第四回  銭長亭に賢臣別れを告げ、
      険地に臨んで智士謀略を施す。

 この事件の翌日、新帝は朝廷へ劉謹等を呼び出し、内宮司礼(「亦/金」)儀監に封じた。そして、軍務から国政に至るまで全てを統括させると命じた。
 諸大臣達は、新帝が昏迷を悟り前非を悔い改めることをこいねがっていたのに、却ってここまでの重職を与えると聞き、仰天してしまった。そして、心中憤懣に耐えず言葉を極めて諫めたのである。
「軍務や政務、外国からの使者への対応から朝臣の賞罰人事の権利まで、全てを委任されると言うのならば、英偉才略の臣士しかその職務に耐えられません。劉謹等は、単なる内廷の臣下ではありませんか。その胸に文綉なく、詩書の教養もなく、ただ後宮を走り回る陛下の小間使いに過ぎません。どうしてそのような大任が務まりましょうか?もしも失策がありましたら、国中の民が苦しみ、諸外国からも侮りを受けてしまうのですぞ!その時悔いても追いつきません。どうか今一度熟慮なさって下さい。」
 この時新帝は、寵臣を抜擢しようと気が逸っていた。しかも、劉謹から吹聴されて以来、廷臣達は自分をこき使おうと手ぐすね引いている不忠不埒な怠け者ばかりだと思いこんでいたので、諫言を聞いて激怒してしまった。
「お前達は無能者揃いだ。ただ自分たちが楽をすることばかり考え、朕を忙殺させるつもりか!もしも、朕が劉謹等をこの職務に就けなければ、お前達の仕事がはかどらないのではないか!それに、劉謹等には朕の命を救ったという大功がある。どうして賞せずにいられようか。お前達とは違うのだ!」
 皇帝陛下から雷を落とされ、廷臣達は縮こまっているばかり。
 ところで、梁儲は既に胆を据えていた。先帝の恩顧に応える為にも、たとえ罷免されてでも言うべき事は言わなければならない、と。それに、「朕の命を救った」の一言にも合点がいかなかったので、新帝の怒りをおして言った。
「陛下。その大功とは、どのようなことでございましょうか?」
 問われて新帝は、御苑での事件を逐一語った。
”はて?”
 事情を聞いても、梁儲には合点がゆかない。
”陛下が暴漢に襲われたと言うが、一体黒幕は何者?それに、御苑の中に忍び込んでいたのなら、内応者が居たと言うことか?それより何より、刺客に選ばれるほどの人間ならば、必ずや武勇無双の豪傑の筈。劉謹など武芸の欠片も知らない宦官。束になって掛かったとて、何で歯が立つものか。”
 しかし、それが事実である以上、確証のないことで言い争うわけにはゆかない。それに、新帝の劉謹へ対する恩寵を見ても、確証のないことで嫌疑を掛けたところで思いとどまらせることなどできそうにもなかった。
 梁儲は、我慢するべき時だと判断し、病気を理由に休暇を申し出た。新帝は、相手が前朝の重臣であり、かつ、既に老体でもあったことから、一ヶ月の休暇を与え、病気が治ったら出仕するよう労った。梁儲は聖恩へ感謝して退出したのである。
 新帝は、劉謹等八人へ多くの宝物を賜下し、彼等と共に後宮へ退出した。
 この日の朝議では、群臣は皆、怨みを含んで退出した。特に、楊延和、李東陽、劉健、謝遷等、第一等の重臣達は尚更である。彼等は、今更ながらに新帝の昏迷ぶりを思い知らされた。奸佞な者を寵用し、諫めても聞かれない。皆は補弼に疲れ切り、各々辞表を提出した。
 これを、劉謹が讒言を込めて新帝へ上奏した。その上、詔を矯正し、彼等を全員、即刻解雇の上、都から追放してしまったのだ。ただ、この中で李東陽だけは遺留された。
 そも、その李東陽とはどのような人柄だろうか?
