文帝の治世
 
社会改革 

 隋が建国した頃、銭は北周・北斉時代のものが流通していたが、民間の私鋳銭もあり、種類があまりにも多すぎた。しかも、それぞれ重さがまちまちだった。
 文帝は、新たに五銖銭を造ると、古銭や私銭を使用禁止とした。
 この新しい五銖銭は、重さは千個で四斤二両に統一されていた。両面の模様や孔もしっかりとしている。
 この銭が流布して、民間では便が良くなった。 

 周の法律は、斉と比べて、煩雑で不用の法が多かった。そこで文帝は、裴政に改修を命じた。裴政は、魏・晋から斉・梁までの典故に精通しており、これらを比較して折衷していった。
 この改修には十余人が関わったが、彼等は疑問が生じると、全て裴政へ尋ねた。
 新しい法律はかなり緩和され、謀反人でない限り一族誅罰などはなくなった。この新法は、太建十三年(581年)十月から施行され、後世も多くは遵守された。(宋代になっても、おおむね、この法律が基盤になっていた。)
 ところで、新しい法律が施行された後、蘇威はそれを細かく改善したがった。すると、内史令の李徳林が言った。
「律令を作るとき、どうしてそれを言わなかったのだ?今、この法律は施行されたばかり。これを守ることの方が大切だ。民へ大きな害を為すもの以外は、変更してはいけない。」
 後、一年ほど経って、文帝が裁判の記録を見たところ、案件は一万を越えていた。文帝は、”これは、律令が細かすぎるから、ちょっとしたことで人々が罪人になってしまうのだ”と考え、蘇威と牛弘へ新しい法律を作るよう命じた。これによって、死罪が八十一條、流罪が百五十四條、杖等が千余條削除され、残されたのは五百條十二巻のみだった。これ以来、刑法は簡潔になり、”疎にして洩らさず”と評された。 

  

臣下達 

 ある時、文帝が一人の臣下へ腹を立て、殿前にて彼を笞打った。すると、諫議大夫の劉行本が言った。
「この人は、もともと清廉な人間で、今回の過失も些細なもの。どうか、もう少し寛大に処置してください。」
 だが、文帝は顧みなかった。すると、劉行本は言った。
「陛下は、不肖な私を抜擢して左右へ置いてくださいました。私の言葉が正しいのなら、どうして従ってくださらないのですか?間違っているとのなら、臣がこの職にいるわけには参りません。」
 そして、笏を置いて退出した。文帝は容貌を和らげて劉行本へ謝り、笞打ちをやめた。 

 独孤皇后は、代々高貴な家柄だったが、彼女自身は謙虚で読書を好んだ。彼女の発言の多くは文帝の意向に叶っていたので、文帝は彼女を寵愛しながらも憚った。そこで、宮中では文帝と独孤皇后を併せて「二聖」と呼んだ。
 文帝が朝廷へ出向くと、皇后も輦に乗って同席した。そして宦官から文帝の言動の報告を受けて、過失があったらすぐに諫めた。そして、文帝が退出すると、彼女も後宮へ戻った。
 ある時、役人が上奏した。
「周礼によりますと、百官の妻は、王后が統率します。これが古制です。」
 すると、独孤皇后は言った。
「婦人が政治へ嘴を挟む悪弊が、それによって始まるかもしれません。源を開いてはなりません。」
 大都督の崔長仁は、独孤皇后の一族だったが、法を犯し、斬罪に相当した。文帝は皇后の為に赦免しようとしたが、皇后は言った。
「国家のことに私情は挟めません!」
 ついに、崔長仁は処刑された。
 皇后は倹約家だった。ある時、文帝が薬を調合するに際して、化粧品の胡粉が必要だったので、後宮で探したが、宮内で使用してなかったので、とうとう手に入らなかった。
 しかしながら文帝は、北周の滅亡を反面教師として、外戚の台頭を抑制した。だから、独孤皇后の兄弟と雖も、その官職は将軍や刺史に過ぎなかった。 

