第四回  名将が兵を動かし、弊民は大いに喜ぶ。 

  さても、出兵を決意した秦王は、ただちに将軍の蒙括を呼び出しますと、十万の兵を率いて南方楚の国を攻略するよう命じました。
 すると、蒙括将軍はたちまちに色をただし、
「陛下!何とゆうことを言われるのですか!
 そもそも、『兵は凶器』と申し、淫らに弄ぶ者は必ず我が身を滅ぼします。
 それでも、某が不祥なる将軍職を拝命いたしましたのは、他の国が暴虐にも我が国へ攻め込んでくることを慮ればこそ、でございます。もしもそのような事態に陥りましたれば、某は必ずや先頭に立って指揮いたし、善良なる我が民を守る為に命を捨ててでも戦いましょう。
 しかし、そのような事態でもないのに、こちらから戦いを挑むなど、何事でございますか!それをこそ、『兵を淫らに弄ぶ』と申すのですぞ。
 陛下、なにとぞ熟慮三考なさってくださいませ。
 他人を殺し、他人の土地を奪うという悪行を行わねばならぬほど、陛下は口に入れる美味い肉や美味い酒に不足しているとでも言われるのでございますか?身を飾る美しい衣服に不自由なさっておいでなのでございましょうか?
 もしも陛下が、『孤の前にひれふす人民が少なく、我が領土は狭く、これでは孤の威光が保たれぬ。何としてでも、もっと領土を増やし、その民を増やしたいものだ。』と、お考えになられておられるのでしたら、それは大きな心得違いでございます。盗人や強盗を尊敬する者など、どこにおりましょうか!悪辣な手段で身を太らせても、かえって他人から軽蔑されるだけでございますぞ!」
 と、さすがに戦争を本職としている将軍だけに、戦争の罪業も知り尽くしております。これこそ、”神に等しい名軍師”と讃えられました孫子の言うところの、「その弊害を知らぬ者は、その利益についても語ることができぬ。」と言うものでございます。
 王は、蒙括の見解と良識を大いに嘉しましたが、他の国の惨状を聞いたばかり。そこで、李斯の話と、どうあっても苦しむ民を助けたいとゆう、自らの心情を、切々と訴えたのでございます。すると、蒙括将軍は、王の心に涙ぐまんばかりに感動いたしまして、遂に、遠征の大命を拝受いたしました。
 さて、この蒙括とゆう将軍は、いまだ若輩ではございましたが、先祖代々秦に仕え、数々の手柄を建てた名門の出身でございます。その父親に目をかけられ、篤い恩義を感じている将兵も大勢おりまして、”彼等が、必ずや蒙括を盛り立ててくれるだろう。”と、王は期待したわけでございます。
 また、蒙括自身、将としての立派な才覚を備えておりました。それは、先程の堂々たる答弁でも十分にお解りになられたことと思います。事実、この蒙括将軍は、後には北方の守りを一手に引き受け、「あの暴虐な匈奴共が、彼ゆえに、秦には一指も触れなかった。」と評価されるまでに成長なさるお方でございます。
 この人事は、まこと、的を得ていたと申せましょう。
 さて、王の命令を受けた蒙括将軍は、ただちに兵を召集しますと、まずは王の心を訓示いたしました。慈愛深い秦王政の御心に、兵卒達が大いに感動いたしましたのは、当然でございます。こうして、秦の兵卒達は、皆々、勇んで出征いたしました。
 この時、蒙括将軍は、拝命してから国を出るまで、一度として家族に会わなかったそうでございます。側近達が不審に思って訳を尋ねますと、将軍は毅然として答えられました。
「家族に会うと、心が挫ける。陛下の命令を受けたゆえ、部下に託して遺言だけは届けておいた。」
 けだし、名将とはかくの如きものなのでしょう。その蒙括将軍の姿を見て、兵卒達の志気は、いやが上にも挙がりました。
 いえいえ、そればかりではありません。
 もともと、秦とゆう国は、四方を山に囲まれた土地で、よその国から攻められたことがございませんでした。そして、秦王政とゆうお方は、「他人を踏みにじってまで自分一人が得をしよう」とゆう考え方が大嫌いなお方でした。それで、どうして自分の方から戦争を仕掛けたりするでしょうか?それは、李斯を叱りつけたときの言葉で、よくお解りになられたと思います。
 つまり、秦の国の兵卒達は、実際の戦闘を経験したことがなかったのでございます。
