第二回、 聖人が賢人と遭い、
民はその恩恵を受ける。

 

 さても、秦王政の待ちこがれておりました韓非子が、とうとう秦王の宮殿までやって参りました。取次の者から報告を受けますと、王は大いに喜び、急いで謁見いたしました。かくして、文武百官の立ち並ぶ中、韓非子は秦王に拝謁したのでございます。
 深い学識を湛えた韓非子とゆう先生、一体どのようなお方なのか、と申しますと、眼光鋭く、顔立ち引き締まり、一見してその明晰なる頭脳が見て取れますが、その顔色は青白く、手足はまるで枯れ木のようにやせ細っております。しかし、秦王はそのようなことを一切気にも止めず、ただ鋭い眼光のみを大いに嘉しました。
 大体、この秦王政とゆうお方は、人を見る時、その長所を見つけては、我が事のように喜びます。臣下は大勢居るわけですから、臣下の一人一人にどのような欠点がありましても、他の者にフォローさせればそれで済む、とゆう訳。ですから、韓非子がどんな病弱な人言であろうとも、一向気にする必要とてないのでございます。
 そうゆう訳で秦王は、韓非子を一目で気に入り、気に入るや即座に王座を立ち、スタスタと韓非子の方へ歩み寄って参りました。そして、あろうことか自ら韓非子の下座に就き、ハハーと平伏したのでございます。百官の驚きなんぞ、何のその。師匠に教えを請う弟子としての礼儀に則って、三度拝礼いたしました後、
「先生には、遠路はるばるとこの辺鄙なる国までご足労頂きまして、まこと恐悦至極にございます。」
 すると、韓非子。別にかしこまりもしませんで、雅やかに一礼いたしますと、
「昔、孔子や孟子といった先生方は、ほとんど一生涯、諸侯の間を歩き回って遊説なさいました。おおよそ、世を憂え、民を救わんとの想いを持つ者に、席の温まる暇なぞありはしないのです。千里の道とて、なんで遠いと言えましょうか。」
 聞いて秦王、我が意を得たり、と頷きました。
 と、その時、心利きたる臣下の一人が、気を利かせて二つの椅子を持ってこさせました。ここで二人して譲り合いましたが、結局、韓非子を上座にして秦王も座に就いてから、会見は続きました。
「時に先生、先生は一体、いかなる素性のお方ですかな?」
「我が父は韓の桓恵王。母はその後宮の末席を汚しております側室の一人でございます。」
「何!すると先生は韓王の庶子の一人ではないか!」
 秦王は驚くまいことか。
「いかんいかん。そんな人をうっかり信用すれば、我が国は韓の属国になってしまうではないか。危ない危ない。」
 驚き慌てる秦王を後目に、しかし韓非子はカラカラと涼しい笑い。
「これは明晰勤勉の誉れ高い秦王の言葉とも思えませぬ。もしも私が疑わしいというのなら、どうして裏切られぬよう努力しないのでございますか? およそ、『人が信じられぬ』と言うのは、愚かにして怠惰なる人間の言う台詞ですぞ。あなたは一国の国王として、これを統べるお方なのです。他人から絶対に裏切られないとゆう自分自身の努力をこそ頼みとなさいませ。決して他人を頼ってはなりません。」
 と、いかにも正論。これには秦王、返す言葉もございません。ただ、恥じ入って黙り込んでしまいました。
 ややあって、
「いや、これは私の失言でございました。先生には貴重な教えをしていただき、感謝の言葉もございません。今のただ一言だけでも、わざわざこの国へお呼びした甲斐があったとゆうものでございます。」
「いえいえ。『過ちを知る者は過ち少ない』と申します。さすが陛下は、噂通りの名君であらせられます。ただ、噂に違う先程の失言。何事か理由でもございましたか?」
「いえ、理由などございません。ただ、私の人格が劣っておっただけでございます。」
「そうですか。いや、私と李斯とは同門の間柄。その性格は知り尽くしております。もしや斯が罷免でも希望したのではないか、と、思いましてな。」
「なんと!先生の洞察は神に等しい!」
 愕然としてしまった秦王へ対し、韓非子はあくまで穏やかな顔。
「それならば陛下。何とぞご安心を。斯の想いがどうあろうが、私は見ての通り病弱な身の上。とてものこと、宰相の激務は務まりません。」
 言われて秦王、ホッと一安心。いや、積日の憂いから、たちまちにして解き放たれました。それと見て取ってから、韓非子は続けました。
