爾朱氏の乱   爾朱栄の台頭
 
武人の増長 

 天監十八年(519年)、正月。魏の征西将軍張彝の子息の張仲禹が孝明帝へ封書を出した。
「登庸の方法を改めて、武人と行政官を明確に区別するようにしましょう。」
 だが、これが漏洩し、洛陽中が沸き返った。巷のあちこちに立て札が立ち、武人達の集会が起こって、張彝の家族を皆殺しにしようと息巻いたが、彝親子は平然としていた。
 二月、羽林や虎賁の兵卒達が千人近くも集まって、大声でやじりながら尚書省まで行進し、張仲禹の兄の左民郎中張始均を呼び出した。しかし、張始均が逃げ出したので、彼等は省門へ石や瓦を投げつけた。皆、恐れおののいたが、止めることができない。増長した武人達は、薪や藁を道へ積んで火を付けたり、石を投げて建物を壊したりし始めた。そして、とうとう彝を引き出して私刑にかけ、彼の屋敷を燃やした。
 逃げ延びていた張始均は、父が捕らわれたと聞くや戻ってきて、賊徒を伏し拝んで父親の解放を求めた。賊徒達は、彼を殴打して、生きたまま火の中へ投げ込んだ。
 張仲禹は、重傷を負いながらも、どうにか逃げ延びることができた。彝は、解放された時には虫の息で、二日後、息を引き取った。
 このニュースは、全国を震駭させた。胡太后は、羽林と虎賁の凶悪犯八人を処刑したが、その他の者は窮治しなかった。十日ほどして大赦を降し、武人達を安堵させた。同時に、武官にも入選の資格を与えた。
 この事件と顛末を聞いた知識人は、魏に近い将来大乱が起こると予見した。 

  

年功序列 

 こうして、武人にも入選の資格が与えられた。しかし、役人の欠員が少なかったのに、応募する者は多かった。部尚書の李韶は従来通りの人員を盾にとって、なかなか登庸しなかったので、人々から怨まれた。そこで、殿中尚書の崔亮が吏部尚書となった。崔亮は、賢愚を問わず、ただ待機期間の長かった者から順々に出世させるよう上奏した。これは、長い間待っていた武人達から大喝采を浴びた。
 さて、司空諮議の劉景安は、崔亮の甥である。彼は崔亮へ手紙を書いた。
「殷や周代は、郷里の塾に優秀な人間を推挙させました。漢代は州や郡の長官が、才人を推薦しました。魏・晋になると、中正を設置しました。これらの登庸制度は完全無欠とは言えないまでも、才能のある人間の六・七割は推挙されて来ました。しかしながら、その採用の拠点が、ただ文章の美しさだけを求めて理を取らなかったり、孝廉の人格に偏って政治の才能を無視したりなど、欠点も多かったものです。叔父上が吏部尚書となられた以上、人を登庸する基準は厳しく見つめ直すべきでありますのに、却って年功序列にしてしまった。これでは、一体誰が励みましょうか!」
 すると、崔亮は返事を書いた。
「汝の言葉にも一理はある。しかし、時代は変わる。今と昔は社会状況が違うのだから、それに合わせて制度も変化させていかなければならない。昔、鄭の子産は刑法を鋳型に作って後々まで正しく残そうとしたが、叔向はこれを謗った。(春秋左氏伝、昭公六年)お前の言うことは、これと同じだ。」
 洛陽令の薛椒が上書した。
「庶民の命は、長吏にかかっています。その長吏を、才能ではなく年功で選ぶなど、雁や魚の行列ではありませんぞ!それに、順序通りに人名を読み上げるのなら、一吏ですみます。吏部尚書など置く必要が、どこにありましょうか!」
 しかし、返答はなかった。
 後、薛椒は謁見して、再び上奏した。
「王公や貴臣に賢人を推挙させて、郡太守や県令に抜擢しましょう。」
 そこで、公卿に協議するよう詔が降りたが、結局うやむやになった。
 その後、甄深が崔亮に代わって吏部尚書となったが、この制度が都合がいいので継承してしまった。こうして、崔亮以来、魏の官吏は無能になってしまった。 

  

高歓 

 話はさかのぼるが、燕の燕郡太守高湖が魏へ亡命した(隆安三年=399年)。彼の子息の高謐は侍御史となったが、罪に触れて懐朔鎮へ流された。以来、彼の家族は代々北辺に住み、鮮卑の風俗に染まっていった。
 高歓は、高謐の孫である。彼は深沈で大志があった。家が貧しかったので、平城にて端役に就いていた。だが、富豪のロウ氏の娘が彼を見て見所を感じ、遂に彼に嫁いだ。
 富豪の娘を娶った高歓は、馬を入手した。そのおかげで、都への伝令に抜擢された。役目を受けて洛陽へ行った高歓は、そこで彝の事件を知った。彼は、平城へ帰ると、全財産をはたいて、大勢の人間と交友を結んだ。ある者がその理由を尋ねると、高歓は答えた。
「宿衛の兵卒達が、勝手に集まって大臣の屋敷を焼き払った。それなのに、朝廷は彼等の暴動を恐れて不問に処してしまった。政治がこのような有様では、先行きが知れている。財宝を持っていたとしても、どうやって守り通せようか!」
 高歓は、懐朔省事の司馬子如、劉貴、賈顕智、戸曹史の孫騰、外兵史の侯景、獄掾の尉景、蔡儁等と特に仲が善く、彼等は任侠として郷里に名高かった。 

