碩眞 

  

 睦州の女子陳碩眞が妖言で衆を惑わし、妹婿の章叔胤と挙兵して造反した。文佳皇帝と自称し、叔胤を僕射とする。
 永徽四年、(653年)九月甲子夜、叔胤が衆を率いて桐廬を攻めて、これを陥れた。
 碩眞は鐘を撞いて香を焚き、兵二千を率いて睦州及び於潜を攻め落とした。進んで歙州を攻めたが、勝てなかった。
 揚州刺史房仁裕へ、兵を発してこれを討つよう敕が降りた。
 碩眞はその党の童文寶へ四千の兵を与え、○州を攻撃させた。州刺史の崔義玄は兵を発して拒戦する。
 民間では、「碩眞には神がついており、その兵を犯す者は必ず一族が亡ぶ。」とゆう噂がまことしやかに流れ、士衆は恐れおののいた。司功参軍の崔玄籍が言った。
「起兵は、順に依ってさえ、なお失敗することがあるのだ。ましてや妖妄に憑かれているのなら、長くはないぞ!」
 義玄は玄籍を前鋒とし、自ら州兵を率いて後続となった。下進戍にて賊軍と遭遇し、戦う。左右が楯で義玄を隠すと、義玄は言った。
「刺史が矢を避けたら、誰が命を掛けてくれるか!」
 これを撤廃させた。
 ここにおいて士卒は奮い立ち、賊衆は大いに潰れ、数千の首を斬られた。その余は降伏した。
 義玄軍が睦州の境まで進軍すると、降伏する者は万を数えた。
 十一月庚戌。義玄は房仁裕軍と合流し、碩眞と叔胤を捕らえ、これを斬った。余党は悉く平定した。義玄は、この功績で御史大夫を拝受した。 

(胡三省、曰く。御史大夫は天子の耳目だ。功績で与えるべき官職ではない。後に義玄は中宮の旨を承って長孫無忌等を逮捕した。これは、そのつけが回ってきたのだ。) 

元へ戻す