爾朱氏の乱   爾朱氏滅亡
 
群雄決起 

 幽・安・営・ヘイ四州行台の劉霊助は、自ら方術の達人と吹聴していた。彼が占った所、爾朱氏が衰亡するとの卦が出たので、起兵して燕王、開府儀同三司、大行台と自称した。そして、「孝荘帝の復讐を遂げる」と宣伝し、図讖をでっちあげた。
「劉氏、まさに王たるべし。」
 ここにおいて、幽、瀛、滄、冀州の民が、大勢、彼の元へ集まってきた。彼に従う者は、夜中に篝火を焚いた。だから、火を焚かない村が有れば、皆で襲撃した。
 彼等は、まず、博陵の安国城へ向かった。
 爾朱兆は、監軍の孫白鷂を冀州へ派遣した。孫白鷂は、民間の馬を挑発すると宣言し、高乾兄弟をその任に充てたが、徴収させた後は彼等を捕らえるつもりだった。だが、これが高乾兄弟に洩れてしまった。兄弟は、前の河内太守封隆之と共謀して密かに壮士を集め、信都を襲撃し、孫白鷂を殺し、冀州刺史元嶷を捕らえた。
 高乾等は、父親の高翼を州事へ推戴しようとしたが、高翼は言った。
「郷里をまとめる能力では、封隆之の方が俺より上だ。」
 そして、封隆之を州事へ推戴し、孝荘帝の葬礼を行った。将士に喪服を着せて祭壇に登り、皆で誓いを立てた。又、爾朱氏を滅ぼそうと州郡へ檄を飛ばして、劉霊助の節度を受けた。
 殷州刺史爾朱羽生が、五千人を率いて信都を襲撃した。高敖曹は武装する暇もなく、十余騎を率いて迎撃した。城中にいた高乾は大慌てで五百人を率いて救援に向かわせた。しかし、彼等が戦場へ到着した時には、既に高敖曹は、敵を撃退していた。高敖曹の馬は天下の名馬。彼の部下は、一人残らず百人力。当時の人々は、高敖曹を項羽に喩えた。
 高歓は、壺関まで進軍し、ここに二ヶ月ほど逗留したが、やがて東へ進み、信都を攻撃すると吹聴した。信都の人々は畏れたが、高乾は言った。
「高晋州は、一世の英雄と聞いている。人の下に甘んじる人間ではない。それに、爾朱氏は無道にも主君を弑逆し民を虐待している。今こそ、英雄が功績を建てる時。今日の来襲は、きっと深謀遠慮あってのことだ。俺は、軽騎で出迎え、密かに意向を打診する。諸君、怯えるでないぞ。」
 そして、封隆之の子息の封子繪と共に、十数騎を率いて釜口にて高歓と密会し、言った。
「爾朱氏は酷逆にも人神を踏みにじりました。心ある者が、どうして発憤せずにいられましょうか!明公の威徳はもとより顕著で、天下の人々が心を傾けています。もしも起兵して義を唱えれば、屈強の軍団も明公の敵ではありません。鄙州は小さいとはいえ、戸口十万を下りません。ここで穀物を徴収すれば、軍資も充分。明公、どうか熟慮なさってください。」
 高乾は意気軒昂。高歓は大いに悦び、彼と一つ帳で眠った。
 話はさかのぼるが、河南太守李顕甫は任侠を好み、一族数千人を集めて、殷州の西山に六十里四方の土地を得て群居していた。
 李顕甫が卒すると、子の李元忠が後を継いだ。李家は元々富豪で、多くの金を貸し付けていたが、李元忠はその証文を全て焼き捨てて、全ての債権をチャラにしたので、人々から崇められた。
 この頃、盗賊が蜂起していた。清河には五百人の守備兵がいたが、彼等の任期が満ちて帰る時、趙郡から先へは行けなかった。そこで彼等は、李元忠のもとへ帰順した。すると、李元忠は一人の奴隷を彼等の許へ派遣して伝えた。
「これから先、盗賊達にあったなら、『李顕甫の命令で動いている』と言いなさい。」
 彼等がその通りにすると、盗賊達は皆、道を開けた。
 やがて葛栄が起兵すると、李元忠は一族を率いて塁を造り、自衛した。彼は大きな樹の下に座り部下を指揮する。賊が来るまでの間に、命令違反した者を前後三百人ほど斬り殺した。
 来襲した葛栄は言った。
「俺達は、中山からここまで進軍した。李元忠ごときに敗北するようで、どうして天下を奪えようか!」
 そして部下を率いて包囲し、李元忠を捕らえて従軍させた。
 爾朱栄が葛栄を滅ぼすと、李元忠を南趙郡太守に任命した。しかし、彼は酒ばかり飲み、業績は上がらなかった。
 爾朱兆が孝荘帝を弑逆すると、李元忠は官職を放り出して帰郷し、挙兵しようと考えていた。そんな折、高歓が進軍してきたので、李元忠は露車に乗って出迎え、酒を献上した。高歓は、その報告を受けたが、うちゃっておいた。すると、李元忠は一人で下車し、座り込んで酒を飲み肉を食べながら門番へ言った。
「公は豪傑を好むと聞いていた。昔、周公は客人が来たと聞けば食事中でも食べ物を吐き出して出迎えたと言うし、漢の高祖は沐浴中に髪を絞って飛び出したと聞くぞ。今、国士が来たというのに、これか。底が見えたというものだ。この上は、俺を殺さなければ、ここを通さんぞ!」
 門番がこれを伝えると、高歓は慌てて迎え出、すぐに引き入れると杯を交わした。李元忠は車から楽器を取り出し、これをつま弾いて長歌慷慨した。歌い終わって、彼は言った。
「天下の形勢は見て取れる。明公はまだ爾朱氏へ仕えられるのか?」
 高歓は言った。
「私の富貴は全て爾朱氏の賜。なんで忠節を曲げられようか!」
「英雄ではないな!高乾兄弟はまだ来ておらぬのか?」
 この時には、高歓は高乾に会っていたが、これを隠して言った。
「渤海の田舎者が、なんでやって来ようか!」
「田舎者だが、ひとかどの男だ。」
「趙郡は酔われましたか。」
 高歓は、そう言って担ぎ出すよう部下へ命じたが、李元忠は立ち上がろうとしない。すると、孫騰が進み出て言った。
「この男は、天の使い。逆らってはなりません。」
 そこで、高歓は李元忠を留め、胸襟を開いて共に語った。本音で語り合うと、李元忠は慷慨の余り涙を零し、高歓も悲しみが止まらない。そこで、李元忠は言った。
「殷州は小さく、献上できる穀物も知れたもの。ここだけで大事を成し遂げることはできない。だが、もしも冀州へ向かえば、あそこには高乾兄弟が居る。彼等は必ずや明公を主人と仰ぐだろう。その上で、我も殷州を献上すれば、滄・瀛・幽・定州も風に靡くように服従する。ただ、劉誕だけは契胡なので反抗するかも知れないが、相州一州くらい、明公の敵ではない。」
 高歓は李元忠の手を執って感謝した。
 高歓は山東へ着くと、将兵へ誓約した。
「民間のものは、毫毛も侵してはならぬ。」
 そして、畑を通る度に下馬して馬を牽き、麦を傷つけないように気を配ったので、高歓の評判は益々あがった。
 高歓は、相州にて、劉誕へ兵糧を求めた。劉誕は拒絶する。だが、劉誕の軍営に年貢米があったので、高歓はこれを略奪して進軍した。
 高歓軍が信都へ到着すると、封隆之や高乾等は城門を開いて迎え入れた。
 この時、高敖曹は外へ戦争に出ていたが、この話を聞いて高乾を女のように軟弱だと非難し、婦人の下着を送った。そこで高歓は、世子の高澄を彼のもとへ送り子孫の礼を執らせたので、高敖曹も高歓のもとへ帰順した。 