 普通四年(523年)、六鎮の乱が勃発した。 

  

爾朱栄の系譜 

 秀容の酋長爾朱栄は、爾朱羽健の玄孫である。祖父は爾朱代勤。ある時、爾朱代勤が民を率いて狩猟をしていると、流れ矢が彼の髀に当たった。だが、爾朱代勤は矢を抜いただけで、誰が射たか糾明しなかったので、所部の民は皆、感激した。爾朱代勤は、肆州刺史まで出世し、梁郡公の爵位を賜り、九十才で卒した。
 爾朱栄の父は爾朱新興。彼の代で、牛や羊が数え切れないほど増えた。魏が出征するたびに彼は兵糧を献上したので、高祖は大いに嘉した。彼が老いると、息子の爾朱栄への爵位継承を請願し、朝廷はこれを許可した。
 爾朱栄は決断力と統率力があったが、四方に兵乱が起こると、密かに野望を持ち、散財して驍勇を集め豪傑達と好を結んだ。
 五年、司馬子如、賈顕度(賈顕智の兄)、侯景や五原の段栄、太安の竇泰などが、彼の元へ集まった。 

  

男妾 

 胡国珍が司徒だった頃、彼の行参軍に鄭儼とゆう男がいた。彼は胡太后と密通していたが、これは誰にも知られていなかった。やがて、蕭寶寅が西討へ出征した時、鄭儼は彼の部下として従軍した。
 六年、胡太后が再び摂政となると、鄭儼は朝廷へ戻りたいと請願した。そこで胡太后は、彼を諫議大夫、中書舎人として、昼夜側に侍らせた。
 中書舎人の徐乞は、そこそこの文才があり、かつては趙修へ諂っていて、趙修が失脚した時には巻き添えを食らった。その後、再び中書舎人へ復職出来だが、今度は清河王懌へ諂い、清河王が死ぬと雁門の太守へ飛ばされた。洛陽へ戻ると、元乂へ諂った。
 今回、元乂が失脚した。胡太后は、彼が鄭儼と仲が良かったので、中書舎人へ復職させた。以来、彼は鄭儼へ諂うようになった。
 徐乞は知恵が回ったので、鄭儼は彼を謀主とした。徐乞は、鄭儼が胡太后から寵愛されていたので、全霊を尽くして彼へ接し、表裏一体となって内外を傾けた。人々は、彼等を徐、鄭と呼んだ。
 彼等は順次出世し、鄭儼は中書令・車騎将軍、徐乞は給事黄門侍郎となって舎人達を総領した。中書や門下の事は全て彼等が総括し、軍国の詔も全て彼等を経由した。
 徐乞は機転が利き口が巧く、終日仕事に精を出しても疲れを知らなかった。時に急ぎの詔がある時など、数人の官吏に筆を執らせて一人で口述したが、できあがった詔は全て理に適ったものだった。しかしながら、経国の大礼は無く、彼の知謀は専ら小細工に類するものだった。人へ対する時、上辺は恭謹な態度をとったが、報復はきっちり行った。
 給事黄門侍郎の袁翻、李神軌等も、中書舎人の親分格で、胡太后からの信任も厚かった。下世話では、李神軌も胡太后のお手つきだと噂されたが、真偽は定かではない。
 李神軌が、散騎常侍の廬義僖の娘との結婚を求めたが、廬義僖は許さなかった。黄門侍郎の王誦が廬義僖へ勧めると、廬義僖は言った。
「いずれ巻き添えを食らってしまうのが恐いのだ。」
 結局、娘は別の人間へ嫁がせた。その結婚の日、胡太后が使者を派遣して中止を命じた。皆は惶怖したが、廬義僖は自若としていた。
 李神軌は、李祟の息子である。廬義僖は、廬度世の孫である。 

  

