煬帝即位  2.皇太子廃立
 
  

 もともと文帝は、軍事や政治の議論に皇太子の勇を参加させており、その決断は、時に修正するも、おおむね受け入れていた。
 皇太子の性格は寛大で温厚、しかし感情に流れ行動を取り繕うところがなかった。文帝は倹約家だったので、ある時、皇太子の飾り立てた蜀の鎧を見て不機嫌になり、彼を戒めて言った。
「古来から奢侈に流れた帝王は、国を滅ぼしてきた。お前は世継ぎとなったのだから倹約に務め、国を守ることを考えなければならない。我は昔の衣服を今も残し、時々これを見ては自ら戒めている。今日、汝が皇太子の心だけ持って昔日を忘れてしまうことを恐れ、我が昔帯びていた帯刀一枚を贈る。併せて質素な塩辛も贈ろう。汝が周の上士だった頃常食していたものだ。これを以て我が想いを知れ。」
 後、冬至の時に百官が皇太子のもとを詣で、皇太子は盛大な宴会で饗応した。文帝はこれを知り、朝臣へ言った。
「冬至の日に、百官が東宮を訪れたと聞くが、これは一体どうゆう礼に基づくのか?」
 すると、太常少卿の辛亶が言った。
「東宮にて賀するのは、朝廷への出仕とは言えません。」
「祝賀に来たのは数十人。それも各々勝手に来ててんでに帰ったと聞く。どうして役人へ言って一斉に集めなかったのか!それに太子は正装し音楽を奏でて彼等を迎えたと聞くが、それは正しいのか?」
 そして、詔を下した。
「位によって各々差をつけるのが、礼である。君臣を混一してはならない。皇太子は上嗣に居するとはいえ、あくまで臣子である。諸方の岳牧が正冬に朝賀し貢ぎ物を勝手に東宮へ献上するのは典則ではない。以後は行ってはならない。」
 これ以来、恩寵が衰え始め、文帝の心へ猜疑が生まれた。 

  

 皇太子には寵愛する女性が多く、昭訓の雲氏を殊に可愛がっていた。対して妃の元氏は寵愛されず、心の病で卒した(開皇十一年)。このことで、独孤后は皇太子を責めた。ところがこれ以後、雲昭訓は三子、高良テイ(「女/弟」)は二子、王良媛も二子、成姫は一子を、ほかの後宮の女性が二子を産んだ。独孤后はますますむかつき、密偵を放って皇太子の過失を探らせるようになった。
 晋王廣はますます上辺を繕い、ただ蕭妃とのみ居住した。他の女性が晋王の子供を産んでも、育てなかった。(堕胎したのか、それとも出産の後殺したのか。)それ故独孤后は屡々廣を賢人と称した。
 晋王は、実力のある大臣(楊素の事と思われる)には、心を傾けて交際した。文帝や独孤后から使者が来たら、喩えどんな賤しい人間でも必ず蕭妃と共に門まで出迎えた。そしてご馳走を並べ厚く礼遇したので、晋王の仁孝を褒めない者はいなかった。
 文帝と独孤后が晋王の邸宅へ遊びに来たときは、晋王は美姫を別室に隠し老醜のみを表へ出し、質素な着物を着て接待した。楽器は、わざと弦を切り、埃まみれにした。これを見た文帝は、晋王は女色にも音楽にも興味がない人間だと思い、宮殿へ帰ると近習達へ自慢したが、その時の文帝はいかにも嬉しそうだった。侍臣達は、皆、御祝いを述べた。
 そうゆうわけで、晋王は殊に可愛がられた。
 ある時文帝は、来和とゆう人相見の達人へ、密かに子息達を窺わせた。すると、来和は言った。
「晋王殿下は眉の上に双骨が隆起しています。これ以上ないほど貴くなりましょう。」
 又、ある時、文帝は上儀同三司韋鼎へ問うた。
「我が子息の内、誰を世継ぎにすればよいかな。」
 すると、韋鼎は言った。
「陛下ご自身がご承知の筈。臣ごときがなんで口にできましょう。」
 文帝は笑って言った。
「なんだ。卿は露骨に答えているじゃないか。」
 晋王は、姿や態度が美しく、鋭敏で、いつもドッシリと構え、学問好きで文章が巧く、朝臣と接する時はいつも腰を低くしていた。だから、彼の名声はいやが上にも挙がり、他の兄弟達を大きく引き離していた。 