 文帝が、岐州へ御幸した。岐州刺史の梁彦光は善い政治をしていたので、文帝は詔で褒め、束帛と傘を賜下して天下の官吏への激励とした。
 やがて、梁彦光は相州刺史へと移転された。
 ところで、岐州は質朴な風土だった。だから、梁彦光は大きな事を起こさず、温厚にふるまって、常に業績第一だったのだ。相州刺史となっても、同じやり方を通した。
 ところが、相州は北斉発祥の土地である。しかも業では、北斉が滅亡してから君子達は皆、関西へ移住し、商人や娯楽所だけが残っていた。風俗は軽薄陰険で、訴訟を好んだ。彼等は、梁彦光のことを、「飴のように甘い男だ。」と揶揄して、流行歌にして流行らせてしまった。これが文帝の耳に入り、梁彦光は罷免されてしまった。
 一年ほどして、梁彦光は趙州刺史に任命されたが、彼は自ら相州刺史を希望した。文帝はこれを許可し、彼は再び相州刺史となった。相州の豪族や狡猾な人間達は、梁彦光が再び赴任すると聞いて、嘲り笑った。
 ところが、梁彦光は赴任すると、姦人達をびしびし摘発した。まるで神のように明察で、とうとう狡猾な人間達は、なりを潜めてしまった。そうなってから、梁彦光は有名な儒学者を大勢招き、郷ごとに学校を建て、自ら試験の場へ臨んで勉める者を褒め怠ける者を叱咤した。やがて、風俗は大きく変わり、官吏も民も大いに悦び、訴訟事もなくなってしまった。
 新豊県令の房恭懿も、政治が行き届いているので、文帝から粟帛を賜った。そして、ヨウ州の諸県令の前で、民を統治するやり方を諮問した。房恭懿は、徳州司馬まで出世し、最後には海州刺史に抜擢された。
 このようなことが続いたので、州県の官吏には誠実な人間が増え、民は富み栄えた。 

 この歳、文帝は、境内の民が出家することを許可し、随所に仏像を建てた。これによって仏教が流行し、民間に流布する経文は、六経の十倍百倍にも及んだ。 

  

藩塀設置 

 十四年、正月。ヘイ州に河北道行台を設置し、晋王楊廣を尚書令とする。益州に西南道行台を設置し、蜀王楊秀を尚書令とする。
 文帝が簒奪した時、北周には頼りになる藩塀がなかったので、何の抗戦も起こらなかった。文帝はこれを反面教師として、いざとゆう時に挙兵できる外藩を造ろうと考えたのだ。
 二人の皇子はまだ幼かったので、文帝は頼りになる補佐役を選んだ。霊州刺史王韶をヘイ省右僕射、鴻臚卿李雄を兵部尚書、左武衛将軍李徹を総晋王府軍事、兵部尚書元巖を益州総管府長史とする。王韶、李雄、元巖は、共に硬骨漢として有名であり、李徹は北周時の旧将で、吐谷渾征伐や北斉平定時に功績があった。
 李雄は代々学問に精通した家柄だったが、彼一人騎射に励んでいた。ある時、兄の李子旦がそれを詰った。
「騎射など、士大夫のやることではない。」
 すると、李雄は言い返した。
「古来より聖賢は、文武が揃ってこそ功業を成し遂げられたのです。雄は不才ですが、書を読んだ時、上辺だけに捕らわれたりはしません。既に学問を修め、更に武芸に励むのですよ。兄上は何を気になさるのですか!」
 ヘイ州へ赴くとき、文帝は李雄へ言った。
「我が子はまだ未熟者だが、卿は文武両道だ。北方に憂いはない。」
 晋王や蜀王が放棄以上の贅沢を欲しても、王韶や元巖が許さなかった。彼等は自ら鎖に繋がったり徹底的に食い下がったりして切に諫めた。だから、二王は彼等を非常に憚り、どんなことも彼等に諮問してから行うようになり、敢えて法規を破ろうともしなくなった。文帝は、これを聞いて彼等を賞した。
(胡三省、曰く。隋の文帝は、子息の補佐役に優れた人材を選んだ。子息の教育には、非常に心を配ったと言える。それなのに、二人ともあのようになってしまった。これは何故だろうか?けだし、中人以下の人格は、厳しくしつけても、一度放縦を覚えたら元へは戻らないものなのだ。)
 又、秦王俊を河南道行台尚書令、洛州刺史として、関東の兵を指揮させた。
 この歳、晋王へ、後梁主の娘を娶らせた。 

  

