第三回  賢人喪を開き、聖君事業に挑む。
 
 既に述べましたとおり、韓非子というのは、病弱なお方でございました。ですから病に倒れたと聞き、王は大いに驚いて、自ら韓非子の許へ駆けつけたのでございます。もちろん、秦の国にて最高の医者を伴っていたことは、言うまでもありません。一方、韓非子と言えば、国王陛下のご来訪へ対して無理してでも出迎えようと思いはいたしましたが、いかんせん体が言うことを聞きません。病はそれ程重かったのでございます。とうとう、彼は病床に伏せったまま、国王を迎えねばなりませんでした。
 医者の見立ては、最悪でございました。生来の病弱に加え、常日頃から根を詰めて学んできた無理がたたって、これではいつ死んでも不思議はない、と言った有様。そして、相手が相手でございました。
 御国の為に粉骨努力を惜しまず、それがようやく実を結び、国民からは慕われ、”さあ、これからは安楽な一生を送るばかり。”といったお人が、その喜びを味わう暇もなく不治の病に倒れたのでございますから、労しさもまたひとしお。御殿医が、思わず眉をひそめてしまったのも無理はございません。
 ところが、これが悪かったのでございます。秦王陛下は、その一瞬を見逃さず、韓非子の病状を理解してしまいました。その心痛はいかばかりだったでございましょうか。
 ですがこの時、他ならぬ韓非子が、爽やかに笑ったのでございます。
「いや、お見立てご苦労。病状は最悪だったでしょう?」
 と、まるで他人事のような物の言い方。御殿医は慌てて首を振りましたが、韓非子は笑顔を絶やさず、
「隠す必要はありません。そもそも病気とは、その名の如く、気の持ち様一つ。ところが、私には治そうとゆう気持ちがサラサラないのです。」
「韓非子よ。何とゆうことを言うのだ。気を強く持って、養生に務めなさい。この病気はきっと良くなるから。」
 たまりかねた秦王が、傍らから口を挟みましたが、韓非子は穏やかな微笑みを絶やしもせずに、
「陛下。なにとぞお嘆きになられますな。そもそも私は、この世の中の誰よりも頭が良いとゆう以外には、これといった芸も能もない人間でございます。その知性に致しましても、既にすっかり全部書物に記しておりますし、陛下や李斯へ教授を済ませております。まして、事業も終わったのでございますぞ。私は最早、生きて行く必要のない人間なのでございます。」
「哀しいことを言ってくれるな!私はお前の功績へ対して、まだ何も報いてはおらぬのだぞ!せめて十分に喜びを味わってから死んでおくれ。死ぬのはそれからでも遅くはあるまい?
 おお、そうじゃ!その通りじゃ!!」
 秦王は、自分自身のその言葉に、思わず手を打って一人で悦に入ってしまいました。
「生きている間はいつでも死ねるのだから、なにも焦ることはないのじゃ。楽しく遊んでから、それに飽きれば死んで行けばよい。そうじゃそうじゃ、そうに決まった。そうと決まれば、ゆっくりと養生することが肝腎じゃ。」
「陛下。」
 韓非子は苦く笑いました。
「『私が何の恩賞も受け取っていない』などとは、とんでもない。かの孔子や孟子と言った先生方は、失意のうちに死んでいったのでございます。それに比べてこの私は、自分の腕を十分に発揮して、功績を挙げることができました。新しい法律に、民は大いに喜んでおります。学を志す者にとって、これ以上の恩賞はございません。それに、人間は必ず死ななければならないのでございます。なにとぞお嘆き下さいますな。」
