高麗
 
文帝の高麗討伐 

 開皇九年(589年)、隋が陳を滅ぼした。陳の滅亡を聞いて、高麗王湯は大いに懼れ、兵を鍛えたり兵糧を蓄えたり、防御を固めた。 

 十七年、文帝は高麗へ璽書を賜り、これを責めて言った。
「王は『藩』と称しているが、誠節をつくしてはおらぬ。」
 かつ、言う。
「その地は狭く人は少ないとはいえ、王を廃して官吏を送り込むことはできるのだ。しかし、王が心を変え行いを改めるなら、朕の良き臣下である。なんで別の人間を派遣することがあろうか!王は『遼水が広い』と言うが、揚子江よりも広いのか?高麗の兵卒は、陳よりも多いのか?もしも、朕が民の幸せを願わないなら、今までの行いを責め立てて一将軍を派遣すれば事は終わるのだぞ!だが、諄々とさとし、王が心を新たにすることを許しているのだ。」
 書を読んで、湯王は恐惶し、表を奉じて陳謝した。
 やがて湯王が病気で崩御すると、子の元が立った。随の文帝は、元を上開府儀同三司として、遼東公を襲爵させた。
 元は表を奉じて謝恩し、併せて王に封じてくれるように請願した。文帝は、これを許す。 

 十八年、高麗の元王は、靺鞨の衆万余を率いて、遼西へ来寇した。営州総管韋沖が、これを撃退した。
 文帝は、これを聞いて激怒し、漢王諒と王世積を行軍元帥とし、水陸三十万の兵力を与えて、高麗を討伐させた。高潁を漢王長史、周羅候(「日/候」)を水軍総管とする。
 六月、文帝は元王の癇癪を黜した。
 漢王諒は臨渝関から出陣したが、水のせいで兵糧の運搬が滞り、兵卒達は飢えに苦しんだ。その上、疫病まで流行ってしまった。
 周羅候は、東莱から海を渡って平壌を目指した。しかし、大風にあって多くの船が沈没した。
 九月、遠征軍が帰った時は、九割方の兵を失っていた。
 元王も、恐惶して使者を派遣し、謝罪した。その上表文で、元王は「遼東糞土臣元」と自称していた。これによって文帝も矛を収め、従来通り遇するようになった。
 百済王昌が使者を派遣し、道案内となることを申し出たが、文帝は詔を下して諭した。
「高麗は罪に服し、朕はこれを赦した。討伐してはならない。」
 そして、百済の使者を手厚く遇して帰した。
 高麗は、この事件を知って、百済との国境を越えて略奪した。 

訳者、曰く。周羅候はもともと陳の将軍だから、水軍は使い慣れていたはずだが、揚子江と海では勝手が違っただろう。ちなみに彼は、騎兵を率いて突厥と戦い、見事な活躍をし、大勝利を収めた。(「突厥」参照)高麗戦では、水軍を使ったのが大きな過ちだったのではないだろうか) 

  

煬帝の時代 

 仁寿四年(604年)、隋の文帝が崩御して、煬帝が立った。 

 大業三年(607年)、煬帝が啓民可汗の帳へ御幸した時、啓民可汗の元に高麗の使者がいたが、啓民可汗はこれを隠さず、煬帝へ謁見させた。
 裴矩が、煬帝へ説いた。
「高麗は、もともと箕子が封じられた国で、漢も晋も郡県としていました。しかし、今は我が国の臣下ではなく、別の国となっています。先帝は、長い間討伐しようと考えていましたが、楊諒が不肖で、戦功を建てられなかったのです。陛下の時代になったのに、これを占領せずに遂には異郷の地に堕落させてしまって、どうして宜しいものでしょうか!今、彼等は啓民のもとへ使者を派遣しています。これは、恐れているのです。一脅して入朝させましょう。」
 煬帝は、これに従った。
 牛弘へ文章を書かせ、敕を公布した。
「啓民が誠心で我が国へつくしているので、朕は自らその帳へ御幸した。明年は、タク郡へ御幸する予定である。その時には、高麗王と共に語ろう。疑ったり恐れたりする必要はない。啓民のように、礼を尽くしてくれればよいのだ。もしも朝しないのならば、啓民の軍を率いてお前達の国まで出向くであろう。」
 高麗王元は懼れ、出向こうとしなかった。 

  

