隋末の群盗
 
 大業七年(611年)、七月、山東、河南にて大水が起こり、三十余郡が水没した。
 十月、底柱が崩れ、黄河をせき止めたので、黄河は数十里も逆流した。 

 高麗討伐の為、民を徴発して兵糧などを運ばせたが、彼等は行ったきり帰ってこない。士卒も過半は死に、畑仕事も人手不足で、多くの田畑が荒れ果てた。これに飢饉が加わって、穀物の価格が高騰した。それは東北が最も甚だしく、一斗の米が数百銭もした。納入した米が粗悪品だったら、良い米を購入して納入させる。米は、鹿車(小さい手押し車)で運ばれたが、これは三石の米を運ぶのに二人の役夫が必要だった。道が遠いと充分な食料を携帯できないので、これに手を付け、罪を恐れて逃亡する人間も多かった。官吏の貪欲残虐も多く、縁者達まで利権を漁りまくるので、百姓は困窮し、財力は尽き果てた。
 手を拱いていたら飢えと寒さで死んでしまう。生き延びる為には盗賊になるしかなかった。
 こうして、蜂起した群盗は数知れず。その兵力が数万を数えるようになると、彼等は城邑を襲撃するようになった。煬帝は、都尉や郡県の相へ、これらを追捕して斬るよう命じたが、盗賊達は更に増加していった。
 この動乱は、特に河北で甚だしかった。その詳細は、「竇建徳」に記載する。
 八年、高麗討伐軍が大敗して帰国した。 

  

 九年、高麗への二度目の親征軍が出た。その、皇帝の留守を狙って、楊玄感が造反した。
 七月、餘杭の住民劉元進が起兵して楊玄感に呼応した。劉元進は手が長く、下へ降ろすと膝まで届いた。この異相によって、密かに野心を持っていた。
 やがて、煬帝が再度の高麗出兵のために呉の民を徴発すると、呉兵達は皆で言い合った。
「往年は国家の全盛だったのに、高麗へ出征した我が父兄達は大半が死んでしまった。今は衰退しているのに、再びの出兵だ。これでは皆殺しになってしまうぞ。」
 そして、大勢の兵卒が逃亡してしまった。郡太守や県令は、彼等を捕らえようと躍起になった。
 このような折に劉元進が決起したので、亡命者が雲集し、たちまち数万人になった。
 八月、楊玄感軍は鎮圧され、楊玄感は自殺した。 

 同月、呉郡の朱燮と、晋陵の管祟が衆人をかき集めて江左で略奪して回った。
 朱燮は、還俗した道人で、経史を漁り読んだおかげで兵法を知っていた。容貌は、眇で背が低い。崑山県博士となり、数十人の学生と共に起兵したら、労役に苦しむ民がたちまち集まって来た。
 管祟は体格が良く、容姿が美しかった。常熟に隠居していたが、自分には王者の相があると吹聴して、群盗から担ぎ上げられた。
 この頃、煬帝はタク郡にいた。煬帝は虎牙郎将趙六郎へ一万人の兵を与えて揚子へ派遣し、劉元進、朱燮、管祟へ備えさせた。趙六郎は、五ヶ所に陣を張った。
 管祟は麾下の将陸豈へ趙六郎を攻撃させた。陸豈は揚子江を渡ると夜襲を掛け、二つの陣を撃破し、多くの器械軍資を奪って去った。以来、ますます威勢が挙がり、軍勢は十万を数えた。 

