漢王の乱
 
 漢王諒は文帝から寵愛されており、ヘイ州総管に任命されていた。その管轄は山以東、滄海へ至り、南は黄河へ達する。領土は五十二州に及んだ。更に、臨機応変の処置ならば法律に関わらずとも良いとゆう特別の許可まで与えられていた。ここは、対突厥の最前線であり、漢王は屡々総大将として出陣していた。詳細は、「皇太子廃立」に記載する。
 漢王は、天下の精鋭を配下にしていたので、皇太子勇が讒言によって廃されてると、心中怏々とした。蜀王秀が罪に落とされるに及んで、不安でならなくなり、密かに造反を考え始めた。そこでまず、文帝へ言った。
「突厥は強大です。武備を修めなければなりません。」
 こうして大々的に人夫を徴発して城壁や武器を整備し、各地から亡命者を招き入れた。その私兵は数万にも及んだ。
 ある時、突厥が辺境で略奪したので、文帝は漢王へ防御を命じたが、漢王は敗北してしまった。その敗戦の責任で、八十余人の将帥が解任されて嶺表の防備を命じられた。漢王は、彼等が宿将なのでヘイ州へ留めるよう請願したが、文帝は激怒して言った。
「お前は藩王となったのだ。朝廷の命令を遵守しなければならない。それなのに、宿将への私情にかまけて国家憲法を破るのか!ああ、この馬鹿者が!お前は孤が死んでしまったら、一騒動起こすつもりか?あいつらは、籠の中のひよこのような連中だ。腹心になれる器ではないぞ!」
 王支(「支/頁」)は、王僧弁の子息である。機略を好む性格で、漢王の諮議参軍となっていた。蕭摩訶は陳の旧将で、彼も王支も志を得ず、鬱々として戦乱を望んでいた。彼等は漢王と仲が善かったので、漢王の陰謀に賛同した。
 やがて、蛍惑(火星)が東井へ入った。火星は戦争の星で、東井は天界では秦の領域である。儀曹の傅奕は星占いの名人だったので、漢王は訊ねた。
「これは、何の瑞兆か?」
「天上の東井には黄道が横切っています。黄道は惑星の通り道。火星が横切っても何の不思議もありません。もしも、火星が地上の秦へ降りてきたら、天変地異の前触れでしょうが。」
 漢王は不機嫌になった。
 文帝が崩御すると、煬帝は車騎将軍屈突通を派遣して、文帝の璽書を届け、都へ召集した。ところが、かつて文帝は漢王へ約束していた。
「もしも孤がお前を璽書で呼び寄せる時には、敕字の脇に点を一つ加えておく。それを見て、真贋を判断せよ。」
 漢王が璽書を見ると一点が加わってなかったので、これが偽物と見破った。漢王は屈突通を詰ったが、屈突通は屈しなかった。そこで漢王は屈突通を都へ追い返し、造反を決意した。 

(訳者、曰く。文帝は、自分が北周から簒奪した時、それに先だって皇帝の叔父達を都へ呼び集めて皆殺しにした。だから、簒奪したとき、武力決起できる勢力がなかったのだ。それを鑑みて、地方へ軍閥を造っておきたかったのだろう。一点の用心はその為のものだ。ところで、文帝が煬帝に暗殺されたか、それとも自然死かとゆうことには、未だに明確な結論が出ていない。(詳細は、「煬帝即位」へ記載。)もしも自然死だったなら、文帝は漢王をわざと呼ばなかったのだろうか?それを考えると、本当に煬帝が暗殺したようにも思える。ただ、文帝は「国家のためには私情を棄てなければならない」とゆうポリシーをわざとらしく誇示する人柄だったから、死ぬ間際に息子に会いたいとゆう気持ちを自ら握りつぶしたとゆうことも、充分考えられるのだが。) 

