趙・魏、中原を乱す。(冉閔、石氏を滅ぼす)

 晋の穆帝の永和五年(349年)四月、乙卯。石虎の病はいよいよ重くなった。そこで、彭城王遵を大将軍として関右を鎮守させた。又、燕王斌を、丞相・録尚書事と為し、張豺を鎮衛大将軍・領軍将軍、吏部尚書と為し、この三人を輔政とするように遺詔した。
 劉后は、斌や遵が輔政となったら、太子の為にならないと考え、張豺と共に、彼等を除く謀略を巡らせた。
 この時、燕王斌は、襄国に居たので、彼を騙そうと使者を派遣した。
「主上の病気は、だんだん快方へ向かっています。王は、少し狩猟を控えられて下さい。」
 しかし、石斌は狩猟も酒も大好きだった。自粛することはできず、狩猟もしたし、酒も浴びるほど呑んだ。そこで劉后は詔を矯正した。
「斌には忠孝の心がない。官を辞して第へ帰れ。」
 そして、張豺の弟の張雄に龍騰五百人を率いて監視させた。(これは、石虎が石宏を幽閉した故知である。張豺は石虎から教わったのである!それにしても、石斌も庸人ではないか。父の病が篤く、輔政の詔を受けたとゆうのに、酒や狩猟に溺れている。張挙の言った「武略がある。」とゆうのは、妄言も甚だしい!)
 乙丑、石遵は幽州から業までやってきたが、朝堂で勅を受け取り、禁兵三万を配備され、関右へせき立てられた。石遵は涕泣して去った。
 この日、石虎は、病が少し和らぎ、近習へ問うた。
「遵は、まだ来ないのか?」
「既に出立されました。」
 石虎は嘆息した。
「一目だけでも会いたかった!」
 小康状態になった石虎が、西閤へ出ると、二百余人の龍騰中郎がズラリと並んで、石虎へ拝礼した。
 石虎がいぶかしんで尋ねた。
「何か言いたいのか?」
 すると、彼等は答えた。
「聖体がこのようですから、燕王を宿衛へ入れて兵馬を指揮させられて下さい。」
 又、ある者は言った。
「そして、できれば燕王を皇太子へ。」
 石虎は言った。
「燕王は王宮に居ないのか?召し出せ!」
 すると、近習が答えた。
「王は酒に溺れております。出仕できません。」
「輦を出して迎えればよい。」
 しかし、遂に実行されなかった。(近習達には、劉后の息がかかっていたのだ。)やがて、石虎はめまいを覚えて後宮へ戻った。
 張豺は、詔を矯正して石斌を殺した。
 戊辰、劉后は、詔を矯正して張豺を太保、都督中外諸軍、録尚書事と為し、霍光の故事に倣うよう命じた。
 侍中の徐統が、嘆いて言った。
「乱が起ころうとしている。巻き込まれたくない。」
 彼は、薬を仰いで自殺した。

 己巳、石虎が卒した。太子の石世が即位し、劉氏を皇太后と為した。
 劉氏は朝廷へ出向き、張豺を丞相としたが、張豺はこれを辞退して言った。
「どうか、彭城王の遵殿下と義陽王の鑑殿下を左右の丞相として、彼等の不満を消されて下さい。」
 劉氏はこれに従った。

 張豺は司空の李農を誅殺しようと思い、太尉の張挙に相談した。ところが、張挙は李農と仲が善かったので、彼に密告した。李農は廣宗へ逃げ、李軍・田徽の残党数万人を率いて上白の砦に籠もった。
 劉氏は、張挙へ宿衛諸軍を指揮させて、これを包囲した。張豺は、張離を鎮軍大将軍、監中外諸軍事に任命し、自分の副官とした。