母子に溝が 

 胡太后は、再起した後も、従来通り取り巻きを寵用して、好き勝手に政治を専断していた。その間に、孝明帝は成長する。すると胡太后は、自分の不謹慎な行動が息子へばれたら非難されるのではないかと恐れるようになった。そこで彼女は、孝明帝が親任した者を即座に左遷し、彼を政治の世界から引き離そうと努力した。
 通直散騎常侍の谷士恢が孝明帝から親任された時、胡太后は、彼が自主的に州刺史となることを請願するように、あれこれと風諭した。しかし、谷士恢はこれを願い出なかったので、胡太后は彼を誣告して処刑した。
 蜜多道人とゆう男は、胡の言葉に精通していた。孝明帝は彼が気に入り、片時も放さずに側へ置いておくようになった。胡太后は刺客を放って、彼を殺した。
 このようなことが続いたので、数年も経つと、母子の間に溝が生まれた。 

  

両雄結託 

 大通二年(528年)、既に爾朱栄の勢力は強大になっていた。この頃の彼の官職は、車騎将軍、儀同三司、ヘイ・肆・汾・廣・恒・雲六州刺史討虜大都督。朝廷でさえも、彼を憚るようになっていた。
 高歓、段栄、尉景、蔡儁の面々は、もともと賊徒杜洛周の麾下だったが、この政権を乗っ取ろうとして果たせず、葛栄のもとへ逃げ込み、結局、爾朱栄のもとへ転がり込んだ。
 この頃、劉貴は彼等に先んじて爾朱栄の幕僚となっていた。彼は、高歓のことを、爾朱栄へ屡々推薦していた。だが、実際に対面した時、高歓は亡命の果てで憔悴しきっていたので、爾朱栄は、彼をそれ程の人間とは思わず、厩の番人にしてしまった。
 高歓が馬の世話をすると、馬は皆、精悍になった。ある時、爾朱栄が馬のたてがみを切りそろえるよう高歓へ命じた。普通、このような場合には馬の足をしばり、口には轡をはめてから行うのだが、高歓はそのまま行い、しかも噛まれたり蹴られたりしなかった。切り終えてから、高歓は言った。
「悪人も又、このように御すると良いのです。」
爾朱栄はこの言葉に感嘆し、人払いをして時事を尋ねた。すると、高歓は答えた。
「今、天子は惰弱で、太后は淫乱。佞臣が政治を専断し、朝廷は乱れきっています。明公の雄武でこの時勢に乗じて起兵し、 鄭儼・徐乞のような君側の奸を除くことを標榜すれば、覇業は達成できます。これこそが、賀六渾(高歓の字)の本意です。」
 爾朱栄は大いに悦び、日中から夜になるまで語り明かした。
 以来、高歓は爾朱栄の謀主となった。
 さて、ヘイ州刺史元天穆は、元孤の五世の孫である。彼は爾朱栄と仲が善く、彼の兄貴分となっていた。爾朱栄と元天穆、そして爾朱栄麾下の都督賀抜岳は、密かに陰謀を巡らせた。挙兵して洛陽へ攻め入り、佞臣達を誅殺してから、全国の賊徒共を鎮圧するとゆうのである。(六鎮の乱は、まだ終焉してはいなかった。)そこで、爾朱栄は上書した。
「山東の群盗共は、未だに勢力が盛んです。冀・定州は敵の手に落ちており、官軍は屡々敗北する有様。臣へ精騎三千を派遣してくださったなら、即座に東進して相州を救援いたします。」
 しかし、胡太后はこれを疑い、次のように返事を書いた。
「莫折念生は梟首いたしましたし、蕭寶寅は捕らえ、萬俟醜奴は降伏しました。こうして、関・隴は平定したのです。又、費穆は群蛮相手に大勝し、蜀もどうやら平らぎました。東へ対しても、北海王が二万の兵を率いて相州から出陣しております。卿の心配は無用です。」
 しかし、爾朱栄は再び上書した。
「たしかに、賊軍の勢力は衰退しております。しかし、官軍も敗北続きで、人々は不安がっております。兵卒の志気が萎えてしまった軍隊は、使い物になりません。方針を変更しなければ、万全とは言えませんぞ。臣が愚考いたしますに、蠕蠕王の阿那壊は我が国から厚い恩顧を蒙りながら、未だ報いておりません。奴等へ出兵させて賊軍の背後を衝かせ、北海王には前面から攻撃させめのです。臣の手勢は少数とはいえ、力を尽くして井ケイ以北、釜口以西を攻撃して、関を掣肘しましょう。葛栄は、杜洛周の兵力を併呑しましたが、まだ、その部下達から心服まではされていない筈です。賊軍が一心同体に鳴りきる前に殲滅するべきでございます。」
 そして、義勇軍を起こして馬邑へ北進した。 

  