 総管司馬の皇甫誕は切に諫めたが、漢王は聞かなかった。皇甫誕は涙を流して言った。
「文帝陛下が大王へこれだけ強大な兵力を与えたのは、都と戦う為なのでしょうか?それに加えて、君臣の地位は定まってしまいました。順と逆では勢いが違います。たとえ士馬が精鋭でも、勝利は難しゅうございます。一旦逆賊となってしまえば天下の謀反人と史書に記されてしまいます。その時になって布衣になりたいと思っても、とても叶いませんぞ。」
 漢王は怒り、皇甫誕を幽閉した。 

 嵐州刺史喬鐘葵は漢王の元へ赴こうとしたが、彼の司馬の兆陶模が言った。
「漢王は造反しようとしています。公は御国の御厚恩を蒙っているのですぞ。忠誠を尽くすべきではありませんか!」
 喬鐘葵は顔色を変えて言った。
「司馬、お前は俺に背くのか!」
 そして刀を突きつけたが、兆陶模は動じない。喬鐘葵は、義に感じて不問に処した。しかし、軍吏は言う。
「もしも兆陶模を斬らなければ、衆心がバラバラになります。」
 そうして、兆陶模を幽閉した。
 ここにおいて、十九州が漢王に従った。
 王支は、漢王へ言った。
「将帥達の家族は、関西に住んでいます。ですから、矢も盾も堪らないでしょう。この想いを利用して都を直撃すれば、疾風怒濤の快進撃となります。いわゆる、『雷が鳴って耳を覆っても間に合わない、』とゆうものです。しかし、もしも斉の地に割拠したいとゆうのなら、東へ向かいましょう。」
 漢王は、どちらにするか決めかねて、結局両策を併用することにした。彼は楊素が造反したと宣伝して、これの誅殺をお題目とした。
 総管府兵曹の裴文安が献策した。
「井ケイ以西は、既に王の掌の中にあります。山東の士馬も我等の物です。これを総出動させましょう。そして、老弱の兵へ各地の要害を守らせ、精鋭を率いて蒲津を直撃します。この私が、先鋒を引き受けましょう。王は大軍で後続を率い、疾風のように進軍して覇上へ屯営します。そうすれば、咸陽以東は差し招くだけで平定します。こうなれば京師は震駭して兵を集める暇もなく、上下は猜疑しあいます。我が軍の号令に、誰が逆らえましょうか!旬日の間に大勢は定まります。」
 漢王は大いに悦んだ。ここにおいて、大将軍余公理を太谷から出撃させて河陽へ向かわせ、大将軍基良は同じく釜口から黎陽へ、大将軍劉建には燕・趙を攻略させ、柱国喬鐘葵は雁門から出撃させ、裴文安は柱国に抜擢し、柱国乞単貴、王タン等と共に京師へ直進させた。 

  

 煬帝は、右武衞将軍丘和を蒲州刺史として、蒲津を鎮守させた。
 漢王は、精鋭数百騎を選んで、彼等へ、婦人が人目を遮るために被る布を被らせて、「漢王の宮女達が、長安へ逃げるのです。」と偽った。蒲州城の門番は、そうとは知らずに、彼等を城内へ入れてしまった。こうして精鋭兵が城内へはいると、城中の豪傑達も彼等へ応じた。
 丘和は異変を感じて城壁をこえて長安へ逃げ帰った。蒲州長史高義明と、司馬の栄毘は、造反軍へ捕らえられてしまった。 

  

 裴文安等が、まだ蒲津より百里ほど手前にいた時、漢王は突然計画を変更した。乞単貴には、河橋を断って蒲州を守るよう命じ、裴文安を呼び戻したのだ。
 裴文安は戻ってくると漢王へ言った。
「兵は迅速を尊びます。敵の不意を衝いてこそ、勝てるのです。それなのに王は進軍せず、この私も呼び戻す。これで敵は準備ができました。勝機を逃しましたぞ。」
 漢王は答えなかった。
 王タンを蒲州刺史、裴文安は晋州刺史、薛粹を絳州刺史、梁菩薩を路州刺史、韋道正を韓州刺史、張伯英を澤州刺史に任命する。 

