爾朱氏の乱   爾朱氏の乱
 
暗殺 

 城陽王徽の妃は、孝荘帝の舅の娘だった。侍中の李イクは、孝荘帝の姉婿である。城陽王と李イクは、孝荘帝の寵臣になりたがったので、爾朱栄から殺害されることを懼れ、日々、皇帝へ爾朱栄の悪口を吹き込んで、彼を処分するよう勧めていた。又、孝荘帝も河陰の暴虐に懲りていた。このまま放置すれば、爾朱栄は必ず簒奪するに違いない。
 そうゆうわけで、彼等は爾朱栄を除こうと考え、侍中の楊侃、尚書右僕射の元羅を巻き込んで、陰謀を巡らせた。
 やがて、爾朱栄が朝廷への参内を請うた。皇后の産んだ子供を見たいとゆうのだ。城陽王等は、これを好機と見て、暗殺するよう孝荘帝へ勧めた。だが、膠東侯李侃晞と済陰王暉業が言った。
「爾朱栄が入朝するのなら、きっとそれなりの準備をしている筈です。失敗しては目も当てられませんぞ。」
 孝荘帝は、武衛将軍の奚毅を重んじていたが、彼は爾朱栄からも親信されていたので、彼とは距離を置いていた。すると、奚毅は言った。
「もしも変事が起こったら、陛下の為に死んで見せます。なんで契胡の下でノウノウと生を貪れましょうか。」
 すると、孝荘帝は言った。
「朕には、天柱将軍を謀る気はない。しかし、将軍の忠誠は忘れないぞ。」 