 劉元進は、部下を率いて揚子江を渡った。その頃、楊玄感の滅亡を知る。朱燮と管祟は、共に劉元進を迎え入れて、盟主として推戴した。呉郡に據って、天子を称する。朱燮も管祟も、共に尚書僕射となり、百官を設置する。
 毘陵、東陽、会稽、建安の豪傑達が長吏を捕らえて呼応した。
 十月、煬帝は、左屯衞大将軍吐万緒と光禄大夫魚倶羅へ討伐を命じた。
 劉元進は丹陽へ進攻した。吐万緒が揚子江を渡って、これを撃破したので、劉元進は包囲を解いて去った。
 吐万緒は曲阿へ進屯する。劉元進は柵を築き、百日ほど睨み合ったが、吐万緒が一撃すると大敗し、一万人ほどの死者を出した。劉元進は夜に紛れてからだ一つで逃げ出した。
 朱燮と管祟は毘陵に屯営していた。彼等の陣は百里も連なる。だが、吐万緒は勝ちに乗じて撃破してしまった。賊軍は退いて黄山を確保する。吐万緒がこれを包囲する。劉元進と朱燮は体一つで逃げ出せたが、管祟は捕まり、将卒五千人と共に斬られた。彼等の子女三万人が捕らえられた。
 吐万緒は、更に進軍して会稽の包囲を解いた。
 吐万緒と魚倶羅は連戦連勝だったが、百姓は、市へ集まるように賊徒のもとへ集まって行く。賊徒は敗北してもまた人が集まり、其の勢力は益々盛んになっていった。
 劉元進は退いて建安に據った。煬帝は吐万緒へ進討を命じた。だが、彼等は戦闘続きで、兵卒は疲れ切っていた。だから吐万緒は、来春まで待つよう請願した。煬帝は不機嫌になった。
 魚倶羅も又、年内に片が付く状況ではないと見て、ひそかに家奴を洛陽へ派遣して、諸子を呼び寄せた。それを知って、煬帝は怒った。こうなると、煬帝に媚びる人間が、何とでも吹聴する。魚倶羅は敗北したとして、斬られた。吐万緒は卑怯者として、行在所への出頭を命じられた。吐万緒は、憂いの余り途上で卒した。
 煬帝は、今度は江都丞の王世充へ、淮南の兵数万を動員して劉元進を討つよう命じた。
 王世充は揚子江を渡って戦い、連戦連勝だった。劉元進も朱燮も戦死した。その他の者は、降伏したり逃げたりした。
 王世充は、先に降伏した者を通玄寺へ集め、瑞像の前で香を焚き、降伏した者は決して殺さないと誓約した。逃げ出した者達は、始めは海へ入って海賊になろうとしていたが、これを聞いてたちまち出頭してきた。だが王世充は、誓約を破って彼等を穴埋めにした。三万人が殺された。
 これ以来、残党達は盗賊として暴れ回り、官軍は討伐できないまま、隋の滅亡へ至るのだ。しかし煬帝は、王世充に将帥の才覚があると考え、ますます寵用するようになった。 

  

 九月、東海の住民彭孝才が盗賊になり、数万の兵を集めた。
 十月、賊帥の呂明星が東都を包囲したが、虎賁郎将費青奴が、これを撃破した。
 十一月、右候衞将軍馮孝慈が張金称を攻撃したが、敗れて戦死した。 

  

 唐県の住民宋子賢は、幻術の名人で、仏に変わるのが巧かった。弥勒菩薩の生まれ変わりと自称し、良民を惑わした。信者が集まると、法会にかこつけて挙兵し、乗輿を襲撃しようと計画したが、事前にばれて誅殺された。その一味として千余家が誅殺される。
 扶風桑門の向海明も弥勒と称して信者を集めた。造反すると数万の民が集まったので、皇帝を潜称したが、太僕卿楊義臣が撃破した。 

  

 十年、扶風の賊帥唐弼が李弘芝を天子に立てた。十万の軍勢があり、唐王と名乗る。
 武徳元年(618年)、薛挙に滅ぼされる。その詳細は「薛挙」に記載する。 

  

 四月、楡林太守董純が彭城の賊帥張大虎と戦い大勝利を収める。
 延安の賊帥劉迦論が皇帝を潜称した。屈突通が討伐し、劉迦論を斬る。
 十一月、離石の胡人劉苗王が造反した。天子と潜称し、数万の兵力を擁する。将軍潘長文が討伐したが、勝てなかった。
 汲郡の王徳仁が数万の兵を擁して林慮山にて盗賊となった。 

 十一月、彭孝才が沂水の方へ移動した。彭城留守董純が、これを討って擒とする。
 董純は、屡々盗賊相手に勝利を収めていたが、盗賊達の勢いは、日々強くなってゆく。ある者が、董純を怯懦だと讒言した。煬帝は怒り、董純を東都へ呼び寄せて誅殺した。 

  