  

 代州総管李景が、兵を発して漢王を阻んだ。漢王は、麾下の将劉高へ襲撃させたが、李景はこれを斬り殺した。そこで漢王は、喬鐘葵へ三万の兵を与えて攻撃させた。
 李景の手勢は、数千人に過ぎず、城池の防備も堅固ではなかった。喬鐘葵が攻撃すると、城壁はガラガラ崩れて行く。しかし、李景は戦いながら城壁を築き、士卒達は皆命を捨てて戦ったので、喬鐘葵は屡々敗北した。
 代州軍では、司馬の馮孝慈と司法の呂玉が驍勇で、善戦した。儀同三司の侯莫陳乂は謀略が巧く、巧みに守り抜いた。李景は彼等三人が有能なことを知っていたので、誠実に接して、軍務は全て彼等へ任せ、自身は余計な口出しをしなかった。 

  

 楊素は五千の兵を率いて蒲州の王タンと乞単貴を攻撃した。
 楊素軍は、夜半に 河際へ到着した。そこで彼は船を買い集めて数百艘揃えた。それらの船底には草を布いて音が立たないようにし、兵には枚をくわえさせて、夜明け前に襲撃した。乞単貴は敗走し、王タンは懼れて城ごと降伏した。
 ここにおいて楊素はヘイ州道行軍総管、河北道安撫大使となり、数万の兵を率いて漢王を討伐した。 

  

 漢王が決起した時、妃の兄の豆盧流を府主簿とした。盧流は苦諫したが、漢王は聞かない。 彼は、弟の豆懿へ私的に言った。
「我が馬に乗って都へ逃げ出せば、災難からは逃れられる。しかし、それは我が身一つのことであり、御国のために役立つわけではない。ここは、偽って加担したふりをして、しばらく様子を見ておこう。」
 彼等の兄の顕州刺史豆盧賢が、煬帝へ言った。
「臣の弟の盧流は、節義正しい人間です。決して造反はいたしません。それが敵陣にいるのは、きっと、凶賊に迫られてやむを得なかったのでしょう。どうか、臣にも従軍させてください。弟と連携し、表裏一体となって攻撃すれば、漢王はひとたまりもありません。」
 煬帝は、これを許した。そこで盧賢は、盧流のもとへ密かに使者を派遣し、彼と計画を練った。
 漢王が城を出て介州へ向かう時、盧流と総管属朱濤を留守役とした。
 盧流は、朱濤へ言った。
「漢王は逆賊だ。アッとゆう間に敗北するぞ。このままでは我等は一族誅殺され、国家の逆賊となってしまうのに、手を拱いていて良いのか!卿と共に出撃して、王を拒もう。」
 朱濤は驚いて言った。
「王は我等を信じて留守役としたのに、どうして背けようか!」
 そして衣を払って去ったので、豆盧流は朱濤を追いかけて斬り殺した。そして皇甫誕を牢獄から出し、彼と謀議を巡らせた。彼等は開府儀同三司宿勤武等と共に城門を閉じて漢王を拒むことにしたが、漢王へ密告する者がおり、漢王は途中から戻ってきた。
 盧流は、漢王を見ると皆へ言った。
「あれは賊軍だ!」
 漢王は、南門を攻撃した。南子路は稽胡が守っていたが、彼等は相手が漢王と知らず、応戦した。矢が雨のように降ってくる。漢王は、西門へ向かった。ここの守備兵は漢王を知っていたので、門を開いて迎え入れた。
 漢王は、盧流と皇甫誕を殺した。 

  