 爾朱世隆は、孝荘帝が爾朱栄を暗殺するのではないかと心配していた。そんな中、彼の門に、次のような文章が書かれた板が張り出された。
「天子は、楊侃や高道穆等と共に、天柱将軍を暗殺しようとしている。」
 実は、これは爾朱世隆が書かせたものだった。彼はこれを爾朱栄のもとへ届けた。だが、爾朱栄は自分の兵力に自信があったので、意にも介さず、この板をへし折り、唾を吐き棄てた。
「爾朱世隆の臆病者が!こんな事があるものか!」
 爾朱栄の妻の北郷長公主も又、入朝しないよう勧めたが、爾朱栄は聞かなかった。
 八月、爾朱栄は五千騎を率いてヘイ州を出発した。すると、人々は噂した。
「爾朱栄が造反したぞ。」
「いやいや、天子が必ず爾朱栄を暗殺する。」
 九月、爾朱栄は洛陽へ入った。孝荘帝は、爾朱栄を殺したかったが、太宰の元天穆がヘイ州に残っていたので、後患を恐れて我慢した。その代わり、元天穆へも入朝するよう召集した。
 ある人が、爾朱栄へ密告した。
「陛下は、将軍を暗殺するつもりです。」
 そこで、爾朱栄が真偽を質すと、孝荘帝は答えた。
「朕のもとへは、将軍が朕の暗殺を企てているとゆう密告が、次々と入るのだ。こんなもの、どうして一々信じられようか!」
 それを聞いて、爾朱栄はすっかり安心した。以来、謁見する時にも従者を数十人しか率いなくなる。しかも、皆、手ぶらだった。其の有様に、孝荘帝は暗殺を中止したくなったが、城陽王は言った。
「たとえ、奴が造反しなくても、過去の罪業を我慢できません。ましてや、奴は絶対造反します。」
 これより少し前、中台に彗星が現れ、その尾が大角を掃いていた。高栄祖が天文に精通していたので爾朱栄がこれを尋ねると、高栄祖は答えた。
「旧い者が倒れ、新しい秩序が生まれる象です。」
 爾朱栄は大いに喜んだ。
 爾朱栄が洛陽へ到着すると、行台郎中の李顕和が言った。
「天柱将軍がせっかくやって来たのに、九錫を賜下されなかったなら、探して持ち出しましょう。天子がご時世を無視するのが悪いのです。」
 都督の郭羅察は言った。
「今年は、禅譲文を作りましょう。たかが九錫など、小さい小さい。」
 参軍の楮光は言った。
「ヘイ州城の上に、紫の雲気が立ち上ったそうです。天柱将軍は、天の啓示に逆らわれますのか!」
 爾朱栄麾下の人間は、皆、皇帝の左右を侮蔑していた。だから、これらの事も全て孝荘帝の耳へ入った。
 奚毅が、孝荘帝へ人払いを願ったので、帝は、明光殿にて共に語り、彼の至誠に感じ入った。そこで、城陽王、楊侃、李イクを召し出して、奚毅と語らせた。
 爾朱栄の末娘は、孝荘帝の甥の陳留王寛へ嫁いでいた。爾朱栄は、彼を指さしていった。
「我は、いずれ婿殿の力を借りるだろう。」
 城陽王が孝荘帝へ言った。
「爾朱栄は、やがて陛下が邪魔になると考えています。もしも皇后が皇子を生まなければ、必ず陳留王が立てられるでしょう。」
 戊子、元天穆が洛陽へ到着した。孝荘帝は、自ら出迎えた。爾朱栄と元天穆は、並んで西林園へ入り、宴射を催した。この席で、爾朱栄は上奏した。
「最近、侍官質が、武芸を習わなくなりました。陛下は、五百騎ほど率いて狩猟をなさるべきでございます。」
 ところが、奚毅が前もって孝荘帝へ言っていた。
「爾朱栄は、狩猟にかこつけて陛下を外へ連れ出し、遷都を敢行しかねません。」
 果たして爾朱栄がこのように言ったので、孝荘帝はますます猜疑した。
 辛卯、孝荘帝は中書舎人の温子昇を呼び出して、爾朱栄暗殺を告げた。そして、かつて菫卓が殺された事件について尋ねたところ、温子昇は事の顛末を具に述べた。すると、孝荘帝は言った。
「菫卓を殺した後、もしも、王允が菫卓麾下の涼州人達を赦免したならば、そのような結果にはならなかっただろうのに。」
 ややあって、温子昇へ言った。
「朕の情理はつぶさに述べた。例え殺されるとも、やらねばならぬ。ましてや、必ず殺されるとは限らないのだ。常道郷公となって生きるくらいなら、高貴郷公として死んで見せよう!」(魏で司馬氏が台頭した時、高貴郷公は司馬昭を誅殺しようとしたが、失敗して殺された。常道郷公は、晋へ禅譲して生き延びた。)
 そして、爾朱栄と元天穆のみを殺し、それ以外の党類は赦すと言ったが、誰も動こうとしない。王道習が言った。
「爾朱世隆、司馬子如、朱元龍は爾朱栄の手足となっており、天下の虚実を知り尽くしております。放置するのは良くありません。」
 城陽王や楊侃も言った。
「もしも爾朱世隆も死んだなら、爾朱仲遠や爾朱天光も、きっと復讐を諦めますぞ!」
 孝荘帝は同意した。城陽王は言った。
「爾朱栄は、腰に刀を帯びております。追い詰められて逆上することもありますので、陛下はすぐにご避難ください。」
 そして、楊侃等十余人を明光殿の東へ伏せた。
 その日、爾朱栄と元天穆が並んで入朝した。しかし、彼等はすぐに退出した。楊侃等が東階から上殿した時には、二人とも既に中庭へ出ていたので、事が果たせなかった。
 翌日は、孝荘帝の忌日だった。翌々日は、爾朱栄の忌日だった。
 甲午、爾朱栄は入朝したが、すぐに陳留王の家へ行き、痛飲した。そして病気と称して、しばらく入朝しなかった。
 孝荘帝の陰謀が漏洩し、爾朱世隆はこれを爾朱栄へ告げ、併せて、早く洛陽から出るように勧めた。しかし、爾朱栄は孝荘帝を軽視しており、朝臣共には何もできないと多寡を括って、言った。
「今直ぐ出発など、慌ただしすぎるぞ!」
 孝荘帝と陰謀を巡らせていた者は、皆、恐れた。すると、城陽王が言った。
「太子が生まれたと宣伝しましょう。そうすれば、爾朱栄は必ず入朝しますから、そこで殺すのです。」
「だが、后はまだ懐妊九ヶ月だぞ。あり得るか?」
「夫人が早産した例は数多くあります。奴は疑いますまい。」
 そこで、孝荘帝はこれに従った。
 戊戌、孝荘帝は明光殿の東序へ兵を伏せ、皇子が生まれたと宣伝した。そして、城陽王を爾朱栄の屋敷へ派遣して、これを告げた。
 その時、爾朱栄は元天穆と共に博で遊んでいた。城陽王は爾朱栄の帽子を脱がせてグルグル輪舞した。これは夷の礼儀である。そこへ、殿内の文武官が次々と駆けつけてきたので、爾朱栄は信じ込み、元天穆と共に入朝した。
 爾朱栄が来たと聞いて、孝荘帝の顔色が、思わず変わった。温子昇がそれを指摘すると、孝荘帝は即座に酒を持ってこさせて、これを飲み、顔色が変わったことを酒のせいと誤魔化した。又、酒によって肝も据わったことだろう。
 孝荘帝は、温子昇へ赦文を作らせた。温子昇がそれを書き上げて持って出ると、入って来た爾朱栄とバッタリ出くわした。温子昇が文書を持っていたので、爾朱栄は尋ねた。
「それはなんの文書かな?」
 温子昇は平然自若として言った。
「敕です。」
 爾朱栄は、それを見ようともしないで入室した。
 孝荘帝は、東序の下で、西向きに座っていた。爾朱栄と元天穆は、御榻の西北に、南向きで座った。やがて城陽王が入ってきて、拝礼した。すると、今度は光禄少卿の魯安と典御の李侃晞等が帯刀して入ってきた。それを見た爾朱栄は、孝荘帝の方へ逃げたが、帝は膝の上に置いていた刀で、爾朱栄に斬りつけた。そこへ魯安等がめった切りに斬りつけ、爾朱栄も元天穆も殺された。
 爾朱栄の子息の爾朱菩提と車騎将軍爾朱陽観等三十人が、爾朱栄に従って入宮していたが、彼等も伏兵に殺された。
 孝荘帝は、爾朱栄が書いた版木を入手した。これには、粛清する予定だった帝の側近達の名前が羅列してあり、爾朱栄の腹心以外全員排斥する心づもりが歴然としていた。これを見て、孝荘帝は言った。
「もしも、今日、豎子を粛清しなかったら、遂には制圧できなくなってしまっていたな。」
 ここにおいて、内外は狂喜し、歓声は洛陽城内に満ち満ちた。
 百僚は、入宮して賀した。孝荘帝は、昌闔門に登り、大赦を下した。また、奚毅と先の燕州刺史崔淵を北中へ派遣して、ここを鎮守させた。
 この夜、北郷長公主は、爾朱栄の部曲を率いて西陽門を焼き、河陰へ逃げた。
 衛将軍の賀抜勝と、爾朱栄の党類の田怡等は、爾朱栄が処刑されたと聞いて、爾朱栄の屋敷へ駆けつけた。田怡等は門を攻撃しようと言ったが、賀抜勝はこれを止めた。
「既に、天子が大事を行ったのだ。必ず備えがある筈。我等の兵力は少ない。なんで軽挙ができようか!とにかく城から逃げ出そう。それ以外にない。」
 そこで、田怡は思い留まった。
 爾朱世隆が逃げ出す時、賀抜勝は従わなかったので、孝荘帝はこれを大いに嘉した。
 朱瑞は、爾朱栄から派遣された人間だったが、朝廷との間を良く取り持っていたので、孝荘帝から気に入られていた。そこで彼は、一旦は爾朱世隆に従って逃げだしたものの、途中で抜け出して、洛陽へ戻ってきた。
 爾朱栄は、金紫光禄大夫の司馬子如と仲が善かった。爾朱栄が死ぬと、司馬子如は宮中から逃げだし、爾朱栄の屋敷へ逃げ込んだ。そして自分の家族を棄てて、爾朱栄の妻子と共に、洛陽から逃げだした。爾朱世隆が北へ帰ろうとすると、司馬子如は言った。
「兵卒は、騙すのが一番。今、天下は兢々として、誰に従えば善いかを見つめています。このような時に、弱味を見せてはいけません。もしも北へ逃げたなら、途中で兵卒達が造反します。ここは、兵を分けて一隊は河橋を守り、もう一隊は軍を返して京師へ向かうのです。敵の不意を衝けば、成功するかも知れません。仮に失敗しても、余力があるところを示せば、天下は我等の強を畏れ、造反や離散する者は出ないでしょう。」
 爾朱世隆は、これに従った。
 己亥、爾朱世隆軍は河橋を攻撃した。奚毅を捕らえて殺し、北中へ據る。魏の朝廷は大いに懼れ、華陽太守段育を使者として派遣し慰諭したが、爾朱世隆はこれの首を斬った。
 魏は、ヨウ州刺史爾朱天光を侍中、儀同三司とした。司空の楊津を都督、ヘイ・肆等九州諸軍事、驃騎大将軍として、尚書令・北道行台も兼務の上、河・汾地方を経略させた。 

