独孤后はとても嫉妬深かったので、後宮へ女性を薦める者は居なかった。ところで、尉遅迥が討伐されてから、その一族は官に没収されていたが、彼の孫娘は非常に美しかった。文帝は、仁寿宮で尉遅迥の孫娘を一目見て夢中になり、手を付けた。これを知った独孤后は嫉妬に狂い、文帝が朝廷へ出ている隙に、彼女を殺してしまった。
これを知った文帝は、半狂乱になり、馬に乗ってメチャメチャに駆け、山の中へ入り込んだ。高潁と楊素がこれに追いつき、文帝の馬を抑えて苦諫した。
文帝は言う。
「朕は皇帝となったのに、ちっとも自由がない!」
高潁は言った。
「陛下、たかか一婦人のために、どうして天下を軽視なさるのですか!」
それで、文帝の気持ちも少しは静まった。そのままそこに馬を留め、夜になってから宮殿へ帰った。すると、独孤后が涙を零して謝ったので、高潁と楊素は和解を勧めた。そこで文帝は独孤后と共に痛飲し、歓を極めた。
ところで、高潁は独孤后の父親の知り合いだったので、彼女は高潁を礼遇していた。ところが今回、高潁が自分のことを「一婦人」と言ったことを知り、憾みを含んだ。
この頃、皇太子の勇は文帝の愛情を失っていた。文帝は密かに廃立を考えており、ある日、くつろいだ有様で高潁へ言った。
「晋王の妃に、神のお告げがあったそうだ。『王は必ず天下人になる。』と。どう思うかね?」
すると、高潁は言った。
「幼長には序列があります。何で廃立できましょうか!」
独孤后は高潁が居る限り廃立できないことを知り、心中、彼を除こうと思った。
文帝が東宮衛士の数を減らして、その分を自分の護衛へ廻そうと言い出した時、高潁は上奏した。
「もしも強者ばかりを移動したら、東宮の守りが脆弱になります。」
文帝は、顔色を変えて言った。
「我が出入りする時には、屈強の兵士の護衛が必要なのだ。太子は東宮に籠もっているだけ。どうして護衛が要るものか!これこそ、弊法の極みだ。」
高潁の息子の高表仁は、太子の娘を娶っていた。だから、文帝はことさらに疑ったのだ。
高潁の夫人が卒すると、独孤后は文帝へ言った。
「高僕射は、御高齢で夫人を亡くしました。陛下、どうして再婚させないのですか!」
そこで、文帝が高潁へ打診すると、高潁は言った。
「臣は年です。朝廷でのおつとめが終わったら、自宅で読経するだけで毎日を過ごしております。陛下の御心は身に余りますが、妻を娶ることは、臣の願いではありません。」
そこで、文帝は中止した。ところが、その後、高潁の愛妾が子息を生んだ。それを聞いて文帝は喜んだが、独孤后は不機嫌だった。文帝が訳を尋ねると、独孤后は言った。
「陛下は、今でも高潁を信じているのですか?以前、陛下が再婚を勧めた時、高潁は心に愛妾を想いながらも、陛下を騙したのです。今、その偽りが明白になりました。どうして信じられますの!」
これ以来、文帝も高潁を疎み始めた。
討遼の戦役(開皇十八年=598年)では、高潁は固く諫めたが、文帝は強行し、多大な犠牲を払っただけに終わった。(詳細は、「随と高麗」へ記載)
独孤后は言った。
「高潁はもともと行きたがらなかったのに、陛下は無理に派遣しました。だから、これが大失敗に終わることなど、妾には判っていましたわ。」
この討伐軍の総大将は漢王諒だが、彼はまだ幼少だったので、文帝は軍事のことを高潁へ専任させていた。高潁は、文帝からの親任と自分の能力に疑いを持たず、漢王の言うことを殆ど用いなかった。漢王はこれを憾み、帰朝すると独孤后へ泣いて言った。
「私は高潁に殺されるかと思ってました。」
これを聞いて文帝は、ますます穏やかでなくなった。
突厥の討伐(開皇十九年)では、高潁は白道から出陣したが、途中で増援を乞うた。すると近臣達は、高潁が造反すると吹き込んだ。しかし、文帝が答を出す前に、高潁は突厥を破って帰ってきた。