煬帝の高麗征伐 

 大業六年(610年)、煬帝はこれを討伐しようと、天下の富豪達へ軍馬を買うよう命じた。おかげで、軍馬の値段が高騰し、一頭十万銭にもなった。器仗もとぎすますよう命令し、検閲して粗悪品だったら持ち主を処刑した。
 七年二月、煬帝は江都からタク郡へ御幸した。高麗討伐の為である。
 龍船に乗り、河から運河へ入る。この時、三千人の文武官へ随従を命じた。下級の者は、船に従って徒歩で三千里も進まなければならなかった。十人の内一・二人は疲れや凍えや飢えで死んでしまった。
 壬午、高麗討伐の詔を下す。
 幽州総管元弘嗣へ、東莱にて三百艘の船を造らせる。この労役は、官吏が厳しく監督した。役夫達の中には、数日間水に浸かりっぱなしで休ませて貰えない者も居た。彼等は腰から下に蛆が湧き、十人の内三・四人が死んだ。
 四月、車駕が、タク郡の臨朔宮へ到着した。文武の従官は、九品以上へ官舎へ暮れらさせる。
 これより前、天下の兵卒は遠近を問わず、全てタク郡へ結集するよう詔が降りていた。江淮以南にて、水夫一万人、弩夫三万人を徴発した。嶺南にては、排鑞手三万人を徴発した。これによって、兵卒達は四方から流れるように駆けつけた。
 五月、河南、淮南、江南へ、戎車五万乗を造って高陽へ送るよう敕した。
 七月、江・淮以南の士卒並びに船を黎陽へ送らせ、洛口の諸倉の米をタク郡へ集めさせた。この為、兵卒や兵糧、攻具を輸送する船は舳艫を並べて千余里も連なった。
 八年、四方の兵がタク郡へ集結した。煬帝は、合水令のユ質へ訊ねた。
「高麗の兵など、我が国の一郡にしか当たらない。今、朕はこの大軍で親征するのだ。卿は勝てないと思うか?」
「戦えば勝てましょう。ただ、愚見ですが、陛下の親征はおやめください。」
 煬帝は、顔色を変えた。
「朕は今、ここに兵を結集した。それなのに、賊を見ずに逃げられるか。」
「戦って勝てなければ、威厳が損なわれます。車駕をここへ留め、猛将悍兵へ命令するのです。疾風のように駆け抜けて敵の不意を衝けば、必ず勝てます。勝機は迅速にこそあります。ゆっくりと行軍してはいけません。」
 煬帝は不機嫌になり、言った。
「要するに、お前は行きたくないのだな。それならここに残ればよい。」
 右尚方署監事の耿詢も上書して切に諫めた。煬帝は激怒して近習へこれを斬るよう命じたが何稠が必死になって擁護したので、どうにか免れた。
 壬午、全軍を二十四軍に分け、それぞれ別道から出陣させ、平壌にて再集結した。全軍百十三万三千八百人。号して二百万。輜重隊は、この倍を数えた。
 薊城の北で馬祖を祭る。煬帝自ら、諸将へ節度を授けた。各軍に大将一人、亜将一人。騎兵は四十隊。一隊は百人で、十隊を一団とする。歩兵は八十隊。これを四団に分ける。各団ごとに偏将一人を置く。甲冑、纓払、旗旛は、団ごとに色を変えた。進止立営は、全て儀法に則る。
 兵部尚書の北平襄侯段文振が、上表した。
「陛下は、突厥へ対して厚遇しすぎです。これを塞内へ入れて兵食を与えていますが、恩に着たりせず、ただ貪るだけとゆうのが戎狄の性です。いずれ、必ず我が国の患いとなりましょう。ですから時期を見て彼等を塞外へ出し、狼煙を設けて警戒を厳重にしてください。それこそ長久の策です。」
 兵曹郎の斛斯政は斛斯椿の孫である。斛斯政は聡明だったので煬帝は彼に目をかけ、兵事を専任させていた。だが、段文振は、斛斯政が陰険酷薄なのを知っていたので、彼を重用しないよう、何度も煬帝へ上言したが、煬帝は従わなかった。
 高麗征伐の時、段文振は左候衞大将軍となって出陣したが、途中で重病になってしまった。彼は病気をおして上表した。
「夷狄は偽りが多うございます。防備を厳重にしながら口では降伏と言い立てるでしょうが、受け入れてはなりません。これは時間稼ぎです。全軍を速やかに進軍させて水陸両道から敵の不意を衝くなら、平壌は孤立して、すぐに陥落するでしょう。大本さえ傾けば、残りは自ら降伏してきます。時間を掛けて霜の降りる秋になれば、我が軍は兵糧も欠乏してしまいます。これは上策ではありません。」
 三月、段文振は、行軍中に病死した。煬帝は、これを非常に惜しんだ。
 隋軍は、遼水まで進んだ。ここで集結して陣営する。高麗軍は川を防衛戦として戦い、隋軍は渡河できなかった。
 左屯衞大将軍麦鉄杖が知人へ言った。
「どのみち一度は死ぬのだ。丈夫が児女に見守られて死ねるか!」
 そして、自ら前鋒を願い出て、三人の子息達へ言った。
「我は御国の御恩を受けた。今日こそ死に時だ!我が死に場所を得れば、お前達は富貴になれるぞ!」
 煬帝は、宇文豈へ三本の浮き橋を作らせたが、これを河に架けてみると、一丈ほど短く、向こう岸まで届かなかった。高麗軍は、向こう岸に結集している。隋軍は驍勇の者達が先を争って突撃したが、高麗軍は高い場所から迎撃する。隋兵は、岸に登ることもできず、大勢の戦死者を出した。麦鉄杖は向こう岸へ飛び上がり、虎賁郎将銭士雄、孟叉等と共に戦死した。とうとう、隋軍は西岸まで撤退した。
 煬帝は、麦鉄杖へ宿公を追贈し、子息の孟才へ襲爵させた。次男の仲才と三男の季才は正議大夫とする。
 更に、何稠へ橋の先を造らせた。これが二日で完成すると、諸軍は大挙して進み、東岸にて奮戦した。高麗軍は大敗し、死者は一万人を越えた。隋軍は、勝ちに乗じて進撃し、遼東城を包囲した。
 車駕は遼へ渡り、葛薩那可汗と高昌王へ城攻めを観戦させた。天下へ大赦をくだす。また、衞文昇と劉士龍へ遼左の民を慰撫させた。 