 晋王が揚州総管だった頃、入朝して鎮へ戻る時、宮殿へ入って独孤后へ別れを告げたが、この時彼は地へ平伏して涙を零した。独孤后も泣き濡れて止まらない。
 晋王は言った。
「臣は愚直な性ですが、いつも弟としての分を守るよう心がけていました。それなのに、何故か皇太子殿下から嫌われています。殿下はいつも怒りを含み、臣を殺そうと狙っているのです。いつも、讒言が親子にひびを入れ、毒杯を贈られるのではないかと恐々としているのです。」
 独孤后は怒って言った。
「最近の勇には我慢できません。妾は勇の為に元氏を娶って遣ったのに顧みもしないで阿雲ばかりを可愛がる。元氏は毒を盛られたのではないかと疑っているのですが、証拠が無くて手が下せないのです。それなのに、汝へもそのような真似をしているのですか!妾が生きている内は未だ良いのでしょうが、死んでしまった後は汝は魚肉とされてしまいます!それに、今、東宮には妃が居ません。すると、陛下千歳の後は、お前達は阿雲へ向かって拝礼することになるのですよ。それを思うと断腸の想いです!」
 晋王は再び拝礼した。嗚咽を止めることができない。独孤后も悲しみをこらえきれなかった。この時以来、独孤后は廃立を決意した。 

 晋王と、安州総管宇文述とは、もともと仲が善かった。そこで晋王は宇文述を近くへ置こうと彼を寿州刺史とするよう上奏した。又、晋王は総管司馬張衡を最も親任していた。張衡は、晋王の為に即位の為の策を練った。
 晋王が宇文述へ問うと、宇文述は答えた。
「皇太子は、既に寵愛を失っていますし、彼の令徳は陛下の耳へ届きません。大王の仁徳は評判ですし、知謀は世を覆っておりますし、将軍として何度も大功を建てられました。陛下も内宮も、四海の望も、全て大王へ集まっています。しかしながら、廃立は国家の大事。親子骨肉の間には、他人は介在しにくうございます。陛下の心を動かせるのは、ただ楊素のみ。楊素と共に謀略を巡らせるのは、彼の弟の楊約のみでございます。臣はもともと楊約と仲がよいので、京へ行ければ、彼と会って共に謀りましょう。」
 晋王は大いに悦び、宇文述へ多くの金宝を賜り、彼を入関させるよう手を打った。
 この頃、楊約は大理少卿だった。楊素がやる事は全て、事前に楊約と打ち合わせていた。宇文述は、まず楊約へ贈り物をし、やがて博打を打つようになったが、いつも負けてばかりで、毎回金や宝を楊約へ与えていた。その累積があまり多額になったので、楊約が礼を述べると、宇文述は言った。
「これは皆、晋王からの賜です。卿を楽しませるように命じられていたのです。」
 楊約は驚いて言った。
「晋王がどうしてそのようにしてくれるのですか。」
 そこで宇文述は晋王の意向を明かした上で、彼を説得した。
「正を守り道を履むのは人臣の常ですが、現実を義に合わせるのが達人というもの。古来より聖人君子は、時節に合わせてうまく立ち回り、禍を避けてきました。公の兄弟の功名は世を覆っており、足下の家へ膝を屈する朝臣は挙げて数えることもできません。しかし、皇太子や皇后はそれ故に切歯扼腕していることも少なくありません。公は陛下の心を捕らえてはいますが、陛下千載の後は、どうやって身を守られるのですか!今、公もご存知のとおり、皇太子は皇后の寵愛を失い、陛下には廃立の想いがあります。今、晋王を立てることは、賢兄の口と耳にかかっているのです。この時に大功を建てれば、晋王はその恩を終生忘れません。これこそ、累卵の危うきを離れ、太山の安泰を成すとゆうものです。」
 楊約は同意し、楊素へ語った。これを聞いて楊素は大いに喜び、掌を撫でて言った。
「それは思いもよらなかった。公の助言に頼るのみだ。」
 楊約は脈有りと知り、言った。
「今、陛下は、皇后の言うことに従わないことがありません。この機会に早く晋王と結託して地位を固め、栄碌を子孫へ伝えましょう。ぐずついて異変が起こり、皇太子の時代が来てしまったら、禍はすぐにでもやって来ますぞ!」
 楊素は、これに従った。
 数日後、楊素は宴会の折に言った。
「晋王は孝悌恭倹、陛下にそっくりでございます。」
 これは皇后のつぼを得ていた。独孤后は泣いて言った。
「公の言うとおりです。我が子は大孝愛。妾や陛下の使者が来れば必ず門まで出迎えるし、遠方へ赴任する時には、泣かなかった例がありません。あれの新婦も可愛いものです。晋王は妾の意向通り、婢を側に置かないものですから、彼女自身で晋王の面倒を細々と見ています。あの勇など、阿雲と終日酔い痴れて小人と昵懇になり、骨肉でさえ猜疑しています!ああ、廣は可哀相に、いつ殺されるかも知れないのですよ。」
 楊素は独孤后の心を知るや、皇太子のことを大いにこき下ろした。皇后は、遂に楊素へ金を賜うと、文帝へ廃立を勧めるよう頼み込んだ。
 皇太子は、この陰謀を察知したけれども、憂懼するばかりで為す術も知らなかった。 