孝明帝崩御 

 徐乞は、爾朱栄の側近達へ鉄券を配って離間するよう皇后へ勧めた。だが、その計略が爾朱栄の耳へ入り、彼は益々徐乞を恨んだ。
 孝明帝も又、鄭儼や徐乞を憎んでいた。彼等を退けるよう太后へ迫ったが、聞かれない。そこで、爾朱栄へ密詔を出した。
「挙兵して洛陽へ向かえ。」
 彼の兵力で、太后を脅しつける為である。
 密詔を受け取った爾朱栄は、高歓を先鋒として進軍させたが、これが上党へ到着した時、孝明帝は私詔を出して、彼を止めた。
 鄭儼と徐乞は身の危険を感じ、皇帝を毒殺するよう太后へ頼み込んだ。
 二月、癸丑。孝明帝は急死した。享年十九才。廟号は粛宗
 甲寅、皇后は皇女を立てて皇帝とした。大赦を下す。だが、やがて詔を下して臨兆王の息子釖を皇帝にした。この時、釖は三歳。太后は政治を専断しようと欲し、敢えて幼帝を立てたのである。
 これを聞いて爾朱栄は激怒して元天穆へ言った。
「陛下が崩御なさった時、享年十九才だった。だが、これでさえも天下の人々は幼君と呼んでいたのだ。ましてや言葉も話せないような幼少の君を奉じ、どうして治安が保てようか!我は鉄騎を率いて洛陽へ攻め込み、長君を立てるつもりだ。卿はどう思われる?」
 すると、元天穆は言った。
「伊尹や霍光の再来だ。」
 そして、抗表で称した。
「陛下の突然の後崩御は、巷では毒殺だと噂されている。だいたい、陛下の容態がおかしくなった時に、医者も呼ばず、大臣貴臣達も側に侍らなかったとゆうことが、これはどうゆう了見か!それに、よりにもよってこんなに幼少の君を立てるとは。奸佞の臣下に朝廷を牛耳らせて、その綱紀を乱すおつもりか!俗に『耳を覆って鐘を盗む』と言うが、今回のことはまさしくそれだ。今、群盗が沸騰し、江南は隙を窺っている。このご時世に、言葉も喋れない赤子を奉じて天下を鎮守しようなど、見当違いも甚だしい!
 臣は闕へ赴いて大議に参与し、侍臣達へ陛下後崩御の不審を問い質し、鄭儼と徐乞を裁き、天下の恥を雪いで遠近の怨みを晴らしてくれよう。その後に然るべき人を選んで帝位を継承していただくつもりだ。」
 この時、爾朱栄の従兄弟の爾朱世隆が直閣となっていた。そこで胡太后は、彼を使者として晋陽へ派遣し、爾朱栄を慰諭させた。爾朱栄は彼を手元へ留めようとしたが、爾朱世隆は言った。
「朝廷は、義兄上を疑っています。ですから、私を使者として派遣したのです。もしも私をここへ留めたら、朝廷は必ずや軍備を整えます。それは下策です。」
 そこで、爾朱栄は彼を洛陽へ帰した。 

  

胡太后の死 

 爾朱栄と元天穆は、跡継ぎを誰にするか相談した。候補に挙がったのは、長楽王子攸。彼は彭城王(「/思」)の子息で、人望もあった。そこで、養子の天光と親信の奚毅、倉頭の王相を洛陽へ派遣し、爾朱世隆と相談させた。その上で、天光が長楽王と会い、爾朱栄の意向をうち明けたところ、長楽王は許諾した。
 天光達は爾朱栄のもとへ帰って報告したが、爾朱栄はまだ迷っていた。そこで、顕祖の孫達の銅像を鋳造して占ってみたところ、長楽王の像だけが完成した。遂に、爾朱栄は決起した。爾朱世隆は即座に逃げ出し、上党にて爾朱栄と合流できた。
 爾朱栄の決起を聞いた胡太后は非常に恐れ、王公を呼び出して会議を開いた。だが、宗室や大臣達は、太后のやることに辟易していたので、誰も提言をしない。ただ、徐乞だけが言った。
「爾朱栄は、胡人です。それが身の程知らずにも闕へ向かってくるのですから、文武の宿衛が全力を挙げて阻止します。我等はただ、険阻な地形で守備を固めていればよいのです。敵は千里を踏破するのですから疲れ切っておりますし、我等は逸を以て労を待つのです。必勝疑いございません。」
 太后は得心し、黄門侍郎の李神軌を大都督として守備を固めさせた。又、別将の鄭李明と鄭先護に河橋を守らせ、武衛将軍費穆は小平津に屯営させた。鄭先護は、鄭儼の従兄弟である。
 爾朱栄は、河内まで来ると、王相を密かに洛陽へ派遣し、長楽王を連れ出させた。
 四月、長楽王と兄の彭城王劭、弟の覇城公子正は密かに河を渡って、河陽の爾朱栄のもとへ逃げ込んだ。将兵は皆、万歳と唱えた。
 戊戌、爾朱栄軍は河を渡り、長楽王が即位した。これが孝荘帝である。劭を無上王、子正を始平王とする。爾朱栄は、侍中、都督内外諸軍事、大将軍、尚書令、領軍将軍、領左右となり、太原王に封じられた。
 鄭先護は、もともと孝荘帝と仲が善かったので、彼が即位したと聞くと、鄭李明と共に城門を開いて爾朱栄軍を迎え入れた。河橋の李神軌は、北中が落ちたと聞くと、洛陽へ逃げ帰った。費穆は、民を率い、率先して爾朱栄へ降伏した。
 敗報を聞いた徐乞は、夜半、詔をでっち上げて城門を開け、コン州へ逃げた。鄭儼は故郷へ逃げた。
 胡太后は、孝明帝の後宮を全員集めると出家させ、自身も髪を切った。
 爾朱栄は、百官に車駕を揃えて出迎えさせた。百官は、璽綬を奉じて河橋まで孝荘帝を出迎えた。
 爾朱栄は、騎兵を出して、胡太后と幼帝を河橋まで連行させた。胡太后は、必死になって爾朱栄をかき口説いたが、爾朱栄は聞く耳も持たず、胡太后と幼帝を河へ沈めた。 

