煬帝即位  3.煬帝即位
 
  

 仁寿二年(602年)、八月。独孤后が崩御した。
 皇太子廣は、文帝や宮人の前では哀しみを込めて慟哭し、ほとんど気絶せんばかりだったが、その後私室へ戻ったら、いつものように飲食談笑していた。おおっぴらにご馳走を作るとばれてしまうので、密閉した容器に入れたご馳走を、裏門からこっそり持ち込ませた。
 上儀同三司蕭吉が、文帝の命令で皇后を埋葬する場所を探した。ようやく見つけると、彼は言った。
「卜しましたところ、この場所に埋葬すれば、我が国は二千年、二百代に亘って安泰でございます。」
 すると、文帝は言った。
「吉凶は人に由るもの。埋葬した場所に由るのではない。北斉の高緯が父を埋葬する時に卜しなかったと言うのか!それなのに、その国はたちどころに滅んだではないか。我が家の墓地がもしも不吉だったら、朕はどうして天子になれたのか。もしも吉だったなら、我が弟はどうして戦死したのか。」(文帝の弟の楊整は、周の武帝のもと討斉戦に従軍し、力戦した上、ヘイ州にて戦死した。)
 しかしながら、遂には蕭吉の言葉に従った。
 蕭吉は、退出した後一族の蕭平仲へ言った。
「皇太子が宇文述を寄越し、深く感謝して余へ言った。
『公は以前、我が皇太子となると予言してくれたが、今、その霊験が顕れた。今、皇后の埋葬地を卜しているそうだが、我が早く即位できる土地を選んでくれ。我が即位した後に、いくらでも礼をするから。』
 だから、余は答えたのだ。
『殿下が四年以内に即位できるような土地を探しましょう。』
 こんな男が政治を執ったら、隋は滅ぶぞ!
 陛下へは、『二千年』と言ったが、これは実は三十年のことだ。『二百代』は、『二伝』のことだ。お前は、これをよーっく覚えておけ。」
 独孤后は太陵へ葬られた。諡は文献。 

 文献皇后が崩御してから、宣華夫人の陳氏と容華夫人の蔡氏が文帝から寵愛されるようになった。陳氏は、陳の高宗の娘で、蔡氏は丹陽の人である。
 仁寿四年、文帝は仁寿宮にて病に伏せった。尚書左僕射楊素、兵部尚書柳述、黄門侍郎元巖が入閣して看病し、皇太子を太寶殿へ呼び寄せる。
 皇太子は、文帝が崩御することを慮り、その時の対策を楊素へ問おうと、封書を出した。楊素は返書をしたためたが、宮人が間違えて、これを文体の元へ届けてしまった。文帝はこれを読んで大いに立腹した。
 また、陳夫人が着替えをしていると、皇太子がこれへ性交を迫った。陳夫人は必死で拒んで、どうにか逃げ出した。彼女が文帝の許へ行くと、文帝は、その顔色を怪しんで訳を質したので、陳夫人は言った。
「皇太子が無礼なのです。」
 文帝は激怒して叫んだ。
「そんな畜生に、どうして国が保てようか!独孤后が我を誤らせたのだ!」
 そして、柳述と元巖を呼び出し、言った。
「皇太子を呼んでこい。」
 彼等が皇太子廣を呼びに行こうとしたら、文帝は言った。
「廣ではない。勇だ。」
 そこで柳述と元巖は、閣を出て敕書を作成した。
 楊素はこれを聞いて皇太子へ伝えた。そこで彼等は詔をでっち上げて柳述と元巖を捕らえ、大理獄へぶちこんだ。また、東宮の兵卒達を台へ連れ込んで宿衞門の出入りを禁じさせた。そして右庶子の張衡が文帝の伏せっている部屋へ行って後宮の女性達を全て別室へ連れ出した。その直後、文帝は急死した。だから、この死因にはいろいろと疑惑が沸いているのだ。
 陳夫人達は、文帝の急逝を聞いて、顔色を無くして震え上がった。すると、そこへ皇太子の使者が封印をした小さな金の箱を持ってきた。陳夫人は、毒薬が入っているものと思ってガタガタ震えて箱を開けることができない。使者から再三促されてようやく箱を開くと、中には恋文が入っていたので、宮人達は抱き合って喜んだ。
「死なずに済んだ!」
 陳夫人一人、癇に耐えない想いでそっぽを向いていたが、宮人達が寄ってたかって、彼女を使者へ拝礼させた。
 その夜、皇太子は想いを遂げた。 

訳者、曰く。以上、皇太子廣が文帝を殺したとゆうのは、後世の脚色のような気がしてなりません。それにしても、講談や何かで、余程流布した巷説なのでしょう。多くの書物に記載されています。「隋書」を読むと、本紀では、文帝は病死したことになっていますが、列伝の中には、皇太子が暗殺したとほのめかすような文章もあります。資治通鑑では、その二つの死に方が併録してあります。もう一つの死に様については、「文帝」の項に記載いたしました。) 