  

爾朱氏の専横 

 癸酉、長廣王曄を東海王に封じた。青州刺史の魯郡王粛を太師とした。淮陽王欣を太傅とした。爾朱世隆を太保とした。長孫稚を太尉とした。趙郡王甚を司空とした。徐州刺史爾朱仲遠とヨウ州刺史爾朱天光を共に大将軍とした。ヘイ州刺史爾朱兆を天柱将軍とした。また、高歓には渤海王の爵位を賜下し、入朝を命じた。
 長孫稚は、太尉を固辞したので、驃騎大将軍、開府儀同三司となった。
 爾朱兆は、天柱将軍を辞退して言った。
「天柱将軍は、我が叔父が殺された時の官職だ。こんなもの、受けられるか!」
 そこで、都督十州諸軍事を加えられ、ヘイ州刺史の世襲が認められた。
 高歓は、渤海王の爵位を辞退し、入朝を断った。
 爾朱仲遠は、大梁へ移動してここを鎮守していたので、コン州刺史も追加された。
 爾朱世隆が始めて僕射になった頃、彼は爾朱栄の威厳を畏れていたので、真面目に仕事に励んで尚書省の文書には丁寧に目を通し、賓客へ対しては腰を低くして接していた。それ故、爾朱世隆の評判はすこぶる良かった。だが、爾朱栄が死んでしまうと憚るものが無くなり、尚書令になっても家事へ対するように勝手気儘に仕事をするようになった。
 どんな事でも、まず爾朱世隆へ報告してからでなければ、役人達は仕事にかかれない。訴訟事は尚書郎の宋遊道と刑斤に専任され、彼等は爾朱世隆の意向通りに行った。財貨には貪婪で生殺でさえ放埒に行う。又、兵卒の人気を取ろうと気前よく官職を与えたので、みんな将軍になってしまった。定員などはお構いなしに昇進させ、勲賞の官が氾濫し、誰もありがたがらなくなった。
 この時、爾朱天光は関右、爾朱兆はヘイ・汾、爾朱仲遠は徐・コンを各々の専制し、爾朱世隆は朝廷を独壇。彼等は貪婪と暴虐を競い合っていた。中でも、爾朱仲遠は最も甚だしく、領内の富豪大族へ対して謀反の罪をでっち上げ、次々と潰していった。そして、家財や婦女を没収し、男子は黄河へ捨てる。この類の暴虐など、掃いて捨てるほどであり、いちいち記録することもできい。栄陽以東の租税は全て軍が使用し、洛陽へは送らない。東南の州郡は、牧や太守から士民へ至るまで爾朱仲遠を豺狼のように畏れていた。
 これによって、四方の人々は皆、爾朱氏を憎んでいたが、その強盛を憚り、あえて逆らわなかった。 

  