  

大虐殺 

 費穆は、密かに爾朱栄へ言った。
「公の兵力は一万にも満足りません。今から洛陽へ向かうのですが、兵力が弱い上に華々しい大勝利もないのですから、皆は鼻白むでしょう。都には大勢の人間がおり、百官の盛大さは言を待ちません。彼等が公の兵力を見れば、きっと侮蔑してしまいます。ですから、入京したら、誅罰を大いに行い、我等の党類を大勢作るのです。そうしなければ、公が北へ帰った後、変事が起こりかねません。」
 この言葉は、爾朱栄の心に響く物があった。そこで爾朱栄は、慕容紹宗へ言った。
「洛陽の人間は贅沢で、驕慢奢侈が風俗となっている。これは鉄槌を加えなければ、制御することができまい。だから、百官が我を出迎えたなら、その時に彼等を悉く捕らえ、誅殺するつもりだ。卿はどう思う?」
 すると、慕容紹宗は答えた。
「胡太后が荒淫で道を失い、佞臣達が権力を弄び、四海の民は大いに苦しまされました。ですから、明公は義兵を挙げて朝廷を清浄したのです。今、なんの理由もないままに、忠臣佞臣の区別も付けずに百官を殺しましたら、天下の望みを失います。それは長久の計略ではありません。」
 しかし、爾朱栄は聞かなかった。
 爾朱栄は、「天を祀る」との名目で、百官行宮の西北へ集めた。百官が集まると、胡騎に包囲させ、彼等を責めあげた。天下喪乱の原因も、孝明帝の急死も、全て朝臣達の貪虐が原因であり、政治を矯正できなかった責任は、全て百官にあると宣言した上、兵へ虐殺を命じた。丞相の高陽王ヨウ、司空の元欽、儀同三司の義陽王略以下、二千余人が殺された。
 さきの黄門郎王遵業兄弟は、父親の喪中だったが、彼等の母は、孝荘帝の乳母だった。そこで兄弟揃って出迎えの中にいた為、殺されてしまった。王遵業は王恵龍の孫で、高名な学者だった。人々は彼の才覚を惜しみ、爾朱栄の狂騒を謗った。
 虐殺が終わった後、百人ほどの朝士が遅れてやって来た。爾朱栄は彼等も包囲するよう、胡騎へ命じ、言った。
「禅譲文を書ける者は、命を助けてやるぞ。」
 すると、御史の趙元則が名乗りを挙げたので、彼に書かせた。
 又、軍士達へ言わせた。
「元氏が滅亡し、爾朱氏が興る。」と。
 皆、万歳を称した。
 又、爾朱栄は、抜刀した兵卒数十人を行宮へ差し向け、孝荘帝と無上王、始平王を帳の外へ連れ出した。そして、無上王と始平王を殺し、孝荘帝は河橋へ連れていった。
 孝荘帝は憂えたけれども、打つ手がない。そこで、人を派遣して、爾朱栄を説得した。
「帝王は移り変わり、盛衰は常無いもの。今、四方は瓦解した中、将軍は奮起して挙兵し、向かうところ敵がなかった。これは人力ではない。天意だ。我が将軍のもとへやって来たのは、ただ余生を全うしたかっただけ。なんで天位を望むような大それたことを考えようか!
 今、将軍から迫られて、このような事になった。もしも天命が将軍にあるのなら、どうぞ即位してください。もしも魏の社稷を残してくれるのなら、親賢を選んで即位させ、それを補佐してください。」
 この頃、都督の高歓は、爾朱栄へ即位を勧めていた。左右の多くもそれを勧めていたが、爾朱栄自身は迷っていて決めかねていた。すると、賀抜岳が進言した。
「将軍は、義兵を挙げたのです。姦逆を除くのが将軍の志だったのではありませんか?
それなのに、その大勲も建てないうちに、このような謀略を起こされた。これでは禍が速やかに起こるだけ。決して良い結果にはなりませんぞ。」
 そこで爾朱栄は、金で自分の像を鋳造させて占ってみた。すると、作らせた四体は、全て失敗した。功曹参軍の劉霊助は、卜筮が巧く、爾朱栄は彼の言葉を信じていた。その彼へ尋ねてみると、言われた。
「天時も人事も、不可でございます。」
「もしも、我が即位するのが不吉ならば、元天穆を立ててみたらどうかな?」
「元天穆も、また不吉です。ただ、長楽王にのみ、天命があります。」
 爾朱栄の精神は恍惚として、自分の心を支えることができなかった。しばらくして深く思い巡らし、慚愧して言った。
「このような過ちを犯してしまったのだ。もはや死んで朝廷に詫びるしかない。」
 賀抜岳は、高歓を殺して天下へ謝るよう請願した。すると、左右が言った。
「高歓は、確かに愚かなことをもうしましたが、今は多難の時。優秀な武将は独りでも惜しいのです。どうか捨て置いて、後の武功で贖わせてください。」
 そこで、爾朱栄は、不問に処した。
 夜中、孝荘帝を再び営へ迎え入れた。爾朱栄は、皇帝の乗馬のもとに土下座して、死を請うた。 