 彭城王遵は、河内へ来たところで、訃報を聞いた。
 姚弋仲、蒲洪、劉寧及び征虜将軍石閔(冉閔。石虎の義子となった。彼は漢人である。)武衛将軍王鸞等は、梁犢討伐から帰る途中、李城にて、彭城王と遭った。
 彼等は、共に彭城王へ説いた。
「殿下は、年長で聡明。先帝も又、殿下を世継ぎとなされるお考えでした。(張挙の提言に、石虎が賛同したことを指す。)それが、老耄の為、張豺にたばかられたのです。今、女主が朝廷に臨み、姦臣が事を専断しております。上白が持ちこたえておりますので、宿衛に兵卒はおりません。殿下がもしも張豺の罪を数え上げ、軍鼓を鳴らして進撃すれば、全ての者が馳せ参じて、殿下を迎え入れるでしょう。」
 彭城王は承諾した。
 こうして、彭城王遵は、李城にて挙兵した。この時、石遵は石閔へ言った。
「努めよ。成功した暁には、お前を太子にしてやる。」
 石遵が業へ向かって進軍すると、洛州刺史の劉国が、洛陽の兵を率いてこれに合流した。
 檄文が業へ届くと、張豺は懼れ、上白の軍を召還した。
 丙戌、遵は蕩陰に陣取った。その数九万。前鋒は石閔。
 すると、老旧の臣下や、けつ(石氏の種族)の兵卒達が、口々に言った。
「彭城王が、喪に来られた。出迎えにゃならん。張豺の為に城を守るなど、そんな馬鹿な真似ができるか!」
 彼等は、業の城壁を越えて彭城王軍へ馳せ参じた。張豺は彼等を斬ったが、そんな事では止まらなかった。
 張離も、龍騰の兵卒二千を率い、関を斬って遵を迎え入れた。
 劉氏は懼れ、張豺を招き入れると悲哭した。
「先帝の棺を、未だ埋葬してもいないのに、禍難が降りかかってきました。今、世継は幼く、頼れるのは将軍一人。どうなされます?遵へ重位を与えれば、この反乱は収まりましょうか?」
 張豺も惶怖して為す所を知らず、ただ。「唯々」と口走るだけ。
 とうとう、彼等は詔を下し、石遵を丞相、領大司馬、大都督、督中外諸軍事、録尚書事と為し、黄鉞、九錫を加えた。
 己丑、石遵は安陽亭へ進軍した。張豺は懼れて出迎えたが、石遵はこれを捕らえた。
 庚寅、石遵は入城し、太武前殿で石虎を想って哀悼し、東閤へ退いた。
 平楽市にて張豺を斬り、その三族を誅滅する。そして、劉氏の命令に仮託して言った。
「先帝は、私恩によって幼少の君を世継ぎと為されたが、玉座とは重大なもの。とても務まるものではありません。ここに、遵を以て、世継ぎとします。」
 こうして、石遵は即位した。大赦を下し、上白の包囲を解かせる。
 辛卯、石世を焦王に封じ、劉氏を廃して太妃としたが、やがて彼等を殺した。
 李農は業へ帰って来て、自ら罪を述べたが、遵は、彼をもとの地位へ戻した。
 母親の鄭氏を皇太后と為す。妃の張氏を立てて皇后とし、故燕王斌の息子の石衍を皇太子とした。義陽王鑑を侍中、太傅とし、沛王沖を太保、楽平公苞を大司馬、汝陰王昆を大将軍、武興公閔を都督中外諸軍事、輔国大将軍とする。
 甲午、業は樹が引っこ抜かれる程の大暴風雨だった。雷は鳴り、升程の大きさの雹が降った。太武暉華殿から火災が起こり、諸々の門、観、閤も無傷の物はなく、乗輿も大半が燃えた。金石でさえとろける程の大火で、鎮火まで一ヶ月余り掛かった。

