文帝の子息達
 
秦王 

 秦王俊は、幼い頃は仁恕な性格で仏教を喜んでいた。ある時など、沙門になりたいと請願したが、文帝は許さなかった。ヘイ州総管になると、段々贅沢になって行き、宮殿などは制度を無視して盛大に造築した。
 ところで、秦王は女好きだった。彼の正室の崔氏は崔弘度の妹だったが、ひどいやきもち焼きだった。彼女は秦王の女好きに怒り、秦王へ毒を仕込んだ瓜を食べさせた。おかげで秦王は病気になり、京師へ呼び戻された。
 開皇十八年(598年)、文帝は、秦王の奢侈が度が過ぎているとして、官職を罷免した。崔氏は王へ毒を飲ませたので、自宅で自殺させた。
 左武衛将軍劉昇が、諫めて言った。
「秦王には、他の過はありません。ただ、少しばかり立派な邸宅を建てるのに官費を使っただけでございます。どうか、ご容赦をお願いします。」
 文帝は言った。
「法をなみすることはできぬ。」
 楊素が諫めた。
「秦王の過失は、免職になるほどではありません。どうかご再考ください!」
 だが、文帝は言った。
「我は五児の父親だが、それと同時に兆民の父ではないのか?公の意見が正しいのなら、何故天子の子息用に特別の律令を作っておかなかったのか!周公の為人でも、なお、管、蔡を誅殺した。我は周公には遠く及ばないが、どうして法をけがせようか!」
 そして、遂に許さなかった。
 秦王は病気で長いこと起きあがれなかったので、文帝へ使者を出して陳謝した。すると、文帝は言った。
「我は全力を尽くして国家を創立し、自ら手本となって庶民を守っているのだ。お前はその息子となりながら、父親の業績を台無しにするのか!責める言葉も見つからぬわ!」
 秦王は慙愧と畏怖でますます病気が篤くなった。そこで、再び上国柱となった。
 開皇二十年六月、卒す。文帝は哭の儀式を数回しか行わなかった。
 文帝は、秦王が奢侈を極めたものを全て焼き捨てるよう命じた。
 王府の僚佐が碑を立てるよう請うと、文帝は言った。
「名前を求めるのなら、一巻の史書で事足りる。碑が、何の役に立つか!」
 秦王の子息の浩の生母は崔氏である。庶子は湛と言った。群臣は、文帝へ言った。
「今、秦王の二人の子息の生母は、どちらも罪人です。これは世継ぎとするのに相応しくありません。」
 文帝はこれに従い、秦国の官吏を喪主とした。
 後、煬帝が立つと、浩を秦王として後を継がせ、湛を済北侯へ封じた。 

  

  

