第一回   賢者は賢人を知り、
        仁者は身を以て他人を推す。

 

 所は中国、時は動乱の戦国時代。阿鼻叫喚の地獄絵が、地に満ち満ちていた時代でございます。民の苦しみはいかばかりだったでございましょうか。
 心ある人々は、戦乱に苦しむ庶民を思って、断腸の想いに身をよじらせておりました。かの孔子が悲憤慷慨して「春秋」を描き、墨子が足を棒にして歩き回ったとゆうのも、ひとえに、民を苦しみから救わんとした為でございます。
 しかし、笛ふけど踊らず。
 世の王公将相には民を思う慈悲の一かけらとてなく、あいも変わらず寸借の領土を争いて兵を挙げ、往来して相争っておりました。それ故、戦火の災いは止むことを知らず、億万の民は碌々と喘ぎ、汲々とうめき、綿々と恨み言を述べながら、細々と生きて行くより他なかったのでございます。
 嗚呼!伝説の聖人今いずこ!民を苦しみの淵からすくいあげる、思いやりに溢れた立派な君主はこの世に現れないのでありましょうか!
 ところが、天道は満ちれば必ず欠けれども、欠ければ必ず満ちるものなのでございましょう。ついに、そのような主君が生まれたのでございます。西の方、秦の国の王、その名は政。秦王政こそが、そのお方でございます。
 秦王政。後に中国全土を支配して、民から「皇帝」の称号を与えられ、中国で始めて皇帝と名乗ったお方でございます。「秦の始皇帝」と、こう申したならば、「ああ、あのお方か。」と、頷かれるお方も大勢ございましょう?そう、秦の始皇帝こそそのお方でございます。
 しかしながら、今、この時点では、未だ皇帝を名乗ってはおりませんし、中国全土の支配者でもございません。あくまで、秦一ヶ国の国王に過ぎないのでございます。それ故、ここでは敢えて「秦王政」と、こう呼ばせていただきましょう。
 さて、この秦王政。一体どうゆうお人柄か・・・・・と申しますと、まこと勤勉にして聡明。学びて飽かず、知りて驕らず。しかも、過ちを正すに憚ることを知りません。
 これならば、喩え資質が人よりも著しく劣っていたとしましても、必ず人並み外れた立派な主君になられたでありましょう。ましてや!一を聞いたら十を知るほどの聡明さがございましたので、尚更でございます。
 いやいや、ただに頭が良いだけではございませんぞ。
 善を嘉し悪を憎み、民を見ること我が子の如し。喜ぶ民の笑顔を見れば、たちまちにして竜顔麗しくほころばせ、苦しむ民の一人でもいるとゆう噂を聞けば、
「ああ、それこそ国王たる私の不徳の致すところだ。全ては私の責任だ。」
とばかり、慚愧の想いに胸をかきむしるような、思いやりに溢れた、素晴らしい心様のお方でございました。
 このような国王を上に頂き、どうして国が巧く治まらないわけがございましょうか?
 それ故、動乱の戦国とは言っても、ここ秦の国だけは別天地。臣下は上下相い和し、民はその生業を楽しみ、皆々、心ゆくまで太平を謳歌していたのでございます。

 さて、ある日のこと。
 王は政務の合間に書物を紐解き、いつもの如く、孔子・孟子といった聖人達の立派な言葉に、身を震わせるほど感動しておりました。
 と、その時、「宰相の李斯が謁見を申し込んで来た」 との事。
”すわ、一大事でも起こったか!”
 とばかり、王は急いで謁見を許可いたしました。
 しかしながら、やがて入ってきました李斯は穏やかな顔。まずは一安心でございます。
 斯は、王に謁見しますや、まずは型通りの挨拶を済ませ、それから言いました。
「さて、陛下。今日、私が謁見を願いましたのは、一つ伺いたいことがあったからでございます。果たして陛下は、今の境遇に満足なさって居られますか?」
「おやおや、いきなり何を。」
 突然の質問に、秦王政は面食らいましたが、やがて、笑って答えました。
「勿論満足しておるとも。決まっておるではないか。
 おおよそ、何が楽しいと言って、人の笑顔を見る以上に楽しいことなど、この世にあるわけがない。今、翻ってこの国の世相を見るに、まこと太平にして、民は皆、その生業を楽しんでいる。のみならず我が民は、質朴なること足るを知るが故に、互いに他と譲り合うことを以て喜びとなし、争い事など滅多に起こらぬ。
 まあ、中には民を傷つける悪しき男も居るには居るが、忠実なる我が部下が、絶対にこれを見逃さない。孤としても、正しい裁きで悪を討ち、被害者の溜飲を下げることができるし、それを知っているが故に、人々は心豊かに暮らすことができるのだから。
 これを以て楽しいと言わずして、一体何が楽しいというのかな?」
 すると、李斯。首を振って答えました。
「いえ、私の見るところ、まだまだでございます。」
「ほう・・・。それでは御身は、今よりも楽しい境遇が他にある、と、申すのか?」
「御意。その通りでございます。」
「それは知らなかった。しかし、知恵者のお前の言うことだ。間違いではあるまい。して、今よりももっと素晴らしい日々を送る為には、孤は何をすれば良いのかな?」
「まずは、私を罷免して下さいませ。」
「なに!」
 王は驚くまいことか。
「一体なんて事を言い出すのだ!