 この時、沛王沖は薊城を鎮守していたが、石遵が石世を殺して即位したと聞き、麾下の幕僚へ言った。
「石世は、先帝から選ばれた正統な世継ぎだ。これを勝手に廃立して殺すなど、天下の大逆人である!内外に勅を下して戒厳令を布け。孤自ら親討する!」
 ここに於いて、寧北将軍述堅に留守役を命じて幽州を守備させ、五万の兵を率いて薊から南下した。燕、趙へ檄を飛ばすと、あちこちから兵卒が群がり寄ってきた。常山を通過する頃には、その兵力は十万を越えた。
 彼等が苑郷に宿営した時、石遵の使者がやって来た。石遵は、彼等の造反を赦免すると言ってきたので、石沖は言った。
「このようなことをしても、死んだ者は二度と生き返らない。それに、石遵も又、石世同様私の弟だ。これ以上兄弟で殺し合うなど、愚かなことかもしれん。」
 すると、麾下の将軍陳逞が言った。
「彭城王は、陛下を弑逆して、国家を簒奪したのですぞ!赦されざる大罪です!王が帰られるのゆうのなら、臣一人ででも京師へ攻め入って、彭城王を捕らえてみせます。殿下はその後、京師へ御入城下さい。」
 そこまで言われて石沖は、進撃を決意した。
 王擢が、石遵の命令を受けて、石沖を説得に行ったが、石沖は聞かなかった。そこで石遵は、石閔と李農へ迎撃を命じた。率いるのは、精鋭十万!
 両軍は、平棘にて戦い、石沖軍は大敗した。元氏が石沖を捕らえ、石遵は、彼に自殺させた。又、その麾下の兵卒は三万人を生き埋めにする。

 武興公石閔が、石遵へ言った。
「蒲洪は人傑です。今、彼に関中を鎮守させておりますが、このままでは、秦・ようを基盤に自立するかも知れません。確かに、彼を関中へ置くのは先帝の遺命ではあります。しかし、既に陛下は践?なさったのです。どうか、御自身の意志でご判断下さい。」
 石遵はこれに従い、蒲洪の都督職を解任した。蒲洪は怒り、枋頭へ帰ると、東晋へ使者を派遣して来降した。

 燕の平狄将軍慕容覇が、燕王慕容儁へ上書した。
「石虎は暴虐無頼。天でさえも見放した人間です。それ故、僅かに残った彼の子孫は、互いに殺し合っているのです。今、中国の民は仁恤を乞い望んでおります。もし、大軍を以て攻め込めば、必ずや平定できましょう。」
 北平太守の孫興もまた、上言した。
「石氏の大乱。これこそ中原進出の好機です。」
 しかし、慕容皇が死んでまだ一年しか経っていなかったので、慕容儁は許さなかった。
 すると、慕容覇が龍城まで詣でて慕容儁へ言った。
「得難くして失いやすい物が、時です。今衰えた石氏が、万一再興したら、あるいは、この機に乗じて英傑が国を簒奪したら、ただ大魚を逃すだけではありません。後の祟りが怖ろしゅうございます。」
 慕容儁は言った。
「業に動乱が起こったとは言っても、安楽には登恒が居る。奴の兵は強く、兵糧もたっぷりあるぞ。今、もし趙を討つとしようか?東道を通れなければ、廬龍経由で行くしかない。しかし、廬龍山は険しく、敵方が高みから攻め降ろせば、我々は甚大な被害を受ける。それについて、どう考えておるのか?」
「いくら登恒が石氏へ忠誠を尽くそうとも、その麾下の兵卒達は、望郷の念に駆られております。大軍で臨めば、敵方は自然と瓦解しましょう。
 臣は、殿下を前駆とし、密かに令支まで出て敵の不意を衝こうと考えております。そうなれば、連中は必ず震駭します。上は城門を閉じて籠城することもできず、下は城を棄てて逃げ出すでしょう。どうして防戦などできましょうか!
 そうすれば、殿下は安全に前進できます。難を残すこともありません。」
 だが、慕容儁は、なおも躊躇した。そこで、五材将軍封奕を呼び出して尋ねたところ、封奕は答えた。
「敵が強ければ智恵を使い、敵が弱ければ勢いに乗って攻める。それが用兵の常道です。大が小を併呑するのは、狼が豚を食べるようなもの。治世の軍で乱世の軍を叩くのは、日が雪を溶かすようなものです。
 大王は、上世より代々徳を積み仁を重ねて参られました。兵は強く、士に訓練が行き届いてございます。それに対して、石虎は残暴を極め、死して未だ瞑目しないとゆうのに、子孫は国を争い、上下乖乱しております。
 中国の民は塗炭の苦しみへ堕ち、国の滅亡でさえ首を長くして待っております。もしも大王が兵を挙げて南進し、まず薊城を奪り、次いで業を陥とし、威徳を輝かせて遺民を慰撫すれば、彼等は必ず、老人を扶け赤子を抱いて大王を迎えるでしょう。
 奴等の将軍がどう動こうと、一体何ができましょうか!」
 従事中郎の黄弘も言った。
「今、天文を見ますに、我が国は天命を受けました。これは必然の験でございます。速やかに出陣し、天意に従われて下さい。」
 折衝将軍の慕輿根が言った。
「中国の民は、石氏の暴虐に疲弊しております。彼等は、主君をすげ替えて湯火の急から逃れようとまで思っているのです。これは千載一遇の好機。失ってはなりません。武宣王(慕容?)以来、賢人を招き民を養い、農業に勤しみ兵卒を鍛えてきたのは、まさにこの日に備えてのこと。今、これを取らなければ、後に憂いとなります。
 海内を平定させることこそ、天意でございますぞ!それとも、大王は天下を取りたくないのですか!」
 慕容儁は、笑ってこれに従った。
 慕容恪を輔国将軍、慕容評を補弼将軍、左長吏の陽鶩を輔義将軍とし、これを「三輔」と呼んだ。慕容覇を前鋒都督、建鋒将軍とし、精鋭二十余万を選び、戒厳令を布いて討伐の準備を進めた。