  

 この遠征が始まる前、煬帝は自ら諸将を戒めていた。
「今回の出征は、民を弔い罪を伐つ為のもので、決して功名に逸っての戦争ではない。諸将が、あるいは朕のこの想いを知らずに軽々しく抜け駆けして孤軍独闘するかもしれないが、それは大軍の作法ではない。公等が進軍する時には、必ず三軍に別れて進み、どこかを攻撃する時には、必ずそれを他の二軍へ知らせよ。軽々しく進軍して軍を壊滅させてはならない。また、軍事の進止の際は、必ず事前に報告して、朕の裁可が降りるのを待て。決して専断してはならない。」
 遼東軍は数回出撃してきたが、戦況は不利で、遂に籠城に徹するようになった。煬帝は、これへ攻撃を命じた。また、降伏する者は必ず受け入れ、決して略奪に走ってはならないと命じた。
 遼東城では、陥落しそうになると、すぐに降伏を申し出た。すると、現場の将兵には独断権がないので、煬帝のもとへ使者を派遣して裁断を仰がなければならない。その答が出る頃には、城内は既に防御が完備して再び防戦に出た。このようなことが数回繰り返されたが、煬帝はこのシステムの欠陥に遂に気がつかなかった。
 六月、余りに城が落ちないので、遂に煬帝自ら遼東城の南へ臨み、敵城の地形や池などを観た上で、諸将を詰問した。
「公等は高官となり、代々御国の碌を食みながら、無能の馬鹿者として我へ仕えるつもりか!都では、公等は朕の親征を望まなかったが、それはこの無様な有様を見られたくなかった為か。しかし、我がここまで来た以上、公等の行状をしっかりと観察し、公等を斬る!死にたくなければ全力を尽くし、我へ見直させよ!」
 諸将は戦慄して顔色を失った。
 煬帝は、遼東城の西方数里に留まった。しかし、高麗の諸城は、どれも固く守って降伏しなかった。 

