隋 建国
 
襲爵 

 光大二年(568年)、七月。北周の随桓公楊忠が卒した。子息の楊堅が襲爵する。また、楊堅は開府儀同三司、小宮伯となった。
 この頃の北周は、晋公護が実権を握り専横を極めていたが、その晋公護は、楊堅を腹心にしたがっていた。その時、楊堅が楊忠へ相談すると、楊忠は言った。
「嫁が、二人の姑の間に入ったなら、ただ傷つくだけだ。そんな事へ手出ししてはいかん!」
 そこで、楊堅は固く辞退した。(資治通鑑にて、楊堅はここに初出した。) 

  

外戚 

  太建五年(573年)、八月。皇太子の贇が、楊氏を妃に納めた。彼女は大将軍随公堅の娘である。 

  北周の大将軍楊堅は、容貌魁偉。かつて、伯下大夫来和が楊堅へ言った。
「卿は、王となる人相をしている。どうか、出世しても誅殺は謹んでください。」
 北周の武帝は、楊堅を厚く遇していた。
 七年、斉王憲が武帝へ言った。
「楊堅の容貌は尋常ではありません。臣は、彼を見る度に思わず自失してしまうのです。彼は、人の下に甘んじる人間ではありません。今のうちに処分してください!」
 言われて、武帝も楊堅を疑い、来和へ尋ねた。すると、来和は跪いて言った。
「隋公は節義正しい人間です。彼へ辺境を任せれば、どんな敵でも侵入できません。彼を将軍にしたら、連戦連勝疑い無しです。」 

 十年、六月。武帝が崩御した。子息の贇が即位した。これが宣帝である。楊堅の娘の楊妃が皇后となった。
 七月、楊堅は上柱国、大司馬となる。
 やがて、宣帝は皇太子へ譲位し(静帝)、自らは天元と称した。(詳細は「北周の滅亡、天元誕生」に記載。) 

  

萌芽 

 十一年、五月。襄国郡を趙国、済南郡を陳国、武當・安當の二郡を越国、上党郡を代国、新野郡をトウ国とし、それぞれ一万戸の食邑で趙王招、陳王純、越王盛、代王達、トウ王迥を下国させた。
 隋公楊堅は、大将軍汝南公宇文慶へ、私的に言った。
「天元は徳を積まない。容貌を見ても、長生きしそうにない。また、諸藩は弱く、しかも全て任地へ着かせた。これでは国家の根本を固めることもできない。滅亡も近いな!」
 宇文慶は、宇文神挙の弟である。
 七月、楊堅が大前疑、柱国の司馬消難が大後承となる。 

  

簒奪 

 十二年、三月。天元が崩御し、実権は静帝へ移った。静帝の母親は、楊后。静帝は、まだ幼かったので、楊堅が後見役として、仮黄鉞・左大丞相となった。これは、劉方と鄭譯が詔をでっち上げたものである。(その詳細は、北周の「尉遅迥の乱」に記載。)
 以来、全ての権力は楊堅に集まった。その上、彼の簒奪の想いは露骨だった。六月、北周の宿将尉遅迥が、反旗を翻した。これに、司馬消難、王謙他、大勢の州刺史が呼応したが、九月に鎮圧された。(その詳細は、北周の「尉遅迥の乱」に記載。)
 皇后の司馬氏が、廃された。(彼女は、司馬消難の娘だった。)また、楊堅の世子の楊勇が、洛州総管となり、もとの北斉の領土を総統した。