 六月、石虎を顕原陵に埋葬する。廟号は太祖。

 同月、趙の動乱を聞いた東晋の桓温が、安陸まで出張った。(詳細は、「江左の中原経略」に記載。)
 その頃、長安を鎮守する楽平王の石苞も、麾下の兵力を動員して業を攻めようと考えていた。
 左長吏の石光や、司馬の曹曜等が堅く諫めると、石苞は怒り、石光を始めとする百余人を殺した。
 石苞は、貪欲で無謀な男。よう州の豪傑達は、この造反が失敗すると見切りを付け、こぞって東晋へ使者を派遣した。東晋の梁州刺史司馬勲が、部下を率いてこれへ赴いた。
 司馬勲は駱谷へ出て、趙の長城の砦を破り、懸鉤に陣取った。ここは、長安から僅か二百里。そして、治中の劉煥に長安を攻撃させた。劉煥は、京兆太守の劉秀離を斬り、賀城を抜いた。
 三輔の豪傑達の中には、郡太守や県令を殺して司馬勲に呼応す者が続出した。その数、凡そ三十。総勢五万人。
 石苞は、業攻撃を後回しにして、麻秋と姚國等に司馬勲を防がせた。
 趙帝の石遵は、車騎将軍王朗へ精鋭二万を与えて派遣した。表向きは司馬勲討伐だが、その実、石苞を業へ連行することが真の目的だった。
 司馬勲は、兵力が少なかったので、王朗を畏れて進撃しなかった。
 十月。司馬勲は、宛城を抜き、趙の南陽太守袁景を殺して、梁州へ戻った。
 又、武都を基盤とするてい王の楊始が、趙の西城を襲撃し、これを破った。