 右翊衞大将軍来護児が、江、淮の水軍を率いて海を渡った。その船団は数百里も続く。平壌から六十里の所で高麗軍と遭遇。これと戦って、大勝利を収めた。
 来護児は、勝ちに乗じて平壌へ攻め込もうとしたが、副総管の周法尚がこれを止め、諸軍の到着を待って共に進むよう勧めた。しかし、来護児はきかず、精鋭兵四万を率いて城下まで進んだ。
 高麗軍は城内へ伏兵を置いた上で、出兵して来護児と戦った。高麗軍が敗北したふりをして
逃げ出すと、来護児軍は調子に乗って追撃する。そして城内へ雪崩れ込むと、兵卒達は略奪へ走り、隊列は大いに乱れた。それを見計らって伏兵が突撃してきたので隋軍は大敗し、来護児は体一つで逃げ出す有様で、逃げ帰れた士卒も数千人に過ぎなかった。
 高麗軍は船団を繰り出して追撃を掛けた。だが、周法尚が軍監を整然と並べて待ち受けたので、高麗軍は退却した。
 来護児は、海浦まで退却した。
(北史では、来護児は高麗軍を破り高元の弟の高建武を斬ったことになっているが、これは隋書を採用した。) 

 宇文述、于仲文等九将軍が、それぞれ別道から進軍して鴨緑水の西へ集結した。
 宇文述の兵卒達は、百日分の兵糧の他、甲や太い槍、衣服、戎具、火幕など、多くの荷物を持ち、その重量は一人当たり三石以上。とても耐えられない重さだった。そこで、宇文述は厳罰で臨んだ。
「兵糧を棄てる者は斬る。」
 だが、兵卒達は、ばれないように兵糧をこっそりと埋めて行く者が後を絶たず、行程の半分ほどで、食料が欠乏してしまった。
 高麗軍は大臣の乙支文徳を降伏の使者として派遣した。しかし、これは実は敵情の視察が目的だった。
 ところで、于仲文は、もともと煬帝の密敕を受けていた。
「高元か乙支文徳がやって来たら、必ず捕らえよ。」
 そこで、乙支文徳を捕らえようとした。ところが、尚書右丞の劉士龍が慰撫使となっていたので、これを固く止めた。遂に于仲文は乙支文徳を帰してやったが、すぐに後悔して、部下を派遣し、伝えた。
「言い忘れたことがある。戻ってきてくれ。」
 だが、乙支文徳は顧みず、鴨緑水を渡って去っていった。
 宇文述は、兵糧が尽きたので、帰りたくなった。しかし于仲文は、乙支文徳を逃がしたので、心中不安でいっぱいになり、精鋭兵で乙支文徳を追いかけるよう提案した。宇文述が固く止めると、于仲文は怒って言った。
「将軍は十万の兵を率いてきたのに、小賊を破りもしないで退却するなど、どの面下げて陛下に会われるのか!それに、于仲文は、この遠征が失敗することが判っておりますぞ。何故?昔の良将が戦争に勝てたのは、軍中のことを一人で決断できたからだ。今、一人一人がてんでバラバラ。これでどうして勝てようか!」
 煬帝は于仲文へ節度を渡して、将軍達は彼の指揮下へはいるよう命じていた。だから于仲文はこのように言ったのだ。ここまで言われて、宇文述はやむを得ず彼に従い、諸将と共に川を渡って追撃した。
 乙支文徳は、隋軍が餓えているのを知っていたので、もっと疲れさせてやろうと、戦う度にすぐに逃げ出した。宇文述軍は、一日で七回も勝ち、図に乗って益々追撃した。こうして彼等は薩水を渡って陣を布いた。そこは、平壌から三十里の所だった。
 乙支文徳は、偽って降伏し、宇文述へ言った。
「このまま退却してくれたなら、高元を煬帝のもとへ出頭させましょう。」
 宇文述は士卒の疲弊を見て、もう戦える状態ではないと判断した。それに、平壌城は険阻な要害で、ちょっとやそっとじゃ落とせない。だから、この偽りを良い幸いと、話に乗ったことにして退却することにした。
 宇文述軍が方陣を組んで退却を始めると、高麗軍は四方から攻撃してきた。隋軍は戦いつつ退却した。
 七月、薩水まで来て、隋軍が川を渡り出すと、軍の半ばが渡ったとき、高麗軍が襲撃して来た。右屯衞将軍の辛世雄が戦死する。
 ここに於いて隋軍は総崩れとなり、兵卒は我先に逃げ出した。制止しても止まらない。隋の将士は一日一夜で鴨緑水まで逃げ込んだ。将軍の王仁恭が殿となり、高麗軍を撃退した。
 宇文述等の敗北を聞くと、来護児も退却した。
 この戦いでは、九軍のうち、ただ衞文昇のみが全軍を全うした。九軍が遼へ向かった時は、およそ三十万五千人いたが、遼東城へ帰り着いたときには、わずか二千七百人になっていた。うち捨てていった器械は巨万を数える。煬帝は激怒して、宇文述を鎖に繋いだ。 