  

遷都騒動 

 さて、爾朱栄麾下の胡兵達は、既に大勢の朝士を殺してしまったので、洛陽へ入りたがらなかった。そこで、北方へ遷都するよう、爾朱栄へ申し入れた。爾朱栄が迷っていると、武衛将軍汎礼が、固く諫めた。
 辛丑、爾朱栄は孝荘帝を奉じて入京した。孝荘帝は太極殿にて大赦を下し、建義と改元した。太原王に従っていた将士は、官位を五階昇進させた。京へ残っていた文官は二階、同じく武官は三階、昇進させる。
 この時、百官は大半が殺されており、生き残った者も逃げ隠れていた。ただ、散騎常侍の山偉だけが、闕下にて拝謝した。(胡三省、曰く。山偉は、元乂を褒め称えて出世した人間だから、彼の人格は見えている。今回は、ただ利禄を貪っただけに過ぎまい。)
 洛陽の士民は、心中おっかなびっくりで過ごしており、悪い噂が乱れ飛んだ。
「爾朱栄軍は、洛陽中の物を一切合切略奪してゆくぞ。」
「爾朱栄は、晋陽への遷都を強行するそうだ。」 云々。
 だから、富豪は屋敷を棄て、貧乏人は赤子を背負って、挙って逃げ出した。このとき洛陽に残っている者は、一・二割に過ぎなかった。直衛は空虚になり、官舎も殆ど空っぽだった。
 爾朱栄は、上書した。
「大軍が動く際は、統制を取りにくいもの。その挙げ句、諸王や朝廷の貴人達が大勢横死してしまいました。臣の体を粉々にしようと、この咎を贖うことはできませんが、せめてもの事、河陰にて死んだ方々を追賜して、臣の罪をほんの少しでも軽くしてください。無上王は無上皇帝と追尊し、自余の死者も、王には三司を贈り、三品には令・僕を贈り、五品らは刺史を贈り、七品以下白民(官爵を持たぬ者)には郡鎮を贈りますよう。跡継ぎを持たぬ死者へは、封爵を授けましょう。又、労問の死者も派遣しますよう。」
 孝荘帝は、これに従って詔を出した。ここにおいて、朝士達は、ようやく出仕するようになり、人々も少しは安堵した。無上王の子息韶を彭白王へ封じた。

 爾朱栄は、遷都の夢が棄てきれず、執拗に提議した。孝荘帝は拒みきれなかったが、都官尚書の元甚(「言/甚」)が不可と力争した。爾朱栄は、怒って言った。
「お前には関係ないのに、何で固執するのか!それに、河陰の事を知らぬのか!」
 すると、元甚は言った。
「天下の事は、天下の人々へ広く意見を求めるべきだ。河陰の虐殺など、元甚は恐れんぞ!我は国の宗室で、常伯の位を頂いていながら、今まで無益に生きてきた。我が死んだとて、この国の損失ではない。今日、首が砕け腸が流れようとも懼れはしない!」
 爾朱栄は大怒して元甚を殺そうとしたが、爾朱世隆が固く諫めたので、どうやら事なきを得た。見るものは皆、慄然として震え上がっていたが、元甚は自若としていた。
 数日後、孝荘帝は爾朱栄を連れて高みへ登り、壮麗な宮闕や列を為した樹木を見下ろした。爾朱栄は、感嘆して言った。
「臣は愚闇にも、遷都など考えましたが、今、皇居の盛を見て、元尚書の言葉が思い出されます。尚書の言うとおりでした。」
 こうして、遷都の件は落着した。なお、元甚は、元謐の兄である。 

  