 いいか、良く聞けよ。お前は孤の臣下となってから、何と言って過ちなどない男だ。そんな臣下をどうして罷免することができようか。
 おおよそ、『他人を踏みにじってまで自分一人の喜びを追い求めよう、』等というのは、大変に賎しい生き方であるし、孤はこれを絶対に為さない。ましてや咎なき者にほしいままに罰を与えれば、怨みを買い、信用を無くす。そうなれば、主君と雖も必ず危うい。なんでそんなことをして良いものか!」
「いいえ、恐れながら陛下。それは心得違いでございます。先程、私のことを『咎なし』と仰られましたが、まず、これが大きな間違いでございます。」
 聞いて、王は、漸く合点がいったように頷きますと、ポン、と手を打ちました。
「ハハァ。こいつめ。さては何か失敗をやらかしおったな。しかし、訳も言わずにいきなり罷免とは、チト大仰ではないか。よいよい、お前には数々の功績もあること。情状酌量の余地もある。まずは、納得のいくように、ゆっくりと説明してみるが良い。」
 とは、いつにかわらぬ寛大なお言葉。李斯はハハーッと頭を下げますと、呼吸を整えてから申しました。
「まずは私の咎でありますが、薄才不肖の身でありながら、宰相の地位を汚しておること。私とて良心のかけらぐらいは持ち合わせております故、日々薄氷を踏むが想いで兢々と暮らしております。これこそ、『才薄くして地位高きは、義に於いて浮かべる雲の如し。』と申すものでございます。
 先程陛下は、我が国の世相を語られましたが、私の如き才覚では、この程度の世の中を作り出すのが手一杯。ここはどうあっても、もっと才覚の高い者を登庸してしかるべきでございましょう。さすれば、更に素晴らしい世の中に変わり、民は日々の喜びを増し、陛下の心は更に満ち足り、私としても心安く暮らして行けます。これこそ、『各々がその所を得、八方は丸く収まる』と申すものでございます。」
「待て待て待て。」
 一気にまくし立てた李斯の言葉を聞き終えて、王は慌てて手を振りました。
「肝腎なところが、まだ、まるで判らないぞ。それではまるで、御身より格段に優れた才覚を持つ者が、この世に居ることになるではないか。」
「居ります。私の兄弟子に当たります、韓非子こそがその人でございます。かの人の才覚たるや、私などその足元にも及びません。」
「ふむ・・・・・。」
 そこまで言われて、王はしばし考え込みましたが、やがて、
「しかし斯よ。御身が何と言おうが、孤はまだその韓非子の為人をまるで知らぬのだ。いきなり宰相になど、できるわけがない。」
「そう仰せられると思い、かく、持参いたしましてございます。」
 言葉と共に斯が懐から取り出しましたのは、一巻の竹簡。・・・これは、細長く切った竹を紐で綴り繋げたもので、紙のない時代には、物を記載するのに使われておりました。
「この竹簡さえご覧になれば、韓非子の非凡なる才覚が、必ずやお判りになりましょう。」
 言って一礼するや、あたかも、「我が偉業、ここに終われり。」とでも言いたげな晴れ晴れとした笑みを満面にたたえ、後は型通りの挨拶と三拝を残して、李斯はサッサと退出してしまいました。
”おやおやおや・・・・・。”
 残された秦王は嘆息することしきり。
”一体何事かと思ったら、何のことはない、賢人の推挙ではないか。
 まあ、有能な人材を推挙することこそ宰相の大切な職務ではあるが、しかし自分の地位を棒に振ってとまで言うのは、少し大仰過ぎるぞ。
 大体、この国がここまで成ったのは、あいつが私の片腕として奮励砕骨を惜しまなかったからではないか。その功績は大きいとゆうのに、なんで咎もなしに罷免になどできようか。それに、今まで斯のことを宰相として厚く遇しながら、『他に有能な人間が居るからお前は要らん。』では、節義ある人間として、余りに情けない限りだぞ。”
 思いを巡らす程に、何とも気の重いことです。王は所在なげにチャラチャラと竹簡を弄んでおりました。李斯がわざわざ持ってきてくれたことを思えば読まないわけにはいけません。しかし、だからといって、斯を罷免するには忍びない、とゆうわけ。しかし、もともと学問を好み、学びて倦まぬ王のこと、読むとはなしに目を通しているうちに、いつしか夢中になっていきました。
 これは一体、何とゆう書物でしょうか。
 理路整然としていながら奇想天外。人情の機微を衝くこと玄妙にして、しかも人情に流されず、慮外の災いを予測することあくまで的確。正しいことを言いながら、現実離れしておらず、理想を実現させる為の困難をしっかりと描くことによって、かえって肺腑をえぐる助言となっております。