 当初、百済王璋が隋へ使者を派遣して高麗討伐を請願したとき、煬帝は、百済軍に高麗と戦わせて敵の動静を観てみるつもりだった。しかし、百済は実は高麗とも通じていた。
 隋軍が出陣する直前、百済王璋は使者を派遣して、出兵を約束した。煬帝は大いに喜び、多くの賜を与え、尚書起部郎席律を百済へ派遣して、高麗攻撃の月日を決めた。
 隋軍が遼水を渡ると、百済は高麗との国境場へ兵を動かして高麗攻撃の姿勢を見せたが、実は二股を掛けていた。
 今回の遠征では、ただ遼水の西側を占領しただけに終わった。ここに、遼東郡と通定鎮を設置する。

 八月、黎陽、洛陽、洛口、太原の各穀倉へ穀物を運び入れさせる。民部尚書樊子蓋へタク郡の留守を命じた。
 九月、車駕は東都へ戻った。 

 宇文述は、煬帝のお気に入りであり、彼の息子の宇文士及は煬帝の娘の南陽公主を娶っていた。だから、煬帝は彼を誅するのに忍びなかった。
 于仲文等は皆、官籍を剥奪して庶民とし、劉士龍を斬って天下へ謝った。
 薩水で敗北した折、高麗軍は薛世雄軍を追撃して包囲したが、薛世雄は奮戦して撃破したので、彼は罰せられなかった。また、衞文昇は金紫光禄大夫となった。
 諸将が全ての罪を于仲文へ押しつけたので、煬帝は皆を釈放し、于仲文のみを抑留した。于仲文は気鬱の余り病気になり、出所した後、自宅にて卒した。
 九年正月。隋では兵を再びタク郡へ集め、遼東の古城へ軍糧を貯め込んだ。
 二月、詔が降りた。
「宇文述が官軍を壊滅させたのは、兵糧が足りなかったせいだ。これは、軍吏の手配の不手際であり、宇文述の咎ではない。よって、彼の官職を復旧する。」
 継いで、宇文述へ開府儀同三司を加えた。
 煬帝は、侍臣へ言った。
「高麗は弱小国のくせに大国を馬鹿にした。今、海を抜こうが山を移そうが、とっちめてやらねばならない。ましてや多寡の知れた相手だ。」
 そして、再び高麗討伐を議した。
 左光禄大夫の郭栄が諫めた。
「戎狄が無礼だった。これは臣下の出番です。弩で小鼠を射たりしません。この程度の相手に、どうして万乗の君が親征なさるのですか!」
 しかし、煬帝は聞かなかった。
 三月、丁男十万を大興へ徴発する。
 煬帝は遼東へ御幸し、樊子蓋を越王同の補佐として東都の留守を命じた。
 四月、各地で賊徒が蜂起する中、煬帝は遼へ入った。宇文述と楊義臣を平壌へ派遣する。 