 乙卯、喪を発表し、皇太子廣が即位した。これが煬帝である。
 伊州刺史の楊約が来朝したので、煬帝は彼を長安へ派遣した。楊約は、文帝の詔と偽って元の皇太子勇を殺してから、その崩御を公表した。それを聞いて煬帝は、楊素へ言った。
「令兄の弟は、有能な奴じゃないか。」
 勇を房陵王へ追封する。
 八月、大興前殿にて殯する。柳述と元巖は官籍を剥奪して庶民とし、柳述は龍川へ、元巖は南海へ流した。
 ところで、柳述の正室の蘭陵公主は、煬帝の妹である。煬帝は、彼女を離縁させて然るべき相手と再婚させようとしたが、蘭陵公主は肯らない。夫と共に龍川へ行きたいと主張したが、煬帝は許さなかった。とうとう、蘭陵公主は憂憤の余り卒した。死に臨んで、柳氏と共に葬って欲しいと請願したので、煬帝はますます怒った。だから、蘭陵公主が卒しても煬帝は哭さなかったし、その葬礼も極めて簡素だった。 

  太史令の袁充は、百官が即位を表賀するよう風諭したが、礼部侍郎許善心は反対した。
「陛下が崩御したばかりで国哀の時期です。賀を称するなどとんでも無い。」
 ところが、宇文述はもともと許善心と仲が悪かったので、御史へ彼を弾劾させた。許善心は給事郎へ左遷され、二等降格となった。
 煬帝が即位すると、弟の漢王が造反したが、すぐに鎮圧された。詳細は「漢王の乱」に記載する。
 十月、文帝を太陵へ葬った。廟号は高祖。文献皇后を同墳の別の穴へ埋葬する。
 十一月、煬帝は洛陽へ御幸した。遷都する意向である。晋王昭を留守役として長安へ留めた。
 同月、陳寶叔が死んだ。煬帝は、彼へ「煬」と諡した。(この、「煬」とゆう諡は、「後宮の遊びを好んで政治を怠けた」とゆう意味である。後、彼自身が人々から「煬帝」と諡されることになる。)
 大業元年(605年)、正月。大赦を下す。
 蕭氏を皇后に立てた。晋王昭を皇太子とする。
 諸州の総管府を廃止する。
 二月、漢王討伐の殊勲により、楊素が尚書令となった。 

  

(王船山、曰く)  ー「読通鑑論」よりー 

 人を教える道は、忠と孝とが究極である。たとえ無道な主君でも、臣下や子息へ忠や孝を教えない者はいないではないか。
 そう、どんな人間も、相手へは忠と孝を教える。しかし、相手がそれを受け入れて忠臣孝子となるか、あるいは踏みにじって不忠不孝となるか、その結果は様々だ。
 結果がどうなるか、それは運任せなのか?
 いいや、違う。臣下や子息へ対して、忠孝をどのように教えているか、その教え方を見れば、結果を推して知ることができる。臣下も子息も、教えられた大元へ帰っているだけなのだから。 

 口先だけで教える者がいる。
 彼等は、人の子へ対して、戒めて言う。「お前は、孝行を忘れてはいけない。」人の臣下へ対して戒めて言う。「お前は、忠節を忘れてはいけない。」
 それこそ何度も何度もしつこく繰り返し、教える者の舌が破れ筆の穂先がすり減るほどなのに、聞いている人間は知らん顔して、悖逆が相継いでいる。
 しかし、これは不思議でもなんでもない。教えとゆうのは、言葉で伝える物ではないのだ。
 別の主君は、態度で示す。
 彼等は、忠孝を奨めて忠臣孝子を抜擢し、不忠不孝を斥けて彼等との交わりを断つ。いいや、それだけではない。外国の大臣や皇太子が主君に背いて、領土ごと降伏してきたとしよう。受け入れれば大きな得なのだが、その利益を棒に振ってでも、そんな叛人逆子は受け入れない。あくまで大義を伸べて天下の人々へ規範を垂れる。
 ここまで来たら、もう、殆ど趣味の世界だ。法令などで規制したものではなく、主君自身の人間性によるものだ。このような生き方をするならば、家を正せるだろう。国へ忠孝の想いを施せるだろう。大義を天下へ推せるだろう。四海から悖逆を消すことができるだろう。
 だが、事実はそうではなかった。 