 しかし、王は、それに甘えて怠惰に暮らすほど、愚かな人間ではございません。
 そもそも賢人とゆうものは、治にありて乱を忘れず。常日頃の用心だけは、絶対に忘れません。そうゆう訳で、兵卒の鍛錬だけは、欠かさせたことがなかったのでございます。
 これを兵卒達から見れば、長い間訓練ばかりさせられましたが、実際に腕を振るうチャンスはまるでなかった、とゆう訳。それが、ようやくそのチャンスを与えられたのでございます。何で勇まないことがありましょうか。
 かくして、秦の兵卒の志気は天をも衝かんばかり。楚との国境にそびえ立つ険阻な山々をもものともせず、怒濤の如くに楚の国へ攻め込んでしまいました。
 もちろん、楚としましても、秦との国境に形ばかりの守備兵は置いておりましたが、余りに秦の兵が攻めてこないものですから、段々とお座なりになってしまいました。加えて、他の行き来のし易い国々とは、僅かばかりの領土を巡って紛争が絶えませんでしたので、主な将兵は、いきおいそちらへ回されてしまいます。
 そうゆう訳で、楚の守備兵とゆうのは、ほんの形ばかり。そんな防備など、何で問題になりましょうか。ものの一刻と経たないうちに、楚の守備兵は散り散りに逃げだしてしまいました。
 戦勝、と言うよりは、威風堂々たる秦の軍隊を見た途端に、楚の兵卒達は戦いもせずに逃げ出した、と言いますのが、真相でございます。
 楚の敗残兵達は、命辛々逃げましたので、その逃げ足の早いこと早いこと。オリンピックのマラソン選手顔負けのスピード。何せ、命が掛かっておりますからな。この頃、もしもストップ・ウォッチがありましたらば、その記録は二千年経った今でさえ、決して破られてはおりますまい。いや、返す返すも惜しい話ではございます。
 さて、そうやって、皆が歴史的なスピードで逃げだしたものですから、当然の事ながら、秦兵の侵略は、幾日も経たぬうちに後方の陣地へ知れ渡ったのでございます。
「秦軍、侵略す!」
 この報告を受けまして、楚の将軍達は大いに慌て、即座に近辺の軍団を召集いたしました。敗残兵の逃げ足の早さが幸いしまして、秦軍が進軍して来るまでの間に、かなりの兵力が集結いたしました。号して十万!秦の軍勢と変わりません。ここに、秦軍は、遠征してから始めての大会戦を行ったのでございます。
 この時の秦軍の志気たるや、旺盛なもの。なにせ、勇猛な将軍を頭に戴いており、常日頃の成果を漸く試せる、とばかり、喜んでおります上、一人一人が、自分たちの正しい行いに自信を持っております。なんで士気が旺盛にならずにおれましょうか。
 ところが、楚の兵隊達は、これとは違いました。
 成人して軍役にとられてからと言うものは、戦争につぐ戦争。去年は東の方で斉と戦ったかと思えば、今年は西で魏と戦う、と言った有様。それに加えて、自分の王様へ対する忠誠心なぞ、かけらも持ち合わせておりません。
 しかしながら、それも道理。そもそも彼等の王様と来た日には、常日頃から民の為の立派な政治など、まるで行わず、何かと言えば税金を搾り取る、好き勝手に戦争を起こして兵卒を殺す、といった案配ですので、尊敬のされようもございません。
 ですから、楚の兵卒達は、
「あーあ。また戦争かよ。うっとおしいな。てきとーにやって、負けたらサッサとズラかっちまおう。怪我でもしたら馬鹿らしいやね。」
 といった気分で戦っているのでございます。
”しかし、それでは今までよく戦争ができたな?”とご不審になられるお客様もございましょうが、なーに、どこの国も似たり寄ったり。敵も味方もいい加減にやっておりますので、なんとか良い勝負になるのでございます。
 ところが、今回は違いました。いい加減にやっている楚の兵卒と、戦意旺盛な真の兵卒。これでは勝負になんぞ、なるわけがございません。
 十万対十万。数の上でこそ五分五分でございましたが、楚の軍隊は、半日と戦わないうちにあっけなく敗れてしまい、兵卒達は散り散りになって逃げ出してしまったのでございます。
 さて、こうなりますと後は簡単。その付近の兵卒達を駆り集めた一大決戦に負けてしまい、楚には後詰めがありません。せいぜい、少数で居城を守るのが関の山。楚の城は一つ一つ秦の軍隊に落とされて行き、半月とかからないうちに、十五の城が、秦の軍隊に占領されてしまいました。