 さて、話は前後するが、石遵はかつて、石閔を太子にすると約束していたが、履行しなかった。石閔は、功績を恃んで朝政を専断しようとしたが、石遵は許さなかった。
 石閔はもともと驍勇で、屡々戦功を建てていたので、夷・漢の宿将から畏れられていた。都督となって内外の兵力を握ると、彼は殿中の将士を慰撫した。こうして彼の名声は更に挙がり、石閔を殿中員外将軍・爵関外候とするよう、大勢の者が推挙したが、石遵は許さなかった。それどころか石閔を疑い、押さえつけるようになったので、衆人に怨怒が鬱積した。
 中書令の孟準と左衛将軍の王鸞は、石閔の兵権を漸次奪って行くよう進言したので、石閔は益々怨んだ。そこで、孟準等は、石閔誅殺を勧めた。
 十一月。石遵は義陽王鑑、楽平王苞、汝陰王昆、淮南王昭等を召集し、鄭太后の前で会議を開いた。
 石遵は言った。
「閔の普段の行動には、叛心がちらついている。これを誅殺しようと思うが、どうか?」
 鑑等は皆賛成したが、鄭太后が言った。
「李城から出撃した時、もしも棘奴(石閔の幼名)がいなければ、どうなっていましたか?少しぐらいの傲慢は寛恕なさい。ましてや殺すなんて!」
 石鑑は、退出すると宦官の楊環を使者として石閔のもとへ派遣し、全てを密告した。石閔は李農と右衛将軍王基を仲間へ引き込み、石遵廃立を企てた。そして、将軍の蘇彦と周成へ武装兵三千人を与え、石遵を捕らえに行かせた。
 南台にて婦人と碁で遊んでいた石遵は、あっけなく捕えられた。
 石遵は周成へ言った。
「造反者は誰だ?」
 すると、周成は答えた。
「義陽王鑑が立つべきです。」
「鑑?俺でさえこうなったのだ。あいつなら即座にしてやられるわ!」
 石閔は、昆華台にて石遵を殺した。併せて、鄭太后、張后、太子衍、孟準、王鸞及び上光禄張斐も殺した。
 こうして石鑑が即位し、大赦を下した。
 武興公石閔は大将軍に任命され、武徳王に封じられた。司空の李農は、大司馬、並録尚書事となる。郎豈が司空、秦州刺史の劉群が尚書左僕射、侍中の廬甚が中書監となる。
 石鑑は、石苞と中書令の李松、殿中将軍の張才に命じ、昆華殿の石閔・李農へ夜襲をかけさせた。しかし、この夜襲は失敗し、禁中は大恐惶へ陥った。石鑑は懼れ、一切関わりなかったように装い、夜のうちに西中華門にて李松と張才を斬り、併せて石苞も殺した。

 新興王祇は石虎の息子である。彼は襄国を鎮守していたが、石閔と李農を誅殺しようと、姚弋仲、蒲洪と連合し、中外へ檄を飛ばした。
 石閔と李農は、汝陰王昆を大都督と為し、張挙及び侍中の呼延盛に七万の兵卒を与えて、二道から石祇を攻撃させた。

 中領軍の石成、侍中の石啓、前の河東太守石軍が、石閔と李農の誅殺を企てたが、逆にこの二人から殺されてしまった。

 龍驤将軍の孫伏都と劉銖が「けつ」の兵士三千人を胡天に伏せ、石閔と李農の誅殺を企てた。この時、石鑑は中台に居た。孫伏都は、敵を攻撃する前に、まず石鑑を確保しようと、三十余人の将を率いて台に上った。
 孫伏都が閣道を壊すのを見て、石鑑はその理由を尋ねた。すると、孫伏都は言った。
「李農達が造反し、既に東掖門まで迫っております。臣は衛士を率いて迎撃いたす所存ですが、それに先だって陛下へ御報告に参った次第です。」
「そうか。卿こそは忠臣だ。朕の為に努めてくれ。朕はこの台の上から観ておるぞ。事が成就した暁には、篤い褒賞を授けよう。」
 ここにおいて、孫伏都と劉銖は石閔と李農を攻撃したが、勝てず、退却して鳳陽門へ立て籠もった。石閔と李農は数千の兵卒を率いて金明門を打ち壊し、突入した。
 石鑑は、石閔から殺されることを懼れ、すぐに石閔と李農を招き寄せると、門を開いて中へ入れ、言った。
「孫伏都が造反した。卿は速やかにこれを討て。」李農は孫伏都等を攻撃し、斬り殺した。鳳陽から昆華へ至るまで、屍が連なり流血は川を造った。
 次いで、石閔は命令を下した。
「内外の六夷で、兵卒と称する者は斬る!」
 胡人達に、或いは関を斬り或いは城壁を越えて、逃亡する者が続出した。
 石鑑へ対しては、尚書の王簡と少府の王鬱に数千の兵を与え、御龍観へ軟禁した。
 石閔は布告した。
「今回、孫と劉が造反したが、その余党は全て粛清した。他の者は、この乱に関わりないと見なし、罪に問わない。
 さて、今日以後、我等と協力する者はここへ留まれ。それが厭な者は、好きなところへ行くが良い。勅を下し、城門を開かせておく。」
 すると、華人は悉く入城したが、胡・「けつ」の人間は、城門付近に満ちあふれた。ここに於いて石閔は、゛漢人の自分へ、胡人は懐かない。゛と見切りを付け、内外へ布告した。
「胡人を斬り、その首を鳳陽門へ持参した華人は、文官ならば位を三等進め、武官ならば牙門へ抜擢する。」
 すると、その日のうちに数万の首級が集まった。
 石閔は自ら華人を率い、胡人、けつ人を虐殺した。貴賤、男女、幼老の区別もなしに、二十余万人が斬り殺された。屍は城外へ棄てられたので、野犬や狼に食い散らかされた。
 四方の屯営へは、華人の将帥へ対して胡人の誅殺を命じた。
 この虐殺で、彫りが深かった為に胡人と間違って殺された華人も大勢居た。