蜀王 

 益州総管の蜀王楊秀は、容貌魁偉で肝が据わり、武芸を好んでいた。文帝は、いつも独孤后へ言っていた。
「秀は、畳の上では死ねないぞ。我が生きている内はよいが、死んでしまって兄弟の御代になれば、きっと造反する。」
 大将軍劉會が西焚を討伐した時、文帝は、上開府儀同三司楊武通を後続とした。この時、楊秀は、お気に入りだった萬智光を楊武通の行軍司馬として従軍させた。文帝は、楊秀が不的確な人間を選んだとして彼を譴責し、群臣へ言った。
「我が法を壊すのは、我が子孫だ。たとえるならば、猛虎は誰も傷つけることはできないが、却って毛の間の虫から餌食にされるようなものだ。」
 長史元巖が死ぬと、楊秀は次第に豪奢になり、僭上な振る舞いが増えてきた。渾天儀を造り、多数の山リョウ(リョウは、蜀の少数民族の名前)を捕らえては宦官にし、車馬被服は皇帝を模した。
 皇太子勇が讒言によって廃立され、楊廣が皇太子となると、楊秀は非常に不満だった。皇太子廣は、楊秀が後々の患いになることを恐れ、彼を讒言するよう楊素へ密かに命じた。こうして楊素は、楊秀の罪状を次々と文帝へ吹き込んだ。
 仁寿二年(602年)、遂に文帝は、楊秀を京師へ呼び戻した。だが、楊秀は病気を理由に、なかなか腰を上げなかった。
 総管司馬の源師が諫めると、楊秀は顔色を変えて言った。
「これは、我が家庭内のことだ。卿の預かり知ることではない!」
 源師は涙を零して言った。
「私は殿下の府幕へ席を置いています。忠義を尽くさせていただきますぞ!聖上が王を呼び出されたとゆうのに、月を越えてもぐずついて、未だに出発なさいません。百姓は王の心を測りかね、造反でもするのではないかと疑っております。もしも雷霆の詔が降り、使者が詰問に来たら、王はどうやって身の証を立てられますのか?どうか殿下、とくと御熟慮なさいませ!」
 朝廷は、蜀王が造反することを恐れ、原州総管独孤楷を益州総管として、蜀王と交代させることを伝えた。しかし、独孤楷がやって来ても、蜀王は出発を肯らなかった。
 独孤楷が諄々と諭しすと、ようやく蜀王は重い腰を上げた。だが、蜀王の出発を見送った時、独孤楷は、蜀王が後悔していることを表情から察知した。そこで独孤楷は即座に軍備を整えた。
 蜀王は、四十里ほど進んだ所で、果たして踵を返し独孤楷を襲撃しようとしたが、防備が既に整っているのを見て、思い止まった。
 蜀王が長安へ到着して文帝へ謁見したが、文帝は一言も語らなかった。
 翌日、文帝は蜀王のもとへ使者を派遣して切々と叱った。蜀王は謝罪し、皇太子始め諸王は彼の為に涙を流して取りなした。
 文帝は言った。
「近頃秦王が贅沢の限りを尽くしたので、我は父道を以てこれを教え導いた。今、蜀王は民草を傷つけた。今回は君父を以て罰しなければならない。」
 そして、これを獄へ下そうとした。すると、開府儀同三司の慶整が諫めた。
「庶人の勇は廃され、秦王は既に亡くなりました。陛下の子息はそんなに多くありませんのに、どうしてこうなったのですか!蜀王はプライドの高いお方です。今、厳しく処罰されれば、命さえ全うできないかと恐れます。」
 文帝は激怒して、慶整の舌を斬ろうと思い、群臣へ言った。
「秀は斬罪にして、庶民へ詫びるべきである。」
 そして、楊素へ裁断させた。
 皇太子廣は、密かに人形を作り、その手を縛り胸へ釘を打ち枷に挟み、その上に紙を貼った。その紙は、上方に漢王と文帝の名が書いてあり、その下には、「西嶽の慈父聖母よ、楊堅と楊諒の魂をこの人形へ納め、散らす事なかれ。」と書かれていた。皇太子はその人形をひそかに華山の下へ埋め、楊素に摘発させた。
 また、「蜀王が図纖を妄りに述べていた。」だの、「京師の妖異は全て蜀の地で造られていた。」だのの告発文が次々と上書された。
 文帝は言った。
「天下にこんな事があってよいのか!」
 十二月、蜀王を廃して庶民とし、内侍省へ幽閉した。妻子の面会も許さず、ただ、リョウの婢二人だけが側仕えとして許された。
 この事件で、連座する者は百人を越えた。
 楊秀は上表して謝罪し、言った。
「どうか格別の御慈悲でもって、瓜子だけは一緒に暮らさせてくださいませ。」
 瓜子とゆうのは、楊秀の最愛の息子である。
 これへ対して文帝は、彼の十の罪を数え上げ、言った。
「楊堅と楊諒は、おまえにとってどんな間柄なのだ?」
 だが、後に子供達とだけは同居することを許した。 