 そもそも、楚といいます国は、当時の中国で一番の大国。この頃、中国には秦や楚を含めて七つの大国が割拠しておりましたが、楚はただ一ヶ国で中国全土の三分の一の領土を持っておりました。ですが、この半月の間に、その四分の一を秦の国に奪われてしまったのでございます。まさに、破竹の快進撃。
 しかし、この時、秦の軍隊には厄介な問題が持ち上がったのでございます。それはほかでもございません。兵糧でございます。
 おおよそ、人間と言いますのは、何も食べないと、必ず死んでしまいます。兵卒といえども、それは例外ではございません。いくら刀や槍を振り回し、戦場で獅子奮迅の大活躍を演じます豪傑といえども、なにもたべないと、やがては死んでしまうのです。ですから、戦争においては、この兵糧の確保が、重要な問題となってくるのでございます。
 諺にも言うではありませんか。
”腹が減っては戦はできぬ”と。
 全軍が一丸となって突き進み、もしも敵軍に後ろへ回り込まれたら、サア大変。秦本国から兵糧が届かなくなってしまいますから、皆、飢えて死んでしまいます。
 蒙括将軍とて、何でそれを考えないでおりましょうか。
 ですから将軍は、城を一つ落とすたびに、あるいは一万、あるいは五千、と、兵を残し、糧道を確保して参ったのでございます。
 そうゆう訳で、今はまだ、秦本国からなんとか兵糧が届きますが、その代わり兵力が激減いたしました。蒙括将軍が指揮するのは、たったの一万になってしまったのでございます。これは、九万の兵卒が戦死したわけでは、もちろんございません。ただ、あちこちに分散させたに過ぎないのでございます。しかしながら、いくら兵力が少なくなったからと言って、おいそれと呼び出すわけには行かないのでございます。
 蒙括将軍は頭を抱えました。
”さあ、困ったぞ。我々がここで派手に戦っている以上、楚としても放っては置くまい。そろそろ、他の国へ向けていた全兵力をこちらへ回してでも、我が軍をうち砕こうと考えてもおかしくはない頃だ。してみると、五十万からの兵は動員できるだろう。それなら、十万の全軍を集結しても我が軍は危ない。しかも、そんなことをすれば、糧道を絶たれる恐れがある。これは調子に乗って戦線を拡大しすぎたかな?”
 蒙括将軍が考え込むのも無理はありません。なにせ、名称の素質があるとはいえ、やはり若輩。血気に逸れば無茶もいたします。ましてや、こんなに巧く行くとは考えてもいなかったものですから、ついつい、図に乗って深入りしすぎたようです。
”孫子の兵法によれば、「遠征中の兵糧は、敵から奪え。」とあるが、これは誠に道理。しかし、楚の民には何の罪もない。横暴な楚の国王のむごい政治の下で、爪に火を灯す思いでようやく貯めた大切な食糧を奪い取るのでは、あまりにも可哀相すぎる。”
 兵法書によれば、「敵から奪った一石の兵糧は、本国から運んだ三十石の兵糧に匹敵する。」とあります。つまり、今、楚の民が一人泣けば、三十人の秦の民が助かるのです。しかし、それを行う決断がつかず、将軍は悶々としていたのでございます。
 しかし、そうしている間にも、楚の兵は集結しているかもしれません。それを思えば、蒙括将軍は気が気ではございません。
”ええい!こうなったらしょうがない!”
 とうとう、将軍は吹っ切ったように決断いたしました。
”兵をまとめて撤退しよう。だいたい、強大な楚の国を滅ぼす為には、三十万の軍勢は必要なのだ。陛下とて、まさか、たった十万の軍で楚を滅ぼせるとは思っておられるまい。それを、十万しか下さらなかったのは、それに見合った戦闘を期待なさってのことだろう。
 私としては、十万の兵で占領できる分だけを占領すればよい。
 してみると、少し進撃しすぎた。十万では、この半分を占領するのが精一杯だ。
 欲をこいて戦線を拡大しすぎれば、前線の兵力が薄くなる。そこを各個撃破されれば、大敗北を喫し、悪くすれば全滅だぞ。そんなことになっては、却って陛下へ対して申し訳が立たぬし、第一、故郷で待っている兵卒達の家族に、なんで顔向けできようか!”
