。
 七月、文帝の病気は非常に重くなった。文帝は伏したまま百僚と決別し、彼等の手を握って涙を零した。又、章仇太翼を赦すよう皇太子に命じた。
 丁未、大寶殿にて崩御した。享年六十四。
 文帝は、法律は厳格に遂行した。朝廷へ出る度に、日暮れまで倦むことを忘れた。財産には吝嗇だったけれども、功績のあった臣下を賞する時には物惜しみしなかった。将士が戦死したら、必ず賞を与え、戦死者の実家へは使者を派遣して慰問した。百姓を愛育して農桑を奨励し、税金はできる限り安くした。
 私生活は倹約質素を旨とし、乗輿も飾り立てず、宴会以外の食事では肉類は一品しか摂らなかった。後宮の女性達も洗い晒しを来ていた。天下の人々もこれを手本としたので、開皇、仁寿年間は、丈夫は綾錦を着ず、帯留めも銅鉄や骨角だけで金玉の飾り付けなどなかった。だから、衣食はふんだんに流布し、倉庫は一杯の有様だった。禅譲を受けた当初は、民は四百万戸に過ぎなかったが、治世の末年には八百九十万を数え、冀州だけでも百万戸あった。
 しかしながら、猜疑心が強く、讒言はすぐに信じ込んだ。だから、功臣や旧臣は一生を保てる者が殆どおらず、子弟へ至っては仇敵のように扱った。これは、文帝の短所である。 

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