 李東陽は、東湖県出身。翰林院を経て、現在は戸部尚書の職に就いている。その為人は、寡黙で恭謙。他人を受け入れる大きな器量を持っている。だから劉謹達への非難もなかったので、この一党から好意的に見られていたのである。
 劉謹等としても、一度に全ての大臣達を罷免してしまうと、非難が集中してしまう。そこで、カモフラージュの為にも、一人ぐらいは遺留させた方が上策と考えたのだ。そして、一度に空席となった重職を李東陽へ与えようと、新帝へ彼の才覚を吹聴した。片や新帝は、彼等の言う事には唯々諾々と従う。そうゆう訳で、李東陽には吏部尚書、華養殿大学士の職が加封された。李東陽は聖恩に感謝してこれを受けたが、内心、忸怩たるものがあった。
 さて、詔がおりたので、大臣達は都から出ていかなければならない。同僚の臣下達は、彼等と別れの席を設けた。その席で、李東陽は思わず嘆息してしまった。
「私もここには居たくない。貴公方と共に出ていけないのが恨めしい。」
 それを聞いて、百官は口々に言った。
「何とゆうことを言われるのですか。従来、豪傑というものは、汚れを嫌って身を退いたり、或いは身を以て世を救ったり、その処し方は、それぞれの置かれた境遇によって様々でした。某が去ったなら、その後誰が朝綱を補弼できるのですか?億兆の民の為です。遺留された貴方にこそ、頑張っていただかなければ。」
 こうして、草々の慰めの中で、彼等は別れを告げた。
 ところで、諸臣が去った後、新帝は、朝廷から人物が居なくなったことを、さすがに自覚した。そんな折り、梁儲の病状が少し回復したとゆう報告を受けたので、さっそく梁儲へ六部尚書の職を与え、入閣させた。
 ああ、なんとゆう幸運だろうか。諸臣が揃って辞表を提出した時に、もしも梁儲が病気休暇を取っていなければ、彼も一緒に辞表を出して、罷免されていたに違いなかったのに。これこそ、朱家(明皇室)を滅ぼすまいとゆう、天の配剤だったに違いない。
 一方、劉謹一味。忠臣達が大挙して去っていった後、彼等は一味の者を次々と登庸していった。兵権も益々強固に握り、これによって朝臣達は、益々劉謹達を畏れるようになった。ただ、彼等としては、やはり梁儲と李東陽には憚りがあり、それで辛くも猖獗が抑えられている。それでも、気に入らない人間は次々と弾劾し、新帝へは遊びに現をぬかさせている有様だった。
 ここに、左都御史の銑彦徽とゆう男がいた。彼は、諸臣が斥けられ劉謹が権力を弄んでいるのを見て、心中憤懣に耐えない。遂に、十三道の御史達をとりまとめ、次々と入奏させた。そうやって劉謹一味を排斥して国法を糺そうとしたのだ。
 又、兵部主事の王守仁という人も上疏した。
「どうか先日退職させた諸臣を復職させてください。そうすれば、閉ざされた臣下達の口も再び開くでしょう。また、陛下も宴遊を少し慎み、自ら政務を見られ、奸佞の臣下を除かれて下さい。そうなれば社稷も安泰、それこそが、臣等の幸いでございます。そうでなければ、今後社稷の危機や大規模な造反が起こった時、臣下の誰がそれを正直に口にするでしょうか?陛下はどうやって真実を知られるおつもりでございますか?それを思えば、どうして恐れずにいられましょうか?」
 これらを読むと、新帝はその疏状を執り、劉謹へ言った。
「卿には何の過があって、衆臣の弾劾がこうも屡々入るのか?卿は彼等との間に仇恨でもあるのか?どうしてこうなったのだ?」
 すると劉謹は慌ただしく跪き、涕泣して言った。