 爾朱栄は、入洛する時、高敖曹を率いていた。爾朱栄が死んだ後、孝荘帝は彼を謁見した。兄の高乾が、東冀州から洛陽へ駆けつけて来たので、孝荘帝は彼を河北大使とし、高敖曹を直閣将軍とした。その上で、この兄弟を故郷へ帰し、義勇軍を結成させた。 

  

弔い合戦 

 十月、爾朱世隆のもとから、爾朱拂律帰が胡騎千騎を率いて洛陽へやって来た。皆、白服を着ている。郭下まで来ると、彼等は太原王の屍を求めた。
 孝荘帝は、これを大夏門から見下ろし、主書の牛法尚を派遣した。
「太原王は、造反を企てて失敗した。王法は必ず行い、親しいからと言って赦してはならぬのだ。だから、王を誅殺したが、その罪は爾朱栄ただ独りにしかない。他の者は、一切罪には問わぬ。卿等がもしも降伏するなら、従来の官職へ復帰させよう。」
 すると、爾朱拂律帰は言った。
「臣等は太原王の従者として入朝しましたが、太原王は冤罪を受け、誅殺されました。今、このまま帰るに忍びません。どうか太原王の屍をください。そうすれば、例え殺されても恨みはありません。」
 そう言うと、泣き出した。居並ぶ胡人達も慟哭し、その泣き声は城邑を震わせた。
 孝荘帝も、胸を悼め、侍中の朱瑞を派遣して、爾朱世隆へ鉄券を賜下した。すると、爾朱世隆は朱瑞へ言った。
「太原王の功績は天地のように偉大で、真心から御国へ尽くした。それなのに、長楽王は信誓を踏みにじり、あのような凶行を加えてしまった。そんな男から鉄券を貰ったところで、信じられるか!我等は太原王の復讐を遂げなければ、降伏などしないぞ!」
 朱瑞は、宮城へ帰って、孝荘帝へ復命した。そこで帝は、官庫から財宝を持ち出して、決死隊を募った。たちまち万余の兵卒が応募したので、郭外にて爾朱拂律帰軍と戦った。だが、戦争の中で生きていた爾朱拂律帰の軍卒と違って、洛陽の人間は戦闘に習熟していない。屡々戦ったが、勝てなかった。
 甲辰、前の車騎大将軍李叔仁を大都督にして、爾朱世隆攻撃を命じた。
 戊申、皇子が生まれ、大赦が降った。中書令魏蘭根に尚書左僕射を兼務させ、河北行台とした。定、相、殷の三州を彼の指揮下へ入れる。 