妖人の末路 

 魏は、大都督の侯淵と驃騎大将軍叱列延慶へ劉霊助討伐を命じた。討伐隊は固城まで進軍したが、賊軍が大軍だったので侯淵は怖じ気づき、関に據って守りを固め、敵に変事が起こるのを待とうとした。すると、叱列延慶は言った。
「劉霊助は凡庸な人間。妖術に仮託して衆人を惑わしているだけに過ぎません。奴は、『護符の力で敵の戦意を失わせるから、戦って負けることがない。』と豪語しています。我らが大軍で押し寄せれば、妖術を恃んでいる連中が、どうして死力を尽くして戦おうとしましょうか!そんな奴等、造作なく蹴散らせます。ここは城外へ出て、『西へ帰る』と吹聴するのが一番です。劉霊助がそれを聞けば、護符の霊験が利いたと喜び、図に乗って油断しますから、我らは密かに敵の背後へ回って攻撃するのです。必ず奴を捕らえられます。」
 侯淵はこれに従った。
 討伐軍は、洛陽へ帰ると宣伝しながら、精鋭兵千騎で敵の背後に回り、劉霊助の塁を直撃した。劉霊助は敗戦し、斬り殺され、首は洛陽へ送られた。
 始め、劉霊助が起兵した時に占ってみると、次のような結果になった。
「三月には定州へ入れるし、爾朱氏は遠からず滅びる。」
 劉霊助の首が定州へ届けられたのは、果たして三月の末だった。 

 四月、高歓が大都督、東道大行台、冀州刺史に任命された。又、安定王爾朱智虎が肆州刺史となった。
 又、爾朱彦伯が司徒になった。
 同月、爾朱天光が宿勤明達を捕らえた。 

  

高歓決起 

 高歓の爾朱氏討伐は、鎮南大将軍斛律金、軍主庫狄千を始め、高歓の妻の弟の婁昭、妻の姉の夫の段栄等が、皆、これを勧めた。
 そこで高歓は、まず噂を流した。
「爾朱兆が、六鎮の人間を契胡の配下へ組み込もうとしている。」
 人々は、皆、恐れ憂えた。
 六月、「爾朱兆が歩落稽討伐の為に徴兵している」と偽って、一万人の兵卒を選んだ。この兵卒達をヘイ州へ派遣しようとした時、孫騰と尉景が、兵卒達の為に五日間の猶予を請うた。その五日が過ぎれば、更に五日延ばす。その十日の間に、密かに兵卒達を扇動していた。その上で、いざ派兵する時、高歓が自ら郊外まで見送りに行った。この時、高歓は涙をこぼしながら兵卒を送り出す。すると兵卒達も泣き出して、慟哭の声が原野を震わせた。
 皆が悲嘆にくれて泣き濡れた後、高歓は言った。
「俺もおまえ達も、故郷を離れて鎮に戸籍を持つ身の上。いわば家族のようなものだ。それが今日、上の人間がおまえ達を徴発してしまうとは!しかし、もとの鎮へ戻ったら殺される。集合の期日に遅れても殺される。そして、爾朱兆などの配下になったら、きっと殺されてしまうぞ。どうすれば良い?」
 すると、皆は叫んだ。
「造反するしかない!」
「それは早計だ。それに、造反するには指導者がいるぞ。誰を推すつもりか?」
 皆は、高歓を推戴した。すると、高歓は言った。
「おまえ達の上に立つのは難しい。葛栄の末路を忘れてはおらんぞ。たとえ百万の大軍があろうとも、統制がとれなければ遂には自滅してしまうものだ。今、我を主にするのなら、我は今までの主とは違うぞ。軍令を犯した者は、その生死を俺へ任せるとゆうのなら、主となろう。だが、そうでなければ天下の笑いを取るだけだ。」
 対して、皆は言った。
「生きるも死ぬも、仰せのままに!」
 そこで、高歓は子牛を殺して兵卒を饗応し、信都で起兵した。ただし、この時点では爾朱氏への反旗は、まだ明言しなかった。
 やがて、李元忠が挙兵して殷州へ迫った。すると高歓は、高乾へ殷州救援を命じた。高乾は軽騎で殷州刺史の爾朱羽生と会見し、計略を実地に説明すると誘い出して、これを斬り殺した。 
 高乾が信都へ戻って爾朱羽生の首を見せると、高歓は肘を撫でて言った。
「とうとう、造反が決定したか!」
 そして、李元忠を殷州刺史に任命し、廣阿を鎮守させた。そして、爾朱氏の罪状を告発した抗表を出したが、尚書令の爾朱世隆はこれを握りつぶし、節閔帝へは上表しなかった。 

  