 機を見るに敏。それが名将の条件でございます。遂に、蒙括将軍は撤退を決意いたしました。ところが、命令を下そうと考えた丁度その時、兵卒が幕舎へ駆け込んできました。
「閣下。住民の代表と称する老人が、面会を申し込んできました。」
「住民の代表?それならば無碍にはできん。すぐにつれて参れ。」
「はっ。」
 命令を受けて兵士が背を向けました時、蒙括将軍はフと考え直しました。
「あっ。待て待て。俺の方から出向いて行こう。」
「はっ?」
「相手は住民の代表なのだから、いわば、この土地の主人。我々は侵入者だから、客だ。主人を呼び付ける客などおるまい。」
「はあ。」
「こちらから出向くから、丁寧にもてなして待たせておけ。」
「はっ。」
 兵卒は、得心して出て行きました。
 大体、戦争で負けた国の国民は、非常に不安がっております。
”何か無理や無茶を言われるのではないか。”
”略奪や乱暴をされるのではないか。”等々
 なにしろ、負けてしまった、占領されてしまった、とゆう状態でしたら、何をされても文句が言えません。ただ震え上がって怯えている、あるいは頭を下げて頼み込む以外、方法はないのでございます。蒙括将軍はそれを考えまして、決して乱暴はしない、と住民を安心させる為に、尊大な態度を慎んだ訳でございます。
 さて、蒙括将軍が陣営を出ましたところ、その途端、愕然と致しました。なんと、兵糧を山積みにした荷車が、後から後から到着しているのでございます。
 と、そこへ、真っ白い髭を長く伸ばした、その割りに輿のシャンとしている老人が、足早に近づいて参りました。これが、住民の代表でございます。
 長老は恭しくお辞儀を致しますと、満面に微笑みをたたえて、将軍の戦勝を祝ったのでございます。将軍は些か面食らいまして、
「これはどうゆうことかな?我々はお前達の軍勢をやっつけた、敵に当たるのだが。それに、あの荷駄は一体なんだ?」
 すると長老、ハハーと頭を下げてから、言いました。
「あなた方がやっつけましたのは、王様の軍隊。私達は怨みこそあれ、恩義などありませんから、これが敗れて喜ぶのは当たり前でございます。大体、王の政治たるや酷いもの。私達は、一人残らず奴隷のようにこき使われております。時々、秦の噂を聞きますと、どんなに羨ましかったことか。
『ああ、なんで我々は楚の国なんかに生まれてきたのでろうか。秦の国民として生まれてきたら、どんなに良かっただろうか。』と、秦の国民を羨み、我が身の不運を嘆くことしきりでございました。
 ところが、今回、この地方は秦の軍隊に占領された、とか。してみると、私達も秦の国民となったわけでございます。なんで喜ばずにおれましょうか。
 しかし、喜んでばかりもおれません。もしも、王の軍隊が巻き返しまして、あなた方が撤退なさいましたら、私達は再び楚の国民となってしまいます。
 おお、考えるだに怖ろしい。
 そこで、どうあってもあなた方に勝っていただきたく、『何かできることがないか。』と、皆で相談し合った結果、せめて兵糧なりとも献上いたし、十分に鋭気を養ってから、心おきなく戦っていただこう、と、かくは献上に参ったのでございます。」
 聞いて将軍、喜ぶまいことか。
 時を同じくして、あちこちに残してきた兵卒達から、同じ様なことが起こったとゆう報告が届いたのでございます。
 大体、どんな人間にとりましても、税金とゆうものは、安いにこしたことはございませんし、法令は整っていた方がよろしい。何にも増して、王のわがままなど、ない方ががよろしい。それ故、どんな国民でも、「自分の国が秦に占領された方がよい」と考えた訳でございます。
 さて、こうなってきますと、兵糧の心配はございません。そうすると、糧道を保つ心配もございませんから、兵を分散する必要もございません。
 蒙括将軍は、さっそく、全ての兵卒を集結させました。そして、旬日を過ぎぬうちに、秦の軍隊には、威風堂々たる十万の兵卒が揃ったのでございます。
「ようし。これならいつでも楚の国を滅ぼせる。楚の軍隊め、来るなら来て見ろ!」
 とばかり、蒙括将軍は大張りきりでございます。
 ところが、ここに思いもよらない事態が起こりました。何と、秦王から撤退の命令が届いたのでございます。 

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