 爾朱氏の軍団は、なおも城下にいた。孝荘帝は朝臣を集めて会議を開いたが、皆、恐れて為す術を知らない。すると、通直散騎常侍李苗が奮起して言った。
「小賊が暴れ回り、朝廷に不測の憂いがある。今こそ、忠臣烈士が節義を奮うべき時だ。臣は武人ではないが、一軍を与えてくださったなら、陛下の御為に、河橋を断って見せましょう。」
 城陽王も高道穆も同意したので、孝荘帝はこれを許した。
 乙卯、李苗は馬渚から流れに乗って川を下り、河橋の数里手前で舟に火を付け、河橋を焼き払った。河の南岸に居た賊兵は、争うように北へ向かって橋を渡ったが、途中で橋が燃え落ちて、大勢の兵卒が溺死した。
 李苗は百人ばかりで小渚へ留まって南からの援軍を待ったが、官軍は来ない。そのうち、賊軍が攻撃してきて、全滅した。李苗は、水へ飛び込んで死んだ。
 孝荘帝は、李苗の死を悼み、彼へ車騎大将軍、儀同三司を追贈し、河陽侯へ封じた。忠烈と諡する。
 爾朱世隆は、兵を収めて北へ逃げた。
 丙辰、行台の源子恭へ、一万の兵力で西道へ出るよう詔が降った。楊cへは、八千の募兵を率いて東道へ出させる。源子恭は丹谷へ塁を築いた。
 爾朱世隆は建州へ到着した。刺史の陸希質は城門を閉ざして防いだ。だが、爾朱世隆はこれを抜き、怒りに任せて城中の人間を皆殺しにした。ただ、陸希質のみ、逃げ延びた。
 前の東荊州刺史元顕恭を晋州刺史とし、兼尚書左僕射、西道行台を兼任させる。 

 爾朱栄が死んだとゆうニュースは、中国中に伝わった。
 魏の東徐州刺史廣牧斛斯椿は、爾朱栄に媚びていたので、大いに懼れた。その頃、梁の汝南王悦が国境上まで来ていたので、廣牧斛斯椿は部衆を率い、州を棄てて汝南王へ帰順した。 

  

 抗戦 

 汾州刺史爾朱兆は、兵を率いて晋陽へ赴いた。長子にて、爾朱世隆と合流する。
 壬申、賊軍は太原太守の長廣王曄を推して皇帝に即けた。大赦を下し、建明と改元する。長廣王曄は、中山王英の甥である。
 長廣王曄は、爾朱兆を大将軍として、王へ進爵させた。爾朱世隆は尚書令となり、楽平王の爵位を賜り、太傅、司州刺史を加えられた。又、爾朱栄の従弟の爾朱度律を太尉とし、常山王とする。爾朱世隆の兄の爾朱彦伯を侍中とする。徐州刺史爾朱仲遠を車騎大将軍とした。爾朱仲遠は起兵して洛陽へ向かう。
 さて、爾朱天光が平涼を平定した時、宿勤明達が降伏してきたが、やがて造反して北へ逃げた。 爾朱天光は賀抜岳に追撃させたが、宿勤明達は東夏まで逃げた。
 この時、賀抜岳は爾朱栄の死去を知り、深追いしないで引き返し、ケイ州にて爾朱天光を待った。爾朱天光と侯莫陳悦は、賀抜岳と共に洛陽へ向かった。
 孝荘帝は、朱瑞を派遣し、爾朱天光を諭した。爾朱天光は賀抜岳と謀り、孝荘帝を追放して別の人間を皇帝に立てようと計画した。そこで、彼は朱瑞へ言った。
「臣には異心はございません。ただ、陛下の竜顔を拝し奉り、宗門の罪を謝罪させてください。」
 しかし、自分の部下に密告させた。
爾朱天光は密かに造反を考えております。どうか備えを固めてください。」
 孝荘帝は爾朱天光を王とした。すると、長廣王は爾朱天光を隴西王にした。 

 平州刺史侯淵は爾朱栄の為に起兵し、南へ向かった。中山にて、魏蘭根が攻撃したが、敗北した。
 孝荘帝は、魏蘭根の行台を罷免し、定州刺史薛曇尚を北道行台とした。 

  

内患 

 孝荘帝は、城陽王に大司馬、録尚書事を兼任させ、内外を統率させた。
 城陽王は、爾朱栄さえ殺せば、枝葉が自然と枯れるように賊軍は自ら瓦解すると思っていたのだが、実際には爾朱世隆等が四方で起兵し、賊軍の勢力は日々盛んになって行く。城陽王は懼れ、為す術を知らなかった。
 城陽王は嫉妬深く、他人の手柄を喜ばない。だから、いつも単独で帝と謀り、他人の献策は全て却下させた。
「小賊など、畏れるに足りんぞ!」
 また、散財を惜しみ、恩賞は少ない。或いは多くても途中で削ったり取り返したりした。だから、朝恩に感じる者はいなかった。
 十一月、孝荘帝は車騎将軍鄭先護を大都督とし、楊cと共に爾朱仲遠を討伐するよう命じた。 爾朱仲遠は西コン州を攻撃し、刺史の王衍を捕らえた。孝荘帝は、鄭先護と賀抜勝にこれを迎撃させた。だが、鄭先護は賀抜勝を疑い、軍営の外へ置いた。
 賀抜勝は滑台の東で爾朱仲遠と戦ったが、敗北。爾朱仲遠へ降伏した。 