 基良は、慈州刺史上官政を攻撃したが、勝てなかった。そこで兵を退いて行相州事薛冑を攻撃したが、これにも勝てない。遂に釜口から黎陽を攻撃して、白馬津に要塞を築いた。
 余公理は、太行から河内へ下った。煬帝は右衞将軍史祥を行軍総管として、河陰へ陣取らせた。史祥は部下へ言った。
「余公理は、軽薄で考えなしだ。 兵力が多いことを恃んで驕慢になっている。簡単に破れるぞ。」
 余公理は河陽に陣取った。史祥が南岸に船を揃えると、余公理はこれへ全軍で当たる。
 史祥は精鋭を下流から密かに渡らせた。余公理は、これを知ると兵を率いて拒み、須水で戦った。ところが、余公理が陣立てをする前に史祥が攻撃を掛けたので、余公理は大敗した。史祥はそのまま東進して黎陽へ向かう。基良の軍は、戦わずに壊滅した。
 史祥は、史寧の子息である。 

  

 煬帝は、幽州の兵を動員しようと思ったが、幽州総管竇抗が二心を持っているかと疑い、これをどうやって捕らえようかと楊素に相談した。すると楊素は、前の江州刺史李子雄を推薦したので、これを大将軍に任命し、廣州刺史とした。又、長孫晟を相州刺史に任命し、山東の兵を動員して李子雄とともにこれを経略するよう命じた。すると長孫晟は、息子が漢王の領内にいるので、その任命を辞退した。対して、煬帝は言った。
「公の忠誠は篤い。子息の為に義を棄てることはあるまい。朕は、公へ委ねたのだ。どうか辞退しないでくれ。」
 李子雄は、幽州へ到着すると傅舎に泊まって募兵し、千余人を得た。すると竇抗が挨拶に来たので、李子雄は武装兵を伏せて、これを捕らえた。
 竇抗は、竇栄定の子息である。
 こうして竇抗を捕らえた後、李子雄は幽州の兵三万を召集し、まずは井ケイへ向かって西進した。
 井ケイの守将は、張祥。この頃井ケイは、劉建に包囲されていた。李子雄は、劉建の軍を撃破した。劉建は遁走する。 

  

 代州では、李景が一ヶ月余りも喬鐘葵軍に包囲されていた。煬帝は、朔州刺史楊義臣へ、これの救援を命じた。楊義臣は、二万の兵を率いて代州へ赴く。喬鐘葵は、全軍を挙げてこれを拒んだ。
 こうなると、楊義臣の方が兵力が少ない。そこで楊義臣は、牛や驢馬数千頭をかき集め、数百人の兵卒と共に谷間に隠した。その兵卒達は、一人に一つずつ軍鼓を持たせる。そして彼は喬鐘葵と戦った。
 戦闘が始まると、楊義臣は牛や驢馬を暴走させた。兵卒達は、盛大に軍鼓を鳴らす。この暴走で、塵や埃が天を覆うほど舞い上がった。喬鐘葵は、敵方の伏兵が襲撃してきたかと驚き、忽ち壊滅してしまった。楊義臣はこれを追撃して大勝利を収めた。 

  

