宗教・教育
 
  

 開皇十三年(593年)、詔が降りた。
「緯候や図讖の類を私藏を禁じる。」
 又、文帝は、明堂の制度について協議させた。そして、これの建築地まで考えていたのだが、大勢の儒学者達が細かい数字を互いに譲らなかったので長い間決まらず、とうとう中止となった。(大戴礼や礼記や周書明堂や礼図など、明堂について既述されている聖典は数え切れないくらい多い。だから多分、それぞれの記述に矛盾があったのだろう。たとえば、高さが三尺になっていたり四尺になっていたり、大きさが方三百歩だったり三百五十歩だったりとゆう類を皆譲らずに議論したのだろう。これらの異同については、中華書房刊、「資治通鑑」12巻、5540〜5542pに、詳細に記述されている。) 

  

猫(ほんとうは、豸へん。)鬼 

 延州刺史独孤陀は、徐阿尼とゆう婢をもっていた。この徐阿尼は、猫鬼へ仕えて、人を殺すことができた。人を殺すたびに、殺した人の財産を密かに盗み、猫鬼家に蓄えていたのだと言う。
 十八年、独孤后と楊素の妻の鄭氏が病気になった。診断した医者は言った。
「猫鬼の病です。」
 独孤陀は独孤后の異母弟で、独孤陀の妻は楊素の異母妹だった。それで文帝は独孤陀が怪しいと踏んで、高潁へ調べさせた所、証拠が見つかった。
 文帝は怒り、独孤陀夫妻を犢車に載せて引き回した。そして自殺させるつもりだったが、独孤后が三日も物を食べずに命乞いをした。
「彼等の蠱術が民を害したのなら、妾は何も言いません。しかし、今回は妾が狙われただけ。ですから、敢えて命乞いをするのです。」
 独孤陀の弟の、司勲侍郎独孤整も哀願した。これらによって、独孤陀は死罪を許され、庶民へ落とされるだけで済んだ。妻の楊氏は尼にされた。
 これ以前に、「母親が猫鬼に殺された」と訴えた者が居たが、文帝は本気にせず、叱りつけて追い払っていた。ここにいたって、訴えられた猫鬼家は誅殺するよう詔が降りた。
 四月、詔を降ろす。
「猫鬼、蠱毒、厭媚野道の家は、四裔まで投獄する。」 

  

学校閉鎖 

 仁寿元年(601年)、文帝は、天下の学校生徒が、数が多いのに学問に精通していないと考え、詔を降ろした。
「国子学生七十人だけを留め、太学、四門及び州県学は全て廃止する。」
 殿内将軍劉玄が上表して切に諫めたが、文帝は聞かなかった。
 七月、国子学を太学と改称する。 

  

迷信 

 文帝は北周から簒奪して隋を建国したので、即位した当初は、民の心が離れることを恐れ、瑞祥の類を沢山でっち上げた。おかげで、瑞祥を偽造して献上する者も後を絶たなかった。
 仁寿元年十一月、南郊にて儀礼を行ったが、それはまるで封禅の儀式のようだった。 

 文帝は、晩年、仏道鬼神を深く信仰するようになった。
 同年、詔した。
「仏や天尊、嶽、鎮、海を壊す者、神像を冒涜する者は、不道の罪に当てる。沙門が仏像を壊したり、道士が天尊像を壊したりしたら、悪逆の罪に当てる。」 

二年、八月。独孤后が崩御した。
 著作郎王劭が上言した。
「仏教の説にあります。『人界に降臨した天上の人が寿命を全うした時、仏は大光明と香しい花や妓楽で迎える。』と。諸々の纖を閲しますに、皇后陛下が妙善菩薩の生まれ変わりであることは間違い有りません。その証拠に、八月二十二日には、仁寿宮内に金の雨が降り銀の花が咲きましたし、二十三日大宝殿の後方に神光がありました。二十四日には永安宮の北から自然に音楽が奏でられて虚空を満たしました。これら全てが経文と付合します。」
 文帝はこれを読んで、悲喜交々こみあげてきた。 

  

  

経済 

 開皇十二年(592年)、十二月、ある役人が上言した。
「官庫はどれも穀物でいっぱいです。とても入りきれなくて、庇の下に積んでいるものさえある始末です。」
「朕は、既に税金を安くしたし、陳平定で、将兵に多くの恩賞を賜下した。どうしてそんなに余るのか?」
「毎年、歳入が歳出より多いのです。臣下への賜下品は、毎年ほぼ数百万段で変わりません。それを加味しても余るのです。」
 そこで、文帝は詔を出した。
「穀物は、官庫へ山積みさせるより、人々の家に積んで置こう。河北、河東の今年の田租は三分の一へ減らす。兵卒へ与えた田畑の租税は半減し、調は全廃する。」
 この頃、天下の戸口は毎年増加していた。京輔や三河は土地が狭いのに人間が多く、衣食が不足していた。そこで文帝は、人を四方へ移動させ、天下の田を人々へ平等に支給した。
 十四年には、関中で旱害が起こり、大勢の民が餓死した。文帝が査察官を派遣したところ、彼等は豆クズと米糠の混ぜものを持って帰った。文帝は涙を零してこれを群臣へ示し、自らを咎めた。この時以来、文帝は凡そ一ヶ月ほど、酒や肉を口にしなかった。
 八月、文帝は関中の飢えた民を洛陽へ移住させ、生活が成り立つようにしてやった。
 十五年、六月。相州刺史豆盧通が精巧な綾刺繍の布を献上した。文帝は、これを朝堂にて焼き捨てさせた。 

 従来隋では、台や省、府、寺及び諸州には皆、公立の金貸しが設置され、利息を稼いでいた。工部尚書蘇孝慈は、言った。
「このようなシステムは、百姓をかき回し、風俗を破ります。これらは皆禁止して、官吏へは職田を与えるようにしましょう。」
 文帝は、これに従った。
 十四年、六月。詔が降りた。
「公卿以下、全てに職田を配給する。公卿は、民と利益を争ってはならない。」 

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