  

高歓 

 話はさかのぼるが、ある時、爾朱栄が側近との歓談中に言った。
「もしも我が居なければ、誰を軍主にすればよい?」
 皆は爾朱兆と答えたが、爾朱栄は言った。
「爾朱兆は、戦争の時には勇敢だが、三千騎を率いるのが精一杯だ。それ以上の部下を指揮すると、乱れる。我に代わって指揮が執れるのは、賀六渾(高歓)だけだ。」
 そして、爾朱兆を戒めた。
「分を弁えなければ、遂には人に捕らえられてしまうぞ。」
 そして、高歓を晋州刺史とした。
 今回、爾朱兆は兵を率いて洛陽へ向かったが、その一方、高歓のもとへ使者を派遣して、召し出した。すると、高歓は長史の孫騰を、爾朱兆のもとへ派遣して言った。
「汾晋がまだ平定できていないのです。今、ここを去ったなら、後方に憂いが残ります。ここを平定してしまえば、河を隔ててキカクの勢を張りましょう。」
 爾朱兆は不機嫌になって、言った。
「帰って、高晋州へ伝えろ。我は吉夢を見た。神と共に丘へ登る夢だ。丘の周りには穀物が熟していたが、一株だけ雑草が生えていた。神は、我にその雑草を抜くよう命じたが、我が手を伸ばすと、雑草はスルリと抜けたのだ。この夢から判じるに、戦えば負け知らずに決まっている。」
 孫騰が帰ってこれを告げると、高歓は言った。
「そんな馬鹿げたことを言う人間が、悖逆を考えている。これでは我は、爾朱氏に仕え続けることはできぬな。」 

  

天佑 

 十二月、爾朱兆は丹谷を攻撃した。都督の崔伯鳳は戦死。史午龍が城門を開いて降伏したので源子恭は逃げ出した。
 爾朱兆は、馬足を早めて河橋へ行き、河を渡った。
 黄河は深くて広い。孝荘帝は、賊軍が川を渡れるはずがないと思っていたが、この日の黄河は、馬の腹までの深さもなかった。
 甲辰、暴風が吹き荒れ、黄砂が天を覆った。爾朱兆の騎兵が宮門を叩いたので、宿衛は敵の来襲を知った。しかし、この天候では弓を射ることもできない。宿衛は、戦いもせずに逃げ散った。
 さて、華山王鷙は、斤の玄孫である。彼は、もともと爾朱氏に靡いていた。爾朱兆の南下を聞いた孝荘帝は、親征を言い出したが、華山王が説得した。
「黄河は天険。爾朱兆は渡れません。」
 それを聞いて、孝荘帝は安心した。
 今回、爾朱兆が入宮したが、華山王は、衛兵を止めて戦わせなかった。
 孝荘帝が雲龍門の外へ出ると、城陽王が馬に乗って駆けていった。帝は何度も彼を呼んだが、城陽王は振り返らずに逃げ去った。
 爾朱兆は、孝荘帝を捕らえ、永寧寺の楼上に鎖で繋いだ。そこはとても寒かったので、孝荘帝は頭巾を求めたが、与えられなかった。
 爾朱兆は、尚書省を本陣にした。天子の金鼓を用い、庭には水時計を作った。皇子を撲殺し、後宮の女性達を犯しまくる。兵卒達には大いに略奪させ、司空の臨淮王イクや尚書左僕射の范陽王誨、青州刺史李延寔等を殺した。
 城陽王は、山南へ逃げ、前の洛陽令寇祖仁を頼った。寇祖仁は、一門から三人の刺史を輩出していたが、それは全て城陽王の抜擢だった。だから、彼は寇祖仁の家へ逃げ込んだのだ。
 城陽王は、百斤の金と五十匹の馬を連れていた。寇祖仁は、その財宝に目が眩み、上辺は彼を匿ったけれども、子弟達へ言った。
「爾朱兆は、城陽王へ千戸侯の懸賞を掛けたぞ。これで我等も富貴になれる!」
 屋敷内で引き渡すのは体裁が悪かったので、追捕が来たと城陽王へ伝え、他へ逃がすと言いながら、その途中、刺客を出して殺した。首を爾朱兆へ送ったが、爾朱兆は懸賞金を与えなかった。
 この頃、爾朱兆は夢で城陽王と遭った。彼は言った。
「我が財産の金二百斤と馬百匹が、寇祖仁の家にある。卿はこれを取るが良い。」
 夢から覚めて、正夢としか思えなかった。そこで寇祖仁を捕らえて、金と馬を求めた。
 寇祖仁は言った。
金百斤と馬五十匹を奪いました。」
 しかし、爾朱兆は、まだ隠していると思った。夢で聞いた数字を証拠にして、寇祖仁の屋敷を探させる。寇祖仁は、もともと金三十斤と馬三十匹を持っていた。これらも全て爾朱兆のもとへ送られた。だが、爾朱兆はまだ納得せず、寇祖仁を拷問にかけた。寇祖仁は、責め殺された。
 爾朱世隆も洛陽へ入った。爾朱兆は自分の手柄と言いたて、爾朱世隆を責めた。
「叔父は長い間朝廷におり、情報も沢山集められただろうに、何で天柱将軍を救けられなかったのだ!」
 剣を手にして目を怒らせ、声も荒らげていた。爾朱世隆は平謝りに謝ってようやく免れたが、以来、深く彼を怨んだ。
 爾朱仲遠も、滑台から洛陽へ入った。
 戊申、長廣王が大赦を下した。 