 もともと聡明な秦王のこと。「人は必ず死ななければならない。」とゆう、その言葉一つでも、ハッと感じるものがあったはずではございますが、何せ悲しみにうち沈んでいる最中のことでございます。うっかりと聞き流してしまいました。それが、後々一波乱巻き起こす原因となるのでございますが、それはまだずいぶんと先の話でございます。これについては、いずれ場を変えて講釈する機会を待つことと致しましょう。
 さて、王は韓非子の慰めの言葉などまるで耳に入れず、まるで駄々っ子のように泣きわめき続けました。これには韓非子も大いに弱りまして、とうとう口先だけでも「養生する」と返答したのでございます。と言って、別に秦王を騙したわけではありません。王の方から「口先だけでも良いから養生すると言ってくれ。」と頼み込んだ訳ですし、実際、韓非子も養生はしておりました。ただ、病気を治そうという気力をかけらも持たなかっただけなのでございます。
 そういう訳で、秦王はようように宮殿へ帰り、韓非子はそれからも養生を続けたわけではありますが、病気は一向に良くなりませんでした。そして、一ヶ月と経たないうちに、遂に身罷ってしまったのでございます。
 韓非子、卒す!秦王の嘆きは一通りではございません。朝から晩まで泣きっぱなし。臣下達から何と諫められようと、政務を執ろうともいたしません。そして遂に、秦王は李斯を呼び出し、三年の喪に服すことを告げたのでございます。斯は大いに驚き、言葉を極めて諫めましたが、王は弱々しく言いました。
「何と言われようと、気力が湧いてこないのだ。何もする気にならぬ。こんな時に、政務を執るなどとてもできそうにない。考えてみれば、孤は即位してから、ひとえに民を幸せにすることばかりを考え、ちっとも休んだこととてなかった。一度くらい、わがままを言わせてはくれぬか?大変ではあろうが、三年の間だけでよい、お前が音頭をとって、他の臣下達と共に政務を執ってはくれまいか?頼む。」
 と、これは命令と言うよりも、懇願でございます。それに、王がわがままを言ったことなど、確かに始めてのことでした。こうまで言われては、斯としても、何で一肌脱がぬ訳にいきましょうか。かくして斯は、群臣を集めまして、王の心を切々と訴え、遂に臣下達も納得したのでございます。
 かくして、秦王政は三年の喪に服しました。これでは臣下達がさぞかし大変だったろう・・・と申しますと、さにあらず。
 秦の国では既に法律が完備されておりましたし、また、臣下達が揃いも揃って王に感化され、勤勉で思いやりに溢れた方々ばかり。それに加えて、民まで教化されておりましたので、互いに他と譲り合うことを以て喜びとなし、争い事の一つも起こりません。
 そうゆう訳で、王は喪に服して何もしませんでしたが、国は丸く治まり、何の支障もないままに三年の月日が経ってしまったのでございます。
 時に、一口に「三年」と申しましたが、これは一体どのくらいの長さでございましょうか?
 春夏秋冬がグルリと巡って、花が散り、葉が落ちた木々に再び花が咲く。これが一年でございますな。その、三倍でございます。
 例えて言うなら、生まれたばかりで親の世話にならなければ生きていけなかった赤子が、ようやく自分で動き回り、なんとか親の手を煩わせなくなり、まねごとでも親の手伝いをしようか、とゆうようになるまで掛かる時間、これが三年でございます。
 儒教においては、親の喪に服してその恩を十分に噛みしめ、心を痛める期間を三年としておりますのも、そうゆう所以でございます。 