 読むほどに酔いしれ、酔いしれるほどに更に味わい深い。王は時の経つのも忘れはて、ただただ貪るように繰り返し繰り返し熟読玩味してしまったのでございます。
 その時、
 プツン。
 軽い音がしたかと思ったら、あれよあれよと思う間に、竹の札がバラバラになって王の両手の間からこぼれ落ちてしまいました。余り熱心に読んでしまった余り、竹簡を繋いでいる紐がちぎれてしまったのでございます。
 「ほおーーー。」
 精も根も使い果たしたように椅子に座り込んでしまった王の口から、大きな溜息。
「ああ、これを書いた先生と親しく語り合うことができたなら、その場で死んでも構わないのだが。」
 独り言を呟いた後、なおしばらく、王は余韻に浸り込んでおりましたが、ややあって、ようやくうつつに戻りました。
 まずは、散らばっている竹の札。それを王は一枚一枚大事そうに拾い集め、付いている塵を丁寧に拭い去ってから並べ直し、そこでようやく手を打って人を呼びました。呼ばれて即座にやってきた宦官へ向かい、
「この竹簡を元通り繋ぎ合わせてくれ。そして宰相を呼んでくるのだ。」
「宰相様でしたら、既に控えの間に来られましてございます。陛下が読書の最中と伝えましたので、遠慮して待っておいでです。」
「それは何よりだ。すぐに呼んで来てくれ。」
「はい。かしこまりました。」
 くだんの宦官は、竹の札の順番が狂わないように気を付けながら両手で抱えますと、三拝して出て行きました。そして、それから程なくして、李斯が入って参りました。
「いかがでございました?」
「いや、素晴らしい学識だ。私はあの書物を書いた先生に、何としてでもお会いして、親しく教えを受けてみたいのだが。」
「それは何よりでございます。それではさっそく人を遣って呼んで参りましょう。いや、これで私も肩の荷が下りたと申すものでございます。」
 晴れ晴れとした顔でそう言われ、王はギョッとしてしまいました。
”そうだ。李斯の罷免の件が残っていた。
 しかし、李斯はスタコラと立ち去っております。それに、韓非子に会えると思うと、王も呼び返す気にはなりませず、遂に、斯は退出してしまいました。
 さあ、それからが大変でございます。もうすぐにでも、あの韓非子に会えると思いますと、王の心は我知らず浮き立つのではございますが、何の咎もない斯を罷免することになるのではないか、と考えますと、王は腸がちぎれるように憂悶するのでございます。
 王の心は或いは浮き立ち、或いはふさぎこみ、まるで嵐の日の海面のように大荒れに荒れまくったのでございます。その証拠には、ほんの数日のうちに、王の顔が見る影もなくやつれ果ててしまったと言われております。
 この時の王の顔を一目見たら、喩え浮浪者といえども、我が身の境遇を大いに喜び、
ああ、国王になんぞ、頼まれたってなるものじゃない。それに比べれば、この俺はなんて幸せなんだろう。たとえ明日の保証がないにせよ、毎日毎日気楽に遊んでいればよいのだから。いくら美味い物を食べ、美しい着物を着て、大勢の人間を顎でこき使えるとは言っても、あんなに気苦労が多いんじゃ、何が楽しくて生きて居るんだか判りゃしない。あんな仕事はサッサとおっポリ出しちゃって、おいらみてぇに気楽に暮らしゃいいものを。全く、あんなことしてる男の気が知れねぇよ。」
 と、言ってしまうでありましょう。
 しかし、心ある人ならば、必ずや涙を流さんばかりに感動し、
「ああ、なんて有り難いことだ。王は数ならぬ私達のことを考えて、ああも苦労なさっておられる。こんな王様を上に頂いているのだから、私達はなんて幸せなんだろうか。こんな王様だったら、私達が幸せになれるようなことがあれば、自分の楽しみはそっちのけにして、どんなことだってしてくださるだろう。ああ、そんな王様の為だったら、私としても、どんなことを厭おうか。もしも『王を守る為に死ね、』と言われたら、こんな命など、何で惜しんだりするだろうか。ああ、有り難い有り難い。」
 と、その場に伏し拝んでしまうでありましょう。
 ともあれ、悶々嬉々のうちに月日は流れ行き、遂に、かの韓非子は秦の国へ到着し、秦王政の宮殿へ参内したのでございます。
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