同年六月、宜陽公王世積の事件が起こった。
王世積は涼州総管だった。王世積の部下の皇甫孝諧とゆう男が、罪を犯して役人に追われ、王世積の屋敷へ逃げ込んだ。しかし、王世積はこれを庇わず役人へ引き渡した。こうして皇甫孝諧は桂州へ流されたが、そこで皇甫孝諧は上言した。
「王世積は、かつて道人に人相を見させ、貴人になれるかどうか占わせました。すると、道人は言いました。『公はやがて国主になるでしょう。いずれ涼州へ行くことになります。』すると、王世積と親しい者が言いました。『河西の兵卒は、天下の精兵だ。天下だって取れるぞ。』対して、王世積は言いました。『涼州は、土地が広い上に住民が少ない。武力を蓄えられる土地ではないな。』と。」
文帝は、王世積を誅殺し、皇甫孝諧を上大将軍に抜擢した。
さて、この事件で王世積を尋問していたところ、彼は自白した。
「宮中や禁中のことは、全て高潁から教えて貰いました。」
文帝は大いに驚いた。すると、ある役人が上奏した。
「高潁と左右衞大将軍元旻、元冑は、普段から王世積と親しく行き来しており、彼から名馬を贈って貰ったこともあります。」
元旻と元冑は罷免された。
上国柱賀若弼、呉州総管宇文弼、刑部尚書薛冑、民部尚書斛律孝卿、兵部尚書柳述羅は高潁の無罪を明かしたが、文帝はいよいよ怒った。
「お前達は高潁の手下か!」
それ以来、朝臣達は高潁を弁護しなくなった。
八月、高潁は上柱国、左僕射を解任され、ただの斉公となった。
それからすぐに、文帝は秦王の邸宅へ御幸し、高潁を招いて宴会を開いた。高潁は、悲しみをこらえきれず、独孤后もまた、彼と対して泣いた。
文帝は、高潁へ言った。
「朕が公へそむいたのではない。公が自ら背いたのだ。」
文公は、群臣へ言った。
「我の高潁への想いは、わが子への想い以上だ。彼が居なくても、いつも目前にいるように思っている。」
この頃、高潁の国令(隋では、王国と公国には国令がいる。)
が、高潁のことを密告した。
「高潁は、高表仁へ言いました。『司馬仲達は、国を簒奪する為に、病気のふりをして隠遁した。だから、今日のことは、むしろ幸いだぞ。』と。」
文帝は激怒して、高潁を牢獄へぶち込んだ。
すると、憲司が上奏した。
「かつて、沙門の真覚が高潁へ言いました。『来年は、この国に大喪があります。』
尼の令暉も言いました。『十七、十八年は、皇帝に大厄があります。十九年を乗り越えることはできますまい。』と。」
文帝はこれを聞いて益々怒り、群臣を顧みて言った。
「帝王の地位が、どうして力尽くで手に入ろうか!孔子のような大聖でさえも、天下を執ることはできなかったではないか。高潁は、自らを司馬仲達になぞらえている。どうゆう了見だ!」
ある者が斬罪を請うと、文帝は言った。
「去年は、虞慶則を殺し、今年は既に王世積を斬った。これ以上、更に高潁まで誅したら、天下は我を何と言うか!」
こうして高潁は、庶民へ落とされた。
ところで、高潁が僕射となった時、母親が彼を諫めた。
「お前は富貴を極めたのだから、何か起こった時には、頭を一撃で粉砕されてしまいます。とにかく慎みなさい。」
だから、高潁はいつも禍変を懼れていた。
今回庶民に落とされたが、高潁はむしろさっぱりとして、憾む色などまるでなかった。
かつて、国子祭酒の元善が、文帝へ言った。
「楊素は粗暴で、は怯懦。元旻や元冑など、鴨のようなもの。本当に国を支えるのは、高潁一人です。」
その時は、文帝も頷いたが、ここに至って、文帝は元善を深く責めた。元善は、憂いの余り卒した。
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