 かつて楊素は、ちょっとしたことで文帝から譴責を蒙ったことがある。文帝は、敕書を南台(御史台)へ送り、治書御史の柳イクへその処理を命じた。
 その時、楊素は自分の身分を恃んで、柳イクの椅子に腰掛けていた。だが、やって来た柳イクは、階下にて居住まいを正して言った。
「敕を奉じて公の罪を治める!」
 楊素は、慌てて駆け下りた。
 柳イクは座に就くと楊素を庭に立たせて彼の罪状を詰問した。
 これ以来、楊素は柳イクを怨んでいた。
 かつて蜀王は、李文博が編纂した「治道集」を欲しがっていたが、柳イクがこれを所有していたので、無心した。柳イクがこれを蜀王へ与えると、蜀王は見返りに奴婢十人を柳イクへ贈った。
 さて、蜀王が罪に堕ちると、楊素は、柳イクが蜀王と交流があったと告発した。柳イクは庶民へ落とされ、懐遠鎮へ流された。 

 文帝は、蜀王の罪を徹底的に洗おうと、司農卿の趙仲卿を益州へ派遣した。趙仲卿は、ほんの少しの関わりでも厳しく法を適用したので、州県の長吏は大半が連座されてしまった。その結果を聞いて文帝は、趙仲卿を有能だと評し、多くの賞を賜下した。 

 これからしばらく経って、貝州長史の裴蕭が上書した。
「高潁は天賦の才で国家の元勲となり、よく朝政を補佐しておりました。しかし、それ故に衆人の嫉妬が集まり、棄てられてしまったのです。どうか陛下、彼の大功を採り、小過をお忘れください。また、二人の庶子が罪を得て既に久しゅうございます。この間に、どうして改心しないことがありましょうか!どうか陛下、君父の慈悲を広め、天性の義を顧み、お二方を小国になりと封じてください。それでもしも改心の情が見えましたら、次第に封国を大きくなさいますよう。ちっとも改まっていなければ、その時に封国を削り取ったとて、遅くはありますまい。今、改悛の道を永遠に閉ざしてしまえば、愧悔の心を顕わすことさえできません。なんとも哀れではありませんか!」
 この書を読んで、文帝は楊素へ言った。
「裴蕭は、我が家のことをこんなに憂えている。これも又、至誠である。」
 そこで、裴蕭を朝廷へ呼んだ。
 皇太子がこれを聞き、左庶子の張衡へ言った。
「勇は改心して、何を求めるのかな?」
「裴蕭は、彼等二人が呉の太伯や漢の東海王のようになってくれることを望んでいるだけでございましょう。」
 裴蕭が到着すると、文帝は自ら、楊勇に改悛の想いが見えないことを諭し、引き取らせた。裴蕭は、裴侠の子息である。 

  