楊氏の惨劇 

 楊播と、弟の楊椿、楊津は、皆、徳名があった。楊播は剛毅で楊椿、楊津は恭謙。一族揃って孝友で、仲違いしなかった。楊椿、楊津は三公にまで出世し、一門の内、郡太守七人、州刺史三十二人を輩出した。
 孝荘帝が爾朱栄を誅殺した時、楊播の子息の楊侃は、その謀に参画していた。城陽王徽も李イクも彼等の姻戚である。
 爾朱兆が入洛すると、楊侃は華陰へ逃げ帰った。爾朱天光は、楊侃の舅の葦義遠に彼を招聘させた。過去の罪を赦し、同志となろうとゆうのだ。楊侃は言った。
「これが罠でも、私一人が殺されるだけ。一門百人は無事で済む。」
 遂に、これに応じた。爾朱天光は、楊侃を殺した。
 この時、楊椿は隠居していた。その子息の楊立(「日/立」)は華陰に住んでいた。楊椿の弟の冀州刺史楊順、司空の楊津、楊順の子の東ヨウ州刺史楊弁、正平太守の楊仲宣などは、皆、洛陽に住んでいた。
 七月、爾朱世隆は、楊氏が造反を企てているとでっち上げ、これを糾明するよう請上したが、節閔帝は許さなかった。しかし、爾朱世隆が強行に請上したので、とうとう断りきれず、役人へ尋問させるよう命じた。
 壬申の夜、爾朱世隆は楊津の屋敷を包囲し、爾朱天光は華陰にある楊津の家を襲撃させた。楊一族は、幼長となく皆殺しになり、家財は全て没収された。
 この後、爾朱世隆は奏上した。
「楊氏の造反は事実でした。抵抗したので、やむを得ず、皆殺しに致しました。」
 節閔帝は黙りこくったまま、遂に何も言わなかった。この事件が知れ渡ると、朝野揃って憤慨した。
 楊津の子息の楊逸は光州刺史として下向していたが、爾朱仲遠が刺客を放って殺した。
 ただ、楊津の子息の楊音(「心/音」)だけはたまたま外出していたので、禍を逃れることができた。彼はそのまま逃亡し、高歓のもとへ逃げ込んで家禍を泣いて訴えた。その上で、爾朱氏討伐の方策を告げたので、高歓は彼を重んじ、行台郎中に取り立てた。 

 丙戌、旱が続いたので、司徒の爾朱彦伯が責任をとって辞任した。爾朱彦伯は、侍中、開府儀同三司となる。彼は、爾朱氏の兄弟の中では人格的にましな方だった。
 斛斯椿が、朱瑞の事を爾朱世隆へ讒言した。爾朱世隆は、朱瑞を殺した。 

  

緒戦 

 高歓の起兵を聞いても、爾朱仲遠や爾朱度律は自分の強大さを恃み、歯牙にもかけなかったが、爾朱世隆だけはこれを憂えた。爾朱兆は、二万の兵力を率いて殷州へ向かった。すると、李元忠は城を棄てて逃げた。
 八月、爾朱仲遠と爾朱度律が、兵を率いて高歓討伐に向かった。
 九月、爾朱仲遠が太宰に、爾朱天光が大司馬になった。
 孫騰が、高歓へ説いた。
「今、我等は朝廷から隔絶されていますので、号令を下しても裏付けがなく、権威が立ちません。このままでは、いずれ衆は離散してしまいます。」
 高歓は、この説を疑ったが、孫騰が再三請うたので、遂に渤海太守の安定王朗を帝位に即けた。安定王は、章武王融の子息である。中興と改元する。高歓は、侍中・丞相・都督中外諸軍事・録尚書事・大行台となった。以下、人事は次の通り。
 高乾は侍中・司空。高敖曹は驃騎大将軍・儀同三司・冀州刺史。孫騰は尚書左僕射。魏蘭根は、右僕射。
爾朱仲遠、爾朱度律、斛斯椿、賀抜勝及び車騎大将軍賈顕智は陽平へ宿営した。爾朱兆は廣阿に宿営。兵力は、号して十万。
 高歓は、反間工作として、噂を流した。
「爾朱世隆兄弟は、爾朱兆を殺そうとしている。」
「爾朱兆は、実は高歓と結託して爾朱仲遠を殺そうとしているのだ。」云々。
 これによって、官軍は互いに猜疑しあい、なかなか進軍しなかった。
 爾朱仲遠は、しばしば斛斯椿や賀抜勝を使者として爾朱兆のもとへ送り、彼を諭した。そこで、爾朱兆は軽騎三百騎を率いて爾朱仲遠のもとへやって来た。しかし、座に就いた時、顔色は不満げで、手では馬鞭を弄び、爾朱仲遠の事を露骨に疑っていた。そして、俄に飛び出して、馳せ帰った。爾朱仲遠は、斛斯椿と賀抜勝に追いかけて行って説得するよう命じたが、爾朱兆は、二人を捕らえて自分の陣営へ戻った。爾朱仲遠と爾朱度律は大いに懼れ、兵を率いて南へ帰った。
 爾朱兆は、賀抜勝を殺そうとして、その罪状を数え上げた。
「お前は衛可孤を殺した。天柱将軍が死んだ時、お前は世隆のもとを逃げ去り、仲遠を討伐した。だから、俺は前々からお前を殺そうと思っていたのだ。何か言うことがあるか?」
 すると、賀抜勝は言った。
「衛可孤は国の巨患。我等親子が彼を殺したのは大きな功績だったのに、これを却って罪と言うのか?天柱が殺されたのは、主君が臣下を誅殺したのだ。我は王に背くとも、国には絶対に背かない。今、賊軍が迫っているのに、却って骨肉で猜疑しあっている。古来より、こんな事をして滅びなかった氏族はないぞ。我は死ぬことなど恐くない。ただ、王の失策を恐れるのだ。」
 爾朱兆は、彼を捨て置いた。
 高歓は、爾朱兆と戦おうとしたが、敵の兵力を恐れ、親信都督の段韶へ尋ねた。すると、段韶は言った。
「『衆』と言うのは、衆人へ死力を尽くさせられる事を言うのです。『強』とは、天下の心を得ることを言うのです。爾朱氏は、上は天子を弑逆し、中は公卿を屠り、下は百姓を虐げています。王は順を以て逆を討つのですから、雪へ熱湯を注ぐようなもの。敵は衆でも強でもありませんぞ!」
「とは言うものの、小を以て大を討つのだ。天命がなければ助からないぞ。」
「『小が大を倒せるのは、小が道義を踏まえており、大が淫虐な場合だけだ。』『皇天は誰にもひいきせず、ただ徳のある者だけを助ける。』と、私は聞いております。爾朱氏は、外は天下を乱し、内は英雄の人望を失っております。智者は彼等の為に謀りたがらず、勇者は彼等の為に戦いたがりません。人心が既に去ってしまった以上、天意に従わない者はおりませんぞ!」
 段韶は、段栄の息子である。
 辛亥、高歓は爾朱兆軍を大破し、武装兵五千人を捕らえた。 