 閑話休題。
 秦王政が、韓非子の死を深く悼みまして喪に服してから、はや三年の月日が流れました。すると、見計らったように斯が謁見を求めて参ったのでございます。王としましては、まだまだ気力が甦ってはおりませんでしたが、当初の約束でもございます、不承不承に、斯の謁見を許可いたしました。
 斯は、王に謁見いたしますと、三拝の後、言いました。
「陛下。はや、三年の月日が流れました。お約束通り、政務に就いていただきとうございます。」
「孤はまだ、何をする気にもならないのだがな・・・・。」
「わがままを言われては困ります。陛下には政務を執ってもらいませぬと。」
「うむ・・・。」
 王としても、自分がいつまでも何もしないままではいられないことは判っておりました。とは申せ、もう少し悼む心のままでいたいとゆう想いもありましたので、わがまま納めにに、少し駄々をこねて、李斯を困らせてやろうとゆう、軽いいたずら心も起きました。そこで、形だけは居住まいを正し、言いました。
「して、李斯よ。孤が政務を執らなければならない、と言うのは、私が喪に服している間に、何か滞りができて、ニッチもサッチも行かなくなったということか?」
 対しまして、李斯は、あくまで厳粛。
「いいえ、とんでもございません。臣下達は皆、陛下へ憂いを与えてはいけない、とばかり、誠心誠意政務に励みました故、何の破綻も起こっておりません。」
「それでは、国内に何か大きな事変でも起こって、どうしても孤の裁可が必要な事態に迫られたのか?」
「いいえ、とんでもございません。陛下の教化よろしきを得て、下々の者まで心穏やか。互いに助け合うことを喜びと為しておりますので、なんで事変が起こりましょうか。それに気候にも恵まれ、飢饉に苦しむ地方もありません。もっとも、喩え飢饉が起こりましても、陛下の常々の指導に則り、役人達は倹約を尊び、無駄を省いて、常に不測の事態に備えております故、どの国庫にも穀物が溢れ返ってございます。一年や二年はおろか、九年不作が続きましても、苦しむ民の一人も出ないでございましょう。」
「それでは、徐々に時代が変化して、昔のままの法律や組織では、現実と齟齬するところが出てきて、どうあっても変更することを余儀なくされたのか?」
「いいえ、とんでもございません。陛下が韓非子と肝胆を砕いて作られた法律が、たった三年で、なんで古びてしまいましょうか。それでなくてもたったの三年でございます。そこまでの変化へ至るわけがございません。」
「何じゃ・・・・。」
 秦王は、がっかりして思わず呟きました。
「それでは孤のやることは何もないではないか。」
「いいえ、それこそとんでもございません!実は、どうあっても陛下自ら指揮して貰わなければならない一大事業が残っているのでございます。」
「ほう・・・。」
 李斯のその言葉を聞きまして、ようやく王の瞳に輝きが甦りました。
「それで、何かな?その事業とゆうのは?」
「外征でございます。」
「何っ!」
 王は怒るまいことか。
斯!お前は何とゆうことを言うのじゃ!孤が口に入れる美味い肉や美味い酒に不足しているとでも思ってか!」
いいえ、とんでもございません。陛下にあらせられましては、口に入れる物なら何でも味わい深いと感じられるお方。どうあっても自分の好みに合わせなければ気が済まぬといった、わがままなお方ではございません。」
「それでは、孤が身を飾る美しい衣服に不自由しているとでも思ってか!」
「いいえ、とんでもございません。わがままを言われない陛下が、何で贅沢をなさいましょうか。陛下は、衣服は身を覆い、寒暑を避ければ事足りるとゆう、質実剛健なお方でございます。」
「それでは、孤が、孤の前にひれふす人民が少なく、これでは孤の威光が保たれぬ、と、憂えているとでも思ってか!」
「それこそ、とんでもございません。陛下は我意を以て他人を押さえつけ、心に快しとなさる残虐な方では、さらにございません。」
「それでは、何で『他人の土地を盗め』等と申すのだ!
 そもそも、どんなに貪欲な男といえど、他人の物を盗むだけで、他人の命までは殺めぬものだ。貪欲にして残虐な者にして、始めて他人を殺めもするが、それとてただ単に人を殺すに過ぎぬ。ところが、おまえはこの孤へ、『人が我が身を守る為のみならず、愛しい妻や可愛い子供、そして大恩ある二親をも守る為に大切にしている土地でさえも強奪してしまえ。』と言う。それでは孤はどんな悪人よりもたちの悪い極悪非道の無頼漢へ成り下がってしまうではないか!そうなってしまえば、孤は何の顔あって臣下達へまみえようぞ!また、そんな悪人を、人々が君主としていただくと思ってか!
 そもそも臣下というものは、主君が悪行を思い立った時、命を懸けてでも諫めるものなのだぞ!それをお前は、かえって大逆をそそのかす。臣下の風上にも置けぬ男だ!」
 と、烈火の如き怒り様。温厚な秦王が、こんなに立腹したのは生まれて始めてでございました。しかし、李斯は一歩も退かず、
「いいえ、陛下。恐れながらそれは大変な心得違いでございます。」
「心得違いとな?」
「はい。」
 斯はゆっくりと一礼いたしました。秦王といたしましても、憤慨こそしておりますが、もともと臣下の言葉には耳を傾けるお方でございます。斯の其の落ち着いた有様に、”とりあえず、答弁だけは聞いてやろう。”という心が生まれましたし、それを見極めてから、斯は静かに続けました。
「陛下は、よその国の実情をご存知ではございません。
 今、どこの国でも、国王と称する男は、我が身の贅沢だけを考えております。少しでも多く自分の民から税金を搾り取り、自分一人だけ贅沢に暮らそう、とばかり、『ゴマの油と税金は、絞れば絞る程良く取れる。』と豪語しておるのでございます。 また、譲り合いの気持ちなど欠片もなく、少しでも自分の領土を増やそうとて、なにかといえば戦争ばかり。そのたびに国民は殺されて行くのでございます。
 そんな連中に、『国を立派に治めてやろう』とゆう気持ちなど、あるはずもございません。法令はあれども、それを遵守する国王など一人も居らず、気が向いたら罪のない民でも平気で殺してしまいます。それ故、どの国の民も、『今日生き延びられるか、明日死ぬか』とばかり、恐々と息をひそめて生きているのでございます。これをどうして放っておけましょうか!」
 思いもかけぬ話を聞いて、王は思わず声をひそめ、
「そんなに酷いのかね?他の国は?」
「はい。事実、どこの国でもこのような流行歌が口ずさまれております。」
 そうして李斯が歌いました唄は、 