 孟譲が長白山から諸郡を掠奪して廻り、于台へ至った。その兵力は十万。都梁宮を拠点とし、淮水で守りを固める。
 江都丞王世充が攻撃した。彼は、柵を築き、老弱の兵を前面に出した。孟譲は、これを見て、笑った。
「王世充など、文官の小役人。戦争などできるものか!生け捕りにして、鳴り物入りで江都へ入ってやるぞ!」
 この頃、民は自衛団を作り、砦めいたものも造られ始めた。なかなか掠奪がうまくゆかなくなったので、賊軍は餓え始めた。そこで孟譲は、兵を少しだけ留めて、残りは南方へ掠奪へ出した。
 王世充は、賊軍の怠惰につけ込み、出撃して大勝利を収めた。孟譲は数十騎で逃げ去った。一万余りの首を斬る。 

  

 十一年、二月。上谷の賊帥王須抜が漫天王と自称し、国号を燕とした。賊帥の魏刀児は歴山飛と自称した。兵力は、どちらも十余万。北方の突厥と連合し、南の燕、趙で掠奪した。歴山飛は、十二年四月、十万の大軍で太原を攻撃し、将軍潘長文を敗死させた。
 武徳元年(618年)、竇建徳が魏刀児を滅ぼした。その詳細は「竇建徳」へ記載する。 

  

 十二年、張金称が平恩を落とした。その日、男女一万人を殺す。また、武安、鉅鹿、清河の諸県も落とした。張金称は、群盗の中では最も凶暴で、通過した土地は、住民を皆殺しにして行った。 

  

 煬帝が高麗討伐を計画したとき、多量の軍事物資がタク郡へ集められた。タク郡には人物も豊富で、駐屯部隊は数万人もいた。
 臨朔宮には珍宝が多かったので、盗賊達が競うように襲撃した。タク郡の留守を預かる虎賁郎将趙什住は、これを防ぎきれなかったが、虎賁郎将羅芸だけは出撃し、何度も盗賊達を撃破した。だから、羅芸の威名は日々挙がり、趙什住は、これを疎ましがった。それを知った羅芸は乱を起こそうと考え、まず、皆を集めて言った。
「我等は盗賊を討伐し、何度も軍功を挙げた。ところが、城内に山と積まれている物資は全て留守官が管理して、一粒の米も出してくれない。困窮した民を救えず、軍功を賞することができなくて、どうして将士を励ますことができようか!」
 煽動されて、皆は怒った。
 羅芸軍が戻ってくると、郡丞が城から出迎えたので、羅芸はこれを捕まえ、兵を率いたまま城内へ入った。趙什住等は懼れ、皆、羅芸の命令に従い、官庫を開放した。こうして貧しい民は救済され、境内は羅芸へ服従した。
 渤海太守唐偉など同調しなかった数人を殺したので、羅芸の威名は燕全土に轟いた。柳城や懐遠などが、彼へ帰順する。そこで襄平太守トウ高を総管とし、自身は幽州総管と自称した。
 武徳元年(618)、羅芸は唐へ帰順した。その詳細は、「李淵」へ記載する。 

  

 義寧元年(617年) 魯郡の賊徐圓朗が東平を攻め落とし、各地を攻略していった。琅邪以西、北は東平へ至るまで、全て彼の領有となる。兵力は二万。 

  

 廬明月は、もともとタク郡にて蜂起したが、張須陀に討伐され、陳・汝方面へ逃げ込んだ。(その詳細は、「竇建徳」に記載する。)だが、そこにて勢力を盛り返し、数十万を擁するに至った。河南から淮北を基盤とすると、四十万の兵力と号して、無上王と自称した。 煬帝は、江都通守王世充に討伐を命じた。王世充は南陽で戦い、大勝利を収めて廬明月を斬った。すると、残りは散り散りに逃げ去った。 

  

(三月、劉武周、梁師都等が、突厥の始畢可汗と結託して、皇帝を名乗った。)
 左翊衞郭子和が、法に触れて楡林へ流された。
 楡林郡で大飢饉が起こったので、郭子和は密かに決死の徒十八人と盟約を結んで郡門を攻撃し、郡丞王才を捕らえ、百姓を虐待した罪を数え上げてこれを斬り、官庫を開放した。永楽王と自称し、丑平と改元する。父親を太公とし、弟の子政を尚書令、子端、子升を左右僕射とする。
 彼の兵力は二千余騎。南は梁師都と、北は突厥と連合し、子息を人質として双方へ差し出した。始畢可汗は、郭子和にも天子の称号を与えたが、固辞した。
 武徳元年(618年)、郭子和は唐へ帰順した。 

  

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