「奴僕は、これらの諸臣と隙があるわけではございません。ただ、佳肴や美酒で彼等をもてなすことを知らず、このような仕儀となったのでしょう。それに、例えば、名月が中天に昇れば、佳人はこれを愛でて喜びますが、泥棒にとっては恨めしい相手。春雨は農夫を喜ばせますが、道行く人は泥が跳ねて嫌がります。天の恵みでさえ、全ての人々を喜ばせることはできません。ましてや奴が、どうして完遂できましょう?甲が喜べば乙が憎み、憎んだ乙が上書する。このような世の中でございましたら、例え周公のような聖人でも流言を免れず、霍光の忠義があっても讒言に陥れられましょう。ましてや僕如きでは、どうして免れましょうか?ただ、陛下は万乗の尊いご身分。その身分で鷹犬の戯れを楽しんだところで、費えは幾ばくでしょう?諸臣の退職に至っては、奴等が老後を楽しみたいと、自ら望んだことでございます。陛下に何の関わりがございますか?それなのに、衆臣は全てが奴の罪と言い立てて、排斥しようとしているのでございます。奴僕は草莽の一庸愚。斬り捨てたところで惜しむような人間ではございません。ですが、そのようなことになれば、今後は陛下の一挙一動まで臣下達の監視が入ることとなってしまいます。」
 新帝は劉謹の舌に丸め込まれ、思わず疏状を擲って罵った。
「諸臣は結託して孤皇を掣肘しようと企むか!」
 そして、即座に令を下した。銑彦徽等には杖打ち三十の上、官職剥奪。そして、永久に仕官禁止。ああ、哀れむべし。この聖旨のおかげで、老齢の者は杖打ちの最中に死んでしまったのである。又、王守仁は、貴州龍場駅丞へと左遷された。
 さて、 梁儲と李東陽は、この事を聞きつけて急いで朝廷へ駆けつけた。しかしながら、到着した時には既に諸臣は追い出され、新帝も後宮へ退出していた。既に時遅しと見て、暗然たる思いで梁儲は言った。
「主上はまだ若く、佞臣に誑かされている。我等は先帝から後事を託された人間。御国の為なら、この身を惜しまない気持ちにやぶさかではない。しかし、新帝は既にあの佞臣達を溺愛している。犬死しても意味がない。それに、朝廷から忠良の臣下が居なくなれば、一旦変事が起こった時に、誰もこれを救わなくなる。それでどうして先帝託孤の心に適おうか。我等二人、暫くは朝廷に残って様子を窺うしかない。それで、奴等の横暴があまりに酷くなったら、その時は又別に手だてを考えようではないか。」
 聞いて、李東陽も同意した。こうして、この日は、二人共おとなしく帰路へ就いた。
 さて、ここで王守仁について語っておこう。彼は雲南臨安府石屏県の人間。その性格は孤忠で、権豪相手でも避けない。武才は孫呉の将略を胸に秘め、文才は諸葛孔明の奇謀を持っている。字は陽明。学者としても後世に名高く、陽明学とゆう儒教の一派を創立した王陽明こそが、この人である。
 その王守仁。上疏しても新帝は悟らず、却って彼は貴州龍場駅丞へと左遷させられたのだから、心中不満で堪らない。しかしながら、どうしようもないので、家族や眷属を連れて貴州目指して出発した。
 ところで、劉謹は、かねてから王守仁のことを聞いていた。知勇兼備で忠耿の人。そんな人間が、自分に怨みを含んだまま地方へ下ることになったのだから、後々の患いとなることが不安でならない。そこで、刺客を差し向けることを決意した。腹心の四人を選ぶと、彼等を中途で襲撃するよう命じたのだ。これこそ、「草を斬って根を除く」の妙計。
 王守仁は、そんなこととは知らないで旅を続けた。銭塘江口まで来ると、人煙は次第に減ってきて、両岸には高い山が見える。地形は極めて険阻。前面には、ただ一艘の船がようやく進める位の川幅しかない。それを見ているうちに、ハッと悟った。
「こんな辺鄙な所に、要地を作る必要があるのか?奸党が、我をここへわざわざ派遣したのは、我を殺害するつもりか?」
 そこで、船を留めると、翌朝出発とゆうことにした。そうして船の中で、眠ることもできずに、先程の考えを反復した。
”そういえば劉謹は、以前から屡々人を寄越し、自分の門下へ入るよう、言ってきていた。俺はキッパリ断っていたが、それを恨まれ、今日の事態となったのか?考えてみれば、俺も左都御史同様の上奏をしたのに、向こうは杖三十の上、官職剥奪。それに対して、俺は龍場駅丞ですんだ。しかし、駅丞というのは無用の閑職。刺客を放って殺害するつもりなら、庶民へ落とすより、このひなびた場所に縛り付けていた方が好都合ではないか。”