「しかしながら、身は宰相の重責にありながら、才覚が劣っていたといいますのは、斯の罪。それにつきましては、罷免とまで行きませずとも、法に照らし合わせて然るべき罰を与えるが妥当かと心得ます。」
 聞いて秦王が、なるほどもっとも、と答えるより早く、かの斯がサッと一歩進み出て、
「韓非子の言われるとおりでございます。何とぞ罰をお与え下さい。」
 と、爽やかな一声。まさしく、「上・これを好めば、下・これに従う」のたとえ通り、清廉潔白なる秦王の下には、心様の正しい臣下達が集まっていたのでございます。そのような人間が、自分に非があると知った時、言を左右にして罪を逃れるより、自ら罪を求めること、言うまでもありません。
 秦王はその心根を大いに嘉しましたが、フッと思いつきまして、韓非子に恭しく一礼しますと、
「このような場合、先生ならどのように裁きますでしょうか。先生の学識を知る為にも、そのお考えをお教え下さい。」
 すると、韓非子も雅やかに返礼して答えました。
「およそ、一度法として定めたからには、それが不便であれば、まず、これを改正することが大切でございます。そして、それまでは、その法律を遵守しなければなりません。ですから、罪を裁く時に大切なことは、まず、その国の法律を熟知している、とゆうことでございます。
 ですが、幸いなことに、私はかねてから思っておりました。『秦国の法律は、他の国と比べて、見るべき点が多い。』と。ですから、かなり熱心に研究したことがあるのでございます。それ故、今の時点のこの国の法律に照らし合わせて、私の考えを述べることができます。
 何にしても、その身、宰相とゆう地位にありながら、その能力が劣っていたといたしますと、それは、これを登庸した者の罪。しかし、他の人材と比べまして、李斯の才覚はピカ一。まずは妥当、と考えられます。ただ、斯の能力を以て更に励めば、まだまだ立派な才覚を身につけられていた筈。これは、宰相となってから自己研鑽を怠った斯の罪。充分、罰っするに値します。
 法に照らし合わせますに、謹慎三ヶ月。ただし、その間、他の人材がございませぬ故、宰相の職務は従前通り。その代わり、職務の合間に然るべき人物に就いてよく学ぶこと。これを以て謹慎処分に替えましょう。そして、所定の期日を経ても、その人格に何ら変わるところがなければ、その時こそ状況酌量の余地はございません。」
 韓非子の裁きに、秦王は心中深く頷きましたが、その様な思いはおくびにも出さず、ゆっくりとぐるりを見渡しました。
「異存のある者は居るか?」
 その場には、秦の法務大臣や法律の学者等も居りましたが、しかし、誰も異議を挟む者はおりませんでした。ここにおいて、秦王は大いに満足し、国王の権限を以て裁可すると同時に、の教育と、併せて自分の教育を韓非子に頼みました。韓非子としても、なんで異存がございましょうか。
 こうして、韓非子は正式に、秦の政治顧問となったのでございます。

 さて、政治顧問となりましてから三ヶ月、韓非子は秦王と李斯へびっしりと学問を教え込みました。
「何事にあれ、その大本を正すことが肝腎。大本を正さなければ、枝葉の治めようがない。」
 それが、彼の学説でございます。
 そして同時に、「国の大本は法律にある。」とも申しております。
 秦の法律は、たいそう良く整備されておりましたが、それはあくまで他の国と比べてのこと。韓非子から見れば、不満だらけでございました。
 不満だらけでありながら、それで、なおかつ整備されている。これは他でもございません。韓非子に言わせれば、法律の大本を知る人間が、今の世の中には一人も居ないのです。大本がなかった為に、どんなによく整備されていても、結局は不満だらけになってしまいました。なんと、これも彼の学説通りではありませんか。
 それでは、その大本とは一体何だったのでしょうか?これは他でもございません。防犯でございます。ですが、これは半端には参りません。
”教えずして罰するは、不可なり。”