遷都 

 文帝は、長安城を嫌っていた。狭い上に、宮内に妖異が多かったからだ。納言の蘇威は遷都を勧めたが、文帝は受禅したばかりだから慎重になっていた。
 ある夜、蘇威は高穎と協議した。翌日、通直散騎ユ秀才が上奏した。
「臣が乾象ゆ図記を見ますに、必ずや遷都が行われます。それに、この城は漢代に造られてから、既に八百年経って古びております。水は塩辛く、飲料には不適。どうか陛下、万民の為にも遷都をお考えください。」
 文帝は愕然として蘇威と高穎へ言った。
「これが御神託か!」
 太師の李穆もまた、上表して遷都を勧めた。それを読んで文帝は言った。
「聡明な天道でさえ、既に兆しを見せた。その上、人望ある太師さえ請願する。これなら大丈夫だ。」
 こうして、龍首山へ新都を造営すると詔した。太子左庶子の宇文豈(「心/豈」)が気が利いているので、彼を領営新都副監とした。
 新都を、”大興城”と命名した。
 至徳元年(583年)三月、遷都する。
 四月、度支尚書を民部、都官尚書を刑部と改称した。また、左僕射に吏、礼、兵の三部事を任せ、右僕射には民、刑、工の三部故地を任せた。光禄、衞尉、鴻臚寺及び都水台を廃止する。
 五月、後梁の使者が入朝して、遷都を祝賀した。 

  

学問 

 至徳元年(583年)三月、秘書監の牛弘が上表した。
「幾度もの戦乱を経て、典籍が散佚してしまいました。周氏がかき集めた書は、僅かに万巻のみ。斉を平定した時に、重複を除いて五千巻ほど増加しました。典籍の興集は、聖世にしかできませんし、国の大本としてこれ以上大切な物はありません。これらが私家へばらまかれ放しで王府が空っぽのままなど、とんでも無いことでございます!どうか、国家で率先して蒐集されてください。」
 文帝は頷き、詔を出して広く天下から遺書を求めた。書一巻献上するごとに、絹一匹を賜下する。 

  

地方再編 

 至徳元年十月、河南道行台省を廃止して、秦王を秦州総管とし、隴右の諸州を悉くその指揮下へ入れた。
 同月、河南道行台兵部尚書の揚尚希が言った。
「今の郡県は、古来の倍に増えております。中には、百里の間に数県が並んでいたり、千戸の土地が二郡に別れていたりする始末です。官僚が多ければ、官費も増大します。官吏や兵卒が倍増しましたので、租や調も年々減少しています。全く、民が少なく官が多いのは、十匹の羊を九人で飼っているような有様。小さい郡県を合併して大きくすれば、国費を節約できますし、有能な長官も見つけ易くなります。」
 蘇威も又、郡の廃止を請願した。
 十一月、文帝は諸郡をなくして、全て州とした。
 十二月、長安の官庫が空っぽだったので、西は蒲、陜から東は衛、ベンに至るまでの十三州から、水路で米を運び込ませた。また、衛州に黎陽倉、陜州に常平倉、華州に廣通倉を設置して、穀物を運び込んだ。 

  

柳イク  

 至徳元年十二月、上柱国の竇栄定を右武衛大将軍とした。
 竇栄定の妻は、文帝の姉の安成公主である。文帝は、彼を三公へしたがったのだが、竇栄定は言った。
「漢の衛氏や霍氏、後漢の梁氏など、もう少しひかえておれば、一族誅殺になどされなかったでしょうのに。」
 それを聞いて、文帝は三公を思い止まった。
 この頃、刺史の多くは武将上がりの人間で、治政は評判の悪い者も居た。治書侍御史の柳イクが上表した。
「昔、漢の光武帝は二十八将と共に天下を平定しましたが、その後、将軍達を刺史に任命いたしませんでした。今、詔を見ますと、上柱国の和千子が杞州刺史に任命されております。しかし、彼の前任地の趙州では、次のように歌われています。『老を早く殺さなければ、その種が良田を穢す。』と。和千子は、弓馬の技こそ得意ですが、民を治めるのはへたくそです。その上、既に老齢でもあります。金帛を与えて隠居させては如何でしょうか。もしも刺史としたら、その被害は甚大です。」
 文帝はこれを善として、和千子を罷免した。
 また、柳イクは、文帝が細かいことまで自分で裁断しているのを見て、細務は臣下へ委譲するよう諫めた。文帝は、これも大いに嘉した。
 この頃、正月の十五日に灯籠を川へ流して遊ぶのが流行っていた。柳イクは、これについても上表した。
「密かに京邑やその近辺を見ますに、正月の十五夜になりますと、人々は町中に溢れ返って遊びまくります。太鼓は天をどよめかせ、篝火は地を照らす有様。庶民は、たとえ破産しようとも、この一時に競い合います。人々は入り交じり貴賤も男女も区別無し。この為に穢行が習いとなり、盗賊もこれを機会に起こります。これが更に風俗を疲弊させれば、行き着く先はおぼつきません。風化には益がなく、民を損なうばかりです。どうか、天下へ対して、このような愚行を禁じてください。」
 これに従って詔が降りた。 

