楊尚希
至徳四年(586年)、十月、兵部尚書楊尚希を礼部尚書とした。
文帝は、毎日明け方から朝廷に立ち、日が暮れるまで政務に勤しんでいだ。楊尚希は、これを諫めて言った。
「周の文王は働きすぎて過労死しましたし、武王は安楽にしたから長生きできたのです。どうか陛下、大枠だけを宰輔と共に定めてください。煩雑な政務は、人主自らが手を下すものではありません。」
文帝は、これを良しとしながらも、従うことができなかった。
李文傅
同月、襄州へ山南行台を設置して、秦王俊を尚書令とした。俊の妃が男児を生むと、文帝は喜んで、群官へ賜を下した。
ところで、直秘書内省の李文傅は、家が貧しかった。そこへ賜を貰ったものだから、知人が慶賀に行くと、李文傅は言った。
「賞罰をもうけたのは、功績や過失に報いるためだ。今、王妃が男児を生んだが、これは群官の功績ではない。それなのに、妄りに賞を受けるのか!」
知人は恥じ入った。
劉曠
平郷令の劉曠は、とても善い政治をしていた。彼は特に民を諭すのが巧く、訴訟してきた民は、互いに自分が悪かったと譲り合って帰って行く。だから、牢獄は草が生えっぱなしの有様だった。彼はやがて、臨潁令となった。
開皇十一年(591年)、高潁が、劉曠の統治を天下一品と推薦した。そこで文帝は劉曠と謁見し、侍臣へ言った。
「彼を賞さなければ、何を以て勤勉を進めるのか!」
こうして、劉曠を呂州刺史とした。
盧賁
斉州刺史の盧賁は、かつて飢饉が起こった時に、領内の民へ対して何ら救済手段を打たなかったので、除名された。後、文帝は彼へ一州なりとも授けたいと考えたが、その詔を受け取った盧賁は、文帝の真意が汲み取れず、却って恨み言を述べた。それを聞いて文帝は怒り、結局再登庸は沙汰止みとなった。
後、皇太子が盧賁の為に弁護したが、文帝は言った。
「簒奪の功臣達は、皆、みじめな末路を辿った。皆、心中に不満を持っているからだ。盧賁もまた同じ。これを登庸すれば不遜になるし、罷免すれば怨望する。奴の本質が信用をなくしているのであり、朕が彼を棄てたのではない。端から見たら、朕が功臣へ対して薄いように見えるが、実はそうではないのだ。」
開皇十四年、盧賁は、遂に廃されたまま、家で卒した。
韋世康
十五年、十月。吏部尚書韋世康が荊州総管となった。彼は、韋洸の弟である。
韋世康は、物静かで謙譲仁恕な性格。吏部に十余年いて、人々から清廉で公平だと評されていた。彼には隠遁志向があり、弟子へ言った。
「禄の多さが何になる。満ちることを防ぐためには退くのが一番。年内にでも、病気を理由に辞職しよう。」
こうして骸骨を乞うたが、文帝は許さず、荊州総管に任命したのである。
この頃、国内にはヘイ、揚、益、荊の四総管があり、それぞれ晋王、秦王、蜀王、韋世康が任命された。人々は、これを褒めそやかした。
趙綽
ある時、文帝は怒りに任せて六月なのに人を杖で打ち殺そうとした。大理少卿の趙綽が争って言った。
「季夏は天地の万物が育成する時期です。この時期に誅殺してはいけません。」
すると、文帝は言った。
「六月に育成するとはいえ、この月には雷も落ちるのだぞ。我は天を代行するのだ。何の不可があるか!」
遂に、これを殺した。
大理掌固の来曠が上言した。
「大理官司は、寛大すぎて怠慢に流れております。」
文帝は来曠を忠直だと思い、毎朝、五品行中を大理へ行かせて仕事ぶりを検分させるようになった。
来曠は、又、言った。
「大理少卿の趙綽は、囚人達を勝手に釈放しています。」
ところが、文帝がその件を調べさせると、事実無根だった。文帝は怒り、来曠を斬るよう命じた。すると趙綽は諫めていった。
「来曠の罪は、死罪にする程ではありません。」
だが、文帝は、衣を払って退出した。そこで、趙綽は偽って言った。
「来曠には、死罪にするに相応しい罪があるのですが、まだ奏聞していないのです。」
それを聞いて、文帝は戻ってきた。すると、趙綽は再拝して言った。