 十一月、高歓は業を攻撃した。相州刺史劉誕は、籠城して防戦に徹した。
 高歓は、業城攻撃の為に、地下道を造った。この地下道は、柱で支えており、完成した時に柱を焼いた。すると地面は支えを無くし、たちまち陥没してしまった。
 四年、正月。高歓は業を抜き、劉誕を捕らえた。楊音を行台右丞とする。
 この頃、内乱続きで、檄文を始め文書が多数作成されたが、その文面は楊音と開府諮議参軍の崔悛が作成した。
  二月、安定王は、高歓を丞相、柱国大将軍、太師に任命。高澄を驃騎大将軍とした。三月、安定王は、百官を率いて業へ入居した。 

  

韓陵の戦 

 爾朱兆と爾朱世隆は、互いに猜疑しあっていた。しかし、爾朱世隆はこれを何とか打開しようと、爾朱兆の機嫌を取ることに務め、彼の娘を節閔帝の皇后にした。爾朱兆は大いに悦び、爾朱仲遠や爾朱度律と誓約を交わし、彼等は再び親睦した。
 斛斯椿が、賀抜勝へ密かに言った。
「爾朱氏は、天下へ害毒を垂れ流しているのに、我等は彼等の手先となっている。このままでは滅亡の日も遠くない。何とかしなければ。」
 賀抜勝は言った。
爾朱兆と爾朱天光は、各々一方に據っている。両方一度に根絶することは非常に難しい。だが、どちらかを残したら、必ず後患となるぞ。」
「それならば、簡単なことだ。」
 そして、爾朱天光も呼び寄せて、総力を挙げて高歓を討伐するよう爾朱世隆へ勧めた。爾朱世隆は得心し、屡々爾朱天光を招聘したが、爾朱天光はやって来ない。とうとう、斛斯椿が爾朱天光のもとへ出向いて、言った。
「高歓が造反したのです。王でなければ平定できません。宗族が滅亡する有様を座視して宜しいのですか!」
 爾朱天光はやむを得ず東進しようとしたが、その直前に賀抜岳へ策を問うた。すると、賀抜岳は言った。
「王の一族は三方に割拠しておりますし、士馬は殷盛。対して高歓など烏合の衆、相手にもなりませんぞ!我等が一致団結して協力すれば、向かうところ敵はありません。しかし、骨肉で猜疑しあえば、存続だけで手一杯。どうして人を制圧できましょうか!下官の所見を申すなら、王は関中を鎮守して根本を固め、精鋭兵だけを派遣するべきです。そうすれば、進んでは敵を撃破できますし、退いても所領を全うすることができます。」
 しかし、爾朱天光は従わなかった。
 閏月、爾朱天光は長安から、爾朱兆は晋陽から、爾朱仲遠は東郡から、爾朱度律は洛陽から、全ての兵力を業へ結集した。その兵力は、号して二十万。亘(「水/亘」) 水を挟んで宿営した。節閔帝は、長孫稚を大行台に任命し、これを総督させた。
 高歓は、吏部尚書封隆之に業を守らせ、紫百(「里/百」)へ陣を布いた。大都督高敖曹は、郷里部曲王桃湯等三千人を率いて従軍する。
 高歓は言った。
「高都督が率いるのは、全て漢兵。鮮卑兵千人を混ぜてみてはどうか?」
 すると、高敖曹は答えた。
「我が率いるのは、長い間調練し、格闘経験も豊富な強者。鮮卑兵にひけはとりません。もしも今混成軍にしたならば、兵卒同士の疎通が無くなり、却って混乱します。進軍する時には手柄を争い、退却したら罪をなすりあうでしょう。かえって邪魔になります。」
 庚申、爾朱兆は軽騎三千を率いて業城を夜襲した。西門を叩いたが、勝てずに退却する。
 この時、高歓の兵力は、戦馬は二千たらず、歩兵も三万弱に過ぎなかった。兵力では問題にならないほど少なかったが、壬戌、韓陵へ円陣を布いた。しかも牛や驢馬を連ね繋いで帰道を塞いだので、将士は皆、決死の心を持った。
 爾朱兆は高歓を望み見て、彼が自分に背いたことを詰った。すると、高歓は言った。
「もともと、共に帝室を輔ける為に力を尽くしていたのだ。今、天子はどこにいる?」
「永安は天柱将軍を無体にも謀殺した。我は復讐しただけだ。」
「我は昔、天柱将軍の計略を聞いたぞ。その時、お前は戸口に立っていたではないか。天柱将軍が謀反を企んでいなかったとは言わせないぞ!それに、主君が臣下を殺したのに、なんで報復するのか!今日、お前とは義絶する。」
 遂に、両軍は戦った。
 高歓は中軍を指揮し、高敖曹は左軍、そして高歓の従兄弟の高岳が右軍を率いた。
 高歓軍の方が旗色が悪く、爾朱兆等はこれに乗じた。すると、高岳が五百騎で敵の前面を衝き、別将の斛律敦ははぐれた兵卒を集めて敵の背後を討ち、高敖曹は千騎を率いて横合いから攻撃した。これによって爾朱兆軍は大敗し、賀抜勝と徐州刺史杜徳が陣営ごと高歓へ降伏した。
 爾朱兆は、慕容紹宗へ言った。
「公の言葉を用いなかったばっかりに、こんな事になってしまった!」
 そして、軽騎を率いて晋陽まで逃げようとした。慕容紹宗は、ドラを鳴らして敗残兵をかき集め、軍を再編成して退却した。爾朱兆が晋陽へ戻ると、爾朱仲遠も東郡へ逃げた。爾朱彦伯は、河橋を守ろうとしたが、爾朱世隆は従わなかった。
 爾朱度律と爾朱天光は洛陽へ向かおうとした。
 斛斯椿は、賈顕度と賈顕智へ言った。
「今、爾朱氏を捕らえなければ、我等は一族全滅してしまうぞ。」
 そして、夜、桑の下で盟約を結び、馬を馳せて先に洛陽へ帰った。
 爾朱世隆は、外兵参軍の陽叔淵を北中(河橋の北岸にある。)へ派遣して、敗残兵を再編成させた。斛斯椿等が北中城へ到着した時、陽叔淵は入城させなかったので、斛斯椿は言った。
「爾朱天光の部下は、皆、西方の人間だ。彼等は洛陽で略奪して、長安へ遷都しようと考えている。我等は軍備を整える為、急いで洛陽へ帰らなければならないのだ。」
 陽叔淵は、これを信じ込んでしまった。
 四月、斛斯椿等は河橋へ入り、爾朱氏の一味を殺し尽くした。爾朱度律と爾朱天光はこれを攻撃しようとしたが、折悪しく大雨が一昼夜降り続き、士馬は疲れ果てて弓も使えない状況だった。彼等は遂に西へ逃げたが、塁陂津にて捕まり、斛斯椿のもとへ送られた。
 斛斯椿は、長孫稚を洛陽へ派遣して状況を説明すると共に、賈顕智と張歓に爾朱世隆を襲撃させ、これを捕らえた。
 この時、爾朱彦伯は禁中にいたが、長孫稚は髪虎門で陳情した。
「高歓の忠義も功績も、既に天下を覆っております。どうか爾朱氏を誅滅してください。」
 節閔帝は舎人の郭祟を使者として、これを爾朱彦伯へ伝えた。爾朱彦伯は狼狽して逃げ出そうとしたが捕まり、爾朱世隆と共に斬られた。その二つの首と爾朱度律、爾朱天光の二人は、皆、高歓のもとへ届けられた。
 節閔帝は、高歓のもとへ中書舎人の廬弁を派遣し、彼をねぎらった。高歓は、廬弁を安定王へ謁見させようとしたが、廬弁はこれを断り、無理強いできなかった。
 辛未、驃騎大将軍、行済州事の侯景が、安定王へ降伏した。彼は、尚書僕射、南道大行台、済州刺史に任命された。 