 六年、正月。石閔は、石氏の痕跡さえ消し去りたかった。
 讖文の中に、「継趙李」の一節があった。そこで、石閔は国号を「衛」と改め、自身は「李」と改姓した。大赦を下し、「青龍」と改元する。
 太宰趙庶、太尉張挙、中軍将軍張春、光禄大夫石岳、撫軍石寧、武衛将軍張李を始め、万を越える公候、卿、校、龍騰などが襄国へ出奔した。(石祇を頼ったのである。)又、汝陰王昆は冀州へ逃げた。
 撫軍将軍張沈は釜口に據った。張賀度は石売へ據った。建義将軍段勤(段末破の息子)は黎陽に據った。寧南将軍楊群は桑壁に據った。劉國は陽城へ據った。段龕(段蘭の息子)は陳留に據った。姚弋仲は摂頭へ據った。蒲洪は方頭へ據った。彼等は各々数万の兵力を擁し、石閔への反抗を表明したのである。

 長安の王朗と麻秋は、洛陽へ赴いた。ここで麻秋は李閔の命令書を受け取り、それに従って王朗麾下の胡兵千余人を誅殺した。王朗は、襄国へ逃げた。
 麻秋はそのまま業へ向かった。すると、蒲洪が息子の龍驤将軍蒲雄に迎撃させ、麻秋を捕らえた。蒲洪は、麻秋を軍師将軍とした。

 汝陰王昆と、張挙、王朗は、七万の兵を率いて業へ攻め寄せた。これに対し、大将軍李閔は千余の騎兵を率い、両者は城北で激突した。
 李閔は両手で刃と矛を振り回して戦場を駆け巡り、当たるを幸い切り倒し、三千の首級を挙げた。石昆等は大敗し、退却する。

 李閔は李農と共に三万の兵を率いて石売の張賀度を攻撃した。

 閏月、衛帝の石鑑は、この隙に業を解放しようと、釜口の張沈へ密書を書いた。しかし、その使者となった宦官が、李閔へ密告したので、李閔と李農は業へ引き返し、石鑑を廃立し、殺した。ついでに、石虎の二十八人の孫を皆殺しとし、ここに石氏は滅亡した。(石勒が僭称してから凡そ二十三年で、後趙は滅んだ。)

 姚弋仲の息子の曜武将軍姚益と武衛将軍姚若は、禁兵数千を率いて関所を破って摂頭へ逃げた。人質の憂いが無くなった姚弋仲は、李閔討伐の兵を挙げ、混橋まで進軍した。

 司徒申鐘等が、李閔へ尊号を献上した。李閔は李農へ譲ったが、李農は固く辞退した。そこで、李閔は言った。
「吾は、もともと晋の人間だ。今、晋皇室は、猶、存続している。どうだ?諸君と共に州郡を分割し、各々が牧、守、公、候と名乗って、晋の天子を洛陽へ迎え入れようではないか。」
 すると、尚書の胡睦が言った。
「陛下の聖徳は、天の御心に叶っております。どうか大位へ登られて下さい。
 晋氏は、今や衰弱の一途を辿り、遠い江東で細々と続いている有様。英雄を手足のように動かして四海を統一することが、どうして彼等にできましょうか!」
「うむ。その言葉は、『機を識り天命を知る』とゆうものだ。」
 こうして、李閔は皇帝位へ即いた。大赦を下し、永興と改元。国号を「大魏」と改めた。