 隋の文帝は、陳の郢州刺史が叛逆して隋へ降伏して来た時、これを拒んで受け入れなかった。
 突厥の莫何可汗が阿波可汗を生け捕りにして、その処置について隋の裁断を仰いだ時、高穎は言った。「骨肉が殺し合うのは、教えを根本から腐らせます。どうかこれを存続させ、寛大な想いを天下の人々へ示してください。」文帝は、この進言に従い、殺害を禁じた。
 吐谷渾の妻子が主君へそむいて降伏を求めてきた時、文帝は言った。「夫にそむき、父にそむく。その様な人間を受け入れることはできない。」
 文帝も本心では、陳を滅ぼし突厥・吐谷渾を服従させたがっていた。だが、君臣・父子・夫婦の大倫が絡んだ時には、乗ずべき利益でさえ棄てた。実に厳格な態度で、風紀の紊乱を拒み通したのだ。それは、その態度を臣子へ示し、皆が君父へ従順になってくれるように、天下から悖逆の想いが消え去ってくれるように、と望んだのである。
 しかし、実現できたのか?
 文帝は、家庭では悍妻に制せられ、逆子に惑わされ、結局、子供達は兄弟同士で殺し合い、自分自身でさえも皇太子廣(=煬帝)の凶刃に命を落としてしまった。
 家庭内でさえ戈矛が振り回されて天性の人倫が滅び、四海は沸き立ってあちこちで造反軍が起兵し、アッとゆう間に国が滅んでしまった。
 これは一体どうゆう事だ?
 これを見たら判る。忠孝は、これを「人の道」として大系だった教えにして他人を教育しようとしても、できはしないものなのだ。 

 口先だけで教える人間など、もとより論じるに足らない。いたずらに規範を垂れようと実践する者にしても、彼等はただ行動の跡を示すに過ぎないのだ。
 忠孝とゆうのは、人の心に生じる物だ。だから、ただ心と心で感応しあうことしかできない。それなのに君父とゆう高位にある人間は、自分の上辺の行動だけで相手の心の奥底にある羞恥心や思いやりを掘り起こし、彼等の狂戻な心を止めることができると思う。そんなことはできないのだ。
 文帝は、謀略詐術で他人の国を奪った人間だ。だから、彼が好きなのは争奪である。嫌っているのは馴謹である。確かに、上辺ではこれを抑制して、人倫の規範を示していた。しかし、心の中にはしっかり残しておいて、喜怒の情は放埒に放っていたではないか。文帝が叛臣を拒み逆子と断ったのは、ただ名教を盾にとって他人の行動を抑制しようとしただけなのだ。
 忠孝を求める想いが本心ではない以上、微妙な所で、それが滲み出てくる。鬼神はいつでも窺っている、誤魔化しきれるものではない。妻子とゆうのは、最も身近にいて、これをいつも感じ取っているのだ。
 好悪とゆう私心は、天性にもとっている。それは、感情のままに動くことによって起こるものだ。文帝は、この感情を握りつぶして、その行動を道理に合わせた。だが、悍妻・逆子は文帝へ、或いは迎合し、或いは脅かして信用を勝ち得ていった。そう、彼等はいつも人倫で上辺だけを飾り、文帝の心を掴んだのだ。
 しかしながら煬帝は、結局は文帝を怨毒して殺害した。これは他でもない、文帝と煬帝の心が招き合い、好悪の想いも揺さぶり合っていたのだ。
 文帝が本当に欲しがっていたのは詐術や権勢であり、身近にいた煬帝もまた、それを感じ取って影響されていた。煬帝は、文帝から、詐術・権勢を求める本性と、それを隠して上辺を正す処世術を倣い覚えた。
 こうして文帝は、末裔や夷狄にまで綱常の正しさを施そうとしたが、骨肉の間でさえ流血の禍を招いてしまった。
 心の機微は、なんと厳しいものか。好悪の情は、なんと危ういものだ。だから、心には寛恕の想いを持たなければならない。感情は放埒にしてはならない。教えの基礎の確立は、身近なところから始まるのだ。
 政治で人の心は治められない。刑賞では、本当の意味での勧懲はできない。ましてや、口先だけならば、臣子を立派に教育しているなどと、どうして言えようか。 

  

(訳者、曰く) 

 文帝は、五人の子息達を厳格に育て、驕慢や怠惰、豪奢、粗暴などが顕れたら、すぐに諫めるような臣下を寵用した。又、外国の臣下が造反して帰順を求めても、それが人倫に反するとして、多大な利益を棒に振ってまで、これを却下した。
 これらは、文帝の長所であり、臣子を立派に教育できる点だ。
 しかし、彼は一面では猜疑心の塊だった。功績のあった部下も、次々と失脚していった。讒言を容易に信じ込んだ所は、彼の欠点である。また、怒りに任せたら、臣下を平気で鞭打った。
 これらは文帝の欠点であり、臣子を奸佞へ走らせるに充分だった。
 そして結局、五人の子息は揃って悲惨な末路を辿ったのだ。
 ああ、人を教えるとゆうのは、喩えてみれば、升を作るようなものか。たとえ三面を高くしても、一面だけ低ければ、そこから水が漏れてしまう。
 仕事で成功するためには長所を伸ばすことが大切だ。しかし、人を教え導くには、自分の短所をなくすことが大切なのだ。 

 蛇足ながら、王船山は、明末期の陽明学者です。司馬光始め、宋代の学者は朱子学者ですから、この論文は、かなり浮いているようです。ですが、史論などとゆうのは、いろいろな感性で行った方が対比できて面白いので、これからも機会が有れば出典を明らかにした上で紹介して行きます。 

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