 もとより、劉謹の為人まで併せ考えて出した答だ。刺客に狙われているとなったら、どうすればよいか?自分が生き延び、しかも家族に累を及ぼさない為に………。
 ずいぶんと考えて、王守仁は一つの答を見つけた。
”気が触れた振りをして、投身自殺したことにするか。”
 すでに方策が定まると、彼は遺言を書いて袖の中へ隠した。そして、翌朝、てんかんの振りをし、呂律の回らない言葉で笑ったり泣いたり。事情を知らない家族は大いに驚いた。周りの人々も、ちょっと気が触れたとばかり考えて、取りあえず近くの岸へ船を着けた。すると王守仁は、人の目を盗んで駆け出した。後でそれと知った家人が追いかけて来る。そこで王守仁は、服を脱いで彼等を待ち受け、頃合いを見計らって大石を川へ投げ込むと、身を隠した。
 家人達は大慌て。しかし、水術の達者な者が川へ飛び込んでも、王守仁の姿はどこにも見えない。そのうちに、脱いであった着物の袖から遺言が見つかった。知り合いの郡守楊万央へ宛てたもので、「家族をどうか故郷へ連れて帰ってくれ。」と頼んだもの。それを読んで、家族は皆、声を限りに泣きじゃくったのである。
 やがて、事情を知った楊万央は王守仁の家族達を故郷へ送り届けてやった。
 こうして、王守仁は死んだこととなった。その実、彼は、姓名を変えて武夷山へ隠れ住んでいたのだ。

 

 

第五回  江への投身に装って守仁は隠住し、
     県令を傷つけて、逆賊を非とする。

 さて、銑彦徽や王守仁を追放してから、劉謹達は、朝廷内の新官の大半を自分の腹心で固めた。そして、刺客が戻ってきて、王守仁の投身自殺を告げると、彼等は益々忌憚がなくなった。
 この頃、彼等は吏部尚書の焦芳を謹身殿大学士とし、入閣させた。この焦芳という男は進士出身。その性格は貪婪暴虐で不仁の極み。だが、権力者へは媚びへつらうので、劉謹は大いに気に入っていたのだ。
 ある日のこと、焦芳は精巧な戯物を手に入れ、劉謹と共に、これを新帝へ献上した。この時、数十の書類も持参して、新帝の前に並べて裁断を仰いだが、新帝は不機嫌な様子で言った。
「朕は、安逸に暮らしたいからお前達を抜擢したのだ。それがこんな煩わしい仕事を持ち込んで来おった。朕がこれを裁断するのなら、卿等は何をするつもりだ?」
 これを聞いて、劉謹は大いに喜んだ。
 それ以来、国や軍の重要なことでさえも、やりたい放題し放題。新帝への報告もしないで、好き勝手に行うようになってしまった。そして、満朝の文武大小の諸臣は、皆、彼等の権力の前に平伏すようになったのだ。ただ、李東陽と梁儲の二人だけは、不安でいたたまれなかった。しかし、この時四辺の警備は充実していたし、新帝に謁見しようにも、帝はいつも宮中で宴会に興じている。それ故、彼等はただ、悶々とするばかりだった。
 やがて、劉謹は宮外に私邸を造営した。その壮麗さは極めつけ。屋敷の中は、珍宝玩器で満たされている。
 自ら思うに、
”位は人臣を極めた。求めて得られない物はない。惜しむらくは陽物が収縮して使い物にならない。美女を得ても事に及べないのなら、風流に背くと言うものではないか。”
 そこで、左右の者へ言った。
「誰か良薬を知らないか?陽物を再びはやす薬を老夫へ授けてはくれぬか?手に入ったなら、恩賞は思いのままだぞ。」
 すると、忽ち一人の男が進み出た。
「昔、某は景勝を遊覧して、名山を尋ね歩いたことがあります。そこで、偶々一人の道士に逢ったのです。自ら医術にも通じると言い、起死回生の妙薬を自慢しておりました。その非凡なる風貌は、飄々として仙人の如く、石磴を動かす程の法力を持っておりました。驚いて名前を尋ねたところ、『山畔の人間、縁があればいつでも会える。姓名など不用だ。』と答えるばかり。そこで、某は薬を求めました。
『何か危難の時に役に立つ薬があれば、頂けませんでしょうか。』と。
 すると、道士は言いました。