 爾朱仲遠は、梁へ亡命した。彼の帳下の都督喬寧と張子期は滑台から高歓へ降伏した。すると、高歓は彼等を責めて言った。
「お前達は、爾朱仲遠に仕えて、その利益を独占してきた。そして、彼へ対して生死を同じくすると誓ったのではないか。実際、爾朱仲遠が造反して洛陽へ攻め込んだ時には、お前達が率先していた。それなのに、今、爾朱仲遠が南へ逃げると、お前達は見捨ててしまった。お前達は、天子へ対しては不忠、仲遠へ対して不信。犬や馬でさえ、飼い主への恩義は知っているぞ。お前達は犬馬以下だ!」
 遂に、彼等を斬った。 

 爾朱単光が東へ向かう時、弟の爾朱顕寿を長安へ留めて、鎮守させていた。
 この時、爾朱天光は、秦州刺史の侯莫陳悦を従軍させようと思っていた。ところで、賀抜勝は爾朱天光の敗北を予想していた。そこで、侯莫陳悦を長安へ留めさせて、彼等が敗北したら、侯莫陳悦と共に高歓に降伏したかったのだが、その為の計略が思い浮かばなかった。すると、宇文泰が賀抜岳へ言った。
「今、爾朱天光は、まだ近くにいます。ですから、侯莫陳悦に二心はないでしょうから、彼へ裏切りを持ちかけても、驚恐されるだけです。ただ、侯莫陳悦が主将とはいえ、部下の心を掌握しきっているわけではありません。もしも、まず彼の兵卒を説き伏せれば、皆は故郷を想ってぐずつきます。それで進軍が遅れて爾朱天光の定めた期日に間に合わず、更に部下の動乱を恐れた頃、その動揺につけ込んで説き伏せれば、侯莫陳悦も必ず乗ってきます。」
 賀抜岳は大いに喜び、宇文泰を侯莫陳悦の軍へ入れた。そして、この計略は巧く進んで、遂に、侯莫陳悦は賀抜岳と共に長安を襲撃したのである。
 宇文泰は、軽騎を率いて前駆となった。爾朱顕寿は城を棄てて逃げ出したが、これを追撃して捕らえた。高歓は、賀抜岳を関西大行台とした。賀抜岳は、宇文泰を行台左丞、領府司馬に任命し、事は大小となく、皆、彼に委ねた。 