 文帝は、この頃仁寿宮にいたが、皇太子が不安に駆られていることを知り、楊素へ様子を見に行かせた。皇太子はそれを聞くと、正装して待ちわびた。ところが、楊素はわざとゆっくりと赴き、皇太子を大変待たせた。おかげで皇太子は、楊素へ会った時に不満の色が顔にありと浮かんでいた。そこ楊素は文帝へ復命した。
「皇太子は怨望しております。どうか、もっと深くお探りください。」
 そこで、更に使者を派遣したが、皆、粉飾して針小棒大に語った。
 文帝はとうとう皇太子を疎み、玄武門や至徳門へ人を置いて、皇太子の動静を一々奏聞させるようになった。又、東宮の衛兵は形ばかりにして、屈強の者は皆、部署を替えた。左衞率の蘇孝慈が浙州刺史に任命されると、皇太子は益々不機嫌になった。
 太史令の袁允が上言した。
「臣が天文を見ますに、皇太子が廃立される象が顕れています。」
 文帝は言った。
「そんなにも明白なのだな。ただ、孤へ語ってくれる臣下が居なかっただけだ。」
 袁允は、袁君正の子息である。
 晋王の督王府軍事段達は、晋王の命令を受け、皇太子の幸臣姫威へ賄賂を贈り、皇太子の動向を探っては楊素へ伝えていた。
 こうして内外は喧しくなり、皇太子の過失ばかりが文帝の耳へ入るようになった。
 段達は、姫威を脅しつけた。
「東宮の過失は、全て陛下の耳へ入っているのだぞ。廃立の密詔も、既に降りているのだ。しかし今、君が協力すれば、いずれは大富貴にしてやるぞ。」
 そこで姫威は皇太子の過失を全て上書した。 