 楊堅は、大丞相となった。それに伴って、左丞相と右丞相は廃止された。
 十月、日食が起こった。
 同月、楊堅は北周の陳王純と、その子息を殺した。
 以前、宇文泰は諸将を改姓させていたが、十二月、これを全てもとの姓へ戻した。
 同月、楊堅が相国・総百揆となり、都督中外・大塚(土偏はない。)宰の称号は取り去られた。王へ進爵し、安陸等二十郡を随国とし、贊拝不名・備九錫之礼の特権を賜る。楊堅は、王爵は受けたが、封土については十郡のみを受けた。
 代王とトウ王を殺す。
 この年、周の境内には二百十一州、五百八郡があった。
 十三年、二月。隋王が始めて相国・百揆・九錫を受けた。(資治通鑑では、ここで始めて「隋」の字が出た。これまでは、仮に随の字を当てていたが、正しくは隋の小里偏の右にしんにょうが付いた字です。)
 開府儀同三司ユ季才が天文を観て、今月の甲子の日に禅譲を受けるよう楊堅に勧めた。太傅の李穆と開府儀同大将軍廬賁も、勧める。
 ここにおいて周帝は、別宮へ遜居すると詔を下した。
 甲子、太傅の杞公椿が冊を奉じ、隋への禅譲が行われ、楊堅は即位した。これが、隋の文帝である。大赦が降り、開皇と改元される。太子の楊勇に代わって元孝矩が洛陽を守った。彼は元天賜の孫で、娘は太子妃である。
 少内史の崔仲方が、周の六官を廃止して、漢・魏時代の官職へ戻すよう建議し、これに従った。三師・三公及び尚書、門下、内史、秘書、内侍五省が設置された。
 乙丑、皇考を武元皇帝と追尊する。廟号は太祖。王后の独孤氏を皇后、王太子の楊勇を皇太子とする。
 己巳、北周の静帝を介公とする。周氏の諸王は、全て公爵へ格下げとなる。 

  

簒奪の褒貶 

 話は遡るが、劉方と鄭譯が詔をでっち上げて楊堅を後見役とした時、楊堅の娘の楊后は、その陰謀に参与していなかったが、まだ息子の静帝が幼かったので、これを聞いて喜んでいた。しかし、後に父親に簒奪の意向があることが判ると、すごく立腹し、その想いは顔や言葉にありありと現れていた。禅譲するに及んで、腕を振り回して泣き喚く。楊堅は内心恥じ入って、彼女を楽平公主に封じた。しばらくして、彼女がいつまでも過去を引きずらないように、下嫁させようと説得したが、楽平公主は頑として譲らなかったので、とうとう諦めた。(訳者、曰く。この時の楊后は、王莽の時の王后に似ている。婦女の仁とは哀しいものだ。) 

 楊堅は、北周の載下大夫栄建緒と古なじみだった。楊堅の受禅直前に、栄建緒は息州刺史となった。彼が赴任しようとすると、楊堅は言った。
「出発を、もうしばらく待ちなさい。一緒に富貴を取ろうじゃないか。」
 すると、栄建緒は顔つきを改めて言った。
「そんな言葉、僕には聞こえない。」
 楊堅が即位すると、栄建緒も来朝した。楊堅は、栄建緒へ言った。
「卿は後悔してないか?」
 すると、栄建緒は首を振って言った。
「臣の位は徐廣程ではありませんが、想いは楊彪と同じです。」
 楊堅は怒って言った。
「朕は、それ程書物に詳しくないが、卿のその台詞が不遜だとゆうことくらいは見当が付くぞ!」
(徐廣は、東晋から宋にかけて出仕していた。東晋から宋への禅譲の際に参列して、辺りをはばからずに泣き濡れた。楊彪は魏の頃の人間。) 

 上柱国竇毅の娘は、隋の受禅を聞くと、悔しがって言った。
「私が男じゃなくて舅氏の患を救えなかったのが恨めしい!」
 竇毅と襄陽公主は、慌てて彼女の口を押さえた。
「滅多なことを言うな。一族が滅亡してしまうぞ!」
 だが、竇毅は、これ以来彼女を特別に見ていた。やがて、彼女が長じると、唐公の李淵へ嫁いだ。 