 爾朱一族が高歓との決戦へ向かう頃、爾朱世隆は、斉州行台尚書の房謨へ、募兵して四涜へ向かうよう命じた。又、その弟の青州刺史房弼には、乱城にてキカクの勢を張るよう命じた。
 やがて韓陵で爾朱氏が敗北すると、房弼は東陽へ帰った。爾朱世隆が殺されてしまうと、梁へ亡命しようと考え、数人の部下を集めて盟約を交わそうとした。肱を傷つけ、その血を交わしあうとゆうものだ。すると、日頃から彼が親任している帳下都督の馮紹隆が言った。
「もっと大勢と誓約するべきです。その時、胸を切って血を出した方が、より効果的でしょう。」
 房弼はこれに従い、大勢の部下を集めた。そして胸を開いて馮紹隆へ刀を渡したところ、馮紹隆は、そのまま房弼を刺し殺し、首を斬って洛陽へ送った。 

 丙子、安東将軍辛永が建州ごと安定王へ降伏した。 

(訳者、曰く)
 爾朱軍は大軍だった。対して、高歓軍は寡勢。にもかかわらず大勝し、しかも、それを大勢の人間が予期していた。
この戦いに於いて、一応は、高岳や斛律敦、高敖曹の横撃が決定打のように記載されているが、二十万の大軍へ対して、僅か数千の部隊が襲撃を掛けたところで、どれ程の効果があるのだろうか?察するに、爾朱氏連合軍の兵卒達は、最初から戦意が全くなかったのだろう。常日頃から爾朱氏の専横に虐待されていれば、「敗戦したら爾朱氏が滅亡し、却って生活が楽になる」位の打算は持っていただろう。例え二十万の大軍を擁していようと、彼等が全員、戦いもしないで逃げ出したとしたら、負けるのが当然だ。この戦役で、爾朱軍の死傷者はどれ程居たのだろうか?記載されていないが、多分殆ど居なかっただろう。爾朱一族の横暴は、十分に記載されていた。それを読めば、この戦役については詳細を述べる必要もなかったのである。その上、爾朱一族が互いに猜忌し合っていたのならば、尚更である。
 ただ、この一戦で大敗すれば、爾朱一族も危機感を持ったかも知れない。それで彼等の言動が多少とも改まったならば、次の戦いでは兵卒達に戦意が出るかも知れない。今回の戦役ほど巧くは行かなかっただろう。
 そう考えるなら、高歓等が、この戦争に爾朱一族を総出動させたがった訳がよく判った。逆に、爾朱兆の為に謀るならば、ここは戦ってはならなかったわけだ。戦争に於いて、兵力の分散投入は各個撃破される下策だとゆうのが常識だが、今回は全く逆だった。唆す方とすれば、正攻法を説けばよいのだから、やりやすかっただろう。逆に、諫める側としたら、まさか日頃の暴虐に言及することはできなかっただろうから、実に困難だっただろう。彼等が策にはまったのも、もっともである。
 歴史にifはないが、もしも賀抜岳の献策が容れられて、精鋭兵だけが投入されたなら、歴史が変わっていたに違いない。 

  