 爾朱栄を誅殺した後、孝荘帝は河西の賊帥乞豆陵歩蕃へ詔を下した。秀容を攻撃せよ、と。
 爾朱兆が入洛した頃、乞豆陵歩蕃は南下を始め、その兵勢は甚だ盛んだった。だから、爾朱兆はゆっくりしてもおられず、早々に晋陽へ引き返して防御態勢を整えねばならなかった。そこで、爾朱世隆、爾朱度律、爾朱彦伯等を洛陽に留めた。
 甲寅、爾朱兆は、孝荘帝を晋陽へ連行し、都の財宝をかき集めた。この噂を聞いた高歓は東へ進んだが、爾朱兆軍に追いつけなかった。そこで、彼は爾朱兆へ手紙を書いて禍福を述べ、天使を殺害して悪名を受けることの非を説いた。しかし、爾朱兆は、怒ってこれを無視した。
 爾朱天光は単騎で入洛したが、爾朱世隆等を見て、ヨウ州へ帰った。 

 ところで、討北軍の戦況が不利だった時、孝荘帝は南へ逃げることも考えた。そこで、征蛮を名目にして高道穆を南道大行台としていたが、これが出発する前に爾朱兆が入洛したのだ。高道穆は病気を理由に官を去ったが、爾朱世隆は彼を殺した。
 さて、ある者は李苗の封贈を追貶するよう請うたが、爾朱世隆は言った。
「あの時の我が軍の雰囲気として、もう数日河橋に留まっていたら、我等は洛陽を焼き払っていた。李苗が河橋を焼き落として我等を追い払ったからこそ、洛陽は無事だったのだ。天下の善は一つ。彼を追貶するのは宜しくない。」 

 爾朱栄が死んだ時、爾朱世隆は大寧太守房謨を徴兵したが、房謨はこれに応じず、使者を三人まで斬り殺した。爾朱兆が天下を取ると、彼等の党類の建州刺史是蘭安定が、房謨を捕らえ、牢獄へ落とした。すると、大寧郡在住の蜀人が造反した。
 是蘭安定は、房謨を弱馬へ乗せて、造反軍の前面へ引き出した。賊徒達は、これを遙かに望んで、伏し拝まない者は居なかった。房謨の持ち馬は、別の人間へ与えていた。戦争で是蘭安定軍は敗北し、賊徒達は房謨の持ち馬を入手した。この馬だけが手に入ったので、賊徒達はてっきり房謨が死んでしまったものと大いに悲しんだ。そこで、せめてもの事に、その馬を大切に養った。誰もその馬に乗せず、女子供は争って草や粟を与える。皆、言った。
「これは房公の馬だ。」
 これを聞いた爾朱世隆は、房謨の罪を棄て、自分の府の長史に抜擢した。 

 北道大行台の楊津は、部下が少なかったので、業に留まって募兵した。そして、ヘイ州へ向かおうとした時、爾朱兆が入洛した。そこで、楊津は部下を解散し、軽騎で朝廷へ帰った。
 洛陽陥落の風聞が流れてくると、鄭先護の部下は彼を見捨てて散り散りに逃げ去ってしまった。鄭先護は、梁へ逃げた。梁の武帝は、彼を征北大将軍に任命した。 

 長廬王の母親は、何やかやと政治に口出ししていた。爾朱世隆はこれを思い煩い、兄弟と共に密かに陰謀を練った。
 ある日、長廬王の母親が外出すると、それを伺っていた爾朱世隆は数十人の部下を強盗に見せかけて派遣し、都の巷で、彼女を殺してしまった。そして、一応、賊徒達を捕まえるよう手配書を掲げ、懸賞金千萬銭を懸けた。 

 甲子、爾朱兆は孝荘帝と陳留王寛を殺した。 

  