『いずれ、後宮の宦官が大臣となるだろう。彼は女色を娯しむ為、陽物再生の薬を求める。又、不老長寿も求めるに違いない。今、ここに一つの処方がある。これを服用すれば、たちまちにして心気満ち足り、陽物も回復する。金に糸目をつけずに作るが良い。』
 そして、袋から固く封をした包を一つ取り出すと、某へ渡してくれました。某が拝謝いたしますと、道士は雲に乗り、去って行ったのでございます。
 某は、この処方を大切に持ち帰り、夜半、香を焚いてから謹みて拝見いたしました。使用する薬味は珍宝ばかり。その処方も手が込んでおりまして、庶民ではなかなか作ることは適いません。又、仙人から受け取ったものでもあり、軽々しく世の中へ流布するのは畏れ多く、それ以来、大切にしまっていたのでございます。」
 劉謹は大喜びで、発言者へ目を向けた。その男は、門下士の買先。買先は、劉謹から促され、処方を献上した。
 その処方には、まず十六種の薬が羅列されていたが、人参、肉芙蓉、海狗腎(オットセイの睾丸:強精剤)などに交じって、胎児の頭等が入っていた。そして、それらの調合法も、事細かに記されていた。
 劉謹は、これを読んで、思わず感嘆の声を挙げた。
「これこそ、真の奇跡だ!これを服用すれば、陽物も必ず再生するに違いない。」
 そして、金に糸目を付けずに材料を集め、秘薬は数日のうちに完成した。一日二回、毎回三銭の薬を服用すると、さすがに仙薬、その効能は素晴らしく、陽物はたちまち再生したのである。
 以来、劉謹は大勢の美女を蓄え、夜毎淫楽に耽った。そして大勢の佳人達が、その淫欲の生贄となってしまったのである。しかし、ここでこの話は暫く置いておき、場面を変えることとしよう。

 正徳六年、四月のこと。陜西は石泉県にて、王置藩が造反した。その原因は、穀物の高騰である。その頃、陜西の石泉、紫陽、白河の三県で穀物が高騰し、庶民は口にすることもできなかった。一粒の米が、まるで珠玉のように扱われ、庶民は皆、暴動を起こすことを考えるようになったのである。
 この王置藩は、もともと書生あがり。だが、何度受けても科挙に通らず、とうとう諦めて故郷で暮らすようになっていた。そしてそれ以来、彼は四方の無頼漢との交遊し、自分の強権を恃んで弱者を虐げ、やらない悪事はないと言った有様だった。しかし、その力を慕って大勢の飢民が帰順し、その名声は四方を震わせるようになってしまった。
 彼の一族に王権という男がいた。彼は武芸百般に精通した男である。又、祝栄彪という男と義兄弟の契りを結んだ。彼は、膂力人並みはずれ、「小蛮王」と自称している男である。彼等は徒党を組んで傍若無人に振る舞った。そして近隣の村人達は、彼等を「金蜂会」と呼んで忌避するようになったのだ。
 彼等は、二つの山の間を本拠地にした。数里も細い道が続くその奥である。そこへは、たった一本の細い道しか通じていない。そして高山の頂に砲台を築いて四方を睥睨した。山塞には火薬や弓矢を山と蓄え、背後の山は深く、出入りできる人間は居ない。そうゆう訳で、官兵も彼等を捕らえることができなかったのである。
 このような状態で月日が流れるうち、入山する者が後を絶たず、いつの間にか数千の兵力となっていた。彼等は、左右の村に屯営地を造り、これを「私営」と称して羽翼とした。今回の飢饉で糧草が欠乏すると、彼等は近隣で略奪するようになり、商人の行き来もなくなってしまった。
 この噂を聞いた石泉県知県の張玉は、反賊退治を決意し、守備の伍鳴謙や遊撃の范士圭と共に五百の兵卒を率いて、奇襲を掛けようと出向いて行った。ところが、彼等が白花村まで来た時、二百の兵を率いる王置藩と遭遇したのだ。
 賊兵達は、相手の一団が自分たちを捕獲に来た官兵だと気がついたので、即座に号砲を鳴らした。すると、それを聞きつけて四辺の羽翼が一斉に駆けつけて来た。こうして、図らずも一大決戦となってしまった。しかし、場所は賊軍の本拠地近くである。賊軍には次々と加勢が来るが、官軍は孤立無援。付近の住民は、縮こまって震えているばかり。どうして戦いに駆けつけたりしようか?