「臣には、死罪に相当する罪が三つもあります。一つは大理少卿でありながら、掌固の来曠を善導することができず、このような罪を犯させてしまったこと。二つ目は、来曠の罪は死罪になるほどのものではありませんのに、諫め尽くすことができなかったこと。それに、臣は来曠の別の罪状など知りませんのに、陛下を呼び戻すために嘘をつきました。これが三つ目でございます。」
文帝は、顔を和らげた。独孤后がこれを知り、趙綽へ酒を金盃で二杯飲ませ、そのまま金盃を賜下した。
来曠は、死一等を減じられ、廣州へ流されるだけで済んだ。
蕭摩訶の子の蕭世略が、江南で造反した。
蕭摩訶は当然連座させられる筈だったが、文帝は言った。
「蕭世略は、まだ二十歳にもなっていないのに、なんで造反などできようか。名将の息子だとゆうので担ぎ上げられただけだ。」
そして、蕭摩訶を赦した。
趙綽はこれを不可として、固く諫めた。文帝はそれを言いくるめられなかったので、彼が退出してから蕭摩訶を赦してやろうと、趙綽へ食事へ行くよう命じた。すると趙綽は、
「判決が下るまで退席いたしません。」
とうとう、文帝は言った。
「大理卿よ、朕の為に、どうか蕭摩訶を赦してくれないか!」
そして、左右へ釈放するよう命じた。
屈突通
文帝は、親衛大都督屈突通へ、隴西の牧宰を検分して回るよう命じたところ、彼は隠匿されていた馬を二万余匹も摘発した。報告を受けた文帝は激怒して、太僕卿慕容悉達を始め諸監官千五百人を処刑しようとした。
屈突通は諫めて言った。
「人名は尊いのです。陛下は畜産の為に千余人を殺されるのですか!臣は死を冒してでも諫めずにはいられません!」
文帝が、目を怒らせて叱りつけても、屈突通は頓首して言った。
「臣一人は殺されても構いません!どうか千人のお命を救ってください!」
文帝は、ようやく悟って言った。
「朕の不明もここまで至ったか。卿の忠言は頼もしいぞ!」
こうして慕容悉達等は助命され、屈突通は左武侯将軍に抜擢された。
王伽
斉州行参軍の王伽が、流刑囚の李参等七十余人を京師へ護送していた。栄陽まで来た時、彼は嘆いて言った。
「お前達が罰を与えられたのは。身から出た錆で仕方のないことだ。だが、そんな辛そうな姿は、見るに忍びないぞ。」
李参等が陳謝すると、王伽は彼等の枷や鎖を全て取り外した。
「我は、某日に計師へ着く。もしもお前達が一人でも脱走したならば、我は甘んじて罪を受けよう。」
そして、彼等を置き去りにして一人で旅立った。流人達は感悦し、期日までに全員京師へ集まり、一人の脱走者もいなかった。
文帝はこの話を聞いて大いに驚き、王伽を呼び寄せて共に語り、大いに悦んだ。囚人達は、彼等の家族を呼び寄せて、宮殿の庭で宴会を開き、そのまま釈放してやった。
更に、文帝は詔を下した。
「凡そ、生ある者は誰でも、美しい心を内包し、善悪を知り、是非を識っているものだ。だから、至誠で臨み善導すれば、風俗は必ず清くなるし、人は皆善人になるのだ。しかし、海内は乱離が続いた。そんな中で徳教は廃絶し、役人には慈愛の心がなくなり、民に姦詐の心が生まれたのだ。
朕は、聖法を遵守することを思う。民は、徳によって教化するものなのだ。王伽は、朕のさの想いを深く汲み取り、誠心で囚人達を教え導いた。だから、李参等は感悟して、自ら獄門へ赴いたのだ。
ああ、これを見ても明白ではないか。庶民は教化しにくくはない。役人が皆、王伽を手本とし、民草が皆李参のようであったなら、刑罰の道具が朽ち果てる日も、きっと遠くはないだろう。」
そして、王伽をヨウの県令へ抜擢した。
韋雲起
兵部尚書の柳述は、柳慶の孫である。蘭陵公主を娶っていたので文帝から寵愛され、楊素なども彼へはへりくだっていた。
仁寿二年(602年)、文帝が苻璽直長の韋雲起へ言った。
「今、朝廷で何か不都合なことがあったら述べて見よ。」
この時、柳述は文帝の傍らに控えていたが、韋雲起は言った。
「柳述は、驕慢な人間です。軍事の経験もないのに要職にありますが、軍事とゆうのは国家の大事。とても彼ではその任務に堪えられないでしょう。それなのに陛下は、娘婿とゆうだけで彼を兵部尚書にしておられます。これでは『陛下は人材を才能ではなく愛憎によって選んでいる。』と評されるのではないかと恐れます。これこそ、一番の不都合です。」