高歓の台頭 

 この月、乞豆陵歩蕃は、秀容にて爾朱兆軍を撃破した。
 爾朱兆は懼れ、高歓へ使者を出し、援軍を頼んだ。高歓の幕僚達は、皆、応じないように言ったが、高歓は言った。
「爾朱兆は切羽詰まっている。放って置いたら滅亡するぞ。」
 そして、出陣した。
 高歓は、賀抜焉過児を評価していたが、彼は言った。
「援軍は必要にしても、なるべくゆっくりと行き、爾朱兆軍に少しでも多くの被害を与えましょう。」
 そこで高歓は、汾河に橋がないことを口実にして、あちこちで逗留しながら進んだ。
 乞豆陵歩蕃の軍は日々盛んになり、爾朱兆は屡々敗北する。爾朱兆が高歓へ急を告げるようになって、高歓はようやく爾朱兆のもとへやって来た。
 高歓と合流した爾朱兆は、平楽郡にて乞豆陵歩蕃と戦い、大勝利を収めた。石鼓山にて乞豆陵歩蕃を斬り殺すと、彼の部下は敗走した。
 爾朱兆は高歓に感謝して、彼と兄弟の誓いを結んだ。そして数十騎の部下を率いて高歓の陣へやって来て、夜通し痛飲した。
 ところで、葛栄の部下達のうち二十万人ほどがヘイ・肆州へ流れ込んでいたが、彼等は契胡(爾朱氏の種族)から凌辱され続けた。遂には皆、捨て鉢になって、大小二十六もの造反軍が起こった。爾朱兆はその半数を誅殺したが、まだ造反は止まない。爾朱兆はこれを患い、高歓へ対策を尋ねた。すると、高歓は言った。
「六陳の乱の残党は、皆殺しにしてはいけません。王の腹心を選んで統治させ、配下から造反する者が現れたら、その統治者も連座させる。そのようにすれば、自然統治にも心を配るようになりますので、罪を犯す者も減るでしょう。」
「それは善い!しかし、誰を選べばよいかな?」
 同席していた賀抜允が名乗りを挙げた。すると、高歓は賀抜允を思い切り殴りつけ、賀抜允は歯が一本折れてしまった。
「天柱将軍が存命だった頃は、お前達は鷹や犬のように、ただ動くだけだったではないか。今、天下のことは全て王が裁量なさっているのだ。でしゃばって妄言を吐くでない!」
 爾朱兆は、これに高歓の誠意を見て大いに喜び、彼等を高歓へ委ねた。高歓は、爾朱兆が酔っぱらっているのを見て、醒めてから後悔するのではないかと恐れ、これ幸いと宣言した。
「葛栄の部下達の統治を委任された以上、彼等を全て汾東へ集めましょう。」
 軍士は皆、爾朱兆を嫌い、高歓の下へ行きたがっていたので、全員が彼の元へ集まった。
 それから幾ばくも経たたない内に、高歓は爾朱兆のもとへ使者を送った。
ヘイ・肆州は、霜や旱で穀物が取れませんでした。降伏した人間達は、田を掘って鼠を食べる有様。彼等を山東へ移住させたら、食糧にも困りません。」
 爾朱兆は、これに従った。すると、長史の慕容紹宗が諫めた。
「いけません。今、四方は紛糾しており、人々は野心を持っています。高公の才覚は天下第一。奴に大勢の兵卒を与えるのは、蛟龍へ雲雨を与えるようなもの。最期には制御できなくなりますぞ。」
 だが、爾朱兆は言った。
「高歓は我が義兄弟。何を思い煩うか!」
「親兄弟でさえも信じられないのです。何で義兄弟を信じられますか!」
 だが、この時爾朱兆の側近達は高歓から金品を貰っていたので、彼等は吹聴した。
「慕容紹宗は、もともと高歓と反りが合わず、憎しみあっていたのです。」
 爾朱は怒り、慕容紹宗を牢獄へぶち込んで、高歓の提案に従った。
 高歓が、晋陽から釜口へ出る途中で、洛陽からやって来た北郷長公主(爾朱栄の妻)に出会った。彼女は三百匹の馬を連れていたが、高歓はこれを略奪した。これを聞いた爾朱兆は、即座に慕容紹宗を釈放して、今後の方策を尋ねた。すると、慕容紹宗は言った。
「今からでも間に合います。」
 そこで、爾朱兆は自ら高歓を追撃した。襄垣まで行くと、川の水が溢れていて、橋も壊されていた。対岸から、高歓は言った。
「公主から馬を借りたのは、ただ山東の群盗へ備える為です。王は公主の讒言を信じて追撃してこられたようですが、溺死覚悟で川を渡られたら、部下が造反しますぞ。」
 爾朱兆は、それは誤解だと答え、軽騎で川を渡り、高歓と幕下に座った。そして、高歓へ刀を授けるふりをして、いきなり高歓の首を掴み斬り殺そうとした。
 高歓は泣き叫んだ。
「天柱将軍が死んでから、賀六渾は忠勤に励みました!今回のことは単なる讒言。ご主人様は何でこんな事をなさいますのか!」
 それを聞いて、爾朱兆は刀を投げ捨てると、白馬を斬って改めて誓いを交わした。ここにおいて、彼等は夜通し痛飲した。
 尉景は壮士を伏せて、爾朱兆を殺そうとしたが、高歓はこれを止めた。
「今、彼を殺したら、余党が必ず結託する。我等の兵は飢え、馬は痩せているので、敵対できない。そんな中で英雄が立ち上がったら、我等の被害は甚大だ。ここは、暫く放置しよう。爾朱兆は驍勇だが、凶暴で無謀だ。相手にならんよ。」
 翌朝、爾朱兆は自分の陣営に帰り、高歓を呼び付けた。高歓は向かおうとして馬へ乗ったが、孫騰が衣を牽いたので、取りやめた。爾朱兆は、川向こうから罵って、晋陽へ駆け戻った。
 こんな事があった後、爾朱兆の腹心の念賢が家族を率いて高歓へ降伏してきた。高歓は喜んだふりをして彼の佩刀を見、それで斬り殺してしまった。士衆は皆感激し、帰順する者が益々増えた。 