 夜が明ける頃、官軍は無惨な姿をさらした。憐れむべし、張玉や伍鳴謙を始めとする五百人の官軍は、賊軍の為にほぼ皆殺しとなっていた。ただ、范士圭のみ、重傷を負いながらも、どうにか県城へ逃げ込むことができた。
 范士圭から報告を受けた県丞の梁汝均は、直ちに緊急の文書を書いて、各地へ伝令した。
 ところが、城内の住民達がこの事件を知ると、途端にパニックが起こった。
”賊軍が、報復に押し寄せてくるのではないか”と。
 その不安には、誰もが耐えられず、住民達はまるで蜘蛛の子を散らすように、逃げ散っていったのだ。

 

 

 

 第六回 白花村にて、置藩が起義し、
        宜川県の万程が軍に投じる。

 さて、こちらは賊軍。
 王置藩がハッと気がつけば、既に県令を殺していた。そうなってみて始めて、彼は事の重大さに気がついたのだ。
「もう、後戻りはできない。」
 そう、造反するしかない。開き直った賊徒達は、勢いに乗って付近の村々を襲撃した。そして村人を略奪し、仲間にならない人間は容赦なく殺した。だから、大半の人間は賊徒の仲間となった。誰しも命は惜しいものだ。ただ、僅かながらも硬骨の士はいた。彼等は賊徒を罵り自ら首を刎ね、芳名を万歳の先まで残したのである。
 その日、数千の民が降伏した。王置藩は、彼等を一々収納すると、その姓名を記録した。それが終わると、部下へ命じた。
「略奪した村の様子を探ってこい。逃げ延びた奴が戻っているかもしれん。それから、村の要所要所に号砲と物見の兵を設置するのだ。そして、もしも官兵が来襲したら、すぐに号砲を鳴らせ。我が自ら応戦してやる。」
「かしこまりました。」
 物見の部下は、村へ走った。
「ああ、それから、降伏した連中には、初仕事だ。戦死者の屍を山へ棄てさせろ。」
「合点承知!」
 小頭格の男達が、降伏した村人達を駆り立てた。
 それが済むと、今度は、彼は同志の被害を閲した。戦死者八人。負傷者は数十名。更に、大活躍した部下の名を帳簿に付けさせた。これは、大事が成就した後、十分な恩賞を取らせようとのことだ。
「ようし。これで事後処理は片づいた。酒を出せ!ご苦労納めの宴会だ!」
 その一言に賊徒達は、待ってましたとばかり大歓声を挙げ、たちまち酒宴が始まった。
差しつ差されつ、酒が数巡りした頃、王置藩がガバッと立ち上った。
「同志達、俺の言うことを聞いてくれ。我等は元々、天下を取ろうと思っていたのではない。この地方に割拠しようとしただけだ。四海を漂う兄弟達が朝に夕に集まってきて、俺達だけの別天地が作れれば、それで充分満足だった。だが、馬鹿な官軍が身の程も考えずに来襲し、後戻りのできないことになってしまった。これは、やむを得ずに行っただけだ。だが、結果はどうだ?我等は十分な武装もなく、結束を固める暇もなかったというのに、なお勝利を収めた。これが天命でなくて、一体なんだ?
 それに、新君は無道だと伝え聞いている。讒臣を信任し、忠良を貶めす。もはや、朝廷に勇将はいない。もし、兵を率いて進撃すれば、中原を掃討し江山を奪取するなど、掌を返すような物ではないか。そして、もしも挙兵しなければ、我々に明日はない。なぜなら、あの楊一清が三辺の軍務を総括しているからだ。我等が県令を殺したことが知られれば、奴は必ず大軍を率いて討伐に来る。ここは、土地が狭く糧草にも乏しい。そんなところで文韜武略の才を持つ将軍の兵を迎撃できるだろうか?
 これは愚弟の考えだが、先手を打って勢力を拡大するべきだ。降伏した兵を合わせれば一万にも及ぶ。我等兄弟が一呼すれば、天下を奪うことだってできる。勿論、無名の戦ならば誰も駆け込んでこないだろうから、大義名分を建てるのだ。
『劉謹は幼主を惑わして権力を専横し、忠良を残害する。その所業には神人ともに憤り、人心は離間した。故に我等は義軍を起こして奸臣を誅殺し、悪党共を根絶やしにする。だから、良民も文武の官人達も心安らかに看過するが良い。だが、我等が行く手を阻む者は、奸臣共の党類と見なして容赦はせぬ。その暁には、野に一草も残さぬであろう。又、天下の心ある義士達はつどい集まるが良い。共に力を尽くすなら、我等は仲間として迎え入れよう。』
 こうすれば、大勢の人間が我等の旗の許に集まってくるだろう。兵糧は、今回占領した村々の富豪達から、均等に税収すればよい。そうして、器械を揃えて挙兵するのだ。まず、紫陽・白河二県を占領し、次に延安府を奪う。それから京師へ直行すれば、僅か二千二百里の距離に過ぎない。江山を掃定して天下を奪うのだ。何と素晴らしいではないか。
 さて、兄弟達はどう考える?」
 すると、皆は大喜びで言った。
「兄弟の言葉は、まさしく神機妙算。我等にはとてもとても及びもつかない。ただ、付け加えるなら、今、この県は飢饉でろくに食糧もない有様。もしもここで招兵すれば、飢えた民は後から後から押し寄せてきて、一大勢力ができるに違いない。そうすれば、天下だって取れる。兄貴はそこを見落としていたな。」
 それを聞いて、王置藩は言った。
「違いない。正しくその通りだ。ところで、一言言っておく。戦争となれば、遊びではないぞ。気を引き締めろ。まずは人を集め、そして軍令を厳しくするのだ。主君がいなければ行軍はできないし、軍令がなければ足並みが揃わない。今、大謀は定まった。もう、心をグラつかせるな。そして、主将を定め、号令を行ってもらい、軍の威儀を定めるのだ。」
 すると、皆々席を離れ、一斉に言った。
「兄貴ほどの知恵者は居ない。主将を定めると言っても、兄貴以外に誰が居る?」
「いや、愚弟には、そんなつもりは毫もなかった。ただ、今の実情を説き示しただけ。こんな庸愚にそんな大任はこなせない。兄弟の中から、誰か有能な人間を推挙してくれ。」
 だが、衆人はおさまらなかった。
「我等の心は決まっている。兄貴、どうか我等を見捨てないでくれ。」
 そう言うと、彼等は一斉に駆け寄って王置藩を上座に据え、彼等は揃って下座に就いた。そこで、王置藩は拝礼し、
「兄弟達はこの鈍才を見捨てず、主将へ推してくれたか。慚愧に耐えぬことではあるが、こうなった以上、私心を棄てて力を尽くそう。兄弟達も、我が軍令を遵守してくれ。我が軍令に背いたら、骨肉を裂かれようとも怨んではならぬぞ。」
 衆人は一斉に頭を下げた。
「軍令に背いたら、例え殺されても怨みはしません。」
 王置藩は大いに喜ぶと、皆を席に就かせ、再び痛飲して、その日は解散となった。
翌日、王置藩は、「統兵滅寇大都督」と自称し、旗には「三軍司令」と記した。
 帳から招集をかけると、やがて一同が集まって来た。
「都督、我等を呼び集めて、一体何の談合だ?」
「軍規を作った。皆、これを良く読んで、決して背いてはならん。」
 そうして、これを一同に見せた。

 一、行軍中は、軍鼓を聞けば進み、金鼓を聞いたら退く。皆は隊伍で行動せよ。令に背く者は斬る。
 一、軍兵が州郡を通過する時も、軍令に従え。勝手に略奪してはならぬ。背く者は斬る。
 一、軍中の器械は、大切に整備しておけ。号砲が聞こえたら、勇んで敵を殺せ。もしも怖じ気づいて戦いを拒む者がいれば、斬る。
 一、軍令が下ったら、勝手に徒党を組んではならぬ。戦闘が始まり、敵が攻めてきたら、騒いではならぬ。これに違反したら、杖打ち四十。
 一、捕まえた敵兵や村人は、勝手に釈放してはならぬ。違反する者は杖打八十。
 一、将兵は、勝手に民家に泊まり込んだり、婦女へ暴行したりしてはならぬ。礼に背く者は斬り、決して許さぬ。
 軍令とは、雷のようなもの。各々これを遵守し、後悔する事なかれ。