この世の春 

 五月、爾朱栄の官職に、北道大行台が追加された。(この頃、賊軍の中では、葛栄軍が最も強力だった。爾朱栄は、こちらを討伐に向かったのである。詳細は、「六賃の乱」に記載。) 

 爾朱栄は、明光殿で孝荘帝に謁見し、河橋の一件を重々陳謝し、二心を抱かないことを誓った。孝荘帝は、自ら爾朱栄を抱き起こして、誓約を信じ露ほども疑わないと告げた。爾朱栄は喜び、酒を求め、痛飲して熟酔した。孝荘帝は誅殺しようと欲したが、左右が苦諫したので、思い留まった。
 爾朱栄の娘は、もともと粛宗の嬪だった。しかし、孝荘帝を立てた後、爾朱栄は、娘を孝荘帝の皇后にしたくなった。孝荘帝が迷っていると、黄門侍郎の祖瑩が言った。
「春秋時代、晋の公子が秦へ人質となった時、秦王は娘を娶らせました。ところが、この公子は脱出して帰国し、即位しました。晋の懐公です。その頃、晋の公子の重耳が秦へ逃げ込みましたので、秦王は娘を再び娶せました。してみると、この女性は、晋の懐公と文公二人の妃となったのですが、経典では非難されておりません。陛下、何を躊躇われるのですか!」
 遂に、孝荘帝は、これに従った。爾朱栄は、大いに喜んだ。
 爾朱栄は、軽率に行動する人間で、射撃が好きだった。朝廷へ入っても何もすることはなく、ただ、馬に乗って戯れた。西林園にて射撃や宴会を楽しみ、皇后にも臨席させ、王公や妃主なども呼び寄せた。この射宴で、孝荘帝の射た矢が的に当たれば、爾朱栄は躍り上がって喜び、将相卿士に祝杯を空けさせる。この祝杯には、妃主もつき合わされた。そうやって宴たけなわとなって酔いが回ると、爾朱栄は必ず座り込んで虜の歌を歌った。こうして、この射宴は、毎回日暮れまで続いた。
 爾朱栄の性格は、甚だ凶暴。感情の起伏が激しく、刀と弓矢はいつも手放さなかったので、左右はいつも死の恐怖に怯えていた。
 辛酉、爾朱栄は晋陽へ帰った。この時、孝荘帝は亡陰まで見送った。爾朱栄は、元天穆を洛陽へ入れた。元天穆は、侍中、録尚書事、京畿大都督兼領軍将軍となり、朱瑞などの腹心で朝廷を固めて行った。 

  

高乾の挙兵 

 員外散騎常侍の高乾は、高裕の従子である。彼も、彼の弟の高敖曹、高季式も、みんな揃って任侠を好み、孝荘帝とは古なじみだった。
 爾朱栄が洛陽へ向かった時、この兄弟は斉州へ逃げた。そこで河陰の暴虐を聞いたので、彼等は流民をかき集めて挙兵した。河・済一帯で暴れ回り、葛栄の官爵を受ける。屡々州兵を撃破した。
 孝荘帝が、元欽を使者として派遣すると、高乾等は降伏した。孝荘帝は、高乾を給事黄門侍郎兼武衛将軍とし、高敖曹を通直散騎侍郎とした。だが、これに爾朱栄がクレームを付けた。造反した人間を皇帝の手近に置いてはいけないとゆうのだ。孝荘帝は、やむなく二人を解任して、故郷へ帰した。
 高敖曹は、帰郷する途中、略奪を働いた。爾朱栄は、彼を誘い出して捕らえ、薛修義と共に、晋陽に拘留した。高敖曹の名前は昴。しかし、字の方が流布している。 

  