 楊素やその弟の楊約、一族の文思、文紀、楊忌等は尚書や列卿となり、子息達はこれといった手柄もないのに柱国や刺史となり、みんなして財産をがっぽり貯め込んだ。彼等が入手した邸店や美田は挙げて数えることもできず、家僮は千人を数えた。後庭には綺羅を引きずった妓妾が千を数え、邸宅の華麗さは宮禁を模倣するばかりだった。彼等の旧知やかつての部下などは、皆、引き立てられて出世した。
 皇太子勇と蜀王を廃してから後は、その威権はますます盛んになった。朝臣で少しでも意向に逆らった者は即座に処罰され、媚び諂ったら無能者でも抜擢された。朝臣達はひびりまくり、震え上がって媚びる者ばかりだった。敢えて楊素相手に剛直に対する者は、ただ、柳イクと、尚書右丞の李綱、大理卿の梁毘のみだった。
 ここで、梁毘のエピソードを付記しよう。
 まだ梁毘が西寧州刺史だった頃、蛮夷の酋長同士が戦争に明け暮れていた。と、ゆうのは、彼等にとって金が富豪の象徴だったので、互いに略奪し合っていたのだ。おかげで、およそ十一年間、平和な歳はまるでなく、梁毘はこれを患っていた。
 ある時、酋長達が集まって、梁毘へ金を贈った。すると梁毘は、金を傍らに置いたまま慟哭し、彼等へ向かって言った。
「こんな物、飢えたときに食べることもできないし、寒いときに暖を取ることもできない。それなのに、お前達がこれを巡って滅ぼし合ったことは、枚挙に暇がないではないか。そして今、お前達はこれを私へ贈った。私を殺すつもりか!」
 そして、一つも受け取らなかった。
 これによって酋長達は感悟し、遂に戦争をやめた。
 文帝はこの話を聞いて善とし、梁毘を大理卿へ抜擢して法を守らせたのだ。
 さて、その梁毘は、楊素の専横を国患と考え、文帝へ封書を差し出した。
「『臣下は賞を与えたり刑罰を行ったりしてはならない。もしも臣下がそのような事をすれば、それは王家を害し、王国の凶事である。(書経、洪範)』と、臣は聞いております。ひそかに左僕射越国公素を見ますに、寵遇はいよいよ重く、権勢は日に盛ん。官吏達は競って彼の手足耳目となっております。彼に逆らう者は厳しい境遇へ押しやられ、阿る者はぬくぬくと過ごす。栄枯は彼の唇により、興廃は彼の指先による。彼の徒党は忠臣ではなく、彼が推薦する者は自分の縁者ばかり。その子弟は州刺史県令にズラリと並んでいます。天下が無事なら、彼等を容れることもできるでしょうが、四海に事が起これば、禍は必ずやここから始まります。それ、姦臣の権力は次第にはびこってゆくものです。王莽は積年を資けとし、桓玄の基盤は先代から譲られたものです。そして遂には前漢の祀は跡形もなくなり、晋祚は傾きました。もしも陛下が、楊素を重鎮と思われているとしても、臣は彼の心が伊尹程ではないことを恐れます。伏してお願い申し上げます。古今を鏡として処置を謀り、国の基盤を長く固められてください。それこそ、民草にとって一番の幸いでございます。」
 書を読んで、文帝は激怒した。
 文帝は梁毘を獄に繋いで自ら詰ったが、梁毘は言葉を極めて言った。
楊素は寵を独占して権力を弄んでおります。彼がやっているのは殺戮と無道。又、前の皇太子や蜀王が廃立されました時、百僚は皆、戦慄しました。しかしながら楊素だけは眉を怒らせ肱を奮い、喜色を満面に湛えていたではありませんか。国家の不孝を利として我が身の幸いにしているのです。」
 文帝は、これを論破できず、釈放した。
 その後、文帝は次第に楊素を疎んじるようになり、下敕して言った。
「墨守は国の宰輔である。そのような重鎮が、自ら細務に勤しんではいけない。これからは、ただ三日や五日に一度省へ出向いて、大事だけを論じるがよい。」
 これは、上辺は優遇しているように見えるが、その実、実権を奪ったのである。以来、楊素は仁寿年間の末期まで、政務から干されることとなる。楊約も、伊州刺史として下向を命じられた。
 楊素が既に疎まれると、柳述はますます重用され、摂兵部尚書となって機密に参掌するようになった。以来楊素は、柳述を憎むようになった。 

 ある時、皇太子が賀若弼へ訊ねた。
「楊素、韓擒虎、史万歳は、皆、良将と呼ばれているが、彼等の優劣はどうかな?」
 すると賀若弼は言った。
「楊素は猛将で謀将ではありません。韓擒虎は闘将で領将ではありません。史万歳は騎将で大将ではありません。」
「それでは大将と呼べるのはは誰かな?」
「ただ、殿下がお選びください。」
 賀若弼としては、自分一人だけだと言いたかったのだ。

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