孝武帝即位 

 辛巳、安定王は亡山へ到着した。
 ところで、安定王は、血筋から言えばかなり縁遠い。そこで高歓は、節閔帝を奉じようと考え、魏蘭根を使者として洛陽へ派遣した。節閔帝の為人を見させる為である。
 節閔帝と会見した魏蘭根は、帝の居住まいが神のように高明だったので、後々制御しにくくなることを恐れ、高乾兄弟や黄門侍郎崔悛と共に、節閔帝を廃するよう高歓へ勧めた。
 高歓は、百官を集めて、誰を立てるべきか尋ねたところ、誰も応える者が居なかった。すると、太僕の其毋儁が言った。
「節閔帝は賢明なお方です。社稷の主たるべきです。」
 高歓は喜んだが、崔悛が気色ばんでいった。
「賢明な人間なら誰でも良いのか?それならば、高王こそ最も賢明。大位へ登らせるべきだとゆうことになるぞ。そもそも、廣陵王は造反した胡人に立てられたもの。そんな人間を、どうして天子と奉じられようか!其毋儁の提案に従うのなら、王師の決起に、なんの大義名分があるのか!」
 そこで、高歓は節閔帝を祟訓仏寺へ幽閉した。
 高歓が入洛すると、斛斯椿が賀抜勝へ言った。
「今、天下は我と君のみにかかっている。もし、先んじて人を制さなければ、必ず人から制せられる。高歓は入洛したばかり。これを謀るのは難しくないぞ。」
 すると、賀抜勝は言った。
「彼は功績を建てたばかり。これを害するのは不祥だ。それに、この数日、高歓と同宿したが、彼は往年を懐かしみ、兄の恩に感謝していた。兄上は何を苦しんで彼を憚るのか!」
 それで、斛斯椿は思い留まった。
 高歓は、当初、孝文帝の子息の汝南王悦を立てようと考えたが、彼が凶暴だとの噂を聞いて取りやめた。
 この頃、多くの諸王は逃げ隠れていた。尚書左僕射の平陽王修は廣平王懐の子息だが、彼も田舎へ隠れていた。高歓は彼を立てようと考え、斛斯椿に探させた。斛斯椿は、王と仲の善かった員外散騎侍郎の太原王思政へ王の居所を尋ねたところ、太原王は言った。
「どうしてそのようなことを聞くのですか?」
「平陽王を天子に立てようと思っているのです。」
 そこで、太原王は、居所を教えた。
 斛斯椿が太原王と共に、平陽王へ会いに行くと、平陽王は顔色を変えて、太原王へ言った。
「我を売ったのか?」
「違う。」
「どうしてそっとしておいてくれなかった?」
「事情は変わるもの。放置できなくなったのだ。」
 斛斯椿は、高歓のもとへ復命した。高歓は四百騎を率いて平陽王を迎えに行き、誠意を尽くし、涙まで零して即位を請うた。平陽王は寡徳を理由に断ったが、高歓が再拝するに及んで、ついに受諾した。
 戊子、平陽王は即位した。これが孝武帝である。太昌と改元する。
 高歓を大丞相、天柱将軍、太師とし、定州刺史を世襲させる。高澄には、侍中、開府儀同三司を加える。
 さて、高歓は司馬子如と仲が善かった。だから、高歓が起兵すると、爾朱世隆は、当時侍中・驃騎大将軍だった司馬子如を南岐修刺史に左遷してしまった。高歓が入洛すると、司馬子如を呼び出して、大行台尚書に任命し、朝夕側に置いて軍国を参知させた。
 廣州刺史の韓賢も、高歓と仲が善かった。高歓は、入洛した後、爾朱氏から官職を貰った者は、その官職を全て剥奪したが、韓賢だけは旧職を安堵した。
 高歓は、賀抜岳を冀州刺史に任命し、徴召した。言う間でもないが、爾朱天光を滅ぼした賀抜岳は関中に基盤を持っている。対して冀州は魏の東端だ。高歓の意図するところは明白である。しかし賀抜岳は高歓を恐れ、単騎で入朝しようとした。すると、行台右丞の薛孝通が言った。
「高王は、数千の鮮卑で爾朱氏百万の大軍を撃破しました。まさに、敵し難い相手です。ところで、諸将の中には、もともと彼よりも地位の高かった者や、彼と同格の者が大勢居りますのに、今では皆、彼へ頭を下げております。ですが、彼等は心服しているわけではありません。それらの諸将は、あるいは京師に居り、あるいは州鎮に據っていますが、高王がこれらを除けば人望を失い、留めれば心腹の病になってしまいます。しかしながら、爾朱兆はまだヘイ州に健在です。高王は、内は群雄を慰撫し、外の悍敵へ立ち向かわなければならない時です。公と力ずくで関中を争うことなど、できる状況ではありません。今、関中の豪族や俊才達は、公に期待をかけております。どうか、彼等の知恵と力を結集してください。公が華山を城とし、黄河を壕とすれば、進軍して山東を奪うことも、退いて関中に割拠することもできます。どうして手を束ねて他人の言うままに操られるのですか。」
 賀抜岳は薛孝通の手を執って感謝した。そして、謙遜な言葉で冀州刺史を辞退し、徴に就かなかった。 

 壬辰、高歓は業へ戻った。爾朱度律と爾朱天光は洛陽にて処刑された。 

 五月、孝武帝は節閔帝を毒殺した。後、安定王朗と東海王曄も殺した。
 なお、胡太后は埋葬した。 

 侍中の高隆之は、もともと徐氏の養子だったが、高歓が気に入って、自分の義弟にした。その高隆之が、高歓の威勢を恃んで公卿へ驕っていたので、南陽王の宝炬が彼を罵って殴りつけた。
 孝武帝は、高歓を憚って、南陽王を驃騎将軍へ降格し、自宅謹慎を命じた。 

  

爾朱氏滅亡 

 七月、高歓は兵を率いて釜口から、大都督の庫狄干は井ケイから、爾朱兆を攻撃した。孝武帝は、高隆之へ十万の軍を与えて高歓と合流させた。
 高歓軍が武郷まで進軍すると、爾朱兆は晋陽で略奪して秀容まで逃げた。
 こうして、ヘイ州は平定された。高歓は、晋陽の四塞に大丞相府を建てて、ここに住んだ。
 十二月、孝武帝は高歓の娘を皇后とした。この時、結納品を届ける為、太常卿の李元忠を晋陽へ派遣した。
 秀容へ逃げた爾朱兆は、険阻な地形を厳重に守っていた。これへ対して高歓は、「討伐軍を出す」と宣伝していたが、出陣したかと思うと中止になるような事が、数回続いた。それが続くうちに、爾朱兆軍は段々警備を怠り始めた。
 高歓は、年始の宴会を中止して、都督の竇泰へ精鋭兵を与えて派遣した。彼は、一日一夜で三百里を進軍。更に、大軍が後続としてこれに続いた。
 五年、正月。爾朱兆軍が年始の宴会に酔いしれていると、竇泰軍が忽然として出現した。爾朱兆の兵卒達は驚愕して逃げ出す。竇泰はこれを追撃し、撃破。衆人は降伏又は逃散した。爾朱兆は、切羽詰まって山の中へ逃げ込んだ。
 ここに至って爾朱兆は、左右の張亮と陳山提へ命じた。
「俺の首を斬って降伏するがよい。」
 しかし、彼等は爾朱兆を殺すに忍びなかった。そこで爾朱兆は、自分の愛馬を殺して首くくった。高歓は、自ら検分し、彼を厚く葬った。
 慕容紹宗は、爾朱栄の妻子と爾朱兆の残党を率いて高歓のもとへ降伏してきた。高歓は、彼等を厚く遇した。
 爾朱兆が秀容に居た頃、彼の左右はみな、高歓へ密かによしみを通じていたが、張亮だけそのような事をしなかった。高歓はこれを嘉し、彼を丞相府参軍に抜擢した。