士会、偽りて晋へ帰る 

(資治通鑑) 

 東晋が建国された時、軍閥の王敦が軍事面でこれを支えていた。王敦は次第に増長し、遂には簒奪を企てるようになった。
 温キョウは、王敦へ同調した振りをして、彼の腹心の一人となり、彼の計画を知悉した。 やがて、温キョウは、皇帝の元へ腹心を送り込んだ方が良いと王敦をそそのかし、その役として王敦の片腕の銭鳳を推薦した。銭鳳は生きたくなかったので、温キョウを推薦しかえした。こうして、温キョウは皇帝の元へ帰り、王敦の計画を全て伝えた。 

  

(東莱博議)   

 棄てられない物を棄てる人がいる。それはきっと、もっと棄てられない物を守る為に、仕方なく棄てているに違いない。
 例えば、頭へ刃を当てられたならば、指を切り落とされることなど、とても拒んだりしないだろう。腹中に病巣があるならば、皮膚を切り裂かれることを拒む人間は居ないだろう。しかし、彼等は指や皮膚を不用の物として棄てているのではない。あくまで、もっと大切な物を守る為に、仕方なく棄てているに過ぎないのだ。
 ところで、君子にとって信義とは、生きている限り身につけている物である。それはあたかも、ほんの僅かの間でも手足を棄てることができないようなものだ。それなのに、これを捨て去ってしまって、自ら信義の外に出てしまったとしたならば、それがどうしてやむを得ないことだろうか。これはきっと、よくよくの事情があるのだ。
 士会の信義は、晋の数ある公卿達でも、一人として彼の右に出れる者は居なかった程である。それなのに、秦を騙して晋へ帰る時には、淳于コンに言葉を借りて蘇秦や張儀から策を授かったかと見紛うばかりの詭術を弄した。一体、どうゆう心境の変化で、自らの信義をこうまで完璧に捨て去ることができたのだろうか。
 これは、魏寿余が来た時、一生の分かれ目に立ったからである。
 帰るか帰らないか、それを決めるのはこの時だけだった。今ならば晋へ帰れる。そして、秦へ留まったなら、もう二度とチャンスはない。今、この策を行わなければ、この後はもはや打つ手がない。
 これこそが、平生棄てるに忍びなかった信義を捨て去ることのできた理由である。
 ああ、「昔から、死ななかった人間などいない。人の社会は、信義がなければ立ち行かないのだ。」と、論語に記されている。この理屈を士会が知っているならば、帰国できるもできないも、もとより天命であると判るだろう。
 もしもその天命でないのに詐術を弄して逃げ帰ったならば、たとえ体が晋へ戻れても、心を殺すことの方を恐れる。士会の策は、身の為には巧みでも、心の為には実に稚拙だったと言える。士会は、軽重の判断を誤ったのである。 

 自分の為に信義を棄てたのならば、皆はそれが過ちだと判る。しかしながら、国の為に信義を棄てるのは正しいのだろうか?
 東晋の頃、王敦が造反を企てており、温キョウは王敦に抑留された。温キョウは必死で追う敦一派の機嫌を取ったので次第に信じられ、遂には、王敦は温キョウを建康(東晋の首都)へ派遣しようとした。この時、温キョウは王敦が自分を疑って変心することを恐れ、上辺は厭がって、何度も何度も辞退した。
 温キョウが王敦を偽ったのは、士会が秦王を偽ったのと同じだ。この二人を比較した時、士会は自分の為に行ったので非難されるのが当然なのだが、温キョウは国の為に行ったのだ。その心を汲んで、信義を棄てたことを了諾しなければならないのだろうか?
 この時、東晋の国運は、一人の温キョウにかかっていた。もしも彼が虎口を逃れることができたなら、危難はうまく納まり、国は滅亡しないで済むのだ。いや、ただこの時の危難だけではない。それから先の百余年に亘って国が存続できたのも、全て彼の功績なのだ。彼の行動は、主君も親も存続させた。だから、彼を評価する人間は多い。
「これこそ大信。区々たる信義など、この意義の前にどれ程の価値があるだろうか。彼の行いこそ、『不信の信』と言うべきである。」と。 

 だが、私は思う。信義は片時もなくしてはいけない、と。
 君子は平日閑居している時でさえ、不義不信な人間になることが我慢できないのだ。ましてや、君親を穢すような事が、どうしてできるだろうか!
 彼は平日閑居している時でさえも、詐術を行ったことがない。それなのに、君父の危難だから詐術を行った。それならば、彼の詐術は、君父が原因で行ったことになる。君父が原因で君父の為に詐術を行い、君父がその恩恵を受ける。それは、君父が詐術を行ったとゆうことではないか。
 私は確かに君父の危難を救ったが、その代わり、君父から信義を奪い取ってしまった。忠孝の心がある者が、どうしてそんな事をできるだろうか。だから、私は温キョウを非難するのである。
 王敦が、東晋を滅ぼそうとした。温キョウが力の限りを尽しても社稷を救うことができず、命までも失ってしまったとするならば、王敦が東晋を滅ぼしたのである。決して、温キョウが東晋を滅ぼしたのではない。しかしながら現実には、温キョウは詐術を使った。そして僥倖にも社稷を残すことはできたが、君父を不正の汚名で穢してしまった。これは、王敦が東晋を危うくし、温キョウが東晋を穢したのだ。これでは五十歩百歩。両者にどれ程の違いがあるとゆうのか。 

 世俗の人間の考えを聞いていると、次のように言っているとしか思えない。
「君父が危難に陥った時には、どんな悪辣非道なことをしても構わない。」と。
 そして、そうゆう連中は、全て温キョウを手本としている。
 だが、もっと突っ込んで考えてみよう。
 我と我が身に危難が及んだ時に、本当に自分を愛している者ならば、詐術を弄して逃れようとはしないものだ。それなのに、君父が危難に陥った時にはこれを行う。
 それは何故か?自分の為に行ったのなら言い訳のしようがなく、君父のために行ったのならば、それを言い逃れに使えるからである。それならば、君父は自分が悪行を行う為の下地である。そのような人間は、自分が賤しむ行いで、君父に仕えているのだ。なんと君父を軽んじている事か!
 士会の過失は、儒教を学ぶ者ならば、皆、これを知る。しかし、温キョウの事績に至っては、忠孝の想いだけ持っていて学ばない者は、同じ轍を踏んでしまいかねない。だから、私は論を立てて、後世の君子達を諭すのである。

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