  

節閔帝 

 さて、孝荘帝が捕まって以来、魏では帝位が空白となっていた。しかしながら、洛陽は、爾朱世隆が守っていた為、物流も滞らず、盗賊も起こらなかった。
 長廣王は血統があまりに遠く、また、人望もなかった。そこで爾朱世隆は、別の宗族を立てようと、兄弟と共に密議を凝らした。
 儀同三司の廣陵王恭は、元羽の子息である。(廣陵王羽は、孝文帝の弟。)彼は学問を好んで、度量が広かった。
 彼は、正光年間、つまり元乂が専横を振っていた頃に領給事黄門侍郎となつたが、このようなご時世だったので、聾唖と言い立てて、龍華寺に籠もり、世間との交流を断った。永安の末、彼のことを孝荘帝へ讒言する者が居た。
「廣陵王は、健康体なのに、聾唖と言って世間をたばかっています。きっと、造反を企んでいるに違いありません。」
 廣陵王は恐れ、上洛山へ逃げ込んだが、洛州刺史が捕らえて洛陽へ送った。そこで取り調べを受けたが、謀反の証拠がなかったので、放免された。
 関西大行台郎中の薛孝通が爾朱天光へ言った。
「廣陵王は、高祖の甥。つとに令名がありましたが、韜晦して黙って居られました。もしも彼を主にすれば、天下の宿望に適いましょう。」
 そこで、爾朱天光は爾朱世隆と共に廣陵王を立てようと画策した。だが、彼が本当に聾唖なのかもしれないと疑い、爾朱彦伯を密かに廣陵王のもとへ派遣した。すると、廣陵王は言った。
「天が何を言うだろうか!(論語の一節)」
 爾朱世隆は大いに喜んだ。
 三年、二月。長廣王を亡山へつれて行った。爾朱世隆が禅譲文を書いた。泰山太守が、鞭を持って長廣王の部屋へ入り、言った。
「天も人も、廣陵王を宿望している。堯や舜を手本になさい。」
 そして、禅譲文に署名させた。
 廣陵王は、三度辞退した後、即位した。これが節閔帝である。大赦を下し、普泰と改元する。
 庚午、詔を下した。
「三皇は『皇』と称し、五帝は『帝』と称し、三代は『王』と称した。これは、次第に自分を謙っていったのである。だが、秦に至って、『皇帝』と称した。何とも傲慢な僭称である。今より、予は『帝』と称する。これでもまだ、予には過ぎているのだから。」
 爾朱世隆へ儀同三司を加えた。爾朱栄へは、相国、晋王を追贈し、九錫を加えた。
 爾朱世隆は、爾朱栄をどの皇帝の臣下として祀ればよいか議論させた。すると、司直の劉季明が言った。
「宣武帝の頃には、まだ功績を建てていませんでした。孝明帝へ対しては、その母親を殺しました。孝荘帝へ対しては、臣下たりえませんでした。こうして考えますに、どこにも配置できません。」
 爾朱世隆は怒った。
「汝は死にたいのか!」
「下官は、議論の席にあって礼に依って発言したまで。それが聖心にそぐわなければ、殺戮でも命じられれば宜しい!」
 結局、爾朱世隆は彼を赦した。爾朱栄は、孝文帝の臣下として祀られることとなった。又、爾朱栄の廟を首陽山へ建てた。彼を周公になぞらえたのである。
 爾朱兆は、この廃立劇に関与していなかったので、激怒して爾朱世隆を攻撃しようとした。だが、爾朱世隆が爾朱彦伯を使者として派遣して説得させたので、何とか事なきを得た。 

 ここで、節閔帝のエピソードをいくつか述べよう。
 爾朱兆が丹谷を攻撃した時、史午龍と陽文義が城門を開いて降伏したので源子恭は逃げ出した。だから、爾朱兆は洛陽へ直行できたのである。そこで、爾朱世隆は史午龍と陽文義の功績を論じ、各々千戸侯に封じるよう上請した。すると、節閔帝は言った。
「二人は、王へ対して功績があったが、国へ対しては勲功はない。」
 遂に許さなかった。
 爾朱仲遠は滑台を鎮守していたが、麾下の都督を西コン州刺史とした。この時、まず任命してから、その後に上表した。すると、節閔帝は言った。
「現場で適任者を選んだのだ。わざわざここまで許可を求める必要はない。」
 かつてペルシアが獅子を献上して来た時、万俟醜奴がこれを略奪した事は既述した。爾朱天光が万俟醜奴を捕らえた後、この獅子はようやく皇帝へ献上された。節閔帝は、即位した後、詔を下した。
「禽獣を捕らえておくのは、彼等の性に背いている。」
 そして、この獅子をペルシアへ送り返させた。だが、ペルシアは遠い。使者は、途中で獅子を殺し、死骸を送り返した。事が発覚して、役人がこれを弾劾した。すると、節閔帝は言った。
「たかが獣の為に人を罰するなど、あってはならぬ!」
 そして、使者を赦した。