文帝は、柳述を振り返って言った。
「韋雲起の言葉は、汝の薬石だ。彼を師友とするべきだ。」
柳述は、韋雲起を通事舎人とした。
燕栄
仁寿三年、八月。幽州総管燕栄を自殺させた。
燕栄は残虐な性格で、すぐに部下を鞭打ち、ややもすれば千回を超えた。その嗜虐性については、次のような話が残っている。
ある時、燕栄は道端に荊を見つけた。それで頑丈な杖ができそうだったので、さっそく部下に採らせた。杖ができると、試しに人を討とうとしたが、相手は言った。
「私には、何の罪もありません。」
すると、燕栄は言った。
「よし、後におまえが罪を犯したら、今回の分で帳消しにしてやろう。」
後、その部下が本当に罪を犯した時、燕栄がこれを鞭打とうしたので、彼は言った。
「前回鞭打った時、次の分を帳消しにしてやると言われました。」
すると、燕栄は言った。
「前回、罪がなかった時でさえ、おまえを鞭打ったのだ。今回は本当に罪があるのだ。尚更ではないか。」
そして、普通通りに鞭打った。
観州長史の元弘嗣が幽州長史へ転任を命じられた時、元弘嗣は燕栄に辱められることを懼れ、固く辞退した。そこで、文帝は燕栄へ敕を出した。
「元弘嗣に関しては、杖十以上の罰を与える時は、必ず上奏せよ。」
敕を受けて燕栄は言った。
「小僧っ子が、俺を侮るか!」
そして、元弘嗣が赴任すると、倉庫の管理を命じた。そして、一粒の籾でも数が合わなければ、すぐに罰する。一回の鞭打ちは十回以下でも、一日に三回打ったこともある。
このような毎日が過ぎるうちに、二人は仇敵のように憎しみあうようになった。
とうとう、燕栄は元弘嗣を牢獄へぶち込んで、食事さえ与えなくなった。
元弘嗣の妻は、闕へ詣でて冤罪を訴えた。そこで文帝が使者を派遣して検分させたところ、使者は燕栄の残虐行為や、収賄を始め数々の狼藉を暴いた。その報告を受けるや、文帝は燕栄へ自殺を命じたのである。
燕栄が自殺すると、元弘嗣が後がまとなった。しかし、彼の残虐行為は、燕栄以上だった。
王通
同年、龍門の王通とゆう男が、闕を詣でて太平十二策を献上したが、文帝はこれを採用しなかった。そこで王通は都を去り、河・汾の辺りで私塾を開いた。すると、彼の名前を聞きつけて、遠くからでし入りする人間が大勢居た。朝廷は、何度も王通へ出仕を促したが、彼は肯べらなかった。
楊素は彼を非常に重んじており、出仕するよう勧めたが、王通は言った。
「私には、先祖伝来のあばら屋がありますが、これで雨露が凌げます。狭い田畑ですが、これで腹は満たせます。そして、書を読み道を談じれば自ら楽しめます。どうか、殿は身を正しくして政治を執られて下さい。そうすれば、天下が満ち足り、私も幸福に暮らせます。私は、出仕など願いません。」
ある者が、彼のことを楊素へ讒言した。
「彼は公へ対して傲慢です。公はどうしてそんな男へ恭謙に接しているのですか?」
そこで、楊素はその言葉をそのまま王通へ言ってみた。すると、王通は答えた。
「公へ対して傲慢でいらるからこそ、私は公と付き合っているのです。黄河傲慢を許さなければ、私は公と付き合いません。得失は私にあります。公に何が預かれましょうか!」
楊素は、それまで通り彼と付き合った。
ある時、甥の賈瓊が王通へ訊ねた。
「讒言をなくすには、どうすればよいのでしょうか?」
王通は言った。
「何も言わないことだ。」
「人から怨まれずに済ますにはどうすればよいのでしょうか。」
「人と争わないことだ。」
王通は、かつて言った。
「特赦を行わない国は、刑罰が公平だ。重税をはたりとる国は、必ず財源が先細りになる。」
また、言う。
「讒言を聞いて怒る者は、讒言の囮だ。名誉を見て喜ぶ者は、奸佞の触媒だ。囮を絶ち媒を去れば、讒佞は遠のく。」
王通は、大業年間の末に、自宅で卒した。門人達は文中子と諡した。
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