 これが防犯の思想でございます。ですから、「防犯 = 教育」とも言えます。しかし、教育とは時間が掛かるもの。完全を求めれば、成果が挙がるまで、何年も掛かってしまいます。勿論、秦王とて目先の利益へ見境もなく食いつく人間ではありませんから、「御国の利益のためならば、じっくりと腰を落ち着けて掛かろう」とゆう思いにやぶさかではございません。ただ、成果が挙がるのが一日遅れれば、民の苦しみが一日長く続くのでございます。それを思うと、仁慈溢れる秦王の御心が激しく傷むのでございます。
 そこで、韓非子は、「暫定的」とゆう条件付きで、愚民用の新しい法律を作ることを提言いたしました。つまり、その傍らで民の教化を進め、それが行き届くまでの一時しのぎに、法律による防犯を行おうというのです。
 この考えに、王も李斯も賛成いたしました。そこで、さっそく三人して想いを凝らし、肝胆を砕きまして、新しい法律を作りました。そして、新しい法律を国中の役所へ配布し、期日を定めて一斉に実施しようとしたのでございます。
 と、ここまではトントン拍子に事が進みました。ところが、その新しい法律、これを見た途端、人々は皆、魂を消し飛ばす程驚いてしまったのでございます。
 たとえば、
「灰を道に棄てる者は投獄」
「屋外にて許可なく焚き火をする者は死刑。」
「焚き火に許可を与え、しかもその検分を怠った役人は百叩きの上、官職剥奪。」 etc.etc......。
これでは、驚かない方がどうかしております。
 その余りの厳しさに、調停の百官は、皆々、大いに慌て、こぞって王を諫めに参りました。しかし、王は聞きません。
 そうこうするうちに、国中のあちこちから住民の代表と称する人々がやって参りまして、次々と王に謁見を求め、この法律の撤回を異口同音に懇願いたしましたが、秦王は聞きません。
 そこでとうとう、文武の百官と住民の代表達が、相集まって哀訴いたしましたが、秦王はいっかな聞きません。あくまで、この法律を施行すると言って譲らなかったのでございます。ここまで強い態度に出られましては、もはや誰も彼も諦めるより他ありませんでした。
 嗚呼!あの、民を見ること我が子の如く、慈愛に満ちた秦王陛下に在らせられましては、一体どうした心境の変化でございましょうか?
”もしかしたら、魔物にでも魅入られたのではないだろうか?”
 と、人々は訝しがることしきり。
 しかし、訝しがってばかりも居られません。なにせ、あんなに厳しい法律が施行されると言うのですから。
”私達はこれからどうなってしまうのだろうか?”
 と、出るのは溜息ばかり。
 ですが、国中の人々が悲嘆にくれておりましても、六十分経ったら一時間が過ぎてしまいますし、二十四時短立ちましたら、一日が過ぎてしまいます。
 かくして、日々は行く川の流れの如くに過ぎ行き、とうとう新法律施行の前夜となってしまいました。民の嘆きはいかばかりだったでございましょうか。
 なにせ、秦王政というお方は、信義を以て旨と為しているお方で、言って行わなかったこととてなく、行えば必ずやり遂げてしまいます。ですから、今回も、きっと法律の通りに政治をなさること請け合いでございます。
 さあ、大変。
”あんなに厳しい法律ができるのだから、自分もきっと、何か些細な法律に触れて、百叩きか、追放か。いやいや、明日にでも死刑と決まって死んでしまうかも知れない。”
 とて、どこの家庭でも、この日は親子揃って別れの杯を酌み交わしてしまいました。
 物持ちがとっておきの酒を飲むのは当たり前。貧しき人々は、家財道具を売り払ってまで酒に変えてしまったのも、無理ならぬ話でございます。
 ですが、死刑場に送り出される前夜に酒を飲んだとて、なんで気持ちよく酔えましょうか?飲んだお酒はひっきりなしに涙に変わってこぼれ落ちて行きます。
 この夜は、秦の国中がどんよりと湿っぽい霧に覆われ、人の多い首都の洛陽では、一夜にして河ができてしまったと伝えられております。
 そして、無情にも、夜が明けてしまいました。もはや、これまで。国中の人々が、死んでしまうものと覚悟を決めてしまいました。
 ところが、ここに不思議なことが起こりました。その日一日、罪に陥る人間が一人も出なかったのでございます。そして、十日経っても、一人の罪人も出ませんでした。それどころか、一ヶ月経っても、牢獄は空っぽのまんまだったのでございます。
 これは一体どうしたことでございましょうか?