傀儡に堕せず 

 爾朱栄は強大な外藩の主として、朝廷を専断するようになった。孝荘帝の左右を親党で固め、その動静を伺察させた。だから、孝荘帝の動向は、大小となく彼の耳へ入ってきた。
 孝荘帝は、爾朱栄の抑制を受けながらも、朝夕倦まずに政治に勤しんだ。屡々訴訟事を自ら調べ、冤罪を晴らした。それを聞いて、爾朱栄は喜ばなかった。
 官の人事に関して、孝荘帝は吏部尚書李神儁と共に決定していた。ある時、爾朱栄は知人を曲陽県令に推薦したが、李神儁はこれを皇帝へ奏上せず、別の人間を抜擢した。爾朱栄は大怒し、力ずくで交代させた。李神儁は懼れ、辞任を申し出た。そこで爾朱栄は、尚書左僕射の爾朱世隆を後任とした。
 その後、爾朱栄が、胡人を河南諸州の刺史に推薦した。孝荘帝が許可を渋っていると、元天穆が謁見して面談したが、孝荘帝はなおも許さない。すると、元天穆は言った。
「天柱将軍(爾朱栄)は、既に大功を建て、国の宰相となっているのですぞ!もしも皇帝(原文、「譜代天下の官」婉曲的な表現ですが、「皇帝」とズバリ訳してみました。)になろうとしたら、陛下は逆らえるのですか!それに比べれば、数人の州刺史など、どれ程のことがありますか!」
 孝荘帝は顔色を変えて言った。
「天柱将軍が、もしも臣下のままでいたくないと言うのなら、朕はすぐにても交代しよう。だが、将軍が臣節を身につけるというのなら、天下百官を勝手に交代させるとゆう理がどこにあるか!」
 これを聞いて爾朱栄は、大怒し、かつ、憾んだ。
「誰のおかげで天子になれたと思っている!それなのに我の言いつけに背くのか!」
 爾朱皇后は、嫉妬深く、屡々ヒステリーを起こした。そこで孝荘帝は、爾朱世隆に、理を説かせた。すると、爾朱皇后は言った。
「天子なんて、我が家のおかげで立てたんじゃないの。」
 たが、爾朱世隆は言った。
「それでもできないことはある。もしもなんでもありなら、俺はとっくに王を名乗っているぞ。」
 孝荘帝は、外朝では爾朱栄から圧迫を受けており、後宮では皇后から圧迫を受ける。これでは万乗の位に即いていても、怏々として楽しめなかった。ただ、幸いにも群盗が暴れ回っていたので、爾朱栄は戦争に明け暮れなければならなかったし、皇帝をそれなりに尊重しなければならなかった。 

  

水面下 

 中大通二年(529年)、六月。長い大乱も、ようやく終焉した。この間の爾朱栄の活躍は、「六鎮の乱」に記載する。
 大乱平定の勝報を受けた時、孝荘帝は浮かない顔で尚書令の臨淮王イクへ言った。
「これで盗賊が居なくなったな。」
 臨淮王は、孝荘帝が不機嫌なのを見て、言った。
「賊が平定された後、聖慮を患わせる事になるのではないか、と、それが気がかりでございます。」
 孝荘帝は、他の人が怪しむことを懼れ、言い繕った。
「ああ。盗賊の余党を撫寧することの方が大切だし、容易ではないぞ。」
 四方を平定した爾朱栄は、奏称した。
「参軍の許周めが、九錫を取るよう、臣へ勧めました。大それたことを!臣は、怒鳴りつけて降格してやりました。」
 爾朱栄は、殊礼(九錫や参内不趨など)を望んでいたので、朝臣達を風諭したのである。だが、孝荘帝はこれを与えたくなかったので、爾朱栄の忠義を褒めちぎった。 

  

爾朱栄の大望 

 爾朱栄は、狩猟が好きだった。暑かろうが寒かろうがお構いなし。士卒達を勢子にして、一斉に包囲を縮めさせる。時に険阻な地形があって進み方に遅い早いが出来、その間隙を衝いて鹿が一頭でも逃げ出したら、その罪で数人が殺された。
 ある時、虎を見て逃げ出した兵隊が居た。すると、爾朱栄は言った。
「汝は死ぬのが恐いのか!」
 そして、即座に斬り殺した。以来、狩猟へ駆り出された士卒は、まるで戦場に赴くかのように必死になった。
 ある時、谷の行き止まりで虎を見つけた。すると、爾朱栄は命じた。
「素手で生け捕れ。傷つけてはならんぞ。」
 命令を受けた十余人の兵卒が虎と格闘し、数人の死者が出たが、遂に虎を捕らえた。
 このように、爾朱栄の遊びの為に、兵卒は大いに苦しんだ。
 ある時、元天穆が歓談の最中に爾朱栄へ言った。
「大王の勲功は莫大。おかげで四方は無事です。ただ、政治を修め民を養うには、天の時に従うことが肝腎。どうして夏の暑い盛りに狩猟を行い、兵卒を疲れさせるのですか?」
 すると、爾朱栄は裾を払って言った。
「霊后(胡太后)の暴虐へ対して、天子を奉じて矯正したのは、人臣として当然の節義。葛栄などは、もともと奴才。それが時勢に乗じて乱を為しただけではないか。これを捕らえるなど造作ない。こんなもの、手柄にもならんぞ。我は、既に国家から大恩を蒙ったのに、天下を統一することもできてないのだ。何で勲功が莫大等と言えようか!
 今、朝廷の兵卒達は規律が緩んで怠けっぱなしだと聞いている。今年の秋には、兄上と共に出陣して荊州を平定し、汾湖を掃討し、明年には精鋭を率いて揚子江・淮河を撃滅する。蕭衍が降伏したら万戸侯くらい取りなしてやろうが、降伏しなければ、数千騎を率いて捕縛してやる。その上で、兄上と共に天子を奉じて四方を巡回してこそ、勲功と言えるのだ
 今、狩猟をしなければ、兵卒が怠惰になる。そうしたら、物の役にも立たないぞ!」