 虞慶則は、宇文氏を悉く殺し尽くすよう、文帝へ勧めた。高潁と楊恵は、敢えて口を挟まなかったが、暗黙のうちに諒承した。しかし、李徳林が固く争ったので、文帝は顔色を変えて言った。
「君は学者だ。共に語ることはできない!」
 ここにおいて、周の太祖の孫の焦公、冀公、閔帝の子の紀公、明帝の子の豊公、宋公、高祖の子の漢公、秦公、曹公、蔡公、荊公、宣帝の子の莱公、郢公が誅殺された。
 この事件のために、李徳林は、これ以降品位が進まなくなった。
 文帝の弟の楊恵がトウ王、楊爽が王となった。文帝の子息の楊廣が晋王、楊俊が秦王、楊秀が越王、楊諒が漢王となった。
 李穆が太師となり、贊拝不名の特権を与えられた。彼の子孫は、まだおむつが取れていないものでも儀同となり、一門で象笏を執る者は百余人にも及んだ。 

  

蘇威 

 美陽公の蘇威は、蘇綽の子息である。幼い頃から俊才の誉れ高かったので、周の晋公宇文護は、彼を強引に娘婿とした。
 蘇威は、宇文護の専横を見ると、やがて自分も連座されるのではないかと畏れ、山寺へ隠居して書を読んで過ごした。
 周の高祖は、彼が賢人であると聞いて、車騎大将軍、儀同三司に任命したが、蘇威は仮病を使って全て辞退した。
 楊堅が丞相となると、潁が彼を推薦した。蘇威は、楊堅と会見して大いに悦んだ。しかし、それから一月ほど経った頃、楊堅が禅譲を企んでいることを知り、田舎へ逃げ帰った。潁が追いかけるよう請うと、楊堅は言った。
「奴は、簒奪に関わりたくないだけだ。放っておけばよい。」
 やがて受禅すると、文帝は蘇綽をヒ公に追封し、蘇威へ襲爵させた。
 三月、蘇威は太子少保兼納言、度支尚書となった。
 ところで、西魏時代の国庫が不足した頃、蘇綽は征税法をひどく重く施行した。この時、彼は嘆いて言った。
「これは、弓をきつく張ったようなもので、常日頃施行するような税制ではない。後世、立派な人間が出たら、どうかこれを緩和して欲しい。」
 これを聞いた蘇威は、これこそ自分の役目だと心に刻み込んでいた。
 ここにいたって、蘇威は賦役を軽くするよう進言し、受諾された。
 蘇威は次第に親任され、ついには高潁と共に朝政に参与するようになった。
 ある時、文帝が怒りに任せて一人の部将を斬ろうとした。蘇威が諫めたが聞かず、文帝自ら出て行って斬り殺そうとしたが、蘇威が行く手を阻んだ。文帝はこれを避けて進もうとしたが、蘇威はこれを追いかけて更に阻んだ。文帝は、衣を払って退出したが、しばらくして蘇威を呼び出し、言った。
「公がそのようであれば、朕には何の憂いもない。」
 そして、馬二頭と銭十万余を賜下し、従来の役職に大理卿、京兆尹、御史大夫任が加えられた。
 蘇威は、かつて文帝へ言った。
「父は、臣をいつも戒めておりました。『孝経一巻さえ読んでおけば、立身も治国もできる。それ以上、何が要るものか!』
 文帝は深く頷いた。
 蘇威と高潁があまりにも深く親任されるので、劉方・盧賁・元諧、李詢・張賓等が、二人を失脚させようと陰謀を巡らせたが、途中で洩れてしまった。劉方等は、盧賁と張賓へ全ての罪を押しつけた。文帝は、過去の功績を想い、二人の官籍を剥奪するに留めた。 

 三月、後梁の国主が弟で太宰の蕭巖を使者として派遣して、受禅を祝賀した。  五月、文帝は周の静帝を密かに殺害した。急死と発表して恭陵へ埋葬する。 

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