 何かの事情で法律の施行が遅れれてしまったのでございましょうか?
 いえいえ、法律は、ちゃんと所定の期日を以て施行されました。
 それでは、王様が考えを変えて、信義を棄ててしまったのでしょうか?
 いえいえ、一国の主としての責任を重々わきまえている秦王政が、なんで軽々しく信義を捨て去ったりいたしましょうや。
 それでは、どうしてこうなったのでございましょうか?
 答は簡単でございます。法律を犯した人間が、一人も居なかったのでございます。
 そもそも、切り立った深い崖がありましたら、人は怖がって近寄りもいちしません。ですから、そんな所から落っこちるのは、自殺希望者をおいて他にはいないのでございます。
 今度の場合もそれと同様。
 百叩きや追放、ましてや死刑を望む者など居りはしませんから、皆々、等しく気を付けまして、決して法律を犯さないようになったのでございます。
 水は、上辺は穏やかに見えますので、人々は慣れ親しみ、多くの人々が水遊びを致します。それで、溺れ死ぬ人間が後を絶たないのです。それに対して、火は燃えさかっておりまして、中に入って遊ぼうなどと考える人間はおりません。ですから、焼け死ぬ人間は、溺れ死ぬ人間よりもずっと少ないのでございます。そこで、心ある人間は、こう申します。
「火は優しくて、水は陰険。」
 今回の法律もそれと同じ。厳しすぎるのが、民への思いやりだったのでございます。
 こうして、ようやく民は安堵しましたが、改めて気を付けて見れば、これは大変な世の中。法律を恐れる人間は、道に落ちている物さえ怖がって手をつけませんから、たとえ落とし物をしても、見当を付けて丹念に探しましたら、必ず出てきます。家を留守にする時でさえ、戸締まりをする必要がありません。いえいえ、旅をする時に、護身用の刃物を身につける必要がないのです!
 おお、何と素晴らしいではありませんか!皆様!私は冗談を言っているのではありませんぞ!秦王政の治世中は、刀はおろかナイフ一つ持たずに旅をできるとゆう世の中だったのでございます!これを地上の楽園と言わずして何と言いましょうか!
 ・・・・失礼たしました。つい興奮いたしまして・・・・。まあ、何はともあれ、まともな感覚では絶対に信じられないほど、素晴らしい世の中になっていたのでございます。
 ここにおいて、民は新しい法律を大いに喜びました。そうすると現金なもので、全国津々浦々から、民の代表と称する人々がこぞって洛陽まで集まってきて、感謝の言葉で新法律を褒め称えたのでございます。
 皆様は覚えて居られるでしょうか?
 かつて、秦王政は言いました。
「悪を為す人間も居るには居るが。」と。
 しかし、今やそれさえも居なくなったのでございます。
 これこそ韓非子の大いなる功績。かの李斯が、自ら宰相を辞任してまで登庸させようとしたのも、全く無理のない話でございます。
 さて、新しい法律のおかげで喜びに沸き返った秦の国。”もはや国中なんの憂いもなくなった。”と、思いきや・・・・”好事魔多し”の喩え通り、とんでもない災いが降って沸いたのでございます。何と、あの韓非子が、病に倒れてしまったのでございます。

 

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