  

治水 

 渭水は、川底の砂が多く、水深がしょっちゅう変わっていたので、船頭達は苦労していた。至徳二年六月、文帝はこれの治水を命じた。水工達に溝を掘らせて、渭水へ水を引き入れる。その濠は、大興城から潼関まで三百里に及んだ。これによって水運が便利になり、関内の人々は大いに利用した。
 禎明元年(587年)には、揚州の山陽涜が開通した。 

  

浮薄を嫌って 

 至徳二年九月、関中が飢饉になったので、文帝は洛陽へ御幸した。
 文帝は、華麗な詞が嫌いだったので、公文書は実録のみを書くよう詔を出した。泗州刺史司馬幼之は、華麗な文章を書いたので、罪に落とされた。
 治書侍御史の李諤が上書した。
「魏の曹操や曹ヒは文詞を尚びました。これは君人の大道を棄てて取るに足らない小芸を喜ぶようなものですが、下の者もそれに倣い、遂には風俗を成しました。陳や斉、梁ではその弊害は特に甚だしいものがあります。 彼等は一韻の奇を競い、一字の巧を争い、文章は山のようになっていますが、内実は空虚なものです。しかし、世俗の人間はこれを高尚と褒め、朝廷ではこのような能力で士を抜擢しています。そして、既に禄が伴ってしまえば、愛尚の情はいよいよ篤くなります。こうして、巷の童僕から王公の子弟まで、聖人の教えを学ぶより先に五言詩を作るようになり、堯、シュン、禹の聖典や伊、傅、周、孔の説になど見向きもしません。彼等は、傲誕と清虚を混同し、儒家の文を古くさくて稚拙だと馬鹿にし、詞賦を君子の技と評しております。だから、文筆は日々華麗になり、政治は日々乱れ、聖人の道は棄てられ、無用のものが持てはやされるのです。
 今回、朝廷はこのような詔を出しましたが、遠方の地方の実体を聞けば、この弊風へ向かっている様子。仁孝を行うものは零落し、巧言令色の輩が吏職に選ばれ、彼等の仕事が天朝へ送られる。つまり、刺史や県令は風教を遵守していないのです。どうかこれへ明察を加え、推薦弾劾を行ってください。」
 また、上言する。
「戦功に驕って廉恥をなくした士・大夫には明確な罰黜を与え、懲らしてください。」
 文帝は、李諤の二度の上奏文を詔として四方へ頒示した。 

  

義倉 

 度支尚書長孫平が上奏した。
「凶年に備えるため、毎秋、民から粟や麦を徴集し、官庫に保管しましょう。徴集量は、一家あたり一石以下で、貧富によって差を付けます。この倉は、『義倉』と名付けましょう。
 文帝は、これに従った。
 五月、郡、県へ義倉を置くよう詔する。
 この頃、民は年を誤魔化して、成人を老人や子供とゆうことにして賦役を免れようとしていた。特に山東は、北斉の暴虐な政治の余弊で、戸籍の誤魔化しが一番酷かった。文帝は、州県へ徹底した実情調査を命じた。戸籍に不正が在れば、里正や党長が罰を受けた。(隋の制度では、五家を保とし、保毎に長を置く。五保を閭とし、四閭を族とし、それぞれ正を置く。畿外には里正が置かれるが、これは閭正であり、党長は族正である。)この連座制によって摘発が進み、百六十四万余口増加した。 

  

 禎明元年(587年)、三月。洛陽の男子高徳が上書して、文帝が太上皇となって皇太子を即位させるよう請願した。だが、文帝は言った。
「朕は天命を承って民を撫育しているのだ。その重責を思えば、日夜勉めても、なお足りないことを恐れている。近代の帝王達は、自分が安楽に遊びたいばかりに、皇太子に即位させたのだ。その様な真似が、なんでできようか!」
 八月、李穆が卒した。 

  

 閏月、太子の勇へ洛陽の鎮守を命じた。 

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