 九月、文帝は仁寿宮から戻って来た。その翌日、大興殿にて、侍臣へ言った。
「我は京師へ帰ってきて、華やかに騒いでいるものと思っていたら、何とも陰鬱な空気に包まれている。一体どうしたのだ。」
 すると、牛弘が言った。
「臣等の力が及ばないばかりに、陛下へご心労をおかけいたします。」
 文帝は、仁寿宮でさえ皇太子の過失が引きも切らずに耳へ入るのだから、京師の人間は、皆、知悉しているものと思っていた。そこで皇太子の不徳を臣下達の口から言わせようと水を差したのに、牛弘がこのように返答した。文帝は怒りを顕わにして東宮の官属へ言った。
「仁寿宮は、ここから遠いわけではない。それなのに、我は京師へ入る度に厳重に警備をしなければならない。まるで敵国にいるようではないか。お前達は、我国を壊すつもりか!」
 そして、太子左庶子唐令則等数人を捕らえて尋問させた。また、東宮の事状を近臣へ告発するよう楊素へ命じた。そこで、楊素は声を張り上げて言った。
「かつて臣は敕を奉じて京へ向かい、皇太子へ劉居士の余党を掃討せよと命じました。(上柱国劉昶の子息。文帝が劉昶を寵用していたので驕慢になり、高家の子弟達と無頼な行為を繰り返し、民から忌み嫌われた。行動は更にエスカレートし、常に数百人のごろつき達を屋敷内に蓄えるようになったため、造反の嫌疑が掛けられ、斬罪となった。この一件は、彼の親交関係まで連座され、公卿の子弟達が大勢処刑された。)ですがこの時、皇太子は、詔を奉じて憤然として言ったのです。『劉居士の一党は全て処罰した。これ以上何をしろというのか!不満なら汝自ら糾明しろ。右僕射なら身分もある。とにかく、この件は我には関係ない!』また言いました。『昔は、大事が完遂されなかったらまず我が叱られたものだが、最近の陛下は弟達へ命じている。なんとか自衛しなければならない。』と。」
 文帝は言った。
「この児では、天子の重責に堪えられない。皇后は、いつも廃立を勧めていたが、我は布衣に頃に生まれた子供なので愛おしく、地位が人柄を変えることを願って、今まで皇太子としていたのだ。勇はかつて、皇后の児女を指さして言った。『あの女も、いずれは我が物になるのだ。』これは何たる台詞だ!我は、尭や舜ほどの徳はないが、どうしてこんな不肖の息子を万民の父にできようか!今、天下の為に、これを廃立する!」
 すると、左衞大将軍元旻が諫めて言った。
「廃立は一大事です。一度詔を下したら、悔いても及びませんぞ。世の中には讒言も横行すること。どうか陛下、こここをお察しください。」
 しかし文帝は返事もしないで、姫威へ太子の罪悪を数え上げるよう命じた。
 姫威は言った。
「太子が臣へ話すのは、ただ驕慢と豪奢だけでした。ある時、殿下は言われました。『諫言する者がいれば斬ってやるか。百人も殺せば、皆は口を閉ざしてしまうさ。』
 台殿を造営するときは、一年中休みなしでした。
 尚書が法を厳格に適用すると、殿下は怒って言いました。『僕射以下二三人殺して、我を侮る事の恐しさを教えてやるか』
 また、占い師に占わせた後、臣へ言いました。『至尊はあと十八年も生きるのだと。もうすこし早くならぬかなあ。』」
 文帝は涙を零して言った。
「父母から生まれない者はいないとゆうのに、ここまで至ったか!朕は最近斉書(北斉の青史。李百薬が編纂した)を読み、高歓が子息を放埒に育てた事に憤りを禁じ得なかったが、何ぞしらん、わが子も同様だったとは!」
 ここにおいて、皇太子とその子息達を幽閉し、彼等の党類を下獄した。楊素が巧みに文章を書いて有罪とする。
 数日後、楊素の意向を汲んだ人間が、告発した。
元旻は、いつも皇太子に諂って、彼の悪行をそそのかしていました。」
 元旻は捕らえられ、杖刑に処された。
 又、楊素は東宮から服や日用品を押収し、これらを贅沢に飾り立てて庭に陳列して群臣へ見せた。文帝と皇后は使者を出して皇太子を詰問したが、皇太子は身に覚えがないと釈明するだけだった。 

 十月、文帝は皇太子と子息達を群臣の前へひきだし、廃立を告げた。併せて、彼の子息で王や公主となっているものは、その爵位を剥奪された。皇太子勇は、再拝して言った。
「臣は、見せしめの為に屍を曝しものにされるのが当然ですのに、広大な慈悲によって命を救っていただきました。感謝の念に耐えません。」
 言い終えると、涙が止めどなく溢れてしまった。近習達は皆黙りこくっている。これを見て文帝は、さすがに哀れを催した。 

 ところで、雲昭訓の父親の雲定興は、東宮へ無節操に出入りし、奇異な服や器を勧めて皇太子へ取り入っていた。左庶子の裴政が屡々諫めていたが、皇太子は聞かない。
 裴政は雲定興へ言った。
「公のやっていることは、法度に触れるのだぞ。又、元妃の急死は巷でも噂だず、これは皇太子の醜聞だ。もう、こんなことはやめなさい。でないと、いずれ禍が訪れるぞ。」
 雲定興は、これを皇太子へ伝えたので、皇太子はますます裴政を疎んじた。これによって、裴政は襄州総管として地方へ下向させられた。
 唐令則も、皇太子と昵懇で、楽器などを内人へ教えていた。右庶子劉行本が、これを責めて言った。
「庶子は、皇太子を正道へ導くものだ。それが、房帷へ媚び諂ってどうするのか!」
 唐令則は甚だ慙愧したが、改めることはできなかった。
 皇太子は、劉臻、陸爽、明克譲などを文学の徒として親しんでいたが、劉行本は彼等を叱りつけた。又、ある時夏侯福が皇太子と戯れていて大笑いしたが、その笑い声が外からも聞こえた。劉行本は夏侯福を捕らえて牢獄へ引き渡した。皇太子が釈放を請願し、ようやく夏侯福は釈放された。
 今回皇太子が廃立された時、裴政も劉行本も既に死んでいたので、文帝は彼等を偲んで言った。
「あの二人が生きていたら、ここまで至らなかっただろうのに。」 