 晋、絳、呂の三州は、いずれも漢王方になって城を守っていた。楊素は、各々二千人で蹴散らした。
 漢王は、麾下の将軍趙子開へ十万の兵を与えて、防戦させた。趙子開は柵を築いて通路を断ち、高壁へ據った。彼の陣営は、五十里に連なった。
 楊素は、諸将へこれと対峙させ、自身は奇襲隊を率いて霍山へ入り、絶壁の崖をよじ登りながら進軍した。楊素は、谷口に陣営すると、陣の外に座し、軍司馬へ言った。
「ここに押さえとして三百人を残し、更に進軍する。」
 軍司馬は、陣営へ入って三百人を選考した。ところが、漢王の兵が剽悍だと聞いていた兵卒達は、皆が押さえとして残ることを望み、選考は難航した。どうにか留守部隊を決めて楊素へ報告すると、楊素は暇がかかったわけを訊ねたので、軍司馬は事実を伝えた。すると楊素は、留守部隊三百人を呼び出して一人残らず斬殺し、留守部隊を再度選考するよう命じた。今度は、誰も望む者がいなかった。
 楊素は、軍を率いて更に進軍し、賊軍の北側へ出た。そこで敵の陣営を直撃する。彼等は、軍鼓を鳴らし放火して回った。賊軍達は為す術も知らず、お互いに蹂躙し合って数万人の死傷者を出した。
 漢王麾下の介州刺史梁修羅が介休に屯営していたが、楊素が来たと聞くと、城を棄てて逃げた。
 漢王は、趙子開の敗北を聞くと大いに懼れ、自ら十万の兵を率いて蒿澤に陣を布いた。
 折悪しく大雨が降ったので、漢王は軍を退こうとしたが、王支が諫めた。
「楊素軍は敵陣深く侵入しました。その兵卒は疲れ果てています。王が精鋭兵で迎撃すれば、必ず勝てます。今、敵を目前にして退却すれば、人々へ怖じけついたと思われ、兵卒の戦意は喪失し、敵方を勢い付かせます。どうか退却しないでください。」
 漢王は従わず、清源まで退却した。
 王支は、子息達へ言った。
「天運がない。我等は必ず負ける。お前達、我へついてこい。」
 楊素は、漢王を攻撃して、大いに敗り、蕭摩訶を捕らえた。
 漢王は退却して晋陽を確保する。楊素は進軍して、これを包囲した。とうとう、漢王は進退窮まって降伏した。漢王が降伏すると、余党も全て平定された。煬帝は、楊素をねぎらう詔を自ら書いて、楊約に届けさせた。この功績により、楊素の子息の楊萬石と楊仁行、及び姪の楊玄廷を儀同三司とし、反物五万反、綺羅千匹、漢王の妓妾二十人を賜下する。
 王支は突厥へ逃げ込もうとしたが、山中で逃げ場所がなくなった。王支は観念して、息子達へ言った。
「我が計略は、楊素に劣っていたわけではない。ただ、聞き入れられなかっただけだ。そうして、ここに至ってしまった。この上縄目の辱めを受けて、豎子の名を挙げさせる気はない。我が死んだら、お前達は我が屍を渡すな。」
 そして、自殺した。息子達は王支の屍を石窟へ入れて逃げたが、遂に捕らえられた。王支の屍も見つけられて、晋陽にて梟首された。
 群臣は、漢王を誅殺するよう請願したが、煬帝は許さなかった。漢王を庶民へ落とし、幽閉して殺した。
 漢王の吏民で連座で殺された者は二十万余家にも及んだ。 

  

 当初、文帝と独孤后は互いに敬い合い、他の女性に子供を産ませないことを誓い合い、群臣へ言った。
「前世の天子達は側室の色香に溺れ、嫡子と庶子の争いから廃立が行われ、遂には国を滅ぼすに至った。朕には側室はいない。五人の息子達は皆、同母弟だ。これこそ真の兄弟といえる。どうしてこのような憂いが有ろうか!」
 文帝は又、北周の諸王達が兵力を持たなかった為に国を奪われたので、諸子へ大きな領土を与えて地方へ割拠させた。いざとゆう時に、皇室を守る藩塀にしようと考えたのだ。しかし、晩年になって父子兄弟で猜疑しあい、五人の子息達は皆、天寿を全うできなかった。 

  

 司馬光、曰く
 昔、辛伯が周の桓公へ言った。
「内寵が正室と並び、外寵が政治を専断し、庶子が嫡子と並び、大藩の力が王室に匹敵する。これらは全て乱を産む元です。」
 人主が、本当にこの四つを慎むことができれば、どうして騒乱が生じようか!隋の文帝は、庶子と嫡子が争うことが多く、皇室の中央集権が簒奪されやすいことを知っていたが、太い枝が幹を傷つけることを知らなかった。同母弟といえども、争わずには済まなかったのだ。辛伯の言葉と比べるに、その一つを得て三つを失っていたではないか! 

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