  

”怖いものだね王の気まぐれ。たとえてみれば雷よ。撃たれてしまえばそれっきり。
 いえいえそれよりなお悪い。天の下さる雷は、こんなにしょっちゅう落ちやせぬ。 

 怖いものだね王の気まぐれ。たとえてみれば洪水よ。起ってしまえばそれっきり。
 いえいえそれよりなお悪い。水の溢れる洪水は、こんなにしょっちゅう起りゃせぬ。” 

  

 もともと慈愛の想い深い秦王のこと。そのような話を聞いて、なんで平気でおられましょうか。
 ここぞとばかり、斯は続けました。
「私は、『よその国の領土を奪え』と申しているのではありません。苦しむ民を救うように勧めているのでございます。
 大体、苦しむ民を救うことが、どうして悪いことでございましょうか?これは大変に良いことでございます。大変に良いことでしたらば、どうして自分の国、よその国と分け隔てしてよろしいものでしょうか?
 それとも、陛下。陛下は、他の国の民ならば、どんなに苦しい思いをしていようとも、『わしゃ知らん』で済まされるおつもりでございますか?」
「い、いやいや。そんなことはない。」
 王は慌てて手を振った後、しばし思いを巡らせてから言いました。
「なあ、李斯よ。もしも、その話が本当ならば、なんで放っておけようか。しかし、卿のことを疑うわけではないが、何せ遠く離れた国のことだ。実情がそのまま伝わっておるとは限らぬ。
 そこで、じゃ。まず、兵を挙げてどこかの土地を占領させてみよう。そして、この国の民と同じように暮らさせてみよう。それで、もしも彼等が喜んだら、その時こそハッキリと判別がつくではないか。
 もしも噂が真実ならば、どんな艱難があろうとも、孤は必ずや、民を虐げる横暴な国王達を成敗して見せよう。」
「さすがは陛下。深い英知であらせられます。」
 李斯は深く頭を下げました。
 こうして、秦王政は出兵を決意したのでございます。 

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