 ある時、皇太子が宴会を開いたが、その折唐令則が琵琶を演奏した。それを見て、洗馬の李綱が言った。
「唐令則は宮卿ですが、今日の有様は芸人と変わりません。しかも、その曲は淫靡で視聴を穢します。これがもしも陛下の耳へ入りますと、唐令則は罪に陥り殿下にまで累が及びかねません。どうか、早めに彼の罪を糾明してください!」
 皇太子は言った。
「我は音楽を楽しみたいだけだ。細かいことを言うな。」
 李綱は、そのまま退席した。
 皇太子が廃立されるに及んで、文帝は東宮の官属を責め立てた。皆は恐惶して何も言えなかったが、李綱は言った。
「廃立は一大事です。今、大臣達は皆、これの不可を知っていますが、敢えて発言する者はおりません。しかし、臣は死を冒してでも言わせて貰います!皇太子の性は中人。補佐する者によって善にも悪にもなります。陛下は正しい人を選んでこれを補佐させ、国の礎を気づくべきでした。それなのに、唐令則を左庶子、鄒文騰を家令となさいました。彼等は皇太子へただ音楽や闘犬などの遊びを教えただけ。これでは、このようになるのも当たり前でございます!これは陛下の過ちです。皇太子の罪ではありません!」
 そして、地に伏せて涙を零し嗚咽した。
 文帝はしばらく黙りこくっていたが、やがて言った。
「李綱が我を責めるのは道理ではある。しかし、お前はその一を知って二を知らない。我は汝も宮臣として選んでいたではないか。それなのに、勇は親任しなかった。これでは正しい者を選んだとて、何の役に立っただろうか。」
「臣が親任されなかったのは、傍らに姦人が居たせいです。陛下が唐令則や鄒文騰を斬って賢人を選びなおしたならば、どうして臣が疎棄されたままでいたでしょうか。廃立が国を傾けた事例は、昔から、枚挙に暇がありません。どうか陛下、深く考え直して、後に後悔なさいますな。」
 文帝は不機嫌になって退出した。他の臣下達は、皆、戦慄していた。
 のち、尚書右丞が欠員となった時、文帝は李綱を指さして言った。
「こいつは、佳き右丞になるぞ!」
 そして、即座に登庸した。 

  

 十一月、次男の廣が皇太子に立った。この月、天下に地震が起こった。 

 十二月、宇文述が左衛率となった。ところで、楊廣が廃立を企てた時、洪州総管郭衍が、その陰謀に加担していた。そこで、郭衍を徴召して左監門率とした。
 文帝は、楊勇を東宮に幽閉し、楊廣に監視させた。楊勇は、でっち上げの罪で廃立されたので、冤罪を訴えようと文帝への謁見を求めたが、楊廣はこれを全て握りつぶした。とうとう楊勇は、木に登って大声で叫ぶようになった。その声か文帝へ聞こえて謁見が叶うかことをこいねがったのだ。だが、楊廣は、これを文帝へ奏上して言った。
「兄上は、錯乱なさいました。癲鬼のせいでしょうか。もはや恢復しないでしょう。」
 文帝も同意し、遂に謁見しなかった。 

  

 文帝が朕を滅ぼした時、天下の人々は太平になると喜んだが、監察御史の房彦謙は、親しい者へ言った。
「主上は酷薄で、太子は卑弱。その上、諸王は大きな権力を持っている。平和になったとはいえ、滅亡は近いぞ。」
 房玄齢と杜如晦が、吏部となった。吏部侍郎の高孝基は人相見の名人として名高かったが、彼は言った。
「いままで大勢の人間を見てきたが、房玄齢ほど立派な人間を見たことがない。きっと大出世するだろう。その行く末を見れないことが残念だ。又、杜如晦には臨機応変の才能がある。必ずや国家の補佐役となるだろう。」
 そして、子孫のことを彼等へ託した。 

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