 左光禄大夫王仁恭は、扶餘道から新城へ出た。高麗軍は数万の軍で防御する。王仁恭は、勁騎一千騎でこれを撃破した。すると高麗軍は、城へ閉じこもった。
 煬帝は、諸将へ遼東城を攻撃するよう命じた。隋軍は、雲梯、飛楼、橦車などの城攻めの武器をふんだんに使って、夜も日もなしに四方から攻撃した。しかし、高麗軍も良く防戦したので、双方共に多数の戦死者を出した。
 衝梯竿の長さは十五丈あった。驍果の沈光が、その端へ登って遼東城へ臨み、高麗軍と戦った。短兵を操って、十数人を殺す。高麗兵は、力を合わせて彼を竿から撃ち落とした。だが、沈光は墜落の途中に竿から出ている紐に捕まって、墜落死を免れ、再び竿を登っていった。煬帝はこれを遠くから見て感嘆し、沈光を朝散大夫として左右へ置いた。
 遼東城はなかなか落ちない。そこで煬帝は布袋を百余万つくらせ、これへ土を詰めて土嚢とし、これを積み重ねて遼東城までの道を造ろうとした。その道の広さは三十歩。城壁とほぼ同じ高さまで積み上げられた。兵士達は、この道を駆け登るのである。また、八輪楼車を造った。この車の楼上は、城壁より高い。これは土嚢の道の両端を進ませ、敵兵を上から射降ろすのである。ここまで準備をして、刻限を決めて総攻撃を掛けようとしたので、城内の人間は震え上がった。
 その時、”内地で楊玄感が造反した。”とゆう報告が入り、煬帝は大いに懼れた。
 庚午、夜中、煬帝は諸将を召して退却させた。軍資、器械、攻具等は山と積まれ、営塁や張幕などの動かせない物は、皆、捨てていった。官軍の兵卒達は動揺し、諸道へ分散した。
 高麗軍はこれに気がついたが、敢えて追撃しなかった。ただ、城内から軍鼓などは喧しく鳴らせた。翌日、ようやく高麗軍は少しづつ城外へ出てきて、遠くまで偵察に行った。しかしなお、彼等はこれが隋軍の計略ではないかと疑った。二日後、ようやく数千騎で追撃を掛けた。しかし、隋軍が大軍なので、これを畏れ、敢えて接近しようとせず、常に八、九十里の距離を保っていた。水まで来ると、本営が川を渡ったのを知ってから、ようやく隋軍へ攻撃を仕掛けた。この時、後軍にはまだ数万人はいたが、高麗軍の襲撃によって、老弱兵数千人が殺された。
 今回の遠征前にも、煬帝はユ質へ訊ねた。すると、ユ質は答えた。
「私は愚昧な性で、今でもまだ前回の意見に固執しています。陛下がもし、万乗の身で自ら動かれましたら、労費が多くなるだけでございます。」
 煬帝は怒って言った。
「もしも朕が動かずに人任せにしていたら、なんで成功するだろうか!」
 帰ってくるに及んで、煬帝はユ質へ言った。
「卿はこのような事態も予見していたのだな。ところで、楊玄感はどうなるだろうか?」
「彼は勢いに乗っていますが、人望がありません。ただ、百姓の苦しみに乗じて成り上がろうとしているだけです。今、天下は一つでございます。転覆など容易ではありません。」
 楊玄感の乱は、あっけなく鎮定された。ところで、この造反の時、斛斯政が遠征軍の中にあって楊玄感に内応していた。彼は、高麗へ亡命した。それらの詳細は、「楊玄感の乱」に記載する。 

 十年、二月。百僚を集めて高麗討伐について議論させた。数日間、敢えて言葉を出す者は居なかった。戊子、再び天下の兵を徴発する。
 三月、煬帝はタク郡へ向かった。その途中、逃亡する士卒が相継いだ。臨渝宮にて黄帝を祀り、軍規違反者を斬る。しかし、逃亡者は相継いだ。
 七月、車駕は懐遠鎮へ着いた。この頃、天下は乱れており、徴発された兵卒も期限までに到着しない。高麗も又、疲れ切っていた。
 来護児が、畢奢城を攻撃した。高麗軍が迎撃したが、来護児はこれを撃破し、平壌まで進軍する。高麗王元は懼れ、降伏の使者を派遣した。また、斛斯政を引き渡す。煬帝は大いに喜び、来護児を召還した。しかし、来護児はこれを断り、皆を集めて言った。
「三度も大軍で遠征しながら、軍功一つ立てずに帰るなど、恥だ。今、高麗は困窮している。全軍で攻撃したら、簡単に落とせる。平壌を占領し、高麗王を捕らえて帰れば、何と素晴らしいではないか!」
 そして、進軍を請願する答書を出し、詔を奉じることを肯らなかった。
 長史の崔君粛が固く争ったが、来護児は自説を譲らない。
「前回賊軍を破ったときも、我の独断だった。将軍が外にいれば、専断することもあるのだ。高元を捕らえられるのに、うち捨てて帰れるか!」
 そこで崔君粛は、衆人へ告げた。
「もしも元帥に従って詔を破ったら、必ず奏聞して厳罰を与えてやるぞ。」
 諸将は懼れ、皆して帰るよう請願したので、遂に来護児も詔を奉じた。
 十月、煬帝は西京へ戻った。高麗王へ入朝を命じたが、高元は遂に入朝しなかった。
 十一月、斛斯政を誅殺し、その肉を煮て百官へ食わせた。 

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