陽処父、蔡を侵す
 
(春秋左氏伝) 

 僖公の三十三年。晋の陽処父が、蔡を侵した。そこで、楚の子上が救援に行き、晋軍と川を挟んで対峙した。
 陽処父は楚と戦うのが不安だったので、使者を出して言った。
「君が戦いを望むなら、私は軍を退いて陣を布くから、渡河して来たまえ。それが嫌なら、少し退却して我が軍を渡河させてくれ。このまま対峙してもお互い疲れるだけではないか。」
 子上は渡河しようとしたが、太孫伯が諫めた。
「晋軍は信用できません。軍を退くと言いながら、我等が渡河したら、そこを襲撃するかも知れません。こちらが退くべきです。」
 そこで、楚軍は退却して陣を布いた。そこで、陽処父は全軍に伝えた。
「残念にも、楚軍は逃げ出してしまった。」
 そして退却したので、楚軍も引き上げた。すると、太子の商臣が子上を誹謗した。
「子上は、晋から賄賂を貰って退却した。これは楚の恥。大罪だ。」
 楚王は、子上を処刑した。
(楚の太子商臣と、子上の確執については、「楚の太子商臣、成王を弑す」参照) 

  

(東莱博議) 

 国を誹られたら弁明しなければならない。自分の身を謗られたら、受け入れればよい。国の辱は争うべきだ。身の辱は受け入れるべきだ。この両者へは、同様に対してはいけないのである。
 孔子は、匡人の包囲(孔子が匡を行き過ぎた時、匡の人間は、孔子を陽虎と勘違いして、その一行を包囲した。)を我慢したが、莱夷の兵を我慢しなかった。孔子は私的には、淫乱で有名な衛公夫人へ謁見したが、公の場で道化師がふざけた舞を踊ったら自らの手で斬り殺した。
 聖人の心は、何とクルクル変わることか。繞指の柔はたちまち撃柱の剛と変わり、緩帯の和はたちまち奮髭の怒りとなり、緩んだり引っ張ったり、強かったり弱かったり、めまぐるしく変わって一定ではない。
 しかし、これは君子が変化を楽しんでいるのではない。身を処すと国を処すと同じようには行かないだけである。
 聖人は、我が身の毀辱ならば、これを受け入れて争わない。だから、匡人の包や衛公夫人の見を、孔子がまるで気にしなかった。だが、御国の毀辱ならば棄ててはおかない。だから、莱夷の兵や道化師の舞において、孔子がまるで容赦しなかった理由である。 

 楚の子上は、陽処父から迫られたので軍を退き、逃亡の誹りを受けてしまった。子上ほどの人間ならば、この誹謗が一身のものか国の恥辱かを考えなかったのか。
 もしも、子上一人が誹謗されたのならば、争わなかったのは盛徳である。器量が広い、大度であると褒められる。しかし、逃亡の誹謗が一身のみではなく一軍へ及び、更にそれでは済まずに御国の恥にまでなってしまったのだ。子上が、どうしてこれに甘んじ、軍をひいて帰国できようか。
 楚と晋は、衡を巡って長い間戦っていた。その宿敵の臣である陽処父から逃亡したと言いがかりを付けられた。それなのに、子上は一言の弁明もしない。これでは、天下の人々は楚軍は本当に逃げ出したのだと思い、晋を雄、楚を雌と決めつけてしまう。そうなってしまったら、何度戦い何度勝てばその恥辱を雪げるか判らない。
 それでは、子上はどうすればよかったのか。
 答えよう。
 両軍が川を挟んで対峙した時、先に渡ってはならない。そして、先に退いてもならない。 先に渡河すれば、敵はその隙を突いて襲ってくる。先に退けば、敵はそれにつけ込んで「逃げ出した」と吹聴する。
 子上は、退却する前に、軍使を出して晋軍へ告げるべきだったのだ。
「貴国の提案に従い、我々は軍を退き、陣を造りました。さあ、どうぞ渡河なさってください。」と。
 陽処父が返答できなければ、その後に甲を巻き馬を束ねて帰国すれば良かったのだ。そうすれば、晋軍を撃破することはできなくても、逃亡したとゆう汚名は晋軍へ与えられ、楚軍には与えられない。陽処父はどんなこじつけでも誹謗できず、子上はこれを受けずに済んだのである。 

 大体、君子は公の場では勇敢だが、私的な場では怯である。家庭や郷里や田野に居る時は垢を含み恥を忍び、侮られても辱としない。ゆったりとして、他人から百回騙されても逆らわない。
 しかし、廟堂や軍旅や官府にあっては、奸を照らし出し陰謀を摘出し、肺肝を洞見し、凛々冽々として、ただの一度騙されただけでも容赦しない。
 君子は、この朝廷軍旅官府の勇を家庭郷里田野へ移して、怯を変えるような真似をしない。しかし、それは君子が自分を嫌っているからではない。
 自分の尊さというものは、天下に並びないのだ。自分が人と争わないのは、我慢して争わないのではない。争うべき相手が居ないからだ。
 杖を挙げて空を撃ったところで、ただ疲れるだけではないか。刀を挙げて水を断っても、ただ疲れるだけだ。自分の毀誉をもたらしたのは、自分の行いが偶々そのように評価されただけなのだ。私は、それを聞き流して、噂した相手と争わなければ、それこそ最大の勇気ではないか。
 だが、国家の事はそうではない。存亡安危がかかっているのだ。力尽くで争えば自分の威は穢れるけれども、それでも力を出して争ってしまう。やむを得ないのだ。
 だから、私事に怯な者は、衆人は怯とするが、君子は大勇とするのである。