            正徳六年庚午四月十五日、示す。

 この日、彼等はついに兵を招いて決起した。この決起の噂を聞きつけて、遠近の匪賊達が次々と駆けつけてきた。
 ところで、彼等は決起した時、帳外に獅子の石像を置いた。この石像は重さ百斤。四海の英雄豪傑がやって来たら、この石像を双手で持ち上げられる者だけ帳内へ入ることを許可するとゆうものだった。
 ある日、一人の硬漢がやって来た。身の丈二丈、腰回り八尺。威風堂々たる豪傑で、手下を百人ほど引き連れていた。彼は軍前へ来ると、雷が落ちるような声で言った。
「吾は延安府宜川県の馬万程と申す者。都督殿へお会いしたい。早々に取り次げい。」
 その勢いに驚いて、歩哨は逃げ出すように軍営へ駆け込んだ。
「帳外に豪傑がおります。いや、怖ろしげな有様。馬万程と名乗っておりますが、百人程の部下を率いた漢で、さながら狼か虎のような奴です。」
 それを聞いて、王権が言った。
「遠方から大勢やってくるなど、腹に一物あるに決まっている。勝手なことをさせてはならんぞ。武器は取り上げ、追っての沙汰を待て。」
 だが、王置藩は言った。
「いや、人を用いる姿勢を示さなければならん。賢人を招き士を納れてこそ、力が蓄えられるのだ。そいつ等を疎略に扱ったら、遠方から駆けつける人間が居なくなる。思うに、そいつ等が我々のもとへ駆けつけてきたのなら、大きな力になるではないか。そうではないとは言い切れぬ。よしんば謀略だとしても、たかが百人で我等に立ち向かうことができるものか。喩え百匹の虎狼といっても、何ほどのことや有る?無礼を致さず、丁寧にもてなせ。そして、奴等の出方を見てから応対を決めようではないか。門を開け!」
 そして、彼等は出て行った。
 まず、王置藩が言った。
「英雄が来られたことに気がつかず、出迎えしなかったご無礼をお許し下さい。」
 すると、馬万程は身を屈めて言った。
「某は、盛府にて門徒を教えて居る者。舅御の王守仁殿が朝廷の奸人達に陥れられてから、何とか仇を報いんものと思っていたのでござる。ああ、吾に翼が有れば、いますぐ京師へ飛び立って、悪人共を皆殺しとするものを!これこそ御国へのご奉公!だが、いかんせん、独力では何もでき申さん。悔しさに、歯がみする毎日でござった。そこへ、都督が国賊討伐の義軍を起こしたことを聞き知ったのでござる。故に、千里の道を遠しとせず、門徒を率いて駆けつけてきたのでございます。都督殿、どうか、我等を受け入れて下され。」
 それを聞いて、王置藩は言った。
「この老いぼれは凡庸不才。それこそ、『井の中の蛙』と申すもの。我が軍の威儀を高める為に英雄を招き賢士を納めることをこそ、望んでいたのでございます。今、幸いにも足下がご光臨くださった。これからは相助け合いましょう。これまさに、『天合人和』。国賊など、すぐにでも滅ぼせますぞ。さあ、共に手を取り合って、三千の兵を率い、快進撃を始めましょう。まずは石泉、紫陽、白河の三県を奪うのです。」
 こうして、彼等は旗印や令箭(軍中で使う割り符。弓の形をしている。)を交換しあった。
 馬万程は仲間として認めて貰うや、王守仁の敵討ちをお題目に、造反軍三千人と共々、石泉へ向かって進撃したのだった。ただ、王置藩は、まだ馬万程に心を許してはおらず、王権を副先鋒に据え三千の兵を与えて後続とした。そして馬万程に不審な挙動が有れば、祝栄彪と共にこれを殲滅するよう命じたのだ。祝栄彪は押陣総兵大司馬として、四千の武装兵を与え兵糧輸送を命じた。そして彼等は、同時に宣伝活動も受け持った。「小心者は逃げ出せ。豪傑は駆けつけろ、」と。
 又、彼等義兄弟の中に、張寿平とゆう知恵者が居た。王置藩は、彼を軍中参謀に任じた。その他、兄弟の主立ったものは皆、役職を与えて右哨左哨とし、各々五百の兵を与えて連絡を取り合いながら進軍することとした。
 こうして軍備は整った。 将士は四十八名。兵卒は三万六百七十。軍旗は太陽さえ覆い隠し、金鼓は一斉に鳴り響く。造反軍